第四話
放課後。
帰り支度をすませた克己は、創立祭の準備に忙殺されている紫苑に、今日は一緒に帰れるのかと声をかける。
しかし、来週にせまった創立祭にさいして、準備も佳境にはいっているのか、紫苑は克己の申し出に対して、すまなそうにしながら断りの言葉をいれた。
「すみませんね。もうあと2日もすれば山場も越えられると思うのですが、それまではどうしようもありません。本当にすみません」
「いや、なに。君が謝る必要なんて微塵もないよ。今日は一日、あの痴女が私の周りをつきまとって、紫苑くんにも迷惑をかけたからね。なにか埋め合わせでもしたいと思っただけさ」
迷惑をかけた侘びは、後日ヒマができたときにと約束をして、克己は教科書をつめこんだバックを肩に背負う。そして立ち上がろうとした、その矢先、
「会長、創立祭のことで質問が……げ、新城……あんた、まだいたの?」
紫苑のもとに相談にきた学級委員長―――雁金茶織が、克己の姿を見て不快感をあらわにした。その反応は、克己にとっては慣れっこのものだったので、何もいわずに立ち上がり、紫苑に声をかけてから、教室をあとする。
学校のいたるところでは、創立祭の準備に向けて活動をしている生徒達の姿があった。
克己は、クラスから隔離されるようにして、自分に割り振られた仕事をすでに完了しているので、こうして帰宅することができる。しかし、他の生徒達は創立祭の準備に忙殺されているのだろう。学校のいたるところで、創立祭に向けて準備をしている生徒の姿が見て取れた。
―――紫苑くんが生徒会長になってから、こうした行事が盛り上がるようになってきたようだね。学校側に予算をださせるため、来年度入学生を獲得するための、新入生説明会を兼ねて創立祭を開催するというのが、なんとも紫苑くんらしいやり方だ。
つい最近まで幽斐高校の学校行事は、まるで活気がなかったと聞く。それをここまで変えたのだから、やはり紫苑は稀代の生徒会長であり、有能な女性だなと克己は思った。
「――――」
創立祭一色といった学校の風景を横目に、克己は中央昇降口を通って外にでた。
グラウンドにも部活動の生徒にまじって、創立祭の準備をしている生徒の姿が見て取れる。なんというか、学校全体が一つにまとまっているような一体感。
生徒一人の一人の思惑は違えど、創立祭を楽しみにしているという点では皆同じといった、ちょっと考えられないような一体感がそこにある。
そこに加われないのは、やはり残念ではあるが、嫌われ者の自分がいれば、周りの皆が気味がるのも事実だ。
克己は、なんだか胸にわだかまるモヤモヤとしたものを吹っ切るようにして、一歩前へと歩き出した。こんな思いを感じたということに自分ながら嫌気がさし、とっとと帰宅しようと歩を進めた。
二歩目でこけた。
いや、正確には転ばされた。いつのまにか現れたのか、克己の目の前には規格外の女、美里の姿がある。その美里のローキックが、ものの見事に克己の右腿へ直撃。クリティカルヒット。克己は悶絶しながら、地べたと熱い抱擁を演出した。
「き、君! いきなりすぎるのは君の芸風かね。もう少し脈絡というものをだね!?」
「しょうがないではないか。お前が人の話を聞かずに行ってしまいそうだったのだから、止めるにはこれしかなかったのだ。許せ」
「君には言語というものが備わっていないのかね? 口で止めればいいだろ口で!」
「口? そうか。そういうのが趣味なのか」
言うと美里はおもむろに歩き出し、克己へと接近。
そのまま舌をだすと、克己の頬を下から上へと舐めた。粘着質に彩られたいやらしい唾液音が響いた。
「――――!?」
ゾクゾクと震える身体。
横紋筋とそれを覆う粘膜の感触。舐められた顔から、全身へと流れる快感。
なんだか目の前の美里に逆らえないというか、逆らいたくないという欲求が、自分の意思に関わらずにまき起った。
「な!? な!?」
「ほお、本当だ。こうもあっさり止まってくれるとは、これからはカツミを呼び止める時にはこうしよう」
「呼び止めようとしているのならばその字面どおりに言葉をもって呼び止めたまえ! まったく、なんという痴女。なんという不道徳。君の頭の中はどうなっているのかね!?」
興奮する克己を美里は「まあまあ」と言って嗜める。さらには、ぽん、とばかりに肩を叩かれると、さすがの克己もブチ切れそうになった。
