第十五話
7日目(日曜日) AM8時30分
「死ねええええ!」
美里の右こぶしが、紫苑に向かって殺到する。
それは、芸術的なまでに無駄のない一撃だった。
これで避けられれば仕方がないという理想的な右ストレート。
「―――この程度ですか」
「―――な!?」
目の前。
美里の視界から、いきなり紫苑の姿が消えた。
右拳は空を切り、体勢は慣性によって左側へとずれる。
眼下。美里が視線をおとせば、そこには地に這うようにして、しゃがみこんでいる紫苑の姿があった。
―――回避しただと!?
驚愕の中で思う。
紫苑はまるで猫のような動きでしゃがみ、自分の一撃は回避された。
その動きは奇怪なものだった。
普通の格闘技とは異なるような、異色の動き。
リズミカルにステップを踏み、敵の攻撃を受けることはせずに、ただ愚直に避ける。
ダンスのような軽やかな動作……。
美里はその動きの正体を、驚きとともに口にだした。
「紫苑、お前、カポエラ使いか!?」
「……ご名答、といっておきましょうか。しかし、実戦では見ることのない格闘技を、よく一瞬で見破りましたね」
「いや、よく格ゲーでカポエラ使いいるしな……」
「…………」
「しかしカポエラか……どうでもいいんだがお前、サキュバスにくわえてカポエラ使いとかキャラがたちすぎじゃないか? もう少し自重したほうがいいと思うぞ」
「……キャラ立ちなんて関係ありませんよ。私はサキュバスですからね。昔からこの種族に対する迫害が数多く行われてきたんですよ、魔女狩りとかなんとかいって……それに、私達の能力は対異性にしか使えませんから、必然的になんらかの格闘技を取得しなければならなかったんです」
「ほー……まあ、能書きはいいぞ。重要なのは、お前がカポエラをうまく使いこなせるかということだしな!」
蹴り。
美里は、言葉の途中、予備動作なしでローキックを放った。
―――不意打ちだが、これでとったろう!
油断をさせておいての蹴り。型として必要なモーションをとっていないため、威力は低いがが、効果は抜群だろう。
カポエラの防御運動は、敵の攻撃を腕などで受けずに、ただ愚直に避け続けるところにある。ということは、紫苑は『避ける』という大きな動作を行うため、常に相手の身体の動静を読んでいなければならない。
それを無効化して放った、予備動作なしの蹴り。
避ける時間などあるわけもなく、直撃することは間違いないという一撃……。
「……甘いですね」
空振り。またしても、打撃が空振りを告げる。
体勢が一瞬だけ崩れる。
それは、致命的な隙だった。
なぜなら、頭上―――。
そこには、ローキックを軽やかなジャンプでかわし、さらには空中で一回転しようとする紫苑の姿が……。
―――しまった!
一回転。
前転のように、空中で縦回りにまわっていく紫苑の体。
その回転力を利用した、かかと落とし。
グルリと回ってきた紫苑の両脚―――そのかかとが、ものの見事に美里に直撃した。
「ぐううッッ!」
頭部に放たれたかかと落としを、美里はかろうじて防御することに成功する。
両腕を頭上でクロスさせ、脳天をカチ割ろうと向かってきた攻撃を腕で受ける。なんとか致命傷を避けることに成功した美里。
しかし、それもつかの間、次の瞬間、かかと落としを受けた美里の左腕から、ベギリと嫌な音が響いた。
「い、ぎいいいいィィっ!」
紫苑のかかと落としを受けた左腕。
その左腕を右手で押さえながら、美里は学校中に響くような悲鳴をあげた。
断末魔のような絶叫が、木造校舎に響き渡った。
「……すごい悲鳴ですね、鵜飼さん。まあ、感触からいって、確実にヒビの一本や二本は入ったのですから当然でしょうが」
「ぐう…ぎぎいいいい!」
「痛いでしょ? 苦しいでしょ? 貴方の態度しだいでは、これがまだまだ続くんですよ。許しを乞いても肉をえぐられ、地に頭をつけて命乞いをしても骨を砕かれる……」
「ふむううぅぅッ! ぐううう……!」
「それが嫌なら、ここで誓いをたててください。二度と新城くんには近づかないと、そう誓ってくれるならば……まあ、私も鬼ではありません。その腕と脚の骨を折って、当分のあいだ学校にこれないようにしておくぐらいで、勘弁してあげます」
どうするんですか、と紫苑は、苦悶に満ちた美里の表情をのぞき込む。
脂汗を浮かべた美里は、その紫苑の顔を睨みつけることしかできなかった。
痛みが全身を貫いている。
