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第八話

 食事も終わり、今、2人の姿は克己の自室にあった。

 そこは8(じょう)ほどの小さな(たたみ)の部屋だ。

 周囲を本棚(ほんだな)がグルリと配置されており、その中には雑多(ざった)として本が置かれている。その他にも勉強机と小さなテーブルが中央に置かれている―――しかしそれだけ。

 そこには、パソコンどころかテレビの一つもそこには置かれていなかった。

 コンポなどの音楽を聞く道具もなく、かろうじて文明の息吹を感じることができるのは、勉強机の上に置かれているラジオだけである。

 そのラジオすらも古くさく、年季が入っているのが一目で分かる。そんな明治時代の書生を思わせるような殺風景な部屋の中―――美里ははにかみながら、克己に対して言葉を向けた。

「カツミ、とにかく今日はありがとう……だ。助かったよ」

「フン、だから私に御礼は必要ないと何度いえば分かるのかね。君も分からない奴だな」

「そうだな……しかし、貴子さんには感謝してもいいだろ? 後で改めて御礼に(うかが)わせてもらう。いきなりのことにも(こころよ)歓迎(かんげい)してくれて、感謝もつきないぞ」

「それについても気にすることはないと思うがね? 母上も君の訪問(ほうもん)を嬉しく思っているのだ。食事をつくるのが嬉しくてたまらないという顔をしていた。これからも時々、うちに晩飯を食べに来たまえ、歓迎するよ」

 無愛想な克己の言葉に美里は嬉しそうに笑う。その普段では考えられないような素直な感情表現はとても魅力的だった。

「ふふふ、ありがたいな。これは私の身体でしっかりと返すぞ」

「……ちょっと待ちたまえ君、それはどういう意味かね?」

「ん? いや、だからこれからこの部屋でアレなことをするのだろう? あ、安心してくれ。心の準備はすでにできているし、勝負下着をつけてきたから」

 頬を染める美里である。そこには昼間の痴女モードとは異なり、恥じらいを持つ乙女の姿があった。

 モジモジと太ももをすりあわせ、克己のことを期待と不安に彩られた瞳で上目遣いで見つめている。

 (おす)からしてみれば理性が消滅することは必死の光景。しかしそこは新城克己、準備(じゅんび)万端(ばんたん)いつでもどうぞ、という様子を見せる美里を、一瞬にして発情期の猫と決めつけ、絶叫(ぜっきょう)した。

「君! 君! いったい何を脳内勘違いしているのだね!?」

「ん? しかしさきほど居間で食事をとっているとき、お前が貴子さんに言ったのではないか。『これからこの女と大事な用がある。少しの間、すまないが部屋に近づかないでくれないか』と」

「……それがどうしてソッチの話しになるのだね?」

「だから大事な用とはつまり私の身体を堪能(たんのう)するという用事のことだろう? ふふふ、一つ屋根の下というシチュエーションに我慢できなくなったわけだな。どうだ? 一緒にお風呂に入るか。どんなプレイも覚悟(かくご)はできているぞ」

「……それは方便(ほうべん)だよ。一連の事件について君と話し合うために二人きりになるためのね」

「しかし実はそれこそが方便(ほうべん)で、次の瞬間、新城克己は狼に変貌(へんぼう)した」

「変なナレーションをいれないでもらいたいね! まあいい、勝手に始めるよ。まずは起こった事件についての整理だ」

 言うと、克己は勉強机の中からメモ用紙とシャープペンシルを手に取った。

 そしておもむろに何かを書き始める。

 それは言葉通りに、昨日と今日に美里の身に起こった事件をまとめたものだった。その簡潔に書ききったメモ用紙を、克己は部屋の中央にある小さなテーブルに広げた。

「まず昨日の朝に起こった事件だ。()見坂(みさか)駅のホームで何者からか背中を押され、線路の中へと転落したと、つまりはそういうことだね」

 一応という具合(ぐあい)に確認をする克己。

 それを聞くに美里は「そうだ」と首肯(しゅこう)する。

「ふむ、そして次に起こったのが、その日の放課後(ほうかご)、今度は下校途中に、またもや背中を押されてあやうく自動車にはねられそうになった、と……この二つは同じ手口だね? 日常に存在する危険をもって人を殺害しようとする。巧妙といえば巧妙だね」

「シンプルで、ともすると、これは事件ではなく事故であると結論づけられそうな方法だな。私も正々堂々と真正面から挑まれればまったく問題はないのだが、こう不意打ちを連発されるとどうしようもない」

