第二話
あたりには爆煙がたちこめ、まるでそこは爆撃のあった戦場のようなありさまだった。
あまりの破壊のあとに駅の構内は騒然とし、チリでできた煙幕が視界を遮り、パラパラと上から下へアスファルトの欠片が舞っていた。
「―――――」
その煙の中にあって、美里は虚脱感を得ながらも悠然と佇んでいた。
さきほどの機動力は、美里が今まで目指し、しかし実現できないでいた動きに近かった。体内の力を溜め、一挙に放出する。これまでどんなに努力しても実現できなかったその動きを、さきほど、美里は行うことができた。
その力の使い方は、美里が目指すものの第一歩にすぎないのであろう。そんなことができたとしても、美里の目標である「カメハメ波を放つ」ということにはほど遠いのかもしれない。しかし、美里としてみれば、さきほどの動きは感涙に咽ぶほどの意義があった。何はともあれ、今まででは考えられないような力を放つことができた。そのことをただ思いながら、美里は立ちつくしていた。内心には、隠しきれないような歓喜があった。
―――できた。私はできたのだ。
目が涙に潤む。そして美里は、その両目からとめどなく涙を流し始めた。
盲目的に自らの未来を信じ、現在の努力を信じて突き進んできた美里ではあったが、しかし苦悩や悩みがなかったわけではない。
自分は悟空の領域には至れないのではないか。 自分のやっていることはまったくの無駄で、そこらへんに転がっているような現実を見ようともしない軟弱者と同じなのではないか。 そんな思いがいつもとめどなく美里の心に溢れてきて、そして彼女の心を乱していた。何度も何度も、こんなことはやめてやるとそう思い、しかしそれを実行には移さなかった美里。彼女は信じていたのだ。自らの未来と努力とを。
信じる心。あまりには歯の浮くような言葉だが、しかしそれがなければ至ることはできない。今ここに美里の努力は実り結果へと至った。その達成感に身を震わせながら、美里は歓喜にむせび泣く。
―――思えばあの男のおかげで私は至れたのかもしれないな。
そんなことを思う美里は、さきほど抹殺した男に感謝にも似た感情を抱いていた。奴に対する怒りの感情がなければ、自分はあのような動きをできなかったのであろう。目には涙を溜めて、さきほどの自分の動きを導いた要因について、思いをめぐらせる。
気にくわないことがあれば暴力を行使し、周りの人間を力で従わせてきた美里にとって、克己のように自分に反抗してくる人間は希有な存在なのだ。そんな克己の存在があったからこそ自分は至ることができた―――そう実感した美里は、胸の中に何かそれまで感じたことのない思いが生まれているのを感じていた。
まるでそいつのことを考えると、胸がドキドキとしてソワソワした感じがする。
妙に落ちつかなく、喉の奥がキュンと冷えるような感触を美里は得ていた。
まるで熱に浮かされてしまったような、臓物が燃えるかのような体温の上昇。そのことを認識するに美里は、人を睨みつけるような眼光をやわらげた。
――――な、なんなのだこれは。
自分の中に生まれた感情に困惑する美里。心臓が訳も分からず脈打ち、初めて感じる胸のときめきにただ戸惑うしかない。
若干、頬さえも赤らんでおり、そこには年相応の女子高生がいるだけのようにも思えた。何がなんだか分からない美里は、自分のその変調を作ったのであろう男が吹き飛んでいった方向を見てみる。
今だに煙幕じみたホコリが浮かんでいるせいで、何も見えない前方。しかし美里は次の瞬間、自分の目の前に信じがたい現象が現れるのを感じた。
「―――な!?」
その原因は、煙幕の中に浮かび上がった一つのシルエットにあった。無数のチリとホコリをもって視界が遮られている中、美里の目の前には信じられないような光景が展開されている。
絶句を通り越して美里の顔から表情が消える。
それとともに、さきほどまで内心を漂っていた感情が綺麗になくなってしまったのを感じた。何よりもまずその光景が信じられず、美里はその場に固まったようにして動きを止めている。
―――まさか、そんなはずはない。そんなはずは……
狼狽を隠せない様子の美里。しかし、その予想はあたっていた。それは美里にとって、屈辱以外の何物でもなかった。
美里の目の前。そこに現れた人物は、アドレナリンの過剰分泌でハイテンションになりながら、美里に対して―――
「君! 君! まったく、これぐらいで私のことを屈服させようなだのと、随分と虫のいい話しのように聞こえるのだがね。私の精神を暴力に屈服させたくば、この10倍はもってきてもらわなくては困るよ」
不敵な笑みを見せながら姿を現した新城克己。
その身体の所々に擦過傷から来る血液の流失が見て取れる。全身の中で打撲を負っていない部位は一つもなく、そのいでたちは満身創痍という言葉がかすむくらいだ。
それでも克己は、颯爽と美里のほうへと歩いていく。
小さな身長に、目の下のクマ―――憔悴した様子をそのままに克己は、こんな負傷などまったく問題にならないとうそぶくようにして美里に近づいていった。
