拾陸 地獄のはじまり
「姉上」
咽せ返る血の匂いに心臓が冷え切る感覚を覚える。喉の奥が引き攣って声が出ない。体の震えが止まらず、恐怖で動悸が激しくなり、うまく息が吸えなくなった。
都子は目の前に広がっている光景が夢であることをどうしようもなく願わずにはいられなかった。
「…ち、父…う、え」
腹を刃物で抉られた状態で絶命している父親の亡骸を前に漸く出てきた声は最早、息に近い音だった。父の亡骸の近くで佇む白い髪の少年。肩程の長さの髪が酷く乱れている。目は淀んで、真っ白だった寝着は返り血を大量に浴びて鮮やかな朱色に染まっていた。手に持っている刀から鮮血が畳の上に滴り落ちる。父を殺したのがこの少年であることは誰が見ても明らかだった。
都子はこの少年を知っていた。
つい先ほど都の街中で倒れていた少年だったからだ。
ただ、街で助けた少年と今目の前にいる少年が同一人物であるとは俄かに信じ難かった。
まず、今自分が居る場所がどこなのかも分からない。どこかのお屋敷の一室のようだが、都子はこんな所を知らない。
そして、街で倒れていた少年は身体中傷だらけでとても痛ましかったが、今目の前に立っている少年はその比ではなかった。身体には古傷の他に真新しい傷が無数にあって、打撲跡で所々青紫色に変色している。左手の指が本来なら曲がらないであろう方向に折れ曲がっており、刀を持っている方の手は指が何本か斬り落とされたような痛ましい跡が残っている。元々は綺麗な顔立ちであっただろう顔には死ぬまで消えないであろう深い傷跡が至る所に残っていた。脚は着物で隠れて見えないが、相当な傷があることは見なくても分かった。
十歳前後と思われるこの幼い少年がここまでの傷を作った理由を都子は知らない。想像することもできない。ここで勝手に憶測することは無神経なことだと思ってしまうくらいに、彼の心境を想像だけで推し量ることはできないと実感してしまう。
少年は立ちすくむ都子に気がついたのかこちらを振り返った。
「…っ」
都子は喉が引き攣るような苦しい感覚に襲われた。
静かに涙を流す少年から目を晒せなかった。少年はこちらに対して動揺の色すら見せない。
少年は刀を鞘に収め、その場に静かに座した。畳の上に刀を置いて都子を一瞥すると、ゆっくりと頭を垂れ、床に額をついた。
「姉上、此度の件は全てわたくしの不徳に致す所でございます。この様な惨事を御目に触れさせてしまったこと、心からお詫び申し上げます」
その言葉を聞いて、呆気にとられた都子は力なく床にへたり込んだ。
この少年は、自分の犯した罪の重さを分かっている。自分が間違えたことをしているという自覚も、人を殺めたことでこの先自分に待っているであろう未来も。それらを全て分かっていた上で腹を括っているのだ。自分が処罰され、斬首される未来が待っていようと、やらずにはいられなかった。逃げることは初めから眼中にない。この歳の子供が、死罪を覚悟で親を殺したのだ。
(…親?)