「一応確認するが、その背中を押される時に犯人の姿を見たりはしていないかね?」

「ううむ……とにかく犯人の姿は見てないぞ。というか、背中を押された時は常に後ろ向きなのだから、犯人を確認できるはずもないしな……」

 すまないと謝る美里。しかしそれを確認したのはあくまでもダメもとであった克己は、気にした様子も見せずに次の事件に移った。

「そして3つ目の事件が、その翌日、つまりは今日の昼休みに起こった植木(うえき)(ばち)落下事件だね。しかし、これも犯人に繋がる情報は何一つとしてなく、あまつさえ、植木(うえき)(ばち)の落下当時、私達の真上(まうえ)に位置していたベランダには誰一人として生徒の姿はなかった、と」

「そうなるな。だから学校側では、これは事件ではなく事故で、3階のベランダに宙吊(ちゅうづ)りになっていた植木(うえき)(ばち)が自然に落下したのだという結論で落ち着いたようだが」

「しかし、そんな偶然はあるまい。なんらかの方法で、犯人が君めがけて植木(うえき)(ばち)を落下したと見てまず間違いないだろう。その方法についてはまったく分からないが……」

 まさに八方(はっぽう)(ふさ)がり。

 犯人に(つな)がる情報はほとんど皆無(かいむ)といってよく、犯人に常に先をいかれているという絶望的な状況。その結果を整理するに、克己は何かを考えるように押し黙った。

「――――」

 黙り込み、思考に沈潜(ちんせん)する克己。

 それを静かに見据(みす)える視線があった。それは克己の目の前、熱をもったような優しい眼差(まなざ)しで克己を見つめている美里の視線だ。


●●●


 克己の真剣な姿を見た美里は、何度目になるかも分からない感謝を内心で(いだ)いていた。

 ――――普通、人の惨事(さんじ)にここまで真剣にならないだろう。

 困っている人間がいても、何かと理由をつけて知らぬ顔をするのが人間なのだ。

 無意識(むいしき)のうちに、自分自身でソレと気づかないように厄介事(やっかいごと)を見て見ぬふりをする。それが普通で、それは仕方のないことだと美里は思っていた。

 しかし、目の前の男は、ともすると自分よりも真剣にこの事件に取り組んでくれている。

 知り合いでもない、見ず知らずといっていい自分のために奮闘してくれる人物。それを改めて認識するに、自分の胸の中に熱い何かがこみ上げてくるのが分かった。

 これは絶対になんらかの形で返さなければと、美里はそう思う。

 ――――そうだ。カツミの苦しみを少しでも和らげてやりたいと、私はそう思っている。

 今まで一緒にいた中で感じてきた克己の性質―――すべての行為、すべての思考に休むことなく突っ込みをいれ、批評を繰り返す男。

 それは片時も休むことなく走り続けるのと同義で、そこに安らぎなどあるはずもない。できることならば自分の手で克己をその苦しみから解放してやりたいと、美里はそう思うのだが……、

 ――――だがカツミにとってその苦難は、苦しみではないのだろう。

 短い期間ではあるが克己と行動を共にしてきた美里は気づいていた。

 繰り返される過剰(かじょう)なる自己(じこ)批評(ひひょう)内省(ないせい)は、克己にとって苦しみではないことを。

 自分の行為に一片の瑕疵(かし)もあってはならないと、神経を常に緊張させることは、克己にとって苦しみではないのだろう。

 それは、克己(かつみ)自身(じしん)が好きでやっていることなのだろう。

 にも関わらずそれを苦しみだと論じるのは、自分の妄想であって、幻想であって、自分勝手な思い込みに過ぎない。

 それでも、少なくとも理解はしなくてはと、美里はそう思っていた。

 何が原因で克己は、いつも自分の行動、内心に対して批評を続けるのか。過剰なまでに、まったく利益にならないことにまで内省を繰り返すのか。まず、それを知らなければ話しにならない。そう思った美里は、なにげない様子をもって、今だに熟考する克己に言葉を向けた。

「カツミ、一つ質問があるのだがいいか?」

「ん? 何かね」

「お前はいつもいつもバカのようにアホのように気狂いのように脳の回路がおかしいように愚か者のように痴愚のようにネアンデルタール人のように自分の行為について批評を繰り返すが、それは何故なのだ? 教えてくれないか」