「…………」
美里は無言。そしてゆっくりとこちらに向かってくる克己に対して動きを見せた。
歩く。
それも前へと―――克己の方向へと、夢遊病患者のような足取りでフラフラと前に歩を進める。
目の前にある克己の顔、姿、そしてその精神性。それらをしっかりと認識しながら、美里は静かに、力を溜めるようにして思った。
――――さらなる暴力を……目の前のこいつをめちゃくちゃにしてやりたい。この男を自分に服従させたい。自分の膝元に這い蹲らせて、こいつの精神を陥れたい。
そんな、今までに感じたこともない感情を抱きながら、美里は克己との距離をゆっくりとつめていく。その感情がなぜ生まれたのかなど、修行に明け暮れていた美里には理解することができるはずもなかった。
そして美里は克己の目の前へと至った。
至近距離で2人は止まり、互いに互いの顔を見つめた。消耗している様子を見せながらも、目には今だに力を宿している克己と、それを静かに、なんの感情も介在していないような冷たい瞳で見据える美里。その対峙の中で、2人の間に一瞬だけ間が生まれる。
「なんだね君。また私に暴力を? はははは無駄だよやめておきたまえ」
まるで勝ち誇ったような克己の言葉。
それを受けるに美里は動きを見せた。
言葉はなく、静かに―――美里はいきなり克己の小指をつかむと、それを力任せに握りしめた。
「なあああ!?」
指に生じた激痛に心の底からの絶叫。突如として握られた克己の小指には、万力とでもいうべき力がこめられていた。そして、それはしだいに力を増していき、ゆっくりと骨折の末路をたどっていく……。
「ああぁあああ!!」
「どうだ? これでもまだ私に反抗できるのか?」
叫び声をあげ、今にも泣きだしてしまいそうになっている男にむかって、美里は言葉をむける。その間も美里は克己の小指を離そうとはせず、克己の小指はギリギリと折り曲げられていった。
「あがぁああぁあががあ!!」
克己は決して無痛症というわけではない。暴力に対する免疫が、彼を精神の屈服から守っているにすぎないのである。
指を折られれば痛い。当たり前の話しだ。神経の通っている人間の指を折るというのは、それだけで簡易な拷問と化す。普通人なら泣き叫びながら許しを乞い、命乞いを始めるのが当然の状況である。しかし―――
「は、はは、はははは無駄…………無駄……だよ君。私にそれは通用しない」
「――――」
痛みに身を焦がしながら、しかし克己は美里に屈服することはなかった。
痛みを痛みと感じながらそれに耐える男。それを目撃するに至って、美里は自分の心に宿っている感情を理解する。それは、これまで自分がまったく抱くことのなかった感情だった。
軟弱で下劣で誰かに頼ることしかしない周りの人間を、美里は少なからず軽蔑していた。しかし今、目の前の男にはその感情は生まれてこない。むしろその逆―――そしてその先もまたしかり。
胸の鼓動はさきほどから冗談のように速まり、美里は克己の冴えない顔を見るにつけ、その鼓動がさらに早まるのを感じていた。
頬が赤らむのを抑えられない。心臓の躍動は間違いなく相手に伝わっている。まるで身体が宙に浮かんでしまったかのような浮遊感が全身を包み込んでおり、それは目の前の男を見るにさらに募った。身体が強制的にほてっていく。それを押さえつけることなど、できるはずもなかった。
そんな思いを美里が感じているとは知らずに、克己は指に走る激痛に耐えながらも言葉を放った。それはいつもどおりに―――一人きりで。
「ははは……その指の骨を折るというのなら、とある小説を読んだ時にすでに経験したさ。自分の指をボキボキと折ってね。だから小指を折られても私は別になんともない。残念だっ……って、なんなのだ私は? こんなことを話して。自慢? こんなに私はすごいことをやっていて人とは違う私は特別なのだと、つまりはそういうことを主張したいのか……」
克己はまたしても自分のことを責め始める。
周りの状況が目に入っていないかのように、自分の内心にだけ沈潜し、過剰なまでに自分の行動に批評を積み重ねていく。
「――――」
美里は、そんな男の姿を見て、当初とは違った思いを抱いていた。そして眉をさげる。いつもは強情に目をつりあげて、怒っている表情を絶やさない美里だったが、今の克己の姿を見るにつけ、またしても自分の中に、今まででは考えられない感情が生まれるのを感じていた。
可哀想に、と。
何故こいつは、こんなにも生きることに不器用なのだろう、と。
考えてもしょうがないことで目の前の男は悩んでいる。答えなんてでない、考えるだけ無駄。普通であるならばそう考えて思考を止め、安穏とした日常に戻るだけなのだろうが、しかしこいつはその道を選ばない。それはなんて不器用で、捻れ曲がっていて、それでいて純粋な男なのだろう。
―――新城……克己といったか、こいつは。
他人に興味など持ったこともない美里が、目の前にいる人間の心を理解してやりたいという思いに駆られていた。こいつの苦しみを少しでもやわらげてやりたい。こいつの重荷を一緒に背負ってやりたい。しかしそんなことを言っても、おそらくこの男は拒否するだけだろうと、美里は眉を下げて思った。
