第十一話
その女にとって、尾行は簡単なものであった。
同じ学校、しかも同じクラスに所属している生徒の後をつけることなど誰にでもできることである。準備は万全だ。対象には盗聴器と発信器をしかけているので、計画は失敗することはない。そう思いながらその女は、前方を見つめた。
前方―――そこには標的であるところの鵜飼美里が、ここ数日と同じように新城克己とともに歩いている。幽斐高校から幽斐ヶ丘駅までの通学路―――標的はその道を歩いており、自分はその後ろをつけていた。
失敗は許されないと、その女は思う。今まで失敗してきたからこそ、新城克己がしゃしゃり出てきて、やりずらくなったのだと。だからもう失敗はできない。隙を見つけ次第、とっとと鵜飼美里を抹殺しなければならない。
と、耳につけたイヤフォンが音声を拾うのを感じた。鵜飼美里が新城克己に呼びかけている。それと同時、目の前を歩く2人の姿が慌ただしく動き始めた。あまりに突然の出来事に驚きながらも前方を見つめると、さらに驚くべきことが起きた。
鵜飼美里が新城克己の頬を舐めたのだ。それはもう、下から上への豪快な舐めっぷりで、それを見た周囲の人間は驚きに立ち止まっている。
「―――――」
女は、ギリ、とばかりに唇を噛んだ。それとともに、絶対に美里のことを許さないと、何度目になるかも分からない思いを固く心に誓っていた。
そうこうしている間にも、2人の事態は混迷を極めている。腰砕けになって地面にへたれこんでしまった克己を、美里が追いつめていく。獲物を食そうとしている獣。ここ数日で繰り返されてきた光景―――しかし、今回はひと味違っていた。新城克己はおもむろに立ち上がると、
――――ホテルに行こう。
思わず吹き出しそうになった。その言葉をイヤフォンごしに聞くに、一瞬、その意味が分からなかった。混乱に拍車をかけるように、イヤフォンから次の言葉が来るのを聞いた。
――――ムラムラしてきた。自分で自分を抑えられそうにない。これはもう、設備の整ったところで本格的にやろうではないかね。
吹き出した。何を言っているんだこいつは、と思った。バカか? バカになったのか? いやそもそも最初からあいつの頭はおかしかったなと、端的に結論づけた。
イヤフォンからは鵜飼美里の「嬉しいぞ」という声が聞こえてくる。さらには新城克己の「では私は大人の玩具を買いに行くから、君はここで待っていてくれ」という電波。それに対する「いやだ、私も一緒に行く」と食い下がる言葉と「しかし本番で君を驚かせたいのだよ。新鮮だね?」という狂人語が聞こえてきた。
「――――」
毒されてはいけないと、その女はイヤフォンを耳からはずす。そして音量をMAXにして、直接イヤフォンを耳につけることなく音声を拾った。直接耳につけていたら感染するだろうというその決断は、自分ながらに英断のように思えた。
どうやら新城克己が大人の玩具を買いにどこかへ行くらしい。玩具の種類を教えたくないからその店の場所も美里には教えなく、鵜飼美里は近くにあるデパートで時間を潰すことになったようだ。克己が美里から離れて行動を開始する。手を振りながら「頼んだぞ!」と叫ぶ美里と「そちらもね」と返答する克己の声を聞くに、なるべく近寄らないようにしようと、その女は新たな決意を固める。
と、その女はここにきてようやく思い至った。
新城克己が玩具を買いに行くということは、鵜飼美里が一人きりになるということに。
――――チャンスだ。
全身に緊張が駆け抜けた。鵜飼美里は確かに体術のエキスパートだ。自分ごときが真正面からブチあたっても勝てるはずがない。
しかし、相手もまた素人なのだ。
気配を読まれることはない。ただ足音を立てずに後ろから近づけば、それが素人仕事であっても気づかれることはない。だから今までと同じように、事故のように見せかけて殺せばいい。そうだ、これは最後のチャンスなのだ。
「――――」
