第一話
1日目(月曜日) AM7時40分
日本茶が嫌いだった。だから自分の名前も嫌いだった。
あの緑色のドロドロとした液体。濁ったようなそれは近所に流れる常陸川の淡水にそっくりで、見るだけで吐き気がする。それを思い起こさせる自分の名前も、とにかく大嫌いだ。
いや、しかしそれよりも、今はもっと嫌いな存在がある。というかそれは、好き嫌いといった感情を超越した憎しみとでもいうべきものだった。率直にいうならば、殺してしまいたい。その人物を殺して―――復讐をとげたい。だから、もう何も考えることなく、行動を起こそうと、そう決めた。
目の前で列に並んでいるその女。私は冷たく凝固する血液を感じながら、ゆっくりとその背中を押した。
●●●
上見坂駅の構内はいつものように騒がしかった。
自動改札口すらなく、駅員が切符を切るという上見坂駅。普段は閑散としているその駅も、朝の時間だけは装いをあらたにする。
電車を待つ多くの姿。
近くの地方都市に通勤するサラリーマンに、電車通学の高校生たち。それら雑多とした慌しさが、いつものように駅の構内にはあった。
それは、昨日と変わらない朝の日常。
かわりばえのしない退屈な光景。
「――――あ」
そんな日常を壊すかのように、一人の少女がプラットホームから落下した。
制服姿の少女が線路の中に落ち、それきり動きを見せなくなる。レールに覆いかぶさるように突っ伏し、少女は立ち上がることさえできなかった。
――――ブウウウウッッ!――――
アナウンスが流れ、振動が響く。
カーブを曲がって電車があらわれる。
しかし、少女は動けない。
線路の中で、微動だに動きを見せない。
「――――っふ」
と、その瞬間、黒い影が線路の中に飛び降りた。
一人の男が自らの意思をもって線路の中に飛び降りたのだ。
それとともに男は、さきほど線路に落ちた少女を助けるために奮闘する。
少女をその腕で抱えて脚に力をこめる。
想像以上の重さをもったそれを全身の力をすべて使うようにして持ちあげ―――そしてホームの上へと投げた。
「――――」
一瞬、電車が通過した。
響く警笛が周囲の空気を震わせながら、一個の暴力が通過していく。
警笛と電車の振動が遠くへ流れていく。
そして余韻を残した空気の震えさえなくなって、ようやくその場にいる人々は何が起きたのかを悟った。目の前に佇むその男が、一つの命を救ったのだ。
「―――ふう、なんとかなったね」
黒の学生服―――一昔前の学ランを身につけたその男は、どこか異様な雰囲気をまとっていた。身長は高くなく、平々凡々とした風貌なのだが、そのランランと光る瞳と、目の下にくっきりと現れたクマが印象的だった。
「あ、えっと、だな……」
そんな男の姿を、近くから見つめている一人の少女がいる。彼女は、さきほどホームから落下し、男に助けられた少女だった。
その170センチはゆうに越すであろうという高身長と、体調が悪いようにはまったく見えない健康的そうな様子。どこか強気な性格を感じさせる瞳は、今、若干ではあるが薄められ、目の前の男のことを穴があくほどに凝視している。
そして、少女―――鵜飼美里は、ぎこちないような仕草と声のかけかたで、目の前の男に対して、おずおずと問いかけた。
「あ、えーと、だな……私は鵜飼美里という。幽斐高校の2年生だ。それでだな……」
一呼吸。しかし美里は、意を決したように覚悟を決め、
「あ、ありがとう……だ。助かったよ」
言葉とともに礼。それすらもぎこちないが、美里にとってはこれが精一杯の感謝の印だった。おじぎをしてうつむき、その頬は桜色に染まっている。
