第十二話
6日目(土曜日) PM16時20分
地面に垂れ流しにされていた車のオイルを踏んで、美里は盛大に転びそうになった。
地面をかみしめていた革靴がヌルリとばかりにすべり、体は横に流れ、車道に飛び出しそうになる。そしてきわめつけは、丁度よくこちらに走ってくる大型トラックだった。このまま完全に転んでしまえば、美里の命は確実にあの世行きという、絶望的な状況。
「―――ほら」
その体勢が崩れている美里を、克己は余裕の表情で助け起こす。
腕をつかんで、車道の方向へと転びそうになっている美里を救出する。一瞬の経過後、大型トラックは何事もなく目の前を通過していった。
「……おお、カツミ、助かったよ。またしても助けられたな」
「これで何度目になるから分からないがね? 昨日から数えて、軽く20回は今のような状況が続いているから、もう慣れっこだよ」
「そうだな……」
沈鬱に黙りこみ、美里はいつものような活発さを見せない。怯えきった様子で、目の前を通過していった大型トラックを目で追っている。
「……カツミ」
「なんだね?」
「……悪いんだが、少し、腕を貸してもらえないだろうか…………その……怖くて……」
「ああ」
「……ありがとう」
美里がすがりつくようにして腕に抱きついてくる。
まるで、その腕を放せば死んでしまうと信じているかのような切迫した様子。さすがにガクガクと震えていないが、抱きつかれた右腕には、確かに小さく美里が震えている様子を感じることができた。
瞳の下にはクマが浮かんでいるし、おそらく昨日は眠れていないのだろう。美里の表情からは、精神的にも肉体的にも消耗している様子が見てとれる。
―――まあ、仕方ないだろうね。
怯えながらも、気丈な様子を保とうと努力している美里を見て、克己はそう思う。今まで美里の身に起こってきたことを思うに、この程度ですんでいるのは逆にスゴイと、そう思わざるを得なかった。
美里殺害未遂事件の犯人である雁金茶織が拘束されてから24時間が経過していた。
昨日。茶織はあの後、幽斐高校特別風紀委員のもとに引き渡されていた。旧校舎の一角にある教室。そこに茶織は押し込められ、今では素直になる『教育』が施されているだろう。
基本的人権なにそれ?という方法でなされる矯正は、刑事施設とは比べようにならないほどの効果をもたらすこと受け合いであった。
とにもかくにも犯人は捕まった。もはやなんの憂いもなく、安全で平和な日常が戻ってきた。これでもう美里は命を狙われることはないだろう―――しかしその克己の予想は、すべて泡となって消えていた。
茶織の発言。
彼女は通勤列車激突未遂事件と自動車激突未遂事件には関与しているが、しかし植木鉢の一件は知らないという、それらは自分の仕業ではないという。
昨日、その発言を受けた直後の克己は「HAHAHAHA」と笑い、すべては茶織の戯言だと決めつけ、彼女を特別風紀委員のもとで尋問にかけていた。
その素直になれる薬ならば、なんの問題もなく植木鉢を落下させたのは自分だと自白するだろう、と。
しかし結果は克己の思い通りにはならなかった。茶織はただ泣き叫ぶだけで、植木鉢の一件を認めることはなかったのである。その素直になれる薬ならば、物理的に嘘をつくことはできないはずで、それはつまり彼女の言葉どおり、植木鉢の落下は茶織の仕業ではないということを示していた。
そして不可解なことに、美里の身に生じる危険はその後も続いていた。
さきほど大型トラックに轢かれそうになったというのも、その一つである。
しかもそれらは、人の意思が介在しないような、明らかに偶然だと言い切れるようなものばかりだった。
あの一件から24時間が経過した今の今まで、どう考えても偶然に起きたとしか言いようのない事故が、美里の周りに頻発する結果となっているのである。
――――最初は帰宅途中、突然に自動車が突っ込んできたのには驚いたね。
克己は昨日、一応という形で美里を家に送っていた時、突然として自動車が歩道を乗りあげて突っ込んできたのを思い出していた。
原因は運転手の飲酒運転。美里のことを殺そうと画策したわけでは断じてないその事故は、楽観が優勢であった克己に影を落とすことになった。
それからも、美里が階段から脚をもつれさせて落下しそうになったり、いきなり目の前に近所の飼い犬の土佐犬が出現したり、はたまた野球グラウンドから飛来した硬式ボールが美里の脳天を貫きそうになったりと、現在に至るまで、美里の身には命の危険があいも変わらずに頻発している。その一連の動きを評価するとするならば、それは、
――――美里くんに、致命的な不運が続いている、か……。
単なる、不運。運がないだけの、決して事件ではない所の―――事故。
だとするならば、2日前に起こった植木鉢の件も、学校側の言うように単なる事故なのかもしれない。
というかそもそも、植木鉢の件だけではなく、3日前から頻発している事件事故の類はすべて、美里に不運なる星のめぐり合わせが重なっているだけなのかもしれなかった。
そう考えるに克己は「これではどうしようもない」と嘆息した。
