第六話
昼休み。生徒の憩いの場となる中庭は、いつものように生徒の姿で溢れかえっていた。
第一校舎と第二校舎の真ん中にある、かなりの面積を誇っている中庭。
つい1年ほど前に経営者側の強行で改修工事が行われ、やけに豪華な出で立ちになったという幽斐高校の中庭である。
地面にしかれているのは天然の芝であり、庭師の腕がいいのか均等に切り揃えられて、深い緑の色が見る者の心を和ませている。
そして、きわめつけはなんといっても中庭の中央に配置されている噴水で、それほどには大きなサイズではなかったが、夏に向かって暑くなってくる気候を、視覚からも体感からも和らげていた。
その高校にあるまじき豪奢な光景を見た者は、「さすがは私立高校、金だけは有り余っているのか」と皮肉げに言うのだが、しかしそんなわけはなかった。その中庭のために犠牲になっている存在が多々(たた)ある。
その中でも最たるものが、幽霊でもでてきそうに古臭い木造建築の第三校舎である。
とくにその第三校舎の中にある家庭科室の惨状は、いつガス爆発が起こっても不思議ではなく、「手遅れになる前に何はともあれ家庭科室を改装してくれ。とにかくガス漏れだけは生死に関わるから是が非でも直してくれ」と、再三にわたって生徒会は学校経営陣に勧告しているのであるが、いっこうに聞き入れてもらえない。それを思い出すに克己は、「やはりこの学校は金の使い方を間違っているな」と、思わざるをえなかった。
「さてと、ではいただきます」
「いただきます」
克己の言葉に、隣に座る美里が応じた。そのまま美里は、おかしなくらいに大きな弁当箱を開き、食物の摂取に夢中になる。
ガツガツと豪快な勢いでメシを喰らう美里。その姿はまさしく肉食獣で、口元には真っ赤にしたたる血液が……というわけではもちろんないが、その激しい食事の風景は、本当にこいつはホモサピエンスかと疑いたくなるほどだった。
「――――」
護衛のために昼食をともにする。それは昨日のうちから決めていたことだ。一切の隙を作らずに美里の身を守るのであれば、昼休みも当然に行動を共にしなければならないはずである。だから、こうして美里と昼食をとることにはなんの問題もない。問題はないはずだ。しかし、
―――紫苑くん……アレは相当に怒っていたね。
昼休みを前にして、いつも昼食をともにしている紫苑に対して、今日は護衛を兼ねて美里と食べると伝えたときのこと……まるで、親の敵でも睨みつけるかのような鋭さ。氷のような絶対零度の視線。それを思い返すに、克己はブルっと背筋を震わせた。
―――ま、まあしかし、今はこの痴女の護衛が第一だ。万全のサポートをするため、今はカロリーを摂取しなければ。
紫苑のことは一時保留とし、克己はコンビニで買ったパンを手にとる。
そして、おもむろにかぶりつこうと思った矢先、克己は絶句して押し黙った。
隣り―――そこで展開されている食物の宴。
美里の目の前には所狭しと重箱が展開されている。
なぜか、さきほどまではなかったはずの重箱が空になっている。しかも、それだけでは満足できないのか、美里はかたわらに置いてあるバックから、さらに二つほどの重箱を取り出していた。理解できなかった。
「……君、なんだねその食物祭りは? 何かの宴かね」
「ガツガツ……ん? 何を言っているのだ。こんなもの腹八分目だろ?」
「は、八分目って……ま、まあ、人のことをとやかく言うつもりはないのだが……」
「ガツガツガツガツ」
克己の言葉に返答したのは日本語ではなく擬音だった。
克己の言葉などどこ吹く風と、美里は食事に集中している。
上顎第一大臼歯と下顎第一大臼歯が唸りをあげ、美里は一段目に詰め込まれている白米だけを食べ続けていく。