「君! 君! それが人に物を頼む態度なのかね!? 人のことを頭がおかしいのなんのと、喧嘩を売っているのかね君は!?」

「そんな訳ないだろう。私が克己に喧嘩を売るなど考えられない。なぜなら、愛しているのだから」

「…………君、やっぱり病院に……」

 克己の哀れなものを見るような視線を美里は心地よく無視。そのまま、

「それで、どうなのだ? 話してくれるのか話してくれないのか。とっとと決めてくれないか?」

「何故に君はそんなに偉そうなのか理解に苦しむがね。……しかしそんなことに興味を持つとは意外だね? それについて質問してきたのは君で2人目だよ」

「2人目だとか3人目だとかはどうでもいいんだ。私は、ただお前のことが知りたいだけなのだから」

「……君が思っているほど、大層な理由などないのだよ? くだらない戯言だ」

「それでも、私はお前のことをもっとよく知りたいのだ」

 まっすぐな言葉。

 それに克己は、ふう、とばかりに溜息(ためいき)を吐いた。

 そして、若干ではあるが戸惑いの表情を見せる。

 言いよどむような、躊躇(ちゅうちょ)しているような様子で、克己は、美里の質問に答えるのをどうしたものかと悩んでいるらしかった。だから、克己の口からでてきたのも前置きとしての言葉だ。

「単純で、なんとも青臭い話なのだが……本当にいいのかね?」

「いいと言っているだろ、しつこいなあ……殴るぞ」

 美里は拳を握った。

 それを見て克己は半歩後退した。

 すぐさま美里が距離をつめる。

 グイっとばかりに近づき、至近距離で克己のことを脅迫した。それが功をそうしたのか、克己は観念したように息を吐く。そして、渋々といった具合に語り始めた。


「……なんというかね……私は、他人のために行動すると言いながら、実はただ自分のためだけに行動するということが許せない―――元をただせば、ただそれだけのことなのだよ。だからそれを自分自身がしないために、たえず内心を監視しているのだ」


「他人のためと言いながら自分のために行動することが……嫌?」


「そうだよ。私は許せないんだ。言っておくが、他人がそういう思考を経て行動することが許せないのではないよ? 人は人だ。自分の考えを押しつける気はないさ。しかしとにかく私は、他人のためというお題目のもとに自分が行動するのが許せないんだ。外形的には善い行為をしたとしても、それが実は、名誉欲だとかの自分の利益のために行われているという事態を、私はどうしても許容できないのだよ」


 ゆっくりと放たれた言葉。それを受けるに美里は、その言葉を噛みしめるように吟味(ぎんみ)した。

 他人のためにと言いながらも、実は自分のことだけを考えた行為―――それを克己は許せないという。本当は自分のためなのにも関わらずそれを直視せずに、行為の動機を「これは他人のためなのだ」と割り切るのがいやなのだという。

 美里にもその考えは分かった。

 誰しもが、自分の行動に「誰かのため」という名目を求めたがる。それは責任の回避に過ぎず、すべては自分のための行動なのにも関わらずに、自らの安寧のために行動の理由をすり変える。

 普段、自分もやっているような心のバランスを保つための防衛機制―――それは確かに気持ち悪くて、自分もまたこんなことはしたくないと常日頃思っていることである。

 だから、克己の言葉も少しは理解できる。納得できる。

 しかし、その次に放たれた言葉が自分にはよく分からなかった。


 ――――それを自分自身がしないために、内心を監視する?


 それが美里には分からなかった。

 おそらくそれが克己の激烈なる自己批評に繋がるのだということは美里にも分かる。しかし、何故そのようなことをする必要があるのか、それがどうしても分からなかった。

 そんな美里の疑問に満ちた表情に気づいたのか、克己は補足するかのように、


「なんらかの行為をする時、その行為は少なからず自分にとって利益になるものだろうね? どんな善良な人物であっても、善いことをする時、その『善い行為をする』という快感を追い求めることだけはどうしても残ってしまうものだ。それを棚にあげて、自分が行動するのは他人のためだと言い切る姿勢が私にはどうしても気にくわないのだよ。そこには誤魔化しがある。それも意識できない誤魔化しだ」


「…………」


「どういえば言いかね……たとえば、人助けをするというように、外形的には善い行為をするように見せかけながらも、実はそれは自分の満足感を満たすために行われたに過ぎないという―――真実相手のことを思っての行動ではなくて、自分の利益になるという動機から行動していたにすぎないという行為。それが許せないからこそ監視するのだよ。誤魔化さないように、その行為が何故行われたのかを明確にするために、内心を監視し、その行為の動機について批評を続けるのだ」