都子は少年と父を交互に見る。
何故、父とこの少年が親子であると分かったのだろう。父の子は都子ただ一人のはず。父から弟がいるという話は聞かされたことがない。
今目の前に倒れている亡骸は都子の父とそっくりだった。身なりが良く、体つきは記憶の中のそれよりも少しがっしりしてはいるが父その人であることは見間違えようがない。だが、何故ここに父の亡骸がある?何故、この少年は父を殺した?父とこの少年に何の繋がりがあるというのか。
(…分からない)
考えても分からないことだったが、不思議とそれほど混乱はしなかった。何故かは分からないけれど。
これは、この先起こる未来だろうか。いや、違うだろう。
少年は都子を''姉上''と言った。ならばこれは都子の記憶でも、この先都子が遭遇する事件でもなく、どういう訳か定かではないが今、都子は誰かの記憶の断片を見ているのだ。
その記憶の中で父が殺された。
「姉上にご迷惑はおかけしませぬ。これから兼人様の元へ行き、自訴致します。最後まで至らぬ弟で誠に申し訳ございませんでした」
都子の身体が勝手に動く。
記憶の持ち主が動き出したのだろう。
そのまま覚束ない足取りで頭を下げ続ける少年の元まで這って行き、少年の着物の袖を掴んだ。
「…姉上…?」
少年は顔を上げて都子を見た。
記憶の持ち主は歯を食い縛って両手で少年を引き寄せるように強く抱きしめた。
抱き寄せた時、少年のあまりの身体の細さに身が震えた。愕然としてとても恐ろしくなった。
「…!?」
少年は意表を突かれたように少しだけ驚いた顔を見せた。
「わ、私が何とかするから…だから…お前は、何もしなくていい…何もしなくていいから……死なないで…お前まで…死ぬのは…お願い…おね、がい」
鬼気迫る表情で訴える。目は血走っていて、身体は痙攣したように震えが止まらない。
まるで呪いの言葉のようだと都子は思った。絶望に瀕したこの状況下、弟の罪を理解する判断力は今の記憶の持ち主には持ち合わせていない。
抱きしめる腕の力は相当なものだったろう。でも、少年はその腕を振り解いたりはしなかった。いや、そうなのではなく、ただ無気力なだけだったのかもしれない。全てを諦めているようにも見えた。
記憶の主は堪え切れなくなってわんわん泣きながら少年を抱きしめ続けた。
暫くすると啜り泣く声の主が変わったことに気がついた。
顔を上げると腕の中にいた少年の姿はなくなっており、辺りの景色は奇妙な程真っ白な空間に変わっていた。
「…どこ……えっ」
さっきまで自分の意思で言葉を発せられなかったのに、この空間ではそれが可能になっていることに気がつく。
「な、何が起きてるの…?」
訳が分からなくて目眩がしてきた。
取り敢えず状況を把握しようと都子は立ち上がって辺りを見渡した。白いだけの空間には自分の他にもう一人の姿があった。
白い長髪に、紅白の巫女衣装に身を包んだ幼い少女が地面にへたり込んで顔を俯けて泣いている。
心臓が嫌な音を立てた。
啜り泣く少女が自分の姿にとてもよく似ていた。髪型は違うが、姿形といい、啜り泣く声といい、あまりに似過ぎていて気味が悪い。
「…ねぇ、どうしたの」
恐る恐る自分とよく似た少女に近づき、目線が合うようにしゃがみ込んで声をかけた。
しかし、少女は都子の声が聞こえていないのか、こちらに気づく素振りも見せず泣き続けている。
「…?」
この距離で聞こえないはずはない。
都子は首を傾げて少女を見つめた。
酷く泣き腫らした目からは大粒の涙が止め処なく溢れては零れ落ちている。
(どうしてこんなに泣いてるんだろう…)
知らない人…だと思う。ただ見た目が自分に似過ぎているからなのか、どうにもこの少女のことが気になって仕方がない。
都子は少女の頭に手を伸ばし、優しく撫でてやった。
(んん?)
確かに少女の頭を撫でている筈なのだが、空中で手を動かしているだけのような、何もないところに手を伸ばしているかのような、確かにそこに居るのに感触を一切感じられなかった。生き物の温かさも、髪の毛の感触も、何も感じない。
「…っ」
都子は伸ばした手を引っ込めた。
ここは一体どこで、この少女は一体何者なのか。
悪い夢なら早く醒めて欲しい。
だが、何故か都子は先程からこの空間で自分にはここで成すべきことがあるのではないかという気がしていた。根拠はない。ただの勘だ。
おかしな状況ではあるが、何故今ここに自分がいるのか、理由があるはずなのだ。取り敢えず冷静になって考えなければと思い、都子は一度深く深呼吸をして立ち上がった。
「…あれ?」
先程まで何もなかった白い空間に何かが大量に散らばっている。
少し遠い所にある所為で目を凝らして見ても何があるかまでは分からなかったが、あそこに何かあるのは確実だった。
都子は一度少女を見遣り、聞こえないだろうが、「ちょっと行ってくるね」と言い残して駆け足で向かった。
不思議といくら走っても息が切れることがなかった。変なことしかない空間だ。もうこれくらいのことで一々驚いていられない。お陰で思ったより早く到着できそうだと前向きに考えた方が心の余裕的にもずっと楽だと思った。
目的の場所に到着した都子は散らばった物を見渡してぽかんと口を開けた。
そこにあったのは乱雑に積み上げられた本の山だった。どれも白い表紙の本ばかりで、所々色褪せて黄ばんだ本もたくさんあった。
都子は何となく目に留まった一冊の本を手に取った。ざっと見た限りではこの本がこの中では一番古いようで汚れや傷みが激しかった。
「うーん、でも読めないんだよなぁ…」
そう言いながら都子は本を開いた。
「あれ…?」
『これらの書き記したものは全て私が犯した罪の数々である。』
(…読めるぞ、何で?)
