第十七話
「こ、これは一体どういうことかね!?」
克己は、驚きのあまり大声で叫んでいた。
周り。そこには、ゴウゴウと燃えさかる炎がある。木造校舎のそこかしこに火の手がまわり、ドス黒い煙が校舎の中を覆いつくそうとしていた。
「地震でも起こったような爆発音で目が覚めたと思ったら、いつのまにかコレだ。いったいどういうことだ? というか、このような爆発&火災が生じるとしたら……」
火災の中で、克己は一瞬だけ考える。
そして、すぐさまある結論にたどり着いた。
「まさか、ついに家庭科室がガス爆発を起こしたのではないだろうな! いや、さきほどの爆発からして、そうとしか考えられない! なんてことだ! だから紫苑くんがあれほど、学校経営陣に家庭科室の改装工事を要請していたというのに……」
絶句。
しかし気落ちしているヒマもなく、近くでさらなる爆発音。火の手が近くにまで広がり、自分の体が炎によってあぶられる。まるでアユの塩焼きにでもなったみたいだなと、克己は現実逃避に思った。
「と、こうしてはいられない。この火災だ。はやく紫苑くんを探さなければなるまい。それにしても、いったい彼女はどこに行ったのかね。私が寝ている間に、姿を消したようだが、まだこの校舎の中にいるのだとしたら……マズいね」
体に伝わる熱気が、熱いというものから痛いという感覚に変わる。一歩歩くごとに息ができなくなるような高温が流れ込んでくる。
肺が焼ける。直接火にあたっていなくても、近くに炎があるだけで、人の体などすぐさま壊れてしまうのだということが、今になって分かった。
―――それでも、紫苑くんを探さなければ。
克己は、小学時代から付き合いのある幼馴染の姿を探そうと、歩みを進める。
その矢先―――
「ん? 誰か……いるのか?」
目の前。モクモクとあがる黒煙の中から浮かび上がったシルエット。
次の瞬間、その黒煙の中から、意中の人物が現れた。
炎を背景に、左腕をブラリと垂れさせた満身創痍の女性と、その人物に引きずられている気を失った女性の姿。
美里と紫苑。
傷だらけの2人の女性。その姿を見るに、克己はそれまでとは比べ物にならない驚きの声をあげた。
「な!? 何故、美里くんがここにいるのかね!? というか、紫苑くんは大丈夫なのか……気を失っているようだが」
「……話は…あとだ。今は……とにかくここから……脱出……」
「だ、大丈夫かね。君もそうとう重傷を負っているようだが」
「す、すまない……なんだかもう体に…力が……」
克己の姿を見て安心したのか、美里の体から力が抜け、フラリとゆらぐ。
そしてそのまま、卒倒したように倒れて……。
「大丈夫かね、美里くん!」
それを克己はしっかりと抱きとめた。
美里と紫苑の体を、床に倒れさせるわけにはいかないと、しっかりと抱きとめる。
人間二人の重量は、さすがに相当のものがあった。しかし、虫の息という美里と、息があるのかすら分からないほどの重傷を負っている紫苑の姿―――
―――それを見れば、奮起しないわけにはいかなかった。
「く……こういうとき、何か運動をしておけばと思うよ」
美里と紫苑の体を、それぞれ右肩と左肩で背負い、力をこめる。
そして、顔を真っ赤にして、克己は必死の形相で歩き始めた。2人の女性を引きずりながら、克己は炎の中を歩いていく。
「すま…ないな……カツミ……迷惑ばかり…かけて……」
「寝ていたまえ美里くん。舌をかむぞ」
「フフフ……こんな状況になってまで…ツンデレとは恐れいるな。惚れ直してしまいそうだ」
「こんな状況になってまでそんな冗談を言える君にこそ恐れ入るがね。それに、これくらいお茶の子さいさいだよ。私は校舎の中のどこに脱出シュートが備えつけられているかは熟知しているからね。ここからだと、廊下の突き当たりの回転式滑り台が一番近い……それまで、大人しくしているんだな」
「すま…ない……」
「…………」
克己はそれ以上返事をしなかった。
美里と紫苑を背負いながら、燃え盛る木造校舎の中を、克己は黙々と歩いていった。
●●●
静まりかえった一個の病室。
音という音が、すべて四方の壁に吸い込まれてしまったような無音。
消毒液の匂いが鼻につく病室の中で、白取紫苑は目を覚ました。
「……ここは……病院?」
辺りは暗闇で、窓から差し込む月明かりがかろうじて病室の内部を照らしている。