「……その誤魔化すというのは、実は自分のための行為なのに、この行為は他人のためだと誤魔化すと、つまりはそういう意味の誤魔化しか?」


「そうだね。しかもその誤魔化しはあまりにも巧妙で、普通は気づかない。いわゆる一つの防衛機制だ。自分では気づかないように、無意識のうちに行為の動機をすり替える。それを防止するためには、常に自分の内心を監視する必要がある。行われた行動の真意がどこにあるのか、常に吟味し安易な結論を決めつけない。それこそが私の生き方なのであり、行動指針だ……まあ、趣味みたいなものだがね」


「…………」


「それが時には行き過ぎ、周りの皆には迷惑をかけているとは思うのだがね……ウザかろうとは思うが……しかし、どうしてもダメなのだ。生き方は簡単には変えられない」


「……なる、ほど」


 聞き終わると美里は、呆然として克己の顔を見つめた。語られたその行動指針を聞いた時、美里の胸に何よりも浮かんだのは、一つの驚愕だった。


 ――――自覚症状、あったんだな。


 自分が時々暴走するということの、それで周りに迷惑をかけているという自覚があったのだな、と。というか、語られた内容よりもそちらのほうが驚きだった。

 呆然とする美里。しかしそれも一瞬のことだ。次の瞬間には美里はハッとした表情となり、語られた内容を整理してみた。つまり、という前置きの後、


 ――――克己の語った内容の根底にあるのは意思なんだな。自分の意思の真意はどこにあるのか、それを誤魔化さずにあるがままに捉えようとする。だからこそカツミは常に内省を繰り返し、すべての行動に批評を繰り返すのだろう……しかし……、


 そこまで理解した美里は、しかし、と反論する。

 そんなことは不可能ではないかと、さらに思考を進めた。


 ――――人の内心というのは分からないものだ。カツミの言うとおり、そこには常に誤魔化しがある。自分にとって都合のいいように事実を歪曲(わいきょく)するという誤魔化しが常に存在する。その誤魔化しをすべて看破(かんぱ)し、自分の行動の動機を探求するというのは、不可能なことではないか。


 美里は思う。

 やはり克己のやっていることは荒唐無稽(こうとうむけい)の実現不可能なことだ、と。

 自分の内心を誤魔化すことなく把握(はあく)しようなどと、そんなことは実現できるはずがない―――美里はそんな確信にも似た断定を胸の中で思った。

 例えば内省の結果、「この行為はやはり自分のために行われるのではない、こういう理由でつまりは他人のために行われたのだ」と結論付けられたとしても、そう結論付けられた理由がそもそも「自分のため」である可能性がある。

 しかもこれはグルグルと続いていく。行為の動機が「コレだ!!」と思っても、それは自分のための誤魔化しであるかもしれない。

 そしてそれが真実であるかどうかは結論づけられない。これでいいと思った瞬間―――これが真実の結論であると居直った瞬間に、それこそが最大の誤魔化しになる。

 その安易な割り切りの中には、自分の内心が無意識のうちに、自分の都合のいいようなものに変貌するという事への無知がある。

 どんな結論にもどこかに「自分のため」という要素が含まれてしまう。それにも関わらず、安易に結論をだすというのは、ただ単に『考え続ける』という面倒くさいことを回避する思考にすぎないのだろう。

 つまり、どんなに内省を繰り返しても、真実であるところの動機を探し出すことなどできるはずがない。

 やはり克己の行っていること―――自分の行為の動機を正確に探るということは不可能なことである。

 そして、何故そんな不可能なことことを実行し続けているのかと思うと、美里は理解しがたいように眉をひそめた。

 何かを為す時、その為そうとしていることが実現可能なことでなければ、人はそれを実行に移せないだろう。初めからできないことを、そうと理解してやろうなどと、人間には思えないだろう。

 ではなぜ、克己はそんな不可能なことを実行し続けられるのか。

 それを考えるに美里は、唐突に一つの事実に気づいた。それは克己の言葉の中にあったものであり、もっとも不毛のように思える労力の浪費。それを認識した瞬間、その内容が自然に言葉になった。