おかずなど喰わない。この白い粒々(つぶつぶ)を奥歯ですり潰すことが何よりの快感だと言わんばかりに、美里はただただ一段目の米を食べ続けていった。
「す、すごい食欲だな。まあ、私としては大人しくなってくれてありがたいが……」
そんな美里の食事風景を横目に、克己は自分も食事に戻ろうと、右手に持ったパンを口にいれる。
むしゃむしゃっと口を動かし、ゴクンと胃の中に収める。しかし、美里の殺戮じみた食事を横にしているせいか、どうもパンだけでは物足りないような気がして克己にはならなかった。
―――うむ、何か動物性タンパク質が食べたいような、そんな気がするよ。
思いながらも、ないものねだりは不毛だなと克己は諦め、再度パンを口に含む。と、そのとき、隣から熱烈な視線が向けられているのを感じた。それは当然に美里の視線だった。美里が横から「じいー」とばかりに克己の手元を凝視している。
「君、どうしたのだね?」
「ん? いやあ、お前のそれもおいしそうだなと思ってな。どうだ? この肉と交換しないか?」
「まあ、いいがね。では少し待ちたまえ。今、パンを千切ろう」
「おお、ありがたい。―――ではいただきます」
「―――は?」
いきなり克己の手をとる美里。
パンの握られている克己の右手を掴んで拘束し、フフフという怪しげな笑顔。
美里はそのまま、克己の右手ごとパンを食べた。
「っ―――!」
がっちりと拘束。パンを握っていた指が美里の口内に納まってしまっている。
そして美里は、舌を絡めるようにして指からパンを奪うと、一瞬にして嚥下してしまった。ゴクンと美里の喉がなる。しかし、それで終わりになるわけがなかった。
「なななな何をやって、ひゅうんぅぅ!!」
克己の絶叫は、美里に右手を舐められることよって途切れてしまった。
口内に納めたままの克己の指を、舌先で転がす。美里の長い舌が克己の右手を這い回っていく。指だけでは飽きたらず、手の平や手の甲までも万遍なく……。
「ジュジュぅ……ン……チュ、ちゅう、じゅじゅ……ちゅううぅぅ」
「な、ななな、ななな、なな、なななな」
じゅぶじゅぶ、という唾液の音―――それを聞くまでもなく、克己はあまりの快感に腰砕けになってしまっていた。
目の前で自分の右手が食べられているのを呆然と見ながら、頭の中は電流が流れたかのように真っ白になる。
手から直接下半身に快感が伝わるようにして、腰がなくなってしまったような喪失感と、ガクガクと震える膝を強制的に体験させられていた。
「プハア……ふふふ、おいしいぞカツミ。なんならこのままいってみるか?」
「ど、どどどどこにだね? と、というか、もうやめてぇ……!」
「やめないぞ。今はよけいなことは考えるな。私にこうされてる時くらい、よけいなことを考えずに頭を真っ白にしていればいいんだ」
「しかしそれでは思考停―――あああ!」
またグルグルとまわりそうになった瞬間、美里は克己の指の間を舐め取った。一本一本を丁寧に舐めるその姿は、誰がどう見ても淫靡で、同姓の女性が見ても色っぽいものがあった。
「お前のソレを私は否定するつもりはないが、少しは頭を真っ白にしなければ保たないぞ。なんなら最後までヤるか?」
「な、何を言っているのだね君は!?」
「分からないのか? 分からないのならばいい。私が勝手に奪うだけだ。ふふふ、私も初めてだから、まあおあいこだな」
言うと美里は克己にさらに接近する。体と体が密着し、美里の柔らかい体が克己に押し付けられる。そしてその先―――至近距離に近づいて美里が何をする気なのか、克己にも予感として分かった。
――――この、痴女が!