鵜飼美里の後をつけて、その女は動き出した。美里は4階建ての縦にひょろ長いデパートに入っていく。大型というわけではなく、しかし小型というには大きすぎるその建築物。店内に入店した美里を追うようにして、その女も後をつけ始める。
美里の5mほど後ろをつけて歩く。その至近距離からの尾行にも、自分の存在がまったく気付かれていない事を確信すると、その女は思わず小躍りしたくなるような満足感を得ていた。
美里は目的地でもあるのか、確固とした足取りで歩いていく。歩き、歩き、歩き、そして階段を登り、登り、登り―――4階の吹き抜けになっているエントランスまで到達した。4階から1階の地面までが吹き抜けになっている踊り場。正直その女は、自分の運のよさに絶叫しそうな快感を覚えていた。
―――誰もいない。辺りには誰もいない。
―――自分を止める人間などどこにもいない。
美里はその場所で、手すりから身を乗り出して、何やら下を覗き込んでいる。
4階から1階まで吹き抜けになっているその場所には、実感のできないような高さがある。だからたとえば、そこから人間が落下したとしたら、命が助かる道理などない。
「―――――」
近づく ―――気づかない。
近づく ―――気づかない。
近づく ―――気づかない。
「…………」
手を伸ばす。一瞬だ。復讐を終えられる。あと少し……もう少し ―――そう、ホントにあと一瞬というところで、
「―――そこまでだ」
動きがとまる。絶望に体が凍った。その新城克己の言葉で、なにもかもが終わった。
●●●
その決断が真実、正しかったのかどうかは分からない。これはいわゆるおとり捜査で、美里のことを無防備にさらすことで犯人をおびき出す作戦だった。
この選択は正しかったのかどうか。実は、犯人を捕まえるためだけに美里のことを危険にさらしたのではないか―――その疑問が克己の中で駆けめぐっていく。もしそうなら、それは目的と手段の置換である。美里の安全が何よりもまず優先されることで、犯人を捕まえるのはその安全を確保するための一つの方法に過ぎない。それを無視したのだとしたら、自分の行動は実に唾棄すべき愚行ということになる。
どうなのだろう。自分のやったことは、許されることなのだろうか―――克己は益体もなく考え続けながら、目の前にある犯人の姿を見つめた。
その顔には見覚えがあった。
いつもの教室。そこでの中心的役割を果たしていた女。克己は意外なものを見たという感情を隠すことができない声色で、目の前の女に対して言った。
「まさか、君が犯人だとは思わなかったよ」
「…………」
静かに言う。その言葉に犯人は静かにこちらを睨んできた。
その人物……それは克己の所属している2年4組のクラス委員長―――雁金茶織だった。
創立祭の準備でもたびたび口を聞いたことのある人物。その姿が克己の目の前にはあった。
驚く。それは当然だろう。竹馬の友とは言えなくとも、見知った人物が美里殺害をたくらんでいた犯人だったのだ。その姿を見て驚愕するのは自然なことだった。そしてそのまま克己は、目の前の委員長に対して言葉を向けた。
「委員長くん、君は何故こんなことをしたのかね? 何かこの女に恨みでもあったのかね」
「恨み……ならあるわよ。その女は、私の彼氏を引きこもりにしたんだから……」
「引きこもり?」
「そう。その女が元のクラス、つまり2年1組にいたころの話し。そこで私の付き合ってる彼氏が、その女に殴られて自信をなくして、引きこもりになっちゃったの」
「それは……」
本当なのかと、克己は美里のほうを向く。その視線を受けて美里は、何かを思い出したかのような声色で、
「ああ、ひょっとしてうちのクラスで起こってたイジメ問題の首謀者か? それならたしかにボコボコにしてやったぞ。馬乗りになってどこまでも。許して下さいと命乞いしてきても容赦することなく徹底的にな」
「イジメ?」