「そうか……考え続けることが……内省を続けるということがお前の行動指針なのか」


 克己には聞こえられないような小さな声でそう言う。

 美里は理解していた。やはり不可能なのだと、克己のやろうとしていることは不可能なのだと、しかし不可能なままでいいのだと。


 ――――結論をださない。自分の行為の動機、真実の内心はどこにあるのか、そのことについて考え、しかし結論はださない。最後の最後まで、これでいいと居直ることなく考え続ける。その思い悩み続けるという姿勢を固持すること―――それこそが、カツミが自分の内心を誤魔化さないためにたどり着いた行動指針であり、何がなんでも守ろうとしている姿勢なのではないか。


 善か悪かという二元論ではない。克己が行いたいことはすなわち、道徳的に生きるということであって、とにかく「なぜ?」と問いかけ続けることこそが、克己の行動指針なのではないか―――


 そう思い至った美里の胸の中に、克己のことを理解できたという思いが広がる。その内心の幸福感はそのまま表情になった。美里の顔には笑顔が浮かぶ。ふふふ、と笑いながら美里は克己を見つめていた。

 そこにあるのは相手のことを少しでも理解できたのだという満足感だ。

 克己のすべてを理解したなどと思い上がるつもりはないが、しかしそれでも克己の重要な思考についてその一部分であろうとも理解することができた。そこに美里は自分でも信じられないほどの満足感を得ていた。

 だからこそ笑う。

 嬉しさはそのままに笑みになる。

 美里の顔に浮かぶ表情は、ただ満足感から得られたものだった。

 しかし、それをそうとはとらなかった人間が、美里の目の前にいた。

「やはり……笑うかね?」

 克己だ。


●●●


 克己の目の前。そこにはいきなり笑い出した美里の姿があった。

 克己が自分の内心をさらけ出したあと、美里は少し考える仕草をしてから唐突に笑い出した。

 それを見て克己は、やはり笑われたかと、嘆息(たんそく)とともにゆっくりと息を吐いた。

 内心における落胆。

 しかし克己はそれも当然かと自嘲(じちょう)していた。

 自分の語った内容、それはどこを聞いても青臭く子供っぽいものである。他人のためだとか自分のためだとか、そんなことを常に考えるなど、生活にはまったく役には立たない。むしろ有害ですらある。

 役立たずな、なんの益体もない思考を常に実践し続ける。はたからみればこれほど滑稽(こっけい)なものはなく、それを聞くに笑われても仕方のないことなのだろうと、克己は自嘲(じちょう)する。


 ――――この考えは青臭いと自分でも思っていたから、人には積極的にこのような話しはしてこなかったのだがね……。


 それが今までの自分の人生。

 しかしさきほど自分は、目の前の痴女になんの抵抗もなくその内心をさらけ出した。それは何故かと問われれば、答えは一つだ。それは……、


 ――――相手もまた、青臭いことをしているから、かね。


 克己は何かの話しのついでに美里から、「自分の目標はカメハメ波を打つことであり、ゆくゆくは最強になりたい」とかなんとかいうことを聞いたことを思い出していた。

 それを聞いた時に思い浮かんだのは、自分のようなバカなことを実践している人間が他にもいるのかという妙な達観で、何故かは分からないが胸の内が暖かくなったのを感じた。

 だから……というのもおかしいが、しかしこんな自分と同じようなバカならば、この自分が常に思っていることを話してもいいのではないか、悪いことにはならないのではないかと、そう思った。だからこそ自分は話した。吐瀉(としゃ)した。その結果が、笑われた、という一つの結果だ。

 克己は、ふう、と息をつく。

 外見には変化はない。いつも通りの克己である。

 しかし、それはあくまでも外見だけであって内心は違う。克己の脳裏には本人には気づかれないまま、確かに小さな傷ができていた。

 それらはすべて克己の勘違いであり、美里の笑顔の真相は違う。

 美里の笑顔はただ単に克己のことを理解できたという満足感から得られたものだ。しかし克己がそのことに気づけるはずがない―――勘違いのままに落胆するしかない。だからだろうか、克己はそれと気づかないままに、言葉を発していた。


「やはり……笑うかね?」


 その言葉に、何よりもまず克己が驚いていた。

 言った瞬間、ハッとしたように口をおさえる。しかし口からでた言葉を帳消しにすることなどできず、その言葉はしっかりと美里の耳に入った。途端、笑っていた美里がピタっと止まる。そしてそのまま、

 