しかし、美里の言葉を受けた男は、どこか心ここにあらずといった様子で、空を見上げた。そのままブツブツとつぶやき、美里の言葉が耳に入っていない様子である。
「…………何を……」
男の瞳に狂気がやどる。
そして次の瞬間、その男は言葉を爆発させた。
周囲に、絶叫が轟いた。
「……私は一体何をしたというのだ!? 線路の中に飛び込むだと? しかも電車が突入してきた線路の中に。そんなことをした理由はなんだね。人命? 人命がかかっていたのだから。だから私の無謀も許されるか。人の命は何よりも優先されるから私の行為も許されると……そんなわけないだろ! 新城克己!」
「な、何を言っているのだ?」
「人命人命人命。人命を助けたくばユニセフにでも募金しまくることだいやしかしそんなことはどうでもいい。人命? 人命を守る? 線路に落ちた女を助けるために線路に飛び込むだと!?」
「……お、おい」
「なんなのだそれは? 正義感にでも駆り立てられたのかね。それとも名誉欲か? 周りの人間にいいところでも見せたかったのかね。ヒーロー気分を味わいたかったと……そういうことか! 一体お前は何をしたんだ!」
「なにを……」
「なんなのだ私は? 何か満たされない感情でもあったのか。自分を認めてもらいたかった? 何か社会に貢献したかったそれによって自分が善い人間なのだと実感したかったのか……まったく、満たされない感情をこんなことで満たそうとするなど、なんて下等な精神活動なのだ! ああ、くそ!」
「…………」
我慢に我慢を重ねてきた美里。しかし次の瞬間、彼女は自分の顔に『険』の文字が入るのを感じた。
それとともに眉が引きつり、こめかみに血管が浮き出て、凍てつく眼光が容赦なく克己の顔を睨みつけ始める。その内心は、ハラワタが煮えかえる思いでいっぱいだった。
―――この男は、いったい何をわけの分からないことを絶叫しているのだ……な、殴りたい。
朝の登校途中に、いきなり耳障りな言葉を聞かされ続けている。ただでさえ人ごみが煩わしいというのに、目の前の男の言葉を聞くに、不快指数は高まるばかりだ。
しかし、美里は自重する。目の前の男は命の恩人なのだからという一念が、美里を押しとどめる。
そして精一杯の譲歩のうえ、阿修羅像のような表情を浮かべた美里は、言葉をもって克己の静止を求めた。不機嫌さそのままに。美里は地獄の底から響くような声色で、
「……おい、お前。少しだま、」
「自分の命は自分のものだという勘違い。だからこそ自分の人生は自分だけで決めていいという結論かね! 消えてなくなれこの自己愛者め。勝手に死ぬのであれば今まで犠牲にしてきたすべての命に死んでお詫びしたまえ!」
ブチぃぃぃぃッッ!!
非常にマズい何かが、切れる音が響いた。
そして、美里の堪忍袋の緒も切れた。
美里は、勢いよく拳を振りあげる。
そしてなんの迷いもなく、その拳を克己めがけて振るった。
「うるああああぁあぁ!!」
「グっぎゃあ!?」
縦回転。
横回転。
一撃をものの見事に腹にくらった克己が吹き飛んでいく。
まるで壊れた人形のように飛び、星になって、止まった。
生死すら定かではない現在の状況。その一撃はあまりにも致死量で、それを見た周囲の乗客達は「…ざわ…ざわ……」と騒ぎだす。
しかし、残念ながら新城克己は生きていた。美里の一撃を受けた腹を必死にさすり、顔にはガマ蛙の踊り食いでもしたかのような苦悶の表情を浮かべながらも、克己はゆっくりと満身創痍のいでたちで立ちあがった。
「な、何をするんだ。何をするんだ君ぃぃぃ!」
「―――――」
目を見開きながら叫ぶ男の姿。
それを見た美里は、違和感を覚えて眉をひそめた。
―――何故、こいつはひるまない?
