拾伍 白
──お…さん!じょ…さ、お…さん
どこからか人の声がする。
妙に頭がふわふわする。不思議な感覚だ。
これは夢?
ああ、まだ眠いから寝かせて欲しいんだけど…。
「お嬢さん!!困りますよ!!」
「…ふぁ…っ?」
間抜けな第一声を発して都子は意識を取り戻した。
目の前に広がった見覚えのない景色と自分の状況を理解できず固まる。
「…あ…え?どこ…??」
辺りを見渡す。
どうやらここは民家が立ち並ぶ通りのようだった。資料館からも繁華街からはかなり外れた場所のようで辺りは薄暗く人気も少ない。
「お嬢さん、聞いてます!?」
「は、はひっ!?」
突然肩を掴まれビクッと身体が跳ね上がった。振り返ると血相変えた資料館の館長が立っていて、酷く焦った様子で都子を睨んでいた。
何か怒らせるようなことをしてしまっただろうかと動揺するも、ふととある違和感に気づく。
「あ、あれ…?私いつの間に外に出て…??」
確か、今日は資料館で調べ物をしていた筈だ。字が読めなくてどうしようもないから本を片して帰ろうかと思っていた時、強烈な眠気に襲われてそのまま居眠りしてしまった…ような気がする。
記憶が混濁していて正確な状況が中々思い出せない。ただ、一つ確かなのは自分の意思で資料館の外には出ていないということだ。しかし、今自分は資料館から遠く離れた所に立っている訳で。
「お嬢さん、本返して下さい」
「えっ」
館長に言われて初めて自分が本を持っていたことに気がついた。かなり分厚い本で重たい。どうして今まで気づかなかったのだろう。ますます訳が分からなくて眉間に皺が寄る。
「この本は持ち出し厳禁の資料なので持っていかれると非常に困るんです」
「す、すみません。でも、こんな本見覚えがなくて…」
赤い表紙に龍が描かれた本。こんな本、資料館で読んだ記憶はないし触ってもいない。
都子の混乱した表情に館長まで困ったように眉根を寄せ、首を傾げた。
「寝ぼけてたんですか?」
「わ、分かりません」
何が何だか分からないが取り敢えず本は返却した。館長は心配そうに都子を見ていたが仕事を放って追いかけてきたようで急いで資料館に戻って行った。
「む、夢遊病…かな」
前に知り合いに教えてもらったことがある。無意識の状態で起き出して、歩き回ったり何かをしたりしているが、その後はすぐまた眠りについて、起きたらそのことを全て忘れているとかいうものだったような気がする。
「疲れてるのかな…。やっぱ宿で休んでた方が良かったかも」
今の体調はそこまで悪くはない。少し眠ったからだろうか、身体は結構元気だったりする。霊も視界に入れなければそこまで不快ではないし、大抵の霊はこちらから接触しなければ関わってくることもない。
「とりあえず大通りの方に戻った方がいいかな…」
ここからだと宿への道が分からないから一度繁華街の方に出てから宿に向かった方が良い。思いの外この街に長居してしまったことへの後悔と無意識に行動してしまった自分の状況に頭が混乱しそうだったが、余計なことは考えずにおくべきだろう。今は体調が良いけれどいつ悪化するか自分でも分からないのだ。
不便な体だなぁ、と心の中で不平をぼやく。
「わっ!!」
突然何かにぶつかった。勢い余って尻餅をついてしまった都子はくらりと軽い目眩を覚えて頭を抑えた。
頭上から「大丈夫ですか」と声がする。
「あー…だ、大丈夫…です。ぶつかってすみません」
全然大丈夫じゃないけど。
グッと足に力を入れて立ちあがろうとしたが何故かうまく足に力が入らない。
すると目の前にスッと手が差し出された。手助けのつもりだろうか。都子は有り難くその手に右腕を伸ばした。
「ありがとうござ──」
──触れた瞬間、掌に冷やりとした感覚が伝わり、ゾクリと全身に寒気が走った。