病院特有の薬品の匂いと、真新しいシーツの匂いがこびりついている部屋の中―――紫苑は自分の体がベットの上に横たえられているのに気がついた。
どういうことだろうかと、かけられている布団を押しのけ、上体を起こそうとする。しかし身体に力を入れたとたん、紫苑の体に激痛が走った。
それも特にアバラ骨ふきんが致命的な痛みを主張してきて、思わず紫苑はうめき声をあげながらうずくまった。
そして、理解する。今自分が何故このような状態でいるのか、なぜ自分が病院のベットで寝ているのか。
それを一瞬にして理解した紫苑は、最後の最後、家庭科室がガス爆発を起こし、自分の意識が爆発によって吹き飛んでからのおぼろげな記憶を思い出していた。
――――燃え上がる校舎の中……鵜飼美里に背負われて助けられたこと……。
彼女がいなかったら、今自分はどうなっていたのだろうか。それを考えるに紫苑は、ゾっとしたように背筋をこわばらせた。
まず間違いなく、死んでいただろう。校舎の中に取り残され、そして回る火の手に巻き込まれて焼死体になっていたことだろう。つまりそれは、
「敵わなかったということなんでしょう……私は鵜飼美里には勝てなかった」
勝てなかった。勝負に、勝てなかった。それが意味することは、あまりにも紫苑には残酷すぎた。
美里との戦闘が始まる前に取り決めておいた絶対遵守のルール―――戦闘で負けたほうは、二度と克己には近づかないというあまりにも残酷な結果。それを認識した瞬間、普段では考えられないような感情の渦が紫苑をとらえた。
いつもは無表情に冷めた表情をしている紫苑は、何故か自分の眉が下がり、そして頬が濡れ始めるのを感じた。
それとともに誰かが自分の体を乗っとって、自分の声帯を使って声を出しながら嗚咽するのを聞く。自分の体を乗っとった誰かは容赦なくカオをくしゃくしゃにして泣き崩れ、打ち寄せてくる感情の波になすすべもなく巻き込まれていった。
失いたくなかった……いや、失えるはずがない。そんな未来を考えることこそがまず不可能で……自分の隣には常に克己がいるはずで……それが叶わないなんてことがとにかく、自分にはまったく想像できない。
「……ッァァ! ……うぐふぅ…ぅぅ……」
紫苑は、ボロボロとおちる涙の中、顔を醜く汚くしながら、ただ克己のことを思っていた。
克己のことが、好きだった。それは多分という言葉がつくけれど、自分の中で何よりも確かな感情なのだろう。だからこそ今では、克己なしの生活を想像することなど不可能で、どうしようもない空虚感が、打ち震える紫苑の胸に溢れてくる。
と、そんなあまりにも普段とは異なる感情豊かな面を見せる紫苑は、次の瞬間、保健室に誰かが入ってくる音を聞いた。
それはドアを開くガラガラという音で、それだけでなく人間の足音と男女の話し声がついてきた。
それを紫苑はよく知っていた。聞き間違いようがない男の声と、今後忘れることはできないであろう女の声色―――それを聞くに紫苑は、さきほどまでの感情の高ぶりはどこへやら、涙の跡を腕でこすって消し、一瞬で無表情になると、すまし顔のままベットの上で、近づいてくる2人の人間を待った。
そして、意中の人物はすぐに暗闇の中から現れた。
「だから君は何故そんな無茶をしたのだと何度……って、おお、紫苑くん、意識が戻ったのかね」
隣を歩く美里に対して喋りかけていた克己は、ベットの上で意識を取り戻している紫苑に気が付くと、心底安堵した声色で言った。
そこにはなんの打算もなくて、克己が紫苑のことを心底心配していたということが分かる。
「…………」
その克己の存在を見るに、紫苑は自分の胸がドクンと一回、大きく脈打つのを感じた。
頬が赤らむのを必死に耐え、自律神経に鞭をうって心臓の鼓動が相手に伝わらないように努力する。それはいつものように成功し、紫苑は普段どおりの無表情で、
「ご心配おかけしました、新城くん。それに、こんな危険な目にあわせてしまって、本当にすみませんでした。猛省です」
「なあに、気にすることはないよ。まあ、何はともあれ無事でよかった」
「……いえ、まったく無事ではないんですがね……それで、鵜飼さん」
克己へのあいさつをそこそこに、紫苑は自分が向かい合わなくてはならない方向―――つまりは美里へと顔を向けた。
