拾捌 北条家
眠い。足が痛い。頭も痛い。お腹が空いた。
「桐仁様、ご帰還でございますか?」
「……え」
話しかけられるとは思っていなかったので、突然の声かけに暫し反応が遅れる。
そういえばここは何処だと辺りを見渡してため息を吐く。無意識に学校の通学路付近の道を通って屋敷に向かっていたようだ。
「えっと……?」
声の主は、久鞠国から伝わってきた革製の装いに身を包み、長い黒髪を茶の革紐できっちりと纏めた姿をしている。
切長の目に妙に自信に満ち溢れているキリリと上がった眉。自分より頭ひとつ飛び抜けて高い身長。まぁ、これは彼にだけ言えることではなく、桐仁は同じ歳頃の者と比べてもかなり低身長であった。激務による過労、幼い頃から強いられてきた過酷な鍛錬の積み重ねが原因なのかは定かではないが成長速度が著しく遅いようだった。
桐仁は和やかに笑う男を見上げて暫し考えた。正直、この男が誰だったか全く思い出せない。
「お久しぶりで御座います。同じ学び組の榊雄一郎でございます」
無視をするのは外聞的にも良くないのだろうが、何せ今は酷く疲弊していて一刻も早く帰って休みたかった。大して親しくもなく、顔も覚えいない同級生に気を遣う余裕なんて今の桐仁にはない。
桐仁は学校へはもう何年も行っていなかった。行っても無意味だと思っているからだ。読み書きはできるし、学校で習う必修科目は既に習得済みなので今更習うのも時間の無駄である。
学校では友人を作れだとか協調性を身につけろだとか社会に役立つ人間になれだとか言われていたが、正直学校で身につけた能力を仕事で発揮できるとは微塵も思えない。学校では死地に向かう覚悟を鍛えてくれるのか、人が死んでいる光景に耐性が付く術でも教えてくれるのか、除霊をしなくても国が助かる方法を教えてくれるのか。
日雛の学校に通う生徒は金持ちで見栄っ張りで自分のお家の自慢話ばかりしている。終いにはこちらが北条家の人間であると知ればごますりをしながらご機嫌を伺う情け無い連中である。当主の命令で渋々通っていたが学校生活があまりにも退屈すぎたので一年が経つ頃には行かなくなっていた。
退屈になるのではここにはいられなかった。退屈になると余計なことを考えてしまう。もう決してこの手に戻ってこないものを思い出し死にたくなってしまう。桐仁は死んではいけないから退屈になってはいけないのだ。
学校へ行かなくなってすぐ、馬鹿みたいに任務を重ねた。その方が余計なことを考えずに済むから楽だった。
周りの顔色を伺い合うだけの薄っぺらい友人を作る為に学校へ通うよりも、少しでも多く霊を祓い、物の怪を退治した方が余程国の為になる。
学校の担任から連絡は幾度としてあった。
『学校へ来ませんか?』
『みんな待ってますよ』
みんなとは、あの仮面のように笑顔を貼り付けた道化らのことだろうか。あの者らが北条家の一族の一人と友人であると、何処ぞでホラを吹いていることをこちらが知らぬとでも思っているのだろうか。
教師も自分が北条家の子を指導した担任であると箔をつけたくて必死なのだろう。
教師も生徒も同じだ。うんざりする。
どうしてどいつもこいつも見栄を張りたがるのだろう。
「お勤めご苦労様でした。さぞやお疲れでしょう」
だと思うなら話しかけるな、と桐仁は心の中で悪態を吐く。
「桜子様も先程お帰りになりましたよ。帰りに本家に立ち寄ると申しておりました」
「…そう」
他にも何やら話したそうにしていたが聞いてあげる義理もないので早足にその場を退散した。
***
憂鬱な思いで帰宅して早々、血相を変えた女中が慌ただしく出迎え、その騒々しさに顔を顰めた。
女中の声に気づいた叔母の久子がだだっ広い廊下を御付きを連れて優雅に歩きながら、それでも顔は般若の形相でこちらに向かってくるのが見えた。
「お帰りなさい、桐仁さん」
「ただいま戻りました、叔母上。帰還が遅くなり申し訳ございませんでした」
「良いのですよ、いつものことでしょう。それよりも桜子さんがお見えになってますよ、すぐ着替えてお出迎えなさい」