「それでなんなのかね? 私にここまでまとわり付く理由は……今日は一日中私につきまとい、あまつさえ今もこうしてストーカー活動に勤しんでいる理由はなんなのかね。好きだの惚れただのという戯言は抜きにして、正直なところを話してほしいのだが?」
「……ふむ、そうだな」
「どうしたのかね! 私につきまとう理由があるのならば、とっとと言いたまえ!」
「そう怒鳴るなよ、うるさいなぁ……まあその、なんだ……歩こう。うん、まずは歩こう」
「…………」
珍しく無言で従う克己をとともに、2人は歩き始める。
部活動が行われているグラウンドを横目に、美里と克己は校門を出る。そして、急勾配の下り坂を2人は歩き始めた。
そこは中央に車道があり、その両隣が歩道となっているというありふれた道路である。どこかで工事でもしているのか、大型トラックの交通量が多くて、2人は安全のために歩道を歩いていく。
そんな駅までの通学路をひたすらに消化していく最中―――今まで耐えていた克己が我慢できないとばかりに口を開いた。
「君、よもやとは思うがこの沈黙時間は時間稼ぎか何かなのかね? 何も理由などないと……私にまとわり付いている理由を、今になって考えているのではないだろうね?」
「…………」
「図星かね! まったく君という女性は……まったく……まったくまったくだよ!」
わけのわからない言葉を吐きながら、克己は今回ばかりはと歩くスピードを速めた。途端、美里との距離があき、そのまま離れ続ける。
「ちょ、ちょっと待て」
「待たない待てない付き合いきれない。今度という今度は我慢できない。帰らせてもらうよ私は!」
必死に追いすがろうとしてくる美里を振り払うかのように、克己はさらに歩を進めていく。意識を遮断してひたすらに脚を動かし続ける。
克己は、美里が急に自分に接近してきたのは、何か理由があるのではないかと考えていた。だからこそ今まで、美里の過剰なスキンシップにも耐えしのんできたのだ。しかし、それがまったくの理由なし―――ただ単にまとわりついていただけなのだという。
おそらく美里の行動は、暇つぶしか何かの類なのだろうと、克己は予測する。今までにも何度かこういうことがあった。自分のことをからかいにくる連中……そんな輩に不快感を感じ、何度、実力行使で追い払おうと思ったことか……
―――まあもっとも、こちらが何をするまでもなく、私に関わってきた者は全員、なんらかの災厄にあって姿を現さなくなってはいたのだが……。
克己は、意識を遮断しながら、徐々に自分の内心にだけ沈潜していく。いつものように物思いに沈みこんで、完全に美里の存在を脳裏から排斥しようと企てる。あのような化け物じみた存在感を打ち消すためには、それ相応の思考で頭を一杯にしなくてはならず、克己は必然的に今朝の―――あの事件のことについて考え始めた。もちろんそれは、あの時の自分の行動は、はたして正しかったのかどうかという点検作業に終始し、救助した少女―――美里のことなど考える前から忘却している。
それでも、克己は今朝の事件のことについて考えた。頭の中で、あの時の出来事がすべて鮮明に思い出されていく。それは、克己としても認識を改めざるを得ないような出来事だった。克己の内心にはしだいに、驚きの感情が募っていく。
―――しかし今日の朝は驚いた。まさかプラットホームから人が落ちるとは……やはりどんな可能性の低いことでも、有り得ないということは有り得ないと―――何事にも準備を怠ってはいけないと、そういうことか。ふむ、それにしてもあの時の電車の轟音といったらなかったね。警笛が鳴り響いて耳がつんざくような感じだった。ブーブーと身体の底が震えるような轟音、そうそうこんな感じで……、
「え?」
克己は思わず後ろを向く。けたたましいようなブレーキ音。さらには天を衝くようなクラクションの響き。それらを発しているのは、急停車をもくろむ白の乗用車だ。猛スピードで車道を走っていた車が急ブレーキを踏む―――
―――その原因は、いきなり車道にとびだした美里だった―――
「―――は?」
時間が止まる。
色までなくした世界。
車が迫る。
バランスを崩したのか避ける余裕すらない美里。
間に合わない。
ブレーキは間に合わない。
減速は意味をなさない。
衝突する。
それが意味するのは死だ。
車に轢かれれば死んでしまう。
そんなことは当たり前の話。
激突。
衝突。
百合の花を連想した。
刹那―――