勝負における自分の負けを認め、そしてすべてを終わらせるために、紫苑はその気丈な目線を美里に対して向けて―――言った。
「鵜飼さん、今回はどうもありがとうございました。貴方がいなければ今頃私は死んでいたでしょうから……何はともあれお礼を言います」
「ん? 何を言ってるのだお前は」
「ですから、助かりましたということですよ。ガス爆発を起こし、火災が発生した家庭科室から助けていただき、どうもありがどうございました。恩にきます」
痛む身体に鞭を打って、微かに頭を下げながら感謝を述べる紫苑。しかし、相手から返ってきたのは不可解な返答だった。
「ああ、なんだそのことか。まあ気にするな。あんなもの当然だろう。まだ勝負はついていないのだから―――というか、私は負けそうになっていたのだからな。あのまま勝ち逃げなどさせないぞ」
「……はい?」
その美里の態度に何か理解しがたいものを見つけた紫苑は、怪訝そうに疑問の声をあげた。そしてそのまま、目の前の美里のことを凝視し始める。
美里の様子は普段と変わらないように思える。いや、身体は全身傷だらけで、左腕は包帯で吊るされているのだが、その様子は普段と同じものだった。
普通、絶対に負けられない勝負に勝ったら、もっと嬉しそうにするのではないだろうか。それが感情と筋肉組織とが直結している美里であるならば尚更のことである。どうもおかしい―――何か自分は勘違いをしているのではないか、そう紫苑は考え、そしてそれを確かめるようにして言葉を放った。
「鵜飼さん……あの勝負……結局、どうなったんですか?」
「はあ? 何を言ってるのだお前は」
怪訝そうな目線で紫苑のことを見つめる美里。
そして―――
「勝負なら、ガス爆発でお開きになってしまったではないか。だから今回はドロー、再戦はまた後日だ。ふふふ、覚悟しておけ紫苑、次にやるときには、お前のことを、犯されるよりもひどい目にあわせてやる」
「…………」
その言葉に紫苑は言葉を失う。絶句はそのまま表情となって現れる。
バカだバカだとは思っていたがここまでのバカだったのかと、改めて美里への評価をあらためる。
ようは美里は根っからの真直線人間で、曲がったことが大嫌いで、真っ向から相手を叩き潰さないと気がすまないらしい。つまり、最後まで気を失わなかったのが自分だというくらいでは、彼女は自分が勝利したとは評価できないのであろう。
それを認識するに紫苑は、自然と自分の口元がほころぶのを感じた。克己に対してすら普段は見せないような不敵な笑顔を、紫苑は美里に対して向け、
「貴方らしいといえば貴方らしいですね。いいでしょう。勝負はまた後日―――とりあえずケガを直すことが先決でしょうから」
「うむ、そうだな。十全なる形で戦いたいから、とにかくまずケガを直してからだ。その間は、お前も克己に対して変な力を使うなよ? 保留期間なんだから」
「ええ、いいでしょう。大サービスでそういうことにしておきます。但し―――」
「―――私以外の人間がカツミに近づいたら容赦なく叩き潰す……だろ? 最後まで言うな。もとより私もそのつもりだ。紫苑以外がカツミに近づくようなら容赦なく叩き潰す。それに関しては見解の一致だ」
それならば話は早いと、無表情に戻った紫苑は頷いてみせる。そしてそのまま、こくりと、共犯者同士で秘密を共有するかのような連帯感を2人は形成した。
「君達、一体、何を言ってるのかね? 剣呑ではない言葉が聞こえたのだが……」
蚊帳の外の克己は何がなんだか分からず、途方に暮れたように言った。
いきなり仲がよくなったような様子を見せる2人に、じゃっかんながら仲間はずれにされているような印象を受けた克己は、微妙な疎外感を感じていた。やはり何か嫌な予感が―――それも事態が悪化したような予感があるのだが……。
―――まあでも、仲がいいのはいいことだ。これでこれからは平和になるだろう。学校が壊されずに済んだわけだ。よしよし。
何も知らない克己は愚かにも安堵する。これから始まるのは単なる地獄―――戦場であるということに、克己は最後まで気付かなかった。
病室には、新城克己、鵜飼美里、白取紫苑の3人の姿が、月明かりに照らされて浮かび上がっている。
3人は、まるで長年連れ添った友人であるように、打ち解けた様子でいつまでも話し込んでいた。