「はい」
背筋をスッと伸ばして出迎える叔母。白い髪を後ろでお団子に結わえ、山吹色の着物を着ている。体付きは細身で、吊り上がった目は性格のキツさを体現しているかのよう。歳は三十六で北条家の分家宮部家の出で、現当主及川兼人の妻である。
「桐仁様、お戻りになられたのですね!心配しました」
久子とは対照的にドタドタ慌ただしくこちらに向かって駆け寄ってくる姿があった。桐仁の御付きで、北条家分家である藤井家長子の疾風だ。真っ白な髪を後ろで纏め、黄緑の着物に黒の袴姿。桐仁とは同い年で十三歳で、桐仁より背は高い。額に玉のような汗をかいて鼻息荒く、興奮気味の疾風に久子は顔を顰めた。
「疾風、連絡できなくてすまなかった」
「そのようなことお気になさらないで下さいませ!ご無事にお戻りになられたことが何よりでございます!」
「疾風、お前久子様の横に立つとは随分と偉くなったものですね」
「えっ…!?あ、あああ申し訳ございませんでした!!」
久子の御付きである早矢子の指摘を受けて疾風は真っ青な顔になって慌てて跪いた。
久子は疾風を一瞥するとそのまま部屋に戻って行った。
「疾風、顔を上げろ」
「……は、はい」
しゅん、と沈んだ様子の疾風を見て小さく息を吐くと羽織を脱いで疾風に手渡した。
「客人は?」
「いつも通り客室に通しております。玄関での騒ぎも恐らく聞こえておりましょう。きっと桐仁様がお見えになるのを心待ちにしておりますよ」
「…はぁ」
首や腕に引っ提げた装飾品の類を無造作に脱ぎ捨てながら重い足を引き摺って自室に向かった。床に落とした装飾品を疾風がせっせと拾壱集めていく。
「今日はもうお疲れでしょうからお食事はお部屋でゆっくりお召し上がりになられた方が宜しいかと思います。何時ごろお持ちしましょう」
「いや、そんな気を遣わなくて良い。夕食の時間になったら食堂で叔父上等と共に頂く」
「…承知致しました」
疾風は沈んだ声で答える。
兼人と久子と囲む食事ははっきり言って苦痛そのものだ。久子のこれでもかという程の嫌味を耐え抜く時間でもある。今日は昨日の無断外泊もあるからかなり長いお小言が繰り広げられることは間違いないだろう。
部屋に到着した桐仁は乱暴な手つきで襖を開け、箪笥から適当に着替えを引っ張り出した。着物の帯をサッと解き、いく先も見えずどこかに放り投げた。薄汚れた着物から縹色の着物に着替え、部屋を出ようと襖に手をかけたところで疾風に呼び止められる。
「今日は夜にかけて冷えるので羽織を羽織って下さいませ」
いつの間に用意したのか、疾風から差し出された着物と同色の羽織を受け取り、袖を通すと今度こそ部屋を出た。
本来なら御付きに着替えを任せなければならないのだが桐仁はあまり御付きに頼ることはしなかった。誰かに頼ることが嫌な訳ではなく、ただ単純に自分でやった方が早いからだ。周りにとやかく言われても桐仁はずっとそうしている。
「桐仁様お待ちをー!!」
汚れた着物を抱えながら走ってくる疾風に一言告げる。
「他に仕事があるだろう。こちらのことは良いから行ってくると良い」
「し、しかしそれでは久子様に…」
「何と言われようとわたしは構わない」
「…そうですか」
不満そうにこちらを見てくる疾風に小さく息を吐くと歩みを進めながら告げた。
「その着物を女中に手渡した後、客室にきなさい」
「桐仁様…っ!!は、はい!すぐに行って参ります!」
分かりやすく上機嫌になった疾風をその場に残して桐仁は客人の元に急いだ。
***
客室に入るなり独特の香の香りが鼻についた。
その香を纏っているらしき少女が部屋の中央に置かれた机に向かって正座していた。腰まで長い白い髪をお下げに結い、真っ赤なりぼんを頭に飾り、華やかな紅梅色の着物を着ている。
「桐仁様っ!!」
ぱぁっと花が咲いたように笑いながら出迎えてきたのは北条家の分家西園寺家の長女にして桐仁の許嫁、西園寺桜子である。
