第五話
2日目(火曜日) AM7時40分
朝である。朝露がアスファルトとともに緑を濡らしている。
時刻は7時で、生まれた水気が蒸発することなく地上に残り、目に見えない水蒸気として朝の光景を演出していた。
そんな慌しい時間帯に、アスファルトの上を歩く二人の姿があった。ともに同じ高校の制服を来ており、だからこそ目的地も同じだ。
周囲には田んぼしかない通学路の中、最寄り駅の上見坂駅に向かって歩いているのは、克己と美里であった。
「それにしても驚いたぞ。あんなに早く家に来るとは思っていなかった。ふふふ、やはりこれは愛なのか?」
「……君はいったい何を言っているのかね。まあ君の母上にはあとで改めてお礼を言っておいてくれ、まさか朝御飯をご馳走してもらえるとは思っていなかった」
「ふふふ、母さんは朝から張り切っていたのだけれどな。男の子が家に来るのだからと昨日の夜から下ごしらえに余念がなかった。お前のおかげで豪華な朝御飯にありつけたわけだ。こちらのほうが礼を言いたいくらいだよ」
昨日、美里の護衛を引き受けた克己は、早速に美里とともに登下校をともにすることをきめていた。だからこそ、克己は朝から美里の家におもむいたのであり、こうして朝も一緒に登校しているのである。
「それよりもだカツミ。何度も言うようだが、今日はずいぶんと早く来たじゃないか。どうしたのだ?」
「……フン、ここまで早く来たのは君のためではない。よもや私のいない間に犯人が君に接触してこないかと、懸念したからに過ぎないのだよ。それで? どうなのかね。何か変わったことはなかったかね?」
「それならば問題ない。平和そのものだ。どうやら犯人も人の家にまで乗り込んでくる気はないらしい。何も危険なことなどなかったよ」
ゆっくりと事実を述べる。それを受けて克己は、ふむ、と一息をいれた。それとともに、頭の中でこれまでの事件の経緯について考え、それを口にだした。
「ううむ、楽観はできないが、やはり犯行は夜ではなく昼に行われる可能性が高いということは間違いないだろうね。まだ決めつけることはできないが……とにかく日中に注意していれば、最悪命を落とすということはないだろう。まあもっとも、一刻も早く犯人を突き止めるのが急務だが」
「……まあ私としてはお前と一緒に登下校をともにしたいから、なるべくスピード解決はよしてもらいたいが……そうも言ってられないか」
「当たり前だよ君! 君は命を狙われているのだよ!? 本当ならば君の両親にもきちんとこのことを伝えて、警察なりに連絡をだね」
「――――それはやめてくれ」
断固とした美里の言葉だった。それまでのふざけたような様子はなりを潜め、怒っているというわけではないが変な迫力がある。その美里の様子に、克己は昨日、美里から言われた言葉を思い出していた。
――――両親に迷惑はかけたくない、か。。
昨日の段階で克己は美里に対して、警察に連絡をいれておこうと打診していた。人の命が関わっているのだ。そこに手段を選んでなどいられず、一刻の躊躇が命取りになる。だからとっとと警察に言って捜査してもらおう、と。
しかし、美里はそれをガンとして認めなかった。
――――この痴女は、自分が人と違っているという事をきちんと認識しているようだね。だからこそ両親を困らせているということも分かっている。それゆえにこれ以上、迷惑はかけたくないと……。
これは単なるわがままだと、克己は思う。しかし、克己には美里の気持ちがよく分かった。
――――私がこの非常識人と同じ立場にたったならば、やはり警察などには連絡せず、親にも何も相談しないで一人で解決しようとするだろうね……それは間違っているのだろうが……。
それでも親の力を借りたくないという気持ちが克己にはあった。
だからこそ、美里の態度にも納得できるものがあるし、そこに関わる以上、万全の体制でサポートしなくてはいけないと、決意をあらたにする。
「フン、まあ今の段階で警察に連絡しても門前払いをくうのがオチだろうしね。もう少し情報が集まるまで待ったほうがいい。しばらくは様子見ということでどうだね?」
「……すまない、恩にきるぞ」
「恩など感じなくても結構だよ。これは私の意思でやっていることなのだ。君に感謝される筋合いはないと何度も言っているだろう」
「ふふふ、さすがはツンデレキャラだな。まあいい。ではこれは私なりの感謝のしるしだ。言葉でダメなら行動で示さねばな」
言うなり美里は克己に近づく。