過去、自分が暴力を放てば、それだけで相手は完膚なきまでに大人しくなるのが定石だったのにと、美里は怪訝な表情を浮かべて思う。
一撃さえ食らわせば、奴隷のように自分に従うようになるはずなのである。しかし、げんに目の前の男は、まるで学習能力のない猿のように突っかかってくる。その男の姿は、まったくもって「理解不能……」だった。
「君、君ぃぃぃ! 一体全体、何故そんなに手が早いんだね!?」
「…………」
「ま、まさかとは思うが、君は暴力ですべてを解決できると思っているのではな、」
「死ね」
連続して発せられた克己の言葉に、美里は当然のように殴りかかった。
殴られれば飛ぶ。だから克己の身体は面白いように飛んで、そして壁に激突した。
ぐったりといった具合に地面と抱擁をかわす克己。
その体は一瞬、完全に動かなくなった。
―――今度こそもう大丈夫だ。この男の心は完全に折った……
美里は、横たわったまま動かない男の姿を無言で見下ろす。
一度目とは異なり、今度こそ本気で放った自分の拳を受けて、これ以上目の前の男が反抗してくることはないだろう……美里はそう確信をもって、克己のしかばねを見下ろすのであるが、
「はははは! はははは! む、ムダ、げほおぉぉうぇぇ、だ…よ君!」
ゆらりと。
朦朧として、視界がぼやけるほどのダメージをくらいながらも、克己は気丈に立ち上がった。それを見て美里は今度こそ驚愕した。
―――こいつ……私の力がきかないのか!?
そんな絶望を思い浮かべながら、いやしかしそんなはずはないと、自分の思考を否定するかのように、拳に力をこめる。
次にまた腹が立つような言葉を言った瞬間、自分の誇りをかけて目の前の男を壊そうと、美里はそう決めていた。そして美里は、トントンとリズムを踏みながら、逆に「とっととムカつくことを言え」とばかりにイラついた様子を見せる。
そうとは知らずに克己は言葉を放った。しかしそれは、これまでとは性質の違う言葉だった。静かに、克己もまた自分の誇りをかけて、
「効かない……効かないのだよ君。私にはそれは効かないんだよ。なんていっても地獄のような修行をしてきたのだからね私は!」
「―――なに、修行?」
5発目を放とうとしていた美里は、その「修行」という言葉に拳の行使を一時中断する。
克己の動きを目で制止しながら、美里は完全に動きを止める。興味深そうな眼をもって克己を凝視し、美里はそれ以上動きを見せなかった。
―――その、動きを止めた理由。
それは、美里が「修行」という言葉に、心を奪われたからに他ならなかった。
―――修行。なんて甘美な響きなんだろう。
―――修行。その言葉だけで私は心が打ち震えてしまふ。
美里は何を隠そう修行マニアである。
『ドラゴンボール』という一世を風靡した大ヒット漫画。その中で悟空が亀仙人の元で修行したり、時間の経過が遅い変な空間で修行したりして自らの力を高めたりしているのを、小学生の時に熱心に見てあこがれたのが始まりだった。
あこがれた。
あこがれてしまったのである。
『ドラゴンボール』の修行の場面を見た翌日から、美里の壮絶な修行が始まった。
家の裏庭で小学生の女の子が腕立て伏せや腹筋を熱心に行う光景。「氣」を使うにしてもやはりその土台がしっかりしていなければいけないだろう。そう考えた美里は、その翌日から筋肉トレーニングを始めたのである。
それに対して美里の両親が、すぐに飽きるだろうとほっといてしまったのがやはりいけなかった。愚直なまでに率直。できるかできないかなどという事は何も考えない。
大切なのは「今」を成すことで、未来など後からいくらでもついてくる。なんといっても悟空や悟飯だって修行して強くなったのだから、私だけできないということはないだろう。
そう思って美里は、今日まで修行に明け暮れてきた。年頃の女の子が好むようなことを犠牲にして、すべての時間を自分を高めることだけに使った。その結果が今の美里の姿であり、人間決戦兵器としての力だ。
しかしそんな美里も、現状の自分には今だに満足していない。尋常ならざる腕力や攻撃力を体得しても、美里の欲望はまだまだ満たされていなかった。
――――私の夢はカメハメ波を打つことです。
そのように、将来の夢の作文の中で書いた美里の夢は、今日に至っても色褪せていない。今ではそれに加えて「元気玉」を繰り出せるまでに成長したいと考えている。