派手な色の着物が目を引く。その派手な着物に負けず劣らず見た者を魅了する美貌と祓い師としては申し分のない才能を持ち合わせた文句の付け所のない娘で一族でも評価が高い。
最近は学校帰りには必ずと言っていい程頻繁に桐仁の元を訪れ、休みの日も除霊の仕事がない日は大抵桐仁に会いに来ていた。
桐仁のことが大好きで彼に喜んで欲しくて手土産も欠かさず持参している。
ただ、当の桐仁にその好意は一切伝わっておらず、ただ単純に暇なんだろうかと疑問に思ったりしている。本人の中での優先度も存在感もかなり薄いようで、度々彼女が会いに来ていることを忘れて過ごすことがあった。
最近では疾風や女中が気を利かせて誘導してくれるようになったが、桐仁にとって桜子に会うのは面倒なことこの上ないことだった。
「桐仁様がお戻りになられていないと聞いてすぐにでも貴方様を探しに向かいたい衝動に駆られておりました。ご無事にお戻りになられたこと桜子心より安心致しました」
「心配をかけた」
「ふふ、許嫁なのですから心配するのは当然です。帰ってきてお疲れのところを真っ先に私に会いにきてくださって嬉しかったです。よろしければ少しお時間を頂けませんか?」
「夕食の時間までなら」
「構いません。…そこの」
「はい」
後ろで控えていた黒髪の女性に桜子は振り返ることもせず静かな声で告げた。
先程の桐仁に向けた猫撫で声のような甘ったるい声を発していたとは到底思えないような冷めた口調だった。
「あれをここへ」
「承知致しました」
煌びやかな刺繍が施された風呂敷を抱えて黒髪の女性が前に進み出る。
机の上に風呂敷を置き、サッと広げる。
中からは掌程の大きさの巾着袋が三つ出てきた。
「学友から教えて貰いながら私が作りました。匂い袋というものだそうです。良い香りが気分を落ち着かせてくれるとのことで今、庶民の間で流行っているのだそうですよ。ぜひ桐仁様に使って頂きとうございます」
桜子は三つある内の赤い布で包まれた匂い袋を手に取ると桐仁にそっと差し出した。
「こちらはほんのり梅の花の香りがするのです。私の一番のお気に入りです」
「ああ、ありがとう」
差し出された匂い袋を受け取ってた。大した興味もなかったが貰った以上、行動を示さないわけにはいかない。取り敢えずクン、と匂いを嗅いでみた。…確かに花の香りがするような気がしたがそれが梅の花だとは理解はできなかった。ただ、今日桜子が身に纏っている香の香りととてもよく似ている気がした。
「良い香りでしょう?」
「…そうだな。疲れた体が癒される気がするよ」
匂いで体の疲れが取れるならどんなにか楽だろう。もちろん癒されるなど嘘だが、それを伝えても相手の気を悪くするだけなのは承知しているので無理矢理愛想良く笑えば、心から嬉しそうに桜子は照れ臭そうにはにかんだ。
「匂い袋なんて殿方が持つのには相応しくないとお父様に言われてしまったので桐仁様に気に入って頂けるか不安だったのですけれど、喜んで頂けて桜子は幸せです」
「お心遣い痛み入る」
「…そんな…。桐仁様の為ですもの、当然のことです。……それともう一つ、今日は重要なお話があってお待ちしていたのです」
「…何か?」
いつもなら土産を受け取った後はどうでも良い話を永遠に長々と聞かされるという流れがお決まりなのだが、今日は何やら訳ありのようだった。
乙女のような表情から一変、真剣な眼差しでこちらを見つめる視線に桐仁も表情を引き締め、桜子と机を挟んで向かい合うように正座した。
「都から馬を飛ばして半日くらいの距離にある久里子村という村をご存知でしょうか?」
「確か…以前はかなり賑やかで、米の生産も盛んだった村だな」