そして、いきなり美里は克己の頬に口づけした。
一瞬ではあるが、確かに美里の唇が克己の頬を舐めとった。信じられないほどの快感が、全身を貫いた。
「な!? ななな何をしているのだね、君は!?」
「なにって、感謝のしるしだが? ううむそうか、唇にしたほうがよかったか? 舌までいれたほうが?」
何を嫌がっているのだろうと、キョトンとした表情でこちらを見つめてくる美里。そんな痴女の末裔の姿に、克己は愛想がつきたようにタメ息を吐きつつも、
「……君の頭が異常をきたしていることは知っているがね。しかし、そこまで性欲に飢えているのは、ちょっとおかしくないかね」
「何を言っているんだカツミ。私は別に性欲に飢えてなんかないぞ。変な言いがかりはやめてくれ」
「君がそう言ってもまったく説得力がないのだが……朝っぱらからの色情狂。そこまで倫理観が崩壊しているとは、少し考えられないほどだ。まさか君、本当に人間ではなくて、実はサキュバスでしたなんて言わないだろうな?」
「サキュバス? なんなのだそれは」
「私も詳しいことは知らないが、どこかで誰かに聞いたことがある。サキュバスとは、夜な夜な男を誘惑してその精気を吸い取る魔物のことだよ。夢魔という、キリスト教における悪魔の一種……と、誰かに教えてもらった記憶があるのだが……」
「ほー、しかしカツミ。なんで私がそのサキュバスだと思ったのだ?」
「だから、君が呆れるくらいの性欲を見せるし、それに、なんだか君に口づけされたり顔を舐めまわされたりすると、不自然に体の力が抜けるからだよ。これはちょっと異常なことだと思うが?」
「うーむ」
押し黙り、チラチラと克己のほうを見つめる美里。
ひとしきり言おうか言うまいか悩んだ美里は、「ひょっとして」という前置きのあと、
「カツミ、お前も期待しているのか?」
「……なにをだね?」
「だから、私に襲われることだよ。なんだなんだ、嫌がるようなそぶりを見せていたのはポーズだったのか。よし、ではさっそくに……」
「さっそくに何をしようというのかね! まったく君には付き合いきれん。先に行かせてもらうよ!」
「お、おい。ちょっと待てカツミ」
早歩きで先を行く克己と、それにすぐさま追いつく美里。
そして二人は、黙々と歩き始めた。あぜ道を歩き、そして県道へとさしかかる。その大きめの道路には、通勤途中と思われる車がひっきりなしに走行している。交通量が多くなるということは、それだけ市街の中心に近づいているということであり、つまりは上見坂駅に近づいているということでもある。
そして二人は道路をまたぐための信号にさしかかった。横断歩道を渡って少し歩いたところが上見坂駅であり、とにかくこの信号を渡らなければならない。
そこは大きな道路だった。横には大型トラックも止まれる駐車場を完備したコンビニもある。目の前の信号は青で、二人はそのまま直進しようとするのだが、
「――――は!」
奇声をあげ―――克己は突如として横断歩道の直前で停止した。
いきなりの出来事に面食らいながらも、美里もそれにならって立ち止まる。そして一歩車道に出ていた脚を引っ込めて、美里は克己のほうへと振り返った。
「おいカツミ? どうしたのだ」
「いや、すまないね。今日、私は昼ご飯をコンビニで買わなくてはいけな―――」
その時だった。
何気ない朝の道路。
響きわたる単純な死の力。
エンジンの駆動音。
克己と美里のすぐ鼻先、
そこを自動車が通過していった。
「…………」
「…………」
無言が訪れる。それも寒気をもった無言だった。
赤信号を無視して暴走していた自動車。
克己と美里の目の前にある信号は青。それを盲目的に信じて進んでいればどうなっていたか―――というより克己が奇声をあげて立ち止まらなければどうなっていたか、分からない二人ではなかった。
「……コンビニに寄るのかカッちゃん」
「……ああ、その通りだ」
目の前で起こった事実は何かの間違いだと誤魔化すように、二人はそんなことを口にしてそのまま押し黙った。暴走車のことなど忘れようと、二人は揃ってコンビニへと足を進めた。
●●●
途中、美里と別れて、克己は2年4組のドアをなんのきなしに開けた。
目の前に、白取紫苑が仁王立ちしていた。
体の内部に侵食してくるような、静かなる迫力をともした視線が、克己に突き刺さった。
「新城くん、少しお話があるんですが、よろしいですか?」
「し、紫苑くん……いったいなんだね」