「何か勘違いしているようだがなカツミ。私が今笑っていたのは、お前のことをバカにしたからではなく、ただ嬉しかったからだぞ?」


「―――? どういうことかね?」


「どうもこうも言った通りの意味だ。私はお前のことを少しでも理解してやれたと思ったのだ。そして嬉しくなった。ただそれだけだぞ」


「理解……した?」


 その美里の言葉を克己は吟味(ぎんみ)する。

 理解した、と美里は言った―――それはどういう意味なのだろうかと、克己は考える。

 自分の言ったことは、少なくとも受け入れられることはないだろうと予測していた克己は、だからこそ美里の言葉が信じられなく、その意味を必死に理解しようと熟考を開始する。

 しかし時間が経つにつれ、美里の言葉にはなんの虚偽も入っていないのだということが克己にも分かった。それほどまでに目の前の美里は堂々としており、真っ正面からこちらを見つめてきている。

 そしてそれをしっかりと理解するに、克己は信じられないといった表情を浮かべた。


「君、私が言うのもなんなのだがね……こんな訳の分からないことを理解し、あまつさえそれをバカにしないなど、少し人類から逸脱しすぎではないかね?」


「何を言っているのだお前は。というかどっちにしろ似たもの同士だろう私達は? ふふふ、似たもの夫婦とはよく言ったものだな」


「……君の脳内思考について今更突っ込みはしないがね…………そうか、分かってくれたのか。それでいて、笑わずに理解してくれたと……」


 言うと同時、克己はなにやら自分の(ほお)が緩むのを感じた。

 秘密を共有した共犯者のような感覚を抱き、なにやら目の前の女と初めて意思の疎通(そつう)ができたような気がして、克己はまんざらでもないように笑った。

 しかしそれはあくまでも一瞬のことだ。克己(かつみ)は自分の顔に浮かんだ表情を認識するに「いかん」とばかりに無表情を(たも)とうとする。

 だが内心を抑えることはできないのか、その顔には隠すことのできない愉悦(ゆえつ)が浮かんだままであった。


「フン、まあいい。とにかく私は君のことを鋭意(えいい)努力(どりょく)次第(しだい)で護衛するから安心したまえ。君のことは私が守るよ」


「ああ、頼りにしているぞカツミ」


 なんだか呆気なく2人の世界が形成されているような感じである。

 どこかぎこちなかった空気はなくなり、打ち解けた様子を見せている。

 時間が止まってしまったような錯覚―――それを壊したのは、一つの言葉だ。それはくぐもった声で、遠くのほうから聞こえてきた。


「克ちゃ〜ん、お風呂できたわよ〜」


 克己の母親、貴子の声だ。その声が響くに、克己はそれまでの空気を否定するかのように、ふむ、とばかりに頷いた。そして、


「先に風呂に入るといい。勝手が分からなければ母上に聞いてくれ。私はもう少し何か犯人に繋がるものがないか探してみるよ」


「そうか、分かった。では一緒に入ろう」


「ああ、ではまた後ほどだね。女性の風呂は長いだろうから、それまでには犯人に繋がる……って、何をしているのかね君は!?」


 考え込もうとしていた矢先(やさき)、克己は自分の身体が引きずられているのに気が付いた。

 有無を言わさずに右腕が掴まれ、そのまま(たたみ)の上を引きずられている。克己を牽引(けんいん)しているのはもちろん美里(みさと)だった。


「何をしているも何も、私はお前と一緒に風呂(ふろ)に入りたいからその通りにしているだけだが? ふふふ、身体をあらいっこしよう、カツミ」


「母上! 母上! ここに痴女がいるよ母上! 人の家で一線を越える気だぞこの女は!」


「ふふふ、叫んでも無駄だ。貴子さんには事前工作済みなのだ。いくら泣こうが叫ぼうが、助けにきてくれる人間などいないぞ。観念するのだな」


 絶句。

 ずるずると引きずられながら、克己は子牛の気持ちが分かった気がした。

 抵抗しようにもそんなことは無駄であることが分かっている克己はそのまま美里に運ばれていく。

 途中で貴子が「あらあら」とばかりにその光景を見守った。克己は生まれて初めて自分の母親に恨みの感情を抱いた。

 しかし克己にはどうしようもない。助けてくれる人間などいるはずがない。

 ――――絶体絶命とはこのことか……!

 引きずられながら、克己は観念したように力を抜いた。あとに残ったのはその(しかばね)と化した男を風呂へと引きずり込む女郎(じょろう)蜘蛛(くも)の姿だ。

 浴槽(よくそう)からしばし、悲鳴と、何かに(あらが)おうとする「ゴゴゴゴ」という抑止力の音が途切れなかった。


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