都からも比較的近く、他の村に比べても村民も多い大きな村だ。かつては帝に献上する米の一部を久里子村で生産していたのだが、強力な怨霊に村を半壊滅状態に追い込まれ、村は衰退。現当主の兼人は村人に一切手を差し伸べず、北条家からも都からも見捨てられた村として扱われていた。久里子村のように怨霊や野良妖怪に襲われ、村としての機能を失ったまま国から見捨てられてしまう土地が後を絶たないのが現状だ。助けてもキリがないからという理由もあるが、一番は助けられるだけの力が今の本家にないからだろう。都すら霊が蔓延っている有様だ。他の所に着手する余裕などあるはずもない。ただ、先代が当主の時はまだ今よりずっとマシだった。兼人は歴代のお祓い様の中でも能力が低いと言われていて、当主としての威厳も今ではほとんど失われているに等しい。
先代は例外にしても、どんどんお祓い様の力は衰えていっている。いずれは力そのものがなくなってしまうだろう。北条家の血が少しでも混じっている者はどういう原理かは不明だが皆髪が白くなるという特殊な遺伝子があるのだが、最近、分家の中で黒髪の赤子が産まれたとの知らせを受け、お祓い様がこの世からいなくなる未来もそう遠くはないと実感させられた。
「はい。その村に手がつけられない程に怨霊が蔓延っていたことを以前からも兼人様にお伝えしていたのですが一向に対策に講じてくださらなかったのでお父様が痺れを切らし、先日、我が西園寺家の精鋭が調査に向かったのです」
「ああ」
「しかし、村に到着した際、俄かに信じがたいお話ですが、村に取り憑いていた怨霊が何故か一体もいなくなっていたそうです」
「…?ん、んん??え、待って…え?」
あの土地にまだ祓い師は向かわせていないし、そもそも祓い師が数人向かったところでどうにもならないくらいの数の怨霊がいたはずだ。それが一体もいないのはあり得ない。
「怨霊どころか妖怪すら寄り付いていないそうです。父曰く恐らく何者かが対魔結界を張ったのだろうと」
「村一帯に結界を張れる祓い師なんて…」
兼人ではないことは確かだろう。あの男は自分から除霊に赴くことはほとんどない。実際、兼人の代わりに対応しているのは妻である久子だ。足手纏いの夫の尻拭いはさぞかし大変だろう。
「それともう一つ。久里子村から程近い位置に廃村を見つけました」
「廃村?」
「はい」
廃村自体は特に珍しいものではない。野良妖怪に荒らされて滅んでしまう村や、怨霊が溢れ返ったことで住むことが困難になった村を村人が捨てることで廃村となってしまう。その所為で住む場所を失う人々も大勢いて、それが深刻な問題になっている。
「村を探索した所既に村人は一人も住んではいませんでした。代わりに無数の墓と荒らされた家屋がありましたが瘴気に侵されていたり怨霊や妖怪が集まっていたりといったことはなかったそうです。それどころか村の周辺の空気が不自然な程澄みきっており、まるでそこだけ世界から切り離されたかのような…」
「すまないが言っている意味がよく分からない」
「も、申し訳ございません。信じて頂けないのも無理ありません。でも本当にそうなのです。桐仁様にも一度ご覧になって頂きたくお話しさせて頂いた次第です」
「分かった。近いうちに出向こう」
暫くはゆっくり静養したいと考えていただけに急な予定が入ったことに少々気が重くなったが、こう言われてしまっては行かないわけにはいくまい。
一族の中に大規模な対魔結界を張れる手練れはいることにはいるのだが、祓い師の手が不足している今、もっと助けるべき優先度の高い町や村に連日派遣されている為、皆酷く疲弊している。とてもではないが余分な力を浪費する体力なんてあるわけもなく、一体誰が行ったことなのか皆目検討がつかない。
「それで厚かましいお願いになるのですが…私も桐仁様とご一緒に…」
桜子がそう言いかけた時、客室の扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
桐仁が促せば、ゆっくり扉が開かれ、疾風が部屋に入室した。言いつけ通り着物を女中に手渡してきたのだろうが思ったより来るのが遅かったな、と桐仁は心の中で思った。
「…疾風、お前」
桜子は一際低く脅すような声で疾風を睨みつけた。話を遮られたことがかなり頭にきているようだったが桐仁にも疾風にも桜子が怒っている理由を理解できなくてポカンとしてしまった。