無表情ながらも、静かに怒気をとばした紫苑。その剣幕にたじろぎ、一歩後ろに後退した克己に対して、紫苑は睨みつけるにような一瞥を放つ。
「申し開きを聞こうと思うんです。私は昨日、鵜飼美里には関わらず、なんとか逃げ切ってくださいと言いました……そうですよね?」
「ああ、その通りだが……」
「にも関わらず、あなたは今日、鵜飼美里と一緒になって、なにやら楽しげに登校してきました。 ―――何故ですか」
「そ、それは……」
紫苑の雰囲気に呑まれてしまって、言葉が口の中からでてこない。しかし、自分は何も悪いことはしていないのだと言い聞かせ、克己はことのあらましを紫苑に話し始めた。
昨日の放課後、美里が車に轢かれそうになったこと。それは実は、何者かが美里の背中を押し、車道へと飛び出させて、故意に美里のことを殺害しようとしたものであること。それをかいつまんで紫苑に話した。
「と、いうわけでね。犯人を捕まえるまでの間、私があの痴女の護衛をすることになったのだよ。仲良く登校してきたと君は言うが、それは実のところ、単なる護衛なのだ」
「…………」
押し黙り、そのまま「ゴゴゴゴ」という効果音をBGMに、不気味に沈黙する紫苑。その様子を見て、克己はウっと息をのむ。
―――なんだこれは? 何故に紫苑くんは怒っているのだ? まったく訳が分からないのだが……
戦々恐々(せんせんきょうきょう)。ハラハラと紫苑の次の言葉を待つ。
その待望の言葉が、次の瞬間、目の前の少女の口から飛び出してきた。
「……話は分かりました。でも新城くん、それって本当に事件なんでしょうか?」
「……そ、それは、どういう意味かね」
「どうもこうも、そのままの意味ですが? 新城くんは犯人の姿を見ていない。とすると新城くんの言う一連の『事件』というのは、鵜飼美里の証言……つまり『何者かに背中を押された』という言葉から事件性があると推測したんですよね」
「ああ、そうだよ? でもそれがどうしたのかね」
「ですから、虚偽、という可能性がないかなと思うんです。鵜飼美里が嘘を言っている。つまり誰かに背中を押されたということは嘘で、自分でわざと危険な目にあったと、そういうふうには考えられませんか?」
「な!? どういうことかね紫苑くん。大体、美里くんにはそんなことをする動機がないではないか。あの痴女に自殺願望があるとは思えないし、わざわざ自分から危険な目にあおうなどと、そんなことをする理由が彼女にはないぞ」
「……貴方に近づくため……とは考えられませんか?」
「私に……近づくため?」
「はいそうです。昨日の朝、線路に落ちたという真相は、実はまったくの偶然で、誰かの体が何かの拍子に鵜飼美里の背中に当たり、線路に落下したというものだった。そして、昨日の放課後に起きた事件というのは、貴方との接点を得ようとした鵜飼美里の虚偽だった―――自作自演だった。そういう可能性です」
「いや、しかし紫苑くん、何故あの女が私と接点を持ちたいがために、そんなことをするというのだね? そんな動機が彼女にあるわけないではないか」
「…………」
克己の返答を受けた紫苑は「この鈍感……」と克己に聞こえないように小さく毒ついた。
その無表情を保った顔にも呆れた様子が見て取れ、言外に「やれやれ」と嘆息するかのような雰囲気がでている。しかし、紫苑としても克己のその態度には慣れっこなのか、諦めたような表情を浮かべ、
「まあいいです。そのけんについては、もう何も言いません。だからこれは忠告です」
「なにかね?」
「鵜飼美里には気をつけて下さい。何を企んでいるのかは知りませんが、彼女に関わっているとロクなことにならないのは確かです。新城くんも気をつけて」
「……紫苑くん、君はあの女のことを誤解しているよ。確かにアレはどうしようもなく頭がおかしいが、しかし君の危惧するようなことは何もない。杞憂だ」
「……まあ、そういうことにしておきましょうか」
納得がいかないという表情ながらも紫苑が言う。
その鋭い視線は相変わらずであるが、それでも若干、機嫌が直っている様子が伺える。そんな紫苑の様子に、克己はホッ息を吐いて、安心した心地になった。
と、克己がホっと嘆息した瞬間、一人の女性が教室に入ってきた。その女性は、いきなり紫苑に対して、
「会長、創立祭の件で至急相談したいことがあるから、職員室に来いって……」
2年4組の学級委員長。クラスの催し物のために、今も奮闘している雁金茶織が、勝ち気な様子をそのままに紫苑に対して言う。