どうして読めるのだろう。
この空間の中ではできないことすら可能になるのだろうか。都合の良い空間だなぁと都子は思ったが、すらすら本を読める感動がその違和感を速攻で掻き消した。
『私は、与えられたものの大きさを理解することができなかった愚鈍な人間です。人と違う存在であることに何の疑問も抱かず、何も考えずのうのうと生きていた愚かな人間です。この力をなぜ自分が得ることができたのか考えることもせず、今になって漸く思い知ったのです。私がそれに気づいた時にはもう何もかもが遅すぎました』
随分と自虐的な文章だと都子は読み進めながらそう思った。
一体この本を書いた人物は何に対して懺悔し、悔いているのだろうか。
都子はふと、この白い空間で初めて目にした少女のことを思い出した。目がパンパンに腫れる程泣きじゃくっていたあの姿。あの少女はただ単純に何か悲しいことがあって泣いていたのか、誰かに叱られて泣いていたのか。きっとどれも違う。
(恐らくこの本はあの子のものだ)
誰かがそう言った訳じゃないし本人がこれを書いたと言った訳でもない。だが、都子には妙な確信があった。根拠も理由も何もないけれど、多分、この予想は間違っていないと思う。
この白い空間に、都子と少女と大量の本の山だけが揃っている。少女と意思の疎通はできない。手がかりは本だけ。
都子は本を読み進めていった。
途中、文字がぼやけた気がして瞬間的に現実に戻るのだろうと直感した。
***
「ん…」
ズキリと痛む頭を抑えながら重い瞼を開くと、そこには見慣れない景色が広がっていた。
都子はほうと息を吐くとゆっくりと上体を起こし、枕の横に畳んで置かれていた襟巻きを首に巻き直した。
「…白さん、いますか?」
返事はない。
どうやらここは何処かの宿の一室のようで、狭い四畳間の部屋に布団が二組敷かれ、右隣に白髪の少年が穏やかな寝息を立てて眠っていた。
既に傷の手当てがされており、旅装束から寝着に着替えさせられていた。白が手当てをしたのだろうか。
(いや、あの人がやる訳ないな)
何となくだがあの男は情けで動くような人ではないと思う。やりたくないこと、必要ないと判断したものは自分からは絶対に手をつけない。会って間もないけれど彼の無情さは会話をした時に漂っていた人となりから充分想像ができた。
(じゃあこの手当ては誰がしたんだろう)
「都子ー!!起きたのっ!?」
聞き慣れた幼い声が聞こえて振り返ると、涙で顔をべしょべしょに濡らした飛虎が襖前に立ちすくんでいた。前にも似たような展開を見たような気がする。これが既視感というものだろうか。いや、既視感とは一度も体験してないのにあたかもすでに体験したかのように感じることだったか?と、どうでも良いことをぼーっと考えていると飛虎が勢い良く都子の胸に飛び込んできた。
「どわっ!?」
「いつまで経っても都子が宿に帰ってこないから心配したんだよ!?仔狼が街を探し回ってたんだけど全然見つからなくて…。でね、よくよく考えたら僕と都子って出会った時にお札で契約を交わしてたの覚えてるでしょ?あれのお陰で都子の気配を何となく感じることができたんだ。見つけた時、繁華街から随分と離れた所でこの男の子と寄り添うように眠っていたんだよ。凄くびっくりしたんだから…」
あのお札は恩師から譲って貰った貴重なお札だった。使ったことがない術でも一度だけなら見様見真似で発動できる非常に便利なお札だ。残念ながら恩師も一枚だけしか所持しておらず、大変貴重なもの故、都子も貰うのを躊躇った程だったが、恩師はこのお札が都子の助けになるだろうから持っていなさいと言って旅立ちの日に餞別として渡されたのだった。
都子が発動した術は『御霊契約』といって、術者と対象者の魂を結びつけるというものだ。大抵は実体を持たない力の弱い神様が妖怪と交わし合う契約であり、それを行うことで互いの力を補い合うというものである。人間である都子が契約を交わすこと自体今までに例がないことだった。
それが可能になると、実体がない神様は体を持つことが可能となり、力も増す。ただ、契約を交わすと魂同士が結びつくので片方が死ねば、もう片方も道連れとなってしまうのが難点だった。