「桜子ちゃんどうしたの?気分でも悪い?」
心配そうに桜子に駆け寄る疾風を更に険しい表情で睨み付けると、疾風への嫌悪感を隠しもせず直球に言葉をぶつけてきた。
「お前、私と桐仁様の二人だけの時間をよくもぶち壊してくれたわね」
「二人だけのって、桜子ちゃんの御付きもいるじゃん」
「うちのは呼ばれた時以外口を聞かないよう言いつけてるの。お前みたい不躾に出しゃ張ったりしないのよ!」
人が変わったように捲し立てる桜子にたじろぐ疾風。
「うう…ごめん」
「分かったならさっさと出て行きなさい。私と桐仁様は今とても大事な話をしているのよ」
「で、でも…」
疾風がチラリと桐仁を見る。
そんな助けて欲しそうな目で見られるのは困るが、このままでは話も進まなさそうだったので桐仁は渋々助け舟をだしてやった。
「すまない、こちらも暇ではないのだ。疾風への暴言はその辺にして早急に話を済ませてくれ」
「き、桐仁様…!?申し訳ございません…分かりました」
悔しそうに表情を歪めた桜子だったが、流石に桐仁に逆らおうという気はないようで素直に従った。
「そ、それで、その久里子村への調査に是非私もお供させて下さいませ」
「…ああ構わない。というか、人手が欲しいので助力の申し出は非常に助かる」
「…っ!は、はい!桐仁様のお力になれるよう精一杯頑張ります!」
嬉しそうに笑う桜子を微笑まし気に見つめる疾風。
「疾風、お前も来てくれ」
「えっ」
「えっ!?え、き、桐仁様ご冗談を…」
狼狽える桜子を無視して桐仁は疾風に向き直った。
「人手が欲しいと言っただろ。其方等二人で久里子村に行ってきて欲しい」
「……??あの、仰っている意味が分かりません」
困惑した表情で桜子が問いかけてくる。
「何がだ」
「ふ、二手に分かれて調査することに異論はありません。効率化を図るならその判断は正しいと思われます。ただ何故私と疾風が組むことになるのですか?私は桐仁様とご一緒しとうございます!」
表情を強張らせながら桜子が抗議した。しかし桐仁はそれに応じる素振りを全く示さず、逆に冷徹な目を桜子に向けた。
桜子は怯えたように体をビクリとさせ、俯いた。
「仕事に私情を持ち込む奴が私は好かない。これは北条家からの命令だと思ってくれて構わない。わたしがお前たち二人で向かえと言ったら向かえ。わたしはもう一つの廃村に一人で向かう。わたしに着いて行きたいと大口を叩くのであれば私の足を引っ張らない程度に力をつけてからにしなさい」
「…はい…申し訳…ございません、でした」
「桜子ちゃん…」
実際足手纏いになるのは桜子自身も分かっていた。桐仁にとって他人の助けなんて必要ない。そう言わせる程に彼は優秀な祓い師なのだ。彼以上に優れた祓い師を桜子は知らない。
桐仁に追いつきたくて必死にもがいてきたが天才に追いつくためには生半可な努力だけでは到底不可能なのだ。ただ、彼の実力も死に物狂いの鍛錬を積み上げた努力の結果であるから、桜子は桐仁を心の底から尊敬しているのだ。
好きな人に頼りにされたい。好きな人を傍で支えて差し上げたい。でも、自分がどれ程そう願っていても相手にとってそれが目障りであるのならそれはただのお節介だ。
「あ、あのそういえば桐仁様、先程久子様が護り飾りがひとつ足りないと叫んでおられましたがどこかに落とされたのですか?」
重くなった空気の流れを変えようと疾風が話題を変えた。
護り飾り…。祓い師が身に纏う宝具のひとつである。その飾りを身に付けることによって薄い結界が体全体を覆い、妖怪や怨霊に襲われた際、一度だけ身を守ってくれる。
これらは市場で売られている物ではなく、特別に職人があしらった貴重なもの。祓い師の一族と帝、その奥方や娘息子といった特別な者しか持つことを許されていない宝具である。
その貴重な宝具を失くしたなど、由々しき事態である。
「それなら譲った」
「ゆ、譲っ…え?譲った??だ、誰にですか!?」