「……ひっ…!?」
快調が一変、突然割れるような頭痛に襲われ平衡感覚を失う。
気持ち悪いなんて言葉では片付けられない不快感に気を失いかけるも、歯を食いしばって辛うじて意識は保った。だが、視界が歪んでいて不快感の存在であろう目の前の人を視認することができない。この尋常じゃない寒気と不快感の原因が目の前の何者かであることは確実であり、本当にそこにいるのは人なのかかどうかも疑わしい。
「は、離…して」
何度も手を引っ込めようと腕に力を込めているが、その抵抗も虚しく、どんどん引き寄せられている。近づく度に不快感と吐き気が増す。
言葉にできない恐怖に都子は我を忘れて叫ぶ。
「ちょ…と!!!何なの…!?離せって言ってんでしょ!!あ…ぅあ"…やだやだやだ気持ち悪い!!」
腕を引き抜こうと力の限りもがく。そんな都子に異様な目を向けて横を素通りして行く通行人。都子を気でもおかしくなったのだろうかと、奇異なものを見るような目で見ていた。誰も都子を助けようとしない。その気味の悪さと苛立ちが都子の恐怖心を更に煽っていく。
「何見て見ぬ振りしてんの!?助けてよ…っ!!うぐっ」
ズボッと二の腕が黒い塊に埋もれる。
そこで初めて自分を引っ張っている存在が何なのかに気づく。
「……は、は…ぁ??」
周りが都子をおかしい人だと思ってしまうのも仕方ないことだと理解する。周りには都子以外見えていないのだから、''助ける''なんてできる訳がないのだ。
目の前にいるのは熊のような大きさの真っ黒な塊、''怨霊''であった。
「ちょっ…待って…あ、うぅ…何もう…こいつ力強過ぎ…っ…」
飲み込まれた腕に既に感覚はない。力一杯引き抜こうとしているけれど実際は力なんて入っていないかもしれない。
右腕は完全に怨霊に呑み込まれた。ズブズブと身体も黒い塊に沈んでいく。
─── 死。
そう悟った瞬間、不思議なことに先ほどまでの吐きそうなほどの不快感が急速に失せていった。
漠然と浮かんだその言葉が精神安定剤かのように荒立っていた心が落ち着いていくのが分かった。
それと同時に都子は無意識に体の力を抜いていた。
グンッと呑み込まれる速度が上がり、一気に右半身が飲み込まれた。
この怨霊に呑み込まれたら、恐らく、死ぬ。
「…静……くん」
死を受け入れようと瞳を閉じかけたその時、一気に視界が晴れた。
目の前の真っ黒な塊が焦げかすのように散り散りになって地面に落ちていく。
都子は力なく地面に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
感情のない淡々とした声が頭上から聞こえた。
見上げるとそこには白兎の面を付けた男が立っていた。
顔は面で隠れていて見えないが、着物が男物だったので恐らく男だろう。肩まで伸びた黒い髪を後ろで一つに纏めた髪型、地毛より長い赤い髪紐で結わえており、彼が身動きする度にゆらゆらと紐が揺れた。上等な生地であるのは一眼で分かる滑らかな白地の着物を身につけ、赤い帯を巻き、その上からは目が冴えるような赤い羽織を羽織っていた。
十六歳前後の背丈ではあるが妙に雰囲気が落ち着いているというか、今目の前に存在しているのに生気をまるで感じないというか、上手く言葉にできないが、不思議な空気を纏う人だと感じた。
それと、この人の周りだけ異様なくらい空気が澄んでいる気がした。淀んだ瘴気の気配を一切感じない。入る隙さえないと思わせるほどに圧倒的な癒し。
この人は一体何者なのだろう。
「……だ、れ…」
掠れた声が漏れた。
「……」
兎の面の男は都子の質問には答えなかった。暫くの沈黙の後、男は口を開いた。
「変わった呪いをかけてますね。相当辛そうに見受けられるのですが日常生活に支障はないんですか?」