「ああそうだ。お前には言ってなかったか? 私のクラスでは悪質なイジメがはびこっていてな。携帯電話によるイジメなのだそうだ。そういう気持ち悪いこと、私は虫ずが走るほどに大嫌いだから、そんなことをやってるヤツを見つけだして制裁してやったんだ」
「…………」
美里の言葉を吟味するかのように克己は押し黙る。しかし、美里の言葉を考えるに、そんなものは―――、
「君の彼氏とやらの、自業自得ではないかね?」
「うるさい! それでも私の彼氏が引きこもりになったのに変わりはない。だから復讐しようと思ったんだ!」
噛みつくような姿勢で言う。それを見て克己は、ふむ、とばかりに頷いた。
「……なるほど、つまり君は救いがたいほどのバカだったと、ただそれだけのことのようだね。まあ、君の内心や動機など興味はないしどうでもいいのだが、罰は受けてもらおうか。いや、教育、だな。さっそく当局に通報しよう」
「カツミ、その女、警察に突き出すのか?」
「ん? いやそんなことはしないさ。当局とは幽斐高校特別風紀委員のことだよ。まあ、残酷だとは思うのだがね?」
「そうか……ご愁傷様だな。警察に突き出されるほうがよっぽどマシだろうに。調教部隊だったか?」
「ああ、そうだね。あの部屋からでる頃には、それはもう素直な人間になっていることだろうよ。委員長、かわいそうだが、それでは……」
途端、観念したようにうつむいていた委員長は、悪魔でも見たかのような様相でざわめき始めた。
その顔には明らかな恐怖が浮かんでおり、冷や汗が彼女の背筋を凍らせている。幽斐高校特別風紀委員。その言葉を聞くに茶織はそれまでの平静を失ってしまったのだ。
「いやだああああああああ!」
いきなり暴れだす。それは逃走という行動になった、どこかへ走り出そうと身をかがめる―――のだがしかし、克己がそれを許さなかった。茶織の体を押さえつけると、後ろ手に腕を固定して拘束する。その技は思わず感嘆するほどに芸術的で、美里がそれを見て思わずうなったほどだ。
「やー、風紀委員だけは、やー!」
なんとか克己の拘束から逃れようと、ジタバタとあがく茶織。その様子は決死の覚悟をもった苛烈さだったが、しかし克己の前では子供じみた抵抗に終わっていた。
「ううううう」
どんなにあがいたところでこの拘束からは逃れることはできない―――そう判断したのか、茶織は唐突に大人しくなった。フっとばかりに身体から力が抜け、もはやあきらめの心境。そして茶織はそのまま、もうどうにでもなれというやけっぱちな態度で、
「……どうしても私を連行するの? 特別風紀委員に?」
「ああそうだ。ここからならば高校まで近いからね。このまま連行させてもらう」
「……まあどうだっていいんだけど……なんにせよ私が鵜飼美里を殺そうとしたのは事実なんだから、ふふふ、しかも2回も。私の人生はこれでおしまいね」
虚ろなまなざしと力ない言葉。世を儚んですべてをあきらめたような表情を浮かべたまま、茶織は独白した。しかし―――
「―――ちょっと待ちたまえ君」
その言葉に克己が反応する。克己は顔に緊張を張りつけ、よもやといった具合に茶織のことを注視する。
克己は茶織の言葉に違和感を覚えていた。それは一連の事件のことを一時も忘れずに考え続けてきた克己だからこそ気づいた違和感だった。委員長の言った言葉、そこには聞き捨てならない内容がある、すべての前提を覆すような爆弾が眠っている、それは―――
「君、今、美里くんを殺そうとしたのは2回だと言ったね? しかしそれはおかしいのではないかね。君は一昨日の朝と夕方にそれぞれこの女のことを殺そうとし―――そして次の日、植木鉢を落下させて再度殺そうとしただろう。ならば二回ではなく三回だというのが正しいのではないかね?」
「は? あんたいったい何を言ってるの?」
心底バカにしているような声色。表情までも人を小馬鹿にした様子となり、茶織はそのまま言った。
「私が鵜飼美里を殺そうとしたのは一昨日だけよ? 植木鉢って……それ、なんの冗談?」