――――車がそのまま、通過した。
●●●
「だ、大丈夫かね君!! ケガは!? ケガはないかね!?」
美里の体を抱きしめながら克己は問いかけた。またもやとっさの行動。間一髪のところで美里のことを助けることに成功していた。あと一歩。あと一瞬でも遅れていれば間違いなく美里の命はここにはなかった。生と死の狭間―――それがまたしても日常に具現化する。その薄ら寒さに、克己は動揺を隠せなかった。
急ブレーキをかけた車はスリップしながらも停止し、運転手が窓から顔を覗かして「気をつけろ!!」と怒鳴っただけでどこかへと行ってしまった。運転手に過失はないとはいえ、人を殺しそうになったというのにその態度はどうなのだと克己は思うが、そんなことよりも今は美里のことが心配だ。
今だに動きを見せない美里。その顔は俯いており表情が見えない。どこかにケガを負ったのかと克己は思い、さらに声をかけようとする。しかしそれよりも早く美里が、
「――――そうだ、今、思い出した」
唐突に美里が呟く。合点がいったという表情をもって、美里は思い出していた。さきほどの出来事と、うり二つの経験をしたことを。今朝、今と同じようなことを自分はすでに経験していたということを。
「ど、どうしたのだね。どこかケガでもしたのかね?」
克己の問いかけに美里はゆっくりと首を横に振る。それとともに口からでるのは―――
「―――私は今日の朝も、誰かに背中を押されて線路に落下したんだった」
●●●
シャッター商店街と化した駅前にあるファミリーレストラン。
その中のワンボックス―――二人がけの席に座っている克己と美里が、さきほどから何やら話しを続けていた。
それは主に美里から克己へと話しかけられており、ようやく今、その説明が終わった。
そして、克己はそれまでの話しを要約する形で口を開いた。
「なるほど……つまりは今日の朝、君は何者かに背中を押されて線路内に落下したと……そしてさきほども同じように背中を押され、あわよく車と衝突しそうになったと、つまりはそういうことかね」
「そのとおりだ。どうやら私は、何者かに命を狙われているらしい……」
若干ではあるが俯き加減で、不安そうな感情がのっている瞳。
強がってはいるが、心のどこかに弱気があるのは一目瞭然で、その様子は普段の美里とは比べようにもならないほどに大人しい。
しかし、それも無理からぬことだと、克己は思った。
――――命を狙われるなど、いくらこのドラゴンボールマニア&痴女でも堪えるものがあるのだろう。心身にかかる重圧は並大抵のものではあるまい。
美里が常識外の力を持っているとしても、一介の女子高生だということには変わりない。花もうらやむような十代半ばの女の子が命を狙われた。それで、なんとも思わないわけがないだろう。そう思った克己は、柄にもなく相手を安心させようと、気遣いをみせる感情をもって、再度問いかけた。
「それで? 何か心あたりはないのかね。人から恨まれるようなアレコレについて……何か身に覚えはないかね?」
「うーむ……」
「どんな事情かは知らないが、君のことを殺そうと画策したことは事実なのだ。そこまでの行為にでるとなると、それは並大抵の恨みではないだろう。ならば、なにか最近、君のまわりに変化が生じていると思うのだが」
「ふむ、そうだな……」
手を顎にやり、考え込む美里。しかしながら普段、考えるという前に拳がでるような女が、頭の中を旋回する言葉の渦に耐えることなど不可能で、美里は開始10秒をまって思考を諦めた。
「……な、殴りたい」
「君! 君! いったいどういった思考を経ればその言葉に辿り着くのだね!? もう少し脈絡というものをだね!」
自分を棚にあげて叫ぶ克己。
そんな拡声器に美里は「まあ、冗談はこれくらいにして」という虚偽の前置きとともに、
「しかし、やはり私が恨まれるなどという覚えはないぞ」
「まあ、それが普通だろうね」
「ああ。先日も、悪質にも携帯電話によるイジめがはびこっていたウチのクラスの連中を無差別に殴り倒してまわってみたりと、私は善行をつんでいるからな。人から慕われることはあっても、恨まれることなど……」
「ちょ、待ちたまえ君! それのどこらへんが善行だというのだね君は!?」
「ん? ああ安心しろ。ウチのクラスのイジめは抑止効果でなくなった。無差別といってもそこらへんは考えてやっているのだ。それに主犯格の人物をクラスの連中を脅して突き止め、二度と悪さしないようにしといたからな、もう安心だぞ」