こちらの質問に答えてくれる訳ではないようだ。都子の声が聞こえていなかったのか、それとも単に無視しただけなのか。
ただ、酷く感情の篭っていない話し方だなとは思った。質問をしているのだからこちらに興味があってしているのだろうけれど、心底どうでも良いような、微塵も興味を持っていないようなとても奇妙な声色だった。人ってここまで無感情に話せるものだろうか。
(この人、何だろう…何か)
足に力が入らなくてずっと座り込んでいたが、いつの間にか体調も回復していたようで難なく立ち上がることができた。
都子はなるべく男から距離を取って質問に答えた。
「呪い…何のことですか」
呪い…。何となく何について聞かれているのかは分かっていたが、はぐらかした。
「ああ、こちからから質問しておいてあれなんですが僕に隠し事は通用しないので。まぁ、その呪いで死ぬことはないようですし、助けてあげたりとかはしませんけどね、面倒ですし。あ、誰かに話したりとかはしないのでご心配なく」
「……は?」
この人が何を言っているのかさっぱり分からない。隠し事ができないとはどういうことだろう。彼は人の心が読めるということだろうか。それともただのはったりか。
「…貴方は誰ですか」
もう一度質問をしてみる。
「僕ですか?周りからは大天義と呼ばれていますがそれ以外でならお好きに呼んで頂いて構いませんよ。嫌いなんですよね、この名前」
今度は質問に答えてくれた。
しかし大天義とは随分と偉そうな名前である。日雛国に伝わる天神伝説に出てくる神々の名前の一つじゃないか。
前に恩師から教えてもらったのだ。この世を作った四人の神様の話を。
白楽天、初姫、水泉命、大天義の四人。彼らはそれぞれ世界、大地、海、命を創り上げたと言われている。
日雛国の人々にとって絶対的崇拝対象にあるお祓い様はこの四人の天神様に愛された人であると信じられているそうだ。
まぁ、何であれこいつが神様の名前を名乗る罰当たりな奴ということだけは分かった。百歩譲ってもし本当に男の名前が大天義であったとしても嫌いな名前だから別の名前で呼んで欲しいだなんて、都子相手だったから良かったものの神様信仰の強い日雛の民がそれを聞いたらどんな嫌味を言われるか分かったものではない。どんな些細なことだろうと軽々しく神を冒涜する発言は許されないのだ。神の子に救われた国に住む民の敬神崇祖は他国に比べてずっと根強い。
「じゃあ、全体的に白いので白さんと呼びます」
「白…?そんなに白いでしょうか。昔知り合いにも同じことを言われたので赤を足したりしてみたのですが…。まぁ、良いでしょう。はい、それで良いです」
あまりに安直につけた名前だから「適当過ぎるだろ!」と怒られるかと身構えていただけにすんなり受け入れたことに拍子抜けしてしまう。というかこの男、大天義以外の名前だったら何でも良かったのではなかろうか。どんな変てこな名前をつけても怒られない気がしてきた。折角ならもっと変な名前にすれば良かった。
「都子はここに来るのは久しぶりでしょう。懐かしいですか?」
名前を教えていないのに何で知ってるんだという疑問は置いといて、この男は何をおかしなことを言っているのか。
「私、ここに来るのは初めてなんですけど。誰かと間違えてます?」
「いいえ、間違えてませんよ。…そうか、もう一人は眠っているのか。…いや、そういう訳ではない?」
「あの、さっきから何を」
こちらのことは置いてけぼりで一人で勝手に話を進める白。相当自己中なのか、自分本位なのか、そもそも相手のことを考えるということを知らないのか。
「都子、あそこで誰か倒れてますよ」
突然白が遠くを見ながら他人事のように言った。