「恩人にだ」
「お、恩人…ですか?」
桐仁は昨日、行き倒れていたところを助けてくれた旅人たちの話を二人に聞かせた。勿論、旅人の中に妖怪がいたことは伏せて。
話を聞きながら疾風は終始狼狽えていたが桜子は納得したようにはっきりと頷き、とろけるような笑みを浮かべた。
「流石は桐仁様です。我々にとって命と同等とも言える護り飾りを貧民に譲るだなんて、なんて懐の深いお方でしょう。そんな方の許嫁であることを心から誇りに思います」
この娘のこういうところが桐仁は好かないのだが、指摘するのも面倒なので適当に足らい、久里子村と廃村へ行く予定を立てる為の話し合いを行うことにした。
明日は桜子と疾風が除霊の仕事が入っているということで、結局二日後の早朝に向かうことが決まった。
桐仁からの叱責を受け、気持ちを切り替えた桜子は久里子村へ向かう準備に取り掛かるということで少し早めに帰宅した。
それから暫くして夕食の時刻になり、疾風と共に食堂に向かった。
客室を出てだだっ広い廊下を暫く歩けば鶯と梅の木が描かれた襖が見えてきた。
中に入れば叔父と叔母は既に食事の最中のようで、桐仁の姿が見えたことで二人共食事の手を止めた。
「桐仁さん、思っていたより早かったわね。桜子さんはもうお帰りに?」
湯呑みを持ちながら久子がこちらに顔を向けた。
「はい」
桐仁は短く返答すると自分用に空けてある藤色の座布団に座った。
ハァ…と態とらしいため息を吐いた久子は湯呑みに入ったお茶をひと口飲むと、箸を手に取って食事を再開した。
桐仁は女中が料理を並べ終えるのを待って、食事を始めようと箸に手を伸ばした。上座に座る男が箸を置いて桐仁を見た。
「桐仁、もう体調は大事ないのか?」
そう問いかけてくるのは祓い師の一族、現当主及川兼人である。今は亡き桐仁の父秋人とは同い年だそうだが仲はそれ程良くはなく一緒に遊んだ思い出もないと言っていた。
桐仁は視線を一度足元に落とし、誰にも気づかれないよう小さく深呼吸をすると、両の口端を無理矢理上げて兼人に向き直った。
「御心遣い、痛み入ります。先程少しだけ部屋で休ませて頂いたので、もうご心配には及びませぬ」
声は、震えていなかったろうか。
「そうか。一人で多くの仕事をこなすのは相当な重荷かもしれないが、これもお国の為、延いては国民が安心して平和に暮らすことができる世を作る為だ。これからも精進して励むように」
「勿論でございます、これからも誠心誠意努めて参ります」
「うむ」
自分は今日も昨日も屋敷から一歩も出ていないくせによくもそんな偉そうなことが言えたものだ。
相手にそれだけのことを求めるなら、それ相応の行動を己が示してから言うべきだろう。
「また依頼が溜まっている。明日からも早速向かってくれ」
「承知いたしました」
先程十分休んだのだからもう休む必要はない、と。
久子のご機嫌な笑い声が耳障りに耳に響いく。
眠い、足が痛い、頭も痛い、凄くお腹が空いている。そんな状況下であってもこの一族の一人であるなら何に置いてもお祓い様を立てるより優先することなどありはしない。
空腹で目眩がしていてもお祓い様がこちらの事情を察して気遣ってくれることはない。話しかけてくるなら笑顔でそれに付き合わなければならない。
どんなに無能な当主であろうと逆らうことは許されない。
何故ならお祓い様は神の子であるからだ。
この国は神を酔狂なまでに信仰している。
お祓い様の言葉は神の言葉と同義であると、天神に愛された人であると、信じている。
信じることで自分の心が救われているのだと。
そう、信じたいのだと思う。
会ったことも見たこともない神を、本当にいるのかすら疑わしい神の存在を信じている。
(ああ…馬鹿馬鹿しい………)
桐仁は本音とは裏腹に最大限の笑顔を浮かべて見せた。
お読み頂きありがとうございます!
ギリギリ四月中に更新できて良かった…。
次話も半分以上書き上げてますので早めの更新ができるよう頑張ります!!