「そういう問題ではない! というか君は他にもそんなことをしているのかね!?」
「そうだが……どうしたカツミ。何か問題でもあるのか?」
キョトンと首を傾げる美里。それを見るに克己は言葉を失った。
自分のしてきたことに気づいていない。その残虐性をしりめにそれが善行などと形容するのはどこの文化だと克己は憤慨する。二次元ラブな人間はやはり常識など持ち合わせておらず、だからこその電波かと、克己は美里のことを信じられないものを見るような目で見つめていた。
「……なるほど、つまり君を恨む人間など掃いて捨てるほどいると、つまりはそういうことかね? 怨恨の線から犯人を突き詰めることなど無理だと。フン、つまりなんの手かがりもないというわけだ」
いよいよ楽しくなってきたと、克己は自虐する。目の前の女のせいで今いち緊迫感に欠けるが、しかし事態が急を要しているのは確かである。現実として、美里は命を狙われているのであるから、その対策を練るのは急務なはずだ。
――――少々面倒だが、仕方あるまい。
克己は覚悟を決めていた。これから先、面倒に巻き込まれる覚悟を。そしてそれを宣言するかのように、克己は美里に対して口を開いた。
「仕方ない。これから先、君と行動をともにし、犯人が接触してきたところを取り押さえよう。なんの情報も入ってこないのだ、そうするしかないだろうね」
「な? ……それでいいのかカっちゃん」
「それでいいのかとはどういう意味かね? 他に何かいい策でもあるのであれば、聞かせてもらいたいが?」
「いや、そういうことではなくてだな……」
美里はどうしたものかと言葉を濁す。それを見て克己は、自分は何か変なことを言っただろうかと疑問の表情を浮かべるだけだった。
その態度は虚偽などではなく、自分の行動がどれだけ特異なものなのか本気で分かっていない表情である。
命を狙われている女―――それも見ず知らずのといってもよい女性を、克己は自ら危険をおかしてまで護衛しようというのだ。
それが異常でなくてなんであろう―――美里はそう思うのであるが、しかしそんなことにも克己は気づかない。自分の言動の何がおかしかったのだろうかと、疑問を顔に浮かべているだけである。その男の様子を見るに美里は「なるほど」と一言いれてから、
「お前は根っからの善人だというわけか。よもや私のために行動を起こしてくれるとは思っていなかったぞ。ふふふ、やはり私はお前のことが好きだ」
満面の笑みである。そこには一つのクラスをどん底にまで陥れた強面の表情はなかった。雄の脳髄をトロけさせるような笑顔を克己に向け、信頼しきった様子を見せる美里。それに対する克己の言葉は、やはり空気を読んでなかった。
「何を言うかと思えば……人が困っているのであれば助けるのが当然だろう。それに私は君という個性を助けるのではなく、一人の人間を助けるのだよ。そこに感謝される覚えはないと思うがね?」
「ふふふ、このツンデレめ」
「ちょ、待ちたまえ君。その形容で私のことを呼ぶのはやめてくれないかね。第一、何が悲しくて男のツンデレなどこの地球上に存在しなくてはならないのだね。そういうのは女である君の役割だろう!?」
「ん? その言葉は少し問題があるのではないか? ツンデレが女性の専売特許などというのは時代錯誤もはなはだしいことだろう」
どうだと言わんばかりに堂々(どうどう)と美里は言う。それに対する克己は多大なショックを受けたようである。ガーンとばかりに口を開け放ち、目は驚愕に揺れた。
「そ、その通りだ。ツンデレとは女性のものだという考えはまさしく思考停止だ。飼い犬だ。奴隷だ。内省もクソもない。なんたる無様。え? 新城克己。どうするかね、この無様さ、どうすれば、って、ぶぎゃおお!?」
スイッチ入った克己のテンプルに美里が一撃をお見舞いする。その程度では気絶も何もしない克己ではあるが、ここが公共の場であると思い至るぐらいには思考を回復させたようだ。
迷惑そうにこちらを見てくる周囲の客に対して「申し訳ない」と謝る克己。そして何事もなかったかのように席に戻り、美里に対して、
「まあ、なんだね。とにかく君の安全が確保されるまで、よろしく頼むよ」
「ああ、こちらこそだ。頼りにしているぞ」
自然な流れで握手。
ここに幽斐高校を震撼させる奇行コンビが結成された。