それを言われて初めて気がつく。
白の指し示す方向には確かに人が倒れていた。倒れている、という表現とは少し違うが、家屋の塀に背を預けた状態で力無く項垂れている状態だった。都子と同じくらいの背丈で、旅装束を着て、数珠やらお守り、宝玉やら装飾品をじゃらじゃら首や手首に下げていた。相当な金持ちの子供だろうか。何故こんな所に、しかも全身泥だらけで倒れているのだろうか。
金持ち…。数珠やお守りからして、もしかして祓い師に関わる人物だろうか。だったら無闇に接触するのはよした方が良いんだろうけれど…。
都子が近寄るのを躊躇っていると白はとてとてと倒れている人物に近づいた。
「…生きてますね。昏睡状態ですが数日はもつでしょう。誰か通りかかった人に運良く助けて貰えることを祈っておきましょう」
「え、た…助けないの?」
「助けませんけど」
何馬鹿なことを聞いてるのか、という返答をされる。
先程、怨霊から都子を救ってくれたのは間違いなく白だ。見ず知らずの人を助けるといっても怨霊相手に返り討ちに合う可能性だってあった訳で。心がない言動が目立っていたが人を助けるという良心的な心は失っていないと思っていただけに今目の前で死にかけている人を見捨てることに躊躇いすらないこの男に恐怖すら抱く。
「どうしましたか、そんな変な顔をして」
「だ、だって…私のことは助けてくれたのに」
「それは、貴方には助けなければならない理由があったからです。でも、その子供には助ける理由がない。見殺しにしたことで僕の仕事が増えてしまうということが面倒ではあるんですが…。まぁ、一人増えたところで大して変わらないので」
(この人…頭おかしい)
「どいて!」
都子は乱暴に白を押し退けて背負っていた風呂敷を地面に降ろした。中から調合した薬や薬草を引っ張り出す。
「白さん、水を汲んできて」
都子は空になった竹筒を白に向かって勢い良く差し出した。
「えー…」
「早く!」
白は面倒臭そうにため息を吐くと、とぼとぼと去って行った。
都子は小さくため息を吐くと、襟巻きで鼻から下を隠した。もし本当に祓い師の関係者だった場合、顔を見られる訳にはいかないからだ。
(…よし)
都子は意を決して子供の頭にかぶさっている笠を取った。勢い余って子供の髪を纏めていた髪紐が解け、腰まで伸びた真っ白な髪が露わになった。真っ直ぐで長い髪がハラハラと垂れる。
(やっぱり…祓い師の子供か)
顔が見えたことでこの子供が少年であることが分かった。
まだ幼さが残る顔は少し窶れていて、顔色もくすんでいた。歳に似合わない古傷が所々にあり、それがとても痛ましい。
取り敢えず日陰を作ろうと、頭上の木の枝に風呂敷を結びつけ、屋根代わりにした。そっと少年を仰向けに寝かせ、着物を剥ぐ。
「取り敢えず体を拭いて傷口を洗って何か食べさせないと…あと水…」
「…あ…ぅ……ぇ」
「!!…意識が戻った!?」
正体がバレないようにと自分に強く念を押していたにも関わらずそんなこともすっかり忘れて、襟巻きから顔が露わになった状態で少年の顔を覗き込んだ。
「あ…ね…うえ…」
ドクンッと心臓が嫌な音を立てた。
彼の声をどこかで聞いたことがある気がした。それも、つい最近。
どこだ…どこで。
考えたがどうしても思い出せなかった。
それと同時に強烈な眠気に襲われる。
(ちょ、今?…っ…今寝るのは不味いって…)
何とか抗おうとしたが睡魔には勝てず、そこで意識がぷつりと切れた。
お読み頂きありがとうございます!
分かりにくい話でごめんなさい!!
白さんは一人で勝手に話して一人で勝手に考えて一人で勝手に完結する人です。自己中とか相手のことを考えていないというより、相手のことを考える必要はないと考えている人です。正に無情ですね。