美里の身に危険が迫っていることは確かなのであるが、しかしそれには、『犯人』といった諸悪の根元は存在しないのである。よってその原因を除去することによって安全を確保することもできない。
これでは八方ふさがりである。
誰かの悪意が美里に対して向けられているのであればそれをなんとかすればいい。それを取り除けばいいだけの話しだ。
しかし今起こっているのは単なる不運なのだ。それをどうにかできるのは神様くらいのもので、自分にはどうすることもできない。さすがの克己も途方にくれていた。
「ほら、もう少しで私の家だ。頑張れ」
「あ、ああ」
腕に抱きついてくる美里を、なかば引きずるようにして、家まで歩いていく。
新城家の平屋の姿が視界に入るに、美里は「ホっ」と安堵の息をはいた。
そのまま美里をつれて、家の中に入っていく。
●●●
「美里くん、コーヒーでよかったかね? とにかく、温かいものでも飲んで、少し落ちつきたまえ」
「ああ、すまない」
居間のテーブルにコーヒーカップを置く。夏が間近で少々暑いが、恐怖に身がすくんでいる時には、温かい飲み物のほうがいいだろう……そう考えた克己は、自分もまたコーヒーを飲みながら、畳の上に座った。
「しかし、すまないな。こうしてまたお前の家に厄介になってしまって……」
「美里くんの家は共働きだからね? この時間ではまだ家にいないだろうから仕方ないだろう。家の中ではなぜか災厄はおこらないということだが、しかし、一人でいるのは怖いだろうからな。私達は別にかまわないよ。いつまでもいてくれて結構だ」
「……すまない」
「……君は、さきほどから謝ってばかりだね。なんというか、そういうの君には似合わないぞ」
ズズズっと、カップに入った液体をすする。
やはり、一連の出来事は相当に美里の精神をむしばんでいるのだろう。弱々しくて、大人しく座っているだけの美里を見て、克己は早急に手を打たないといけないと、そう考える。
今、できることといったらタカがしれているが、それでもできることはある。災厄の原因をなんとかすることはできなくとも、美里のそばにいて、彼女を身のまわりの危険から守ることは可能だ。
どんな些細なことであっても、自分にできることがあるのならば、それをするだけである。だから克己は、早々に、これからも美里のことを護衛することを心に決めていた。そこに迷いはなく、当然といった面持ちで、これからの対策を考える。
そんな克己に対して、美里はコーヒーをすすりながら、
「そういえば、貴子さんはどうしたのだ? さきほどから姿が見えないが……」
「ああ、今の時間ならば家にいるはずなのだが、どうやら買い物にでたようだね。まあ、すぐに戻ってくるだろう。それまでは、私もここにいるから、安心したまえ」
「……やはり、学校に行くのか?」
「ああ、紫苑くんの約束だしね。昨日、あそこまで緊迫した様子で、私に約束をとりつけてきたのだから、何か重要なことがあるのだろう。彼女には日頃から世話になっているからな。約束を破るわけにはいかないよ」
「そうか……」
なんだか、気落ちしたような美里。そこにはどこか、一人になることへの恐怖のようなものが混じっていた。少しだけ、体の震えが増したように思える。
「安心したまえよ。母上が帰ってくるまでは、学校には行かないから……それまでは君のそばにいよう。まあ、護衛を引き受けた以上は、当然のことなのだがね」
「―――その件なんだがな、カツミ」
「ん? なにかね」
タメ。
言いにくいというか、自分でもこの言葉は言いたくないという迷い。
オドオドと小鹿のような弱々しさ。
それでも美里は、意を決したように口を開いた。
「その……護衛の件なんだが……今日一杯で、その関係は解消しようと思うんだ。解消―――もうこれ以上、私の護衛などしなくてもいいぞ」
「な!? どういうことかねそれは!」
「どうもこうも言ったとおりの意味だ。これ以上、私の護衛をする必要は……」
「私の聞いているのは、何故そんなことを言うのかという理由だよ。いきなりどうしたんだね」
「それはだな……」
美里はモジモジと言葉を濁して、
「その、なんだ……もうお前に護衛してもらっても、あまり意味がないだろ。元から犯人をおびきだして捕まえるための護衛だったのだから、今となっては意味がない……だってほら、この一連の事件事故には確たる犯人などいないのだぞ?」
「…………」
「それに、今の私は不運が続いているだろ? だったら、いつなんどき、お前まで巻き込んでしまうかも分からない。今まで奇跡的な確率で、不運は私にだけ起こっているが、それがお前には起こらないという保証はないんだ。だから―――」
「……護衛の必要はないと、そう言うのかね?」
「そうだ……もう私は十分だ。ここまでしてくれただけで、もう十分。感謝してもしきれないくらいだよ」
不安そうな瞳。
無理に笑おうとしてひきつった笑顔。
無理矢理ひねりだしたかのような、無理のある優しげな声色。
どう考えても、目の前の美里は強がりを言っている。美里一人で大丈夫なはずがなく、それを美里自身も分かっているのだろう。