腕の骨一本にヒビがはいっただけだというのに、その痛みは尋常ではなかった。
―――く、くそ。腕の骨一本くらいで……。
左腕を押さえながら、内心で思う。
焼けるような痛み。内側から神経をガリガリと削られているような激痛。
腕の内部―――筋肉に守られている部分が破損するというのは、これほどまでに激痛が走るのかと驚くほどだ。
かいてもかいても痒みがとれないような心境。肌にいくら爪をたてても、かゆみが収まるはずがない。肌の向こう側―――腕の内部の異常に対して、人間はどうすることもできない。
ただひたすらに……なんの効果もないと分かったうえで、激痛のはしる左腕を押さえつけるしかなかった
「で、どうなんですか? 誓いをたてていただけるのでしょうか」
「…………」
「二者択一でお願いします。あと5秒以内に……」
「…………」
瞼には、我慢しきれずに涙が漏れ出してくる。
背中には、ベタベタとした脂汗。
顔は青白くなり、さきほどから喉の奥が冷たくなって、胃の中身が逆流5秒前。
自分は、目の前の女に対して、疑いようもなく恐怖を感じている。
一歩前へ踏み出すのが怖い。
このまま逃げ出してしまいたい。
どうしようもない恐怖感が、今にも体を震えさせそうで……。
「―――ふざけるなよ」
震える脚を一歩前へ。
左腕の痛みを無視して、紫苑の方向へと脚を踏み出す。
いぜんとして、自分の中には恐怖心が巣くっている。
それでも―――
いや、だからこそ。
だからこそ、譲れない一線が、自分の中に確かにあった。
「私を舐めるなよ貴様ああああ! 私はカツミのことが好きだ……愛してる! これくらのケガ、屁でもないわあああ!」
「…………」
「どりゃあああああ」
廊下。
一直線に伸びた木造のそこで、美里は目の前の紫苑に回し蹴りを放った。
左脚を軸に、右脚が空気を裂きながら半円を描く。
反動で、左腕にはさきほどまでの比ではない痛みが走るが、その痛みは完全無視。そのままその右脚を、紫苑の顔面にめりこませようと……。
「……かわいそうに」
回し蹴りのモーションの中、美里は紫苑の動きを感じとった。
敵の動き。そのリズミカルなステップ。
それまでと同じように、紫苑が選択したのは回避運動だった。
「―――な!?」
刹那、美里の視界から紫苑の姿が消えた。
瞬間、自分の放った回し蹴りが空を切ったのを感じる。
途端、背筋にゾクリと嫌な予感が走った。
余寒―――美里はその予感にすべてをかける。
選択したのは体が回転する右方向へ、力任せに身を任せるという行為だった。
無理矢理の回避運動。
その結果、美里は不恰好なままに地面に転倒した。
体勢も何もあったものではなく行われた回避運動は、それゆえに綺麗な着地など決まるわけもなく、美里は地面へと転がる。
―――それが、命運をわけた。
さきほどまで美里がいた空間に、紫苑の脚払いの技がかけられた。
美里の回し蹴りを避けて下にしゃがむと同時に、美里の軸足である左脚を狙って放たれた脚払い。それは空振りに終わっていたが、しかし―――
「―――言ってもダメなら、その体に直接教えてあげましょう」
紫苑は間髪入れずに攻撃を開始する。
地面スレスレ、平行感覚を保ったままで紫苑は回転をはじめる。
右脚をもって軸足となし、左脚をコンパスのようにして回す。
しかし、その左脚は完全に円を描ききる前に半円で止まるとすぐさまに着地。今度はその左脚を軸に回転を繰り出し、それを連続して放つ。
前へ前へ前へ。
たったの3歩、たったの3回転、それだけで紫苑は美里を間合いにとらえた。
そしてそのまま、紫苑は容赦なく行った。
壊転である。
今度こそは完全のコンパス。
それも連続で、左脚を軸足として固定し、地面スレスレを平行に回り続ける。
氷上を舞うスピンのように紫苑の体が一個の円となった。
―――回転回転回転回転壊転壊転壊転壊転壊転壊転――――
美しい幻想美。廊下上の空気を紫苑の蹴りが切り裂く。風圧が舞う。そしてそれが、美里へと迫っていく―――
「舐めるなああああああ!!」
しかし、それを鼻先に見た美里は、臆することなく高らかに吼えた。
美里が動く。
左腕にはいぜんとして焼けるような激痛。しかしここで引いては女がすたる。歯を食いしばり、痛みに耐えながら、美里は颯爽と行動を開始する。
その動きは、紫苑の防御運動とは正反対を行くものだった。
―――これぞまさしく特攻!