『自分の悩みは自分だけのもので、私は別に助けてもらいたいなどと思っているわけではない。そんないつの日か誰かが自分のことを救ってくれるなどというシンデレラ思考は、実に唾棄すべき愚考であるから、とにもかくにもそんなことはやめてもらいたい、反吐が出る』
そんなことを言って、おそらく自分の行動を拒絶するのだろうと美里は予想をつける。しかしそう理解していても、美里は尚も克己に、少しでも安らぎをあたえてやりたいと、そう思っていた。
―――そうだ。これは、こいつのために行う行動ではない。これはつまり自分のために……鵜飼美里が行いたい行動にすぎないのだ。
そう考えた美里は吹っ切れた。
顔には晴れ晴れとした表情を浮かべて、目の前の男の姿を幸福そうな表情で見つめた。
美里は、内心で自分本位な覚悟を決めたのだった。その思いつきは実にすばらしいものだと思った。だから実行に移そうとそう思う。嬉しさが笑顔になった。そのまま言葉にもなった。
「ふふふふふ」
「……君、ひょっとして唐突にも頭のネジが」
克己の言葉は美里の耳には届かない。
幸福に満ちた優しい心地の中で、美里は克己の唇に狙いをつける。これは攻撃だと思った。悩殺してくれるわ! と決意を新たにした。意を決して、美里は克己の両肩をつかみ―――
「ふふふふ、新城克己。お前は面白い。だから好きになった。それでいいだろう?」
「……やはり重症か。よろしい、ならばよい病院を、ムグ!?」
疾風怒濤。美里と克己の唇と唇が重なり合う。
接吻―――一瞬にして、美里が克己の唇を貪り喰らった。
がしりとマウストゥーマウスが決まる。半ば力をもって押しつけるような口づけ。克己はそれに抵抗する事ができないまま、美里のなすがままにされた。顔面を美里の両手で包み込まれ、強制的な口づけが克己の唇を吸いつくした。
「プハア……ふふふ、どうだ新城克己。少しは何も考えることなく頭を真っ白にすることができたか?」
「な、なななな、なななな何をしているんだね君! 婦女子ともあろう者が公衆の面前で? ムグ!?」
またしても美里が克己の唇を奪う。2人の唇が激しさをもって接着する。美里が克己の唇をついばむ音が、朝のプラットホームに響いた。そして、それはさらに過激さを増していく……。
「ちゅ……ン……んちゅ…ぅ……ちゅ…んん」
「ひゃ、ひゃめえええ……」
舌を絡まされた瞬間、克己の身体は死後硬直のように固まった。舌を通じて脳を溶かされてしまっているようで、悲鳴にも似たあえぎ声が克己の口から漏れだす。
「……ひゃめひゃうぅぅ……ん………ン、あ……んん……」
美里の甘い体臭を嗅いだ克己の体からガクっと力が抜ける。快感で全身がビーンと痺れて、克己は動けなくなる。
その脳幹を溶かすような吐息と芳香を感じながら、克己の触感のすべては、美里の柔らかい軟体物に捕らわれてしまっていた。
「……んンンン……ひゃフぅぅ…………」
あえぎ声は段々と収まり、克己は従順な奴隷のように美里の唇を甘受し始める。
まるで食事のような光景。エサとなった克己を貪り喰うように―――というか、事実、捕食活動にしか見えないような過激さで、美里は克己の唇を堪能する。
なすがままにされ目の焦点が合わなくなっていく克己。
その快感に酔っている男の姿を見た美里は、嗜虐的な笑顔を浮かべ、さらなる過激さをもって克己の口内を犯していく。
ちゅ、ちゅ、という互いの唾液を交換する音が周りに響きわたり、そこの空間だけにスポットライトが当てられているかのようだった。
―――そして何分が経過しただろう。
美里はようやく満足したのか、克己の唇から自らのソレを離す。その瞬間、息をとめていた克己は、プハアというように空気を吸った。
「ハア……はあ、ん……ハア、ハア」
美里と克己の口と口は唾液の橋で繋がれており、さきほどまで行われていた美里の口づけがどんなに激しいものだったのかを教えてくれる。
快感によって、頭の奥のほうやら腰やら膝やらが無脊椎動物のようにグニャグニャになってしまった哀れな男の図。解放された克己の身体は、力が抜けて自分では立っていられないようなありさまだった。
克己の目はうつろになって、トロけたような視線を美里に向けることしかできない。
今だに至近距離に美里の顔がある中、今、克己の脳内にあるのは、なんの思考でもなんの信念でもなく、ただ目の前に存在する美里の笑顔だけだった。
「ひ、ひどいじゃないか君。こんなの…………こんなのに免疫なんて……ない」
「じゃあ、これから免疫をつければいいじゃないか。私はお前のことが好きだ。私だったらいつでもどこでも構わないぞ?」
「ななななな何を言って、ムグ」
抵抗しようにもそんなことはできるはずもなく、2人は三回目の接吻へと移行する。
克己はその感触に酔いながら、何も考えることなくその行為に心を奪われていた。
そんな朝の光景―――
美里はいつまでも克己の唇を奪ったままだった。