しかし、その茶織の態度は、克己の姿を見つけていきなり不機嫌なものになった。そして、克己のことを気味がるような視線で睨みつける。
そんなふうに邪険に扱われるのに慣れている克己は、茶織の視線を無視するように顔を背けた。
「雁金さん。どうもありがとうございます。さっそく伺ってみますので。 ―――それで、新城くん」
「な、なにかね」
「私が言ったこと、きちんと覚えておいてくださいね。今は覚えていてくれるだけでいいです。いざという時に、きちんと動けるために……」
「あ、ああ……分かったよ」
その言葉に満足したのか、紫苑は颯爽と教室の中から出て行った。
間近に迫った創立祭に向けて、生徒会長である紫苑は多忙をきわめているらしい。
そんな中でも、自分のことを気にかけてくれていたことに、若干の満足感を得ないわけではない。
恐ろしいほどに低俗な満足感―――優越感。それを感じてしまったことに気付くと、克己は「いかんいかん」とばかりに頭を振り、精神をノーマルな状態へと戻す。
そして、目の前の茶織を避けるようにして、自分の席におもむこうと、
「―――ちょっと、待ちなさいよ」
●●●
突然の言葉。それは、意外にも茶織のものだった。
まるで、こうして話しかけるのが心底嫌というか、なるべくならば関わり合いになりたくないといった表情を、露骨に克己に対して向け、言葉を放ってくる。
「あんた、今朝、鵜飼美里と一緒にいたようだけど……いったいどういうことなの? あんた、いったい、いつからあんな奴と付き合うようになったの?」
「……突然になんだね君は。確かに私は今日、あの痴女とともに登校してきたが、それがなにか問題があるのかね」
「問題なら大ありよ。あの女が日頃なにをやっているのか知っているの? 暴力事件につぐ暴力事件。気に入らないことがあるとすぐ暴力をふるって、力ですべてを解決するっていう、札付きの問題児よ。そんなのと一緒にいるなんて、あんた正気なの?」
「君、それはあくまでも噂だろう。いくらなんでも、毎日のように暴力事件を起こしている人間が、退学にならないなんて考えられないではないかね」
「……あんたは、あの女の本性を知らないからそんなことが言えるのよ。私の彼氏が、どれだけ……」
顔を俯かせ、今にも飛びかかってきそうなほどに、怒りに身を震わしている茶織。
克己にとって、この状況はまったく理解できないものだった。普段であるならば、自分のことを過剰なまでに避け、近寄ってこないクラスメイトが、こうして自分に近づき、あまつさえ言葉まで交えてくる。
いったい、この豹変ぶりはどういうわけなのだろうかと、克己は、怪訝そうな視線で茶織のことを見つめる。そんな視線に気付いたのか、茶織は「フン」と不敵に笑みを浮かべてから、悪意たっぷりの声で言ってきた。
「まあでも、あんたと鵜飼美里とだったら、けっこうお似合いなのかもね」
「……どういうことかね」
「クラスどころから学園の嫌われ者であるアンタと、問題児・鵜飼美里だったら釣り合ってるんじゃないかってこと。事故誘因体質だかなんだか知らないけど、ほんっとうに! アンタって迷惑な存在だもんね!」
「…………」
「知ってた? この学校には、『新城克己には、近づかない、喋りかけない、関わらない』っていう、新城三原則があるのよ? そこまで邪険に扱われるっていうのも珍しいけど、まあ、あんたはそれだけの問題を起こしているんだし、当然って言えば当然よね」
おー、怖い。私も呪われちゃうのかしら。と、茶織はガクガクと震えるような真似までして、皮肉げに言ってくれた。
しかし、よくもまあここまで嫌われたものである。
自分としても、ここまで邪険に扱われるとはビックリで、己の風評がどういうものなのか再認識できたことだけは僥倖だと思う。しかし、言われっぱなしというのも癪で、
「……言いがかりはやめてもらいたいね。君の言ってることはすべて噂だろう。まあ、私が嫌われているということは確かな―――」
「―――まあせいぜい! 鵜飼美里と仲良くやることね。あんなクソ野郎と一緒にいたら、アンタがどんな目に合うか……フフフ、見物だわね」
見物! 見物! 鵜飼美里だけじゃなくて、新城克己も消えてなくなればいいのに、とまではさすがに言わないが、それに近いニュアンスの捨てゼリフを残して、茶織は自分の席へと去っていく。
「…………」
さすがの克己もいい気がしなく、自分の席に座りながら、しばし苛立ちに身を任せていた。