――――人間に不可能はない。修行を続けていればきっと……、
そんなことを本気で思い浮かべるほどに行き着いている美里は、やはりどう考えても変人で、完全なまでの修行マニアだった。だからこそ美里は、克己の言葉の中にあった「修行」という言葉に惹かれ、その処刑を一時保留しているのである。
こいつは、一体どんな修行をしてきたのだろう―――美里は興味津々(きょうみしんしん)といった様子で、目の前の男に対して言った。
「お前今、修行、と言ったか? それはどんな修行だったのだ? 私に聞かせてくれないか」
「うーむ……これは自慢かもしれず、そうだとしたら実に気持ち悪いのだが、まあ、仕方がないね」
「おお、そうだな。とっとしてくれ。私の限界がこないうちにな」
静かに言い放つ。若干ではあるが切れ気味な現状。
そんなバルカン半島並みの火薬庫の中で克己は、自分のしていることが火薬庫内で行う火遊びだということに気付かないまま、
「理性も何も暴力の前には等しく無力。そこには弱肉強食という平等があるだけだ。しかし私は暴力などというものに屈したくはなかった。内省もあったものではないその領域。それを克服しようと私は暴力に対しての修行を行ったのだ!!」
「おお、いよいよ本題だな。それで?」
「―――暴力に対抗するための手段、手始めに私は、自動車に突っ込んでみた」
「―――は?」
「その当時、つまりは小学生の頃だな。そのころの私は車というものが客観的な暴力として最たるものだと思っていてね? その暴力から自分の精神というものを守ることができたのなら、きっとありとあらゆる暴力にも対抗できると思っていたのだよ」
「…………」
「ははは、今思うととんだお笑いぐさだね? 暴力というのはそこに人間の悪意だとか主観が入るからこそ暴力たりうるのであり、車の追突などというのはただの「力」だというのにね?」
まいったまいった、と笑い続ける克己。そんな常識をどこかに置き忘れてきてしまった男は、自分の命が風前の灯火にさらされていることに気付かない。
「…………」
美里はもう我慢の限界だった。克己の修行話を聞くために、なけなしの理性を導入したこともあって、そのストレス指数はさきほどとは比べようもならないほどに高まっていた。
美里の顔に阿修羅もかくやという形相が浮かびあがる。それは、美里の顔がうつむいているおかげで完全には御拝見できないが、それが逆に恐怖を演出していた。
「――――」
握る拳に力がやどり、暴力の化身はここに具現化する。
凍てつく眼光は氷のような冷たさと、ほとばしる灼熱をともし、見る者を威圧した。
ありとあらゆる力をこの拳に。全身に宿る力を一点に集中させる。
―――この一撃は龍の咆哮に匹敵し。
―――この一撃は天をも貫く。
精神が物質に変貌し、破壊の化身の周りを滞留する。
尋常ならざる迫力。
ゴゴゴ、というBGMが背景として鳴り、殺戮の一撃が近いことを教えていた。
「―――それからも、私の壮絶な修行は続いていってね。今ではどんな暴力にも免疫を持つことができたのだよ。だから、だからだよ、君。私には暴力なんていうものは効かな……」
克己の言葉が止まる。絶望を目にする。
目の前の美里の姿は、今では紅色に染まっていた。 普段とは比べようにもならないような運動量を可能にさせる術式―――気を練り上げ終わった美里は、自らの在らん限りをもって宣言する。それは一人の男に告げる死刑宣告だった。
「―――覚悟はいいな?」
赤い風圧が美里の周りを包み込み、尋常ではない迫力をともしている。事実、その赤くまとわりついている空気は、美里の全身から発散される『氣』であり、通常時の何倍もの力の行使を可能にさせていた。
「ちょ、ちょっと待ちたまえ君。なんなんだねそのビックリ人間ショーは? さすがにいくらなんでも死……」
「うおおおおおおおおお!」
女にあるまじき雄叫びをあげながら、美里は克己との距離を一瞬にして疾走する。
残像でも起こるかのような疾さ。
そのままの勢いをもって美里は、右腕を振りかぶって―――放った。一殺必中の全力。 赤い気をまとった拳が克己の顔面をとらえ、その餌食となった男の身体が、視認できないような勢いをもってどこかへと消えていく。
飛ぶ。吹き飛んでいく。
爆発音がして、すべてが終了した。