どんな神であっても妖怪より力が劣る者はそういるものではない。妖怪より力がある神様が妖怪を護る代わりに実体を手にすることができる。術をかける者の力が強い程魂の結びつきはより強固なものとなり、離れていても互いの気配を感じ取ることが可能となる。
力の弱い神様が実体を求める理由は、単純に力が増すというだけではない。実体がない状態とはいわば意識しか存在しないということで、決められた位置から移動することも外敵から襲われた際に対抗することも出来ない無力な状態なのだ。
だから、どれだけ面倒な契約に縛られたとしても実体を得て自由を手に入れたいと思うのだろう。
ただ、神様はある程度神威がないと気づいてもらうことは不可能に近い。契約さえ完了してしまえば、神様と妖怪とで互いの気を同調させ合うことで神の姿を視認させることは可能ではあるが、その際、神様は気と同時に神威も必要である為神の力が弱い者は長時間の同調が難しい。故に飛虎は折角実体を手にしても普段は同調することを我慢せざるを得なかった。
「えっと…。私とこの子の他にもう一人男の人がいなかった?兎のお面を被した人なんだけど…」
「え?いなかったと思う…。仔狼も何も言ってなかったし…」
「そっか…。仔狼はどこ?」
「ご飯作ってるよ。ここの宿、格安だから食事は各自でしてくれって言われてるんだ」
都子は少年に向き直る。呼吸も正常だし、熱もないようだ。
「私、ご飯食べたらこの部屋出るよ」
「うん。ちょっと無理して向かいの部屋も借りたから暫くはそこにいなよ。看病は僕と仔狼でやるから。子供だけどこの子も祓い師に違いはないし、都子の顔を見られるわけにはいかないからね」
「苦労をかけてごめんね」
「もう慣れたよ。ご飯食べながらで良いから僕たちと離れた後のことを話してくれる?」
「うん、分かった」
都子は別室で仔狼が用意した握り飯を食べながら先程までの出来事を話した。
資料館へ行ったこと、途中眠気に襲われて資料館で居眠りしてしまったこと、いつの間にか気づいたら資料館からも表通りからも遠く離れた所に立っていたこと、何故か持ち出し厳禁の本を無断で持ってきてしまって資料館の館長に怒られてしまったこと、怨霊に襲われていたところを兎のお面をつけた大天義とかいう男に助けられたこと、白い髪の少年が倒れていたのを見つけて手当てをしようとしたらまた眠気に襲われて眠ってしまい、その後宿で目を覚ましたこと。それと、変な夢とその内容も簡単に話した。
「夢遊病とは違う気がするなぁ。あと、夢に出てきた都子そっくりの女の子のことも気になるね」
「夢にあの少年が出てきたのも何か理由がありそうだな。本当に都子の父親を殺したというのならかなり危険な人物に違いないぞ」
「でも父様は…」
都子は言いかけて思い留まる。
都子は故郷の村がある伊代国を出てから一度も父と会っていない。とある事件が起き、都子と父はお互い別々の道を歩まねばならなくなったからだ。ただ、奇妙なことに都子は村を出た時の記憶が抜け落ちたかのように何一つ憶えていないのだ。だから、今父がどこでどのように生きているのか都子は知らない。
今でも鮮明に思い出せる夢の中での父の無惨な姿。
父との楽しかった思い出はほとんどない。親子らしい会話もろくに出来なかった。それでも家族としての情がない訳じゃない。
(…ああ、駄目だ)
頭を振って思考を遮る。
たかが夢だろう。夢で人を殺していたからこの人は危険だと判断してしまうのは余りに馬鹿げた話である。そんな理由で死にかけの人を見過ごすことなんてできない。
面倒ごとには極力関わり合いになりたくない。
出来るだけ楽に生きていきたい。
故郷を逃げ出してから、都子はずっとそう思いながら生きてきた。
でも、何だかんだ言って自分から首を突っ込んで行ってるのも事実なわけで…。我ながら随分とお人好しだよなぁ…と思ってしまう程に。
それでも手を出さずにはいられない。
『命』とは大事にしなきゃいけないものだと教わったから。
お読み頂きありがとうございます!
前回から少し日が空いてしまいました…。
超絶マイペース更新ですが完結まで書き切る所存で御座いますのでどうかよろしくお願い致します!!
この更新ペースでは一体何年かかるやら…。