思うが思うだけだ。
何もできない。
体が美里を拒むことを拒否している。そんな条件反射を見せるなど恥ずべきことで、どうにかして意思を導入しようと克己は試みるのだが、しかしどうにもならない。
美里が近づく。対して自分の頭は豆腐のようにトロけてしまって、美里を押しのけようにも、そもそもその考えが思い浮かばない。
まるで美里の分泌する唾液に、男の快感を促進させる物質が含まれているかのような感触。ああ、このままこんな学校の中庭で一線を越えてしまうのか、と克己は絶望に負けて空を見上げた。
―――そのとき
――――ヒュン、と何かが落下する音が聞こえた――――
それと同時、克己は頭上から何かが落ちてくるのを見た。
頭上。
落ちてくる物体。
落ちてくる植木鉢。
それは確実に、美里への直撃コース。
驚愕はなかった。
そんなものを感じていたら間に合わない。
克己はただその状況を端的に表す言葉を叫んだ。
「危ない!!」
そのまま、何も気づいていない美里に突進する。体をぶつけ、そのまま地面へと横たわる―――直後、ガシャンという激突音。
二人のすぐそばに落下した植木鉢が割れ、その陶器のカケラが周囲に飛び散った。
覆い被さるようにして美里を守る克己に、そのカケラのいくつかがあたる。先端が鋭くなった部分が克己の顔をかすめ、頬に切り傷を作った。
しかし、それだけ。
美里の命を奪おうと落下した植木鉢は、それ以外に何も生み出さずに砕け散ることになった。
●●●
「――――」
「…………」
突然の出来事に、中庭には静寂が訪れた。何が起こったのか分からない―――それ故の静寂。物音一つたたない中庭で、誰もが動きをとることができないでいる。
しかし、その中にあっても克己はあくまで冷静だった。頭上、三階にある教室のベランダ―――その外側に宙吊りにされている植木鉢があるのを確認する。そこから先は早かった。
「君はここにいたまえ!!」
美里に向かって叫び、駆け出す。
おそらく犯人は3階のその教室から植木鉢を落下させたのだと克己は予想付けた。
まだ他の皆は何が起こったのか分かっていない。だからこそ急ぐ必要があった。犯人が逃げる。逃げてしまう。しかし、逃がしてたまるかと克己は思う。
後悔があった。油断があった。殺してやりたくなるような自分の怠慢があった。
これまでの危機的状況はすべて学校外で起こってきたことであり、学校の中では危険はない―――そんなきめつけ―――明らかな怠慢―――その結果、美里を危険な目に合わせてしまった。
――――ふざけるなよ。
その怒りは犯人に対してよりも自分に対して向かう。それを少しでも緩和しようと、克己は階段を駆け上り3階へと至った。
ガララ、と勢いよく開け放たれる教室のドア。
いきなり現れた上級生に、驚いた様子を見せる1年生。それに構わずに、克己はベランダへと出た。そこには植木鉢がある。それもただ置いてあるのではなく、ベランダの外側に宙吊りになる形で存在していた。
そこに危機管理の甘さを見る克己であったが、そんなことはどうでもいい。とにかく今重要なのは、ベランダにはすでに、犯人の姿はないという事実だった。
――――まあ、当然だろうがね。
克己はしきり直す。そして次の行動に移った。つまりは事情聴取。犯人はこのベランダから植木鉢を落下させたはずで、それならばその光景を見た人物がいないとおかしい。急ぐ必要はない。目撃情報から犯人をあげればいいのだと克己は思う。もはや犯人を捕まえるのは時間の問題で、完全に追いつめたという楽観がそこにはあった。
そして克己は、その考え通りのことを実行しようと、窓際で弁当を食べていた女子生徒を捕まえ、
「君、このベランダに、誰かいたのを見ていないかね? ついさきほどのことなのだがね」
「人……ですか?」
いきなりの質問に面くらいながらも、その女子生徒は思案するように手をアゴにもっていった。期待通りの返答を待つ克己―――しかし女子生徒から放たれた言葉は、理解に苦しむものだった。
「私、ずっと外の景色を見ながらご飯食べてましたけど、ベランダにでてた人なんていませんでしたよ?」