第九話
3日目(水曜日) AM6時40分
「……王手」
かすれた声。
プルプルと震える右手。
それでも男は盤上に桂馬を打ち込んだ。一撃必殺だった。相手はこちらへの攻撃ばかりを気にして、守りに気を使っていなかったのが仇となっていた。
何度もいうが、これは一撃必殺だった。
盤上の劣性を覆す、一撃必殺の一手だった。
こちらの守りはもはや壊滅状態だ。必殺の穴蔵を決めようと意気込んでいたのが、相手のマムシもかくやというしつこさで全滅。結果、自分の守りは完全に丸裸にされた。
その貪欲な性技は相当なものだ。
一枚一枚、少しずつ衣服を剥ぎとられてきた。金はあまりのテクニックに序盤から骨抜きにされまっさきに脱落した。
その次に銀が籠絡され喘ぎ声をあげながら相手の手の内に落ちた。
もはや王は丸裸だ。丸裸にされてしまった。全裸だった。だからこの一手が決まらなかった場合、負けていたのはこちらのほうだったのだ。
桂馬をもってした王手。
ものの見事に決まったとそう思う。
完全に相手の王を―――追い詰めた。
相手の守備陣形である美濃囲いの隙をついた詰み。もしもこの打ち込んだ桂馬を、相手がその目の前に鎮座する歩でとったとしても、後方で待機している角が王将を奪う。さらには王が後ろに逃げたとしてもこちらは金を打ち込むまでだ。
相手が守りを軽視し、こちらに対する責めばかりに気をとられていたのが功をそうした。王の逃げ道を作られていたらこの詰みはなかったのだ。とにかく、盤上を見るに、完全に自分の勝利は確定していた。
「……やられたな」
どうしたものかと腕組みをしている女性が言葉を放った。
目の前の将棋盤を見て、ううむ、と唸っている人物。それは目元に疲労の色が見える美里だった。そして美里の目の前に座り、さきほどから勝ち誇った表情を浮かべているのは克己だ。
2人とも疲労がピークに達しており、息も絶え絶えといった様子である。場所は克己の部屋で、その中央に克己と美里は陣取っている。そして2人の目の前には将棋盤があって、そこで昨夜から今まで尋常ではない勝負が繰り広げられていた。
暇つぶしの道具が将棋しかなかった。ただそれだけのことがこれだけの悲劇をもたらしたのかと思うと実に感慨深い。克己の部屋には朝日の光が差し込み、さきほどからスズメの鳴き声がチュンチュンとうるさかった。
「どうだね!! 美濃使いの美里くん!! これではグーの音もでまい。人のことを散々なぶってくれたからな、これからは私の番だよ!! じっくりとその身ぐるみを剥いで丸裸にし、完膚なきまでに陥れてくれる!!」
「ううむ、もう少しでカツミを絶頂のふちに導けたのだが……これは少しというかなんというか……絶望的だな。いっそのこと気持ちのいいくらいだ。イってしまいそうだ」
「ははははは! ははははは! ははははは!」
徹夜明けでテンションがおかしい2人だった。さきほどから理解できないような奇声が発っせられ続けている。克己の瞳はランランとして輝いているし、美里の頬は上気している。
と、その熱戦に水を差す声が聞こえてきた。それは今にも美里の恥部(玉将)に手をかけんとしていた克己の手も止まらせた。
「克ちゃ〜ん、美里ちゃ〜ん、ご飯できたわよ〜」
貴子の声、それに舌打ちをうつ克己。そして目の前で喘ぐ(悩む)美里に対して不敵に言った。
「フン、命拾いしたようだね。今日のところはこの辺にしておいてやるか」
「くそ、しっかりと動ければこんなことには……カツミに責められたところががんじがらめになって、うまく動けないんだ」
「それが桂馬の楔だよ! ふははは、美濃囲い破れたし!」
気持ちの悪い表情とともに言う。それとともに2人は、朝食の用意されているであろう居間へと仲良く向かった。
●●●
台所に、トントンとまな板をうつ包丁の音がこだましていた。その包丁を握るのは、この新城家を家計の面でも家事の面でも支える大黒柱、新城貴子だ。
「……ふう」
思いつめたように貴子は息を吐いた。それはさきほどから続く悩みであり、ため息を量産しながら貴子は思い悩んでいる。
その内容―――実のところ貴子は、赤飯を炊くか炊かないか、真剣に悩んでいた。
赤飯とは、小豆を煮汁とともに餅米にまぜて蒸した赤色のご飯のことである。祝い事の時にたびたび炊かれ、色々な節目をかざるのがこの赤飯だ。
――――どうしようかしらね? 実際には見ていないけれど、でもあの声からすれば一線を越えたのは確かよね?
思い出すのは昨夜のことだ。夜通し、自分の息子の部屋から奇声が聞こえてきていた。それもただの奇声ではなく「そこはダメえええええ!!」や「丸裸にしてやるぞ!!」など、実に剣呑ではない奇声であった。そこから考えられること、それは、
――――克ちゃんと美里ちゃんがエロいことを一晩中やっていたということね?