克己に伝わらないよう必死に努力しているが、美里の顔にはまぎれもない「不安」と「恐怖」が浮かんでいた。
―――これは、護衛の必要性がないということではなくて、私にこれ以上、迷惑はかけたくないと……私の命まで危険にさらすことはできないと、そう考えての言葉か。
嘆息。
美里の真意に至るに、克己はヤレヤレとばかりに嘆息し、「またそれか」と呆れたように美里のことを見つめた。
この女はまたしても人に迷惑をかけたくないとかいう理由で身を引こうとしている。普段は積極的というか少々頭がおかしいのではないかと思うくらいに接近してくるというのに、肝心のところでこれである。
あいも変わらず、人の力を借りるのが苦手な女だなと思いつつも、克己は美里に対して口を開いた。
「君の言い分は分かった」
「ああ、それじゃあ……」
「しかし、私は君の護衛をこれからも続けるよ。これは、絶対に変えられないところの、私の中での決定事項だ」
「な!? おい、お前は私の話を聞いていたのか?」
「聞いていたとも、聞いたうえでの決定だ……というか、君は何か勘違いしてないか?」
「え?」
「これは、別に君のことを考えての行動ではないぞ。けっして、ほめられた行為じゃない。私は、いわば君を助けることによる満足感と、君を見捨てることによる罪悪感から逃げるために行動しているだけだよ」
「なにを……」
「こうも簡単に行為の動機を結論づけるのは嫌なのだが、とにかく、君の護衛はこれからも続けさせてもらうよ。異論はないね?」
「め、迷惑では……」
「しつこい」
美里の言葉を一言で切って捨てる。それ以上の議論をするつもりはないと、克己は無言の意思表示で、コーヒーをすすった。
「な、な………」
絶句したような視線が、美里から向けられてくる。「信じられない……」とばかりに目が大きく見開かれ、克己のことを凝視している。
しかし、いつまでも絶句している美里ではなかった。段々と、その頬が赤色に染まっていく。
さきほどまでの怯えている様子の美里はもういない。そこには、怪しげにうつむき、「お礼だお礼が必要だ」と電波を発信している恋する女がいるだけだった。
と、美里がいきなりの変調を見せたとき、油の切れた自転車の形容し難いブレーキ音が家の外から聞こえてきた。それは克己の母親―――貴子の自転車である。
「おお、母上も帰ってきたようだし、では私は学校に行くとしようかね。少し時間的には早いが、まあいいだろう」
「……お礼だ……悩殺だ……」
「それではね、美里くん。私が帰ってくるまで、一歩もこの家をでるなよ? 帰りは私が送っていくから、妙な考えをおこさないように」
「……お礼だ……お礼をなににするか……お礼お礼お礼……」
「……美里くん? 君、私の話を聞いているのかね?」
「お礼だ!」
聞いているはずがなかった。
美里はいきなり克己の頭に抱きついた。顔面が美里の胸の中で溺れる。ぐにゅう、という感じで、克己の頭部が美里の胸に埋もれてしまった。
「むううぅぅぅ!?」
「とりあえず、てっとり早くできるお礼だ。私の胸をその顔面をもって満喫するのだ。ふふふ、どうだ? 柔らかいだろ?」
「む、むふうううう」
「ふふふ、くすぐったいぞカツミ。そうか、そんなに嬉しいのか。ほれ、もっと押しつけてやろう」
頭部がさらに胸の中に埋もれる。二つの双丘は蠱惑的に変形し、その柔らかさはまさしく夢心地。鼻腔をくすぐる甘い芳香とともに、その柔らかな感触は克己の意識を薄れさせるのに十分だった。
目がトロンとして、何も考えることができなくなり、体中から力が抜ける。ただ胸を押しつけられているだけでここまで気持ちよくなるのかと、女の武器の威力をまざまざと思い知らされるような思いだった。
「さてと、貴子さんがもう来てしまうから、今はここまでだな」
「むぐううぅッ!」
「そんなに暴れるな。そう抵抗されるとこのまま堕としてやりたくなるぞ。ふふふ、お前がその気でもそうでなくても、もちろんもっとお礼はするつもりだから、楽しみにしておけ。お前が帰ってきたから、もっといいことをしてやろう」
「むううふううう!」
「よし、では今はここまでだ」
宝物のように抱きしめていた克己の頭を離す。
克己の目の前には、久しぶりに胸以外の景色が広がった。
空気を貪るようにして吸った。
「ぷはあ!」
「どうだカツミ。気持ちよかっただろう」
「気持ちよかったもなにもない! 君は! いったい! どういう! 了見で! 人を! 窒息死! させようと! するのかね!」
「窒息死ではない。パラダイスだ。天国を見せてやろうとしたんだ」
「地獄も天国も死んでることには変わりないだろうが! 胸の中で溺死とか、いったいどんなマヌケなんだよ、ええ!?」
「男にしてみれば本懐だろ? 女の胸の中で死ねるなんて」
「……君には何を言っても無駄なようだ。とにかく、私は学校に行かせてもらうよ! それではね!」
今だに恍惚と弛緩している全身。
背中に突き刺さる美里の視線を感じながら、克己は手ぶらで、学校へと足を進めた。