美里の選択。
それは、回転という加速を得て破壊力を増した紫苑の蹴りに、左腕を盾にして、そのまま体当たりをかますという暴挙だった。
紫苑の回転《メイア ルーア ジ コンパッソ》が美里の左腕に直撃する。
ベギリという圧壊音が響く。
そしてすぐさま、盾の役割をはたした美里の左腕に神経が削がれたかのような感触が広がった。
あまりの激痛に視界が歪む。
こらえきれない痛みが、自然と美里の涙腺から涙を落とした。
―――折れたなこれは…………だがそれもまた良し!
美里はアドレナリンを血液で暴走させながら状況を正確に読み取る。
肉を絶たせて骨を絶つ……勢いあまって自分の骨まで絶たれてしまったが、片手の犠牲で勝利を得たのだ。これくらい、実に安いものである。
「はははははははは!!」
楽しくてしょうがないといった笑顔を見せる美里。
目を大きく見開き、ニンマリと笑いながら、左腕を盾に使った戦果を見つめる。
目の前。
そこには、紫苑の回転が止まったという、一つの勝利があった。
地面すれすれで両手をつき、無防備に四つん這いになるようにして動きを止めている紫苑。
美里の特攻よろしくという体当たりが、紫苑の動きを止め、封殺し、そのまま動かせなくさせていた。
「―――な!?」
あまりの驚愕に紫苑の口から言葉がもれる。しかし何もかもが手遅れだ。美里はその紫苑の静止した体を見つめ、永遠にも似た刹那の静寂を待ってから―――
「死ねもしくはくたばれ」
蹴り。なんの技もない、ただ単純な、しかし腰と体重の効いた蹴り。
その全力の旋回が、四つん這いになった紫苑の腹に対して、ものの見事に直撃した。
「―――げグぼうぇぇッ!!」
叫び声すらあげられない。紫苑の体が逆『く』の字になる。
内臓が食道を通り、口内を飛び出て、地面に叩きつけられるのではないかという懸念。
しかしそれよりも何よりも、紫苑の体が吹き飛ぶのが先だった。
ゴロゴロと縦と横に回転を繰り返しながら、勢いよく紫苑の体は吹き飛んでいく。
廊下の途中にある机や椅子や黒板といった残骸にぶつかってもその勢いは止まらない。
残骸との衝突を繰り返す。
それでもスピードは落ちぬままに吹き飛び続け―――そして、廊下の突き当たりにある、いわくつきの家庭科室へとドアを破りながら転がり込んでいった。
ガシャンとそれまでとは異なる音が響いて、静寂が来る。
シーンとした木造校舎には、無音だけが残り、不気味な末期さを演出した。
「ヒャハハハハハハハッッ!」
静まり返った木造校舎に、狂ったような高笑いが響く。
アドレナリンを暴走させ、痛みと自意識を消し去った鬼女。
美里は、口元に笑みをたゆませながら、ゆっくりと家庭科室へと向かっていった。