だからこそ思う。赤飯を炊くべきではないか、と。初のお祝いとして記念に赤飯を炊き、盛大に祝うべきではないか、と。
しかしどうなのだろうと、貴子は思う。うちの克己は初めてだけれど、美里はどうなのだろうか、と。昨夜の奇声を思い浮かべるに、喘ぎ声を発していたのは主に克己のほうである。
だとするならば主導権を握っていたのは美里のほうで、おそらく美里は相当なテクニシャンなのだろう。克己がマグロにされてしまうほどの経験豊富な手練れなのだろう。
だとするならば、逆に赤飯を炊くのは侮辱になるのではないか。
――――難しいところね?
思い、そして貴子は悩む。しかし生来の楽観思考から、まあそれはあとでまた考えるとして、と一新し、今も激しいプレイに酔っているであろう両人に朝ご飯ができたことを告げた。
「克ちゃ〜ん、美里ちゃ〜ん、ご飯できたわよ〜」
言うと貴子は、居間で湯飲みに茶を注ぎながら待つ。
おそらく液の処理に時間がかかってここに来るまでにはけっこうな時間がかかるだろうと予測する。だから変な匂いがしても何も言わないであげようと、貴子は大人の余裕とともに居間にて待つ。
「おはよう、母上」
「おはようございます」
予想に反して2人は早く現れた。
パっと見、着衣に乱れはないし、所々にティッシュの跡も見あたらない。そこらへんまで抜かりはないとなると、やはり美里は相当な経験者で、失礼のないよう赤飯は自重したほうがいいかな、と貴子は思いつつも、
「あらあら、おはよう。二人とも、昨日は激しかったわね?」
先手をとった。
これで真実が分かるとそう思った。
ウブな女性ならばこれだけで慌てるだろう。しかし経験者であるならば無難に乗り切るはずだ。
そこらへんをしっかり見極めようと、貴子は美里の動きを見逃さないように集中する。
「ふふふ、貴子さん、カツミは相当な使い手ですね。私も自信はあったんですが、カツミのやり方はなかなかに新鮮でした」
「――――新鮮!?」
驚く。
それはそうだ。
新鮮ということはそれまでやったこともない方法だったのだろう。ということはうちの克己はSとかMとか幼児プレイだとか特殊な性癖を持っているということなのだろうか。そんな様子、みじんも見せたことないのだけれど……。
「君も予想外にうまかったね? どこでその技を身につけたのだ。いつも修行ばかりしていると思ったのだが」
「ふむ、あれは父さんの相手をしていて自然に身に付いたんだよ。コミュニケーション手段として、だな」
「――――父親と!?」
な、なんということなのだろう。よもや肉親となんて……どうしたものか。当局に連絡したほうがいいのだろうか。
予想の斜め上に放たれた変化球に貴子は狼狽するしかない。しかしこんなものではなかった。
「なるほど通りで……なかなか年季の入った打ち方をすると思っていたのだよ。ああ、だからか、私の守備陣形……穴熊が新鮮だというのは」
「そうだ。父さんは矢倉か美濃囲いだったからな、お前の穴熊ははじめて対戦する戦法だったよ」
「…………」
聞いた瞬間、めまいを感じた。
矢倉、美濃囲い、穴熊……聞いたこともないような名前に貴子は困惑する。
そんなプレイが48手にあったかなと記憶を呼び起こすが、しかしそんなプレイなどやはり聞いたこともない。いつのまにか自分は古くさくなってしまったのかと、貴子は時の流れに涙した。
「母上? さきほどから何をわめいているのかね。いきなり泣き出したりして……更年期障害かね?」
「いえ、違うわよ克ちゃん、息子の成長を喜びつつも時代の流れについていけない自分を嘆いているだけ……じゃあ、ご飯にしようかしらね?」
貴子の言葉に2人はうなずく。
居間の長テーブルに克己と美里は着席し、そして手を合わせた。
「「「いただきます」」」
「ふふふ、美里ちゃん、いっぱい食べてね? 昨日は消耗したでしょうから、しっかり食べて体力を戻さなくちゃね」
「おかわり!」
一瞬にしてどんぶりがカラになる。
それを見て貴子は「あらあら」と、自分の心配は杞憂だったかと思いつつ、急いでどんぶりに米を山盛りにした。
「食べ終わったら2人ともシャワーを浴びたほうがいいわ。いくら処理したとはいえ、さすがにそのまま学校に行くわけにはいかないでしょ?」
「ふむ、確かに徹夜明けだからね? シャワーを浴びてさっぱりするのもいいか」
「がつがつがつがつ」
三者三様の態度。
しかし最後まで貴子の勘違いは勘違いのままだった。
昨夜自分の息子と美里はアレなことをしたという事実だけが貴子の中に残る。
貴子はただただ、目の前の2人を暖かい目で見守っている。
まさに、この親あっての克己である。異常はこうして受け継がれるのかと思うと感涙を禁じ得ない。