拾弐 夢
目の前に知らない少年がいる。毛先を綺麗に切り揃えた純白の髪を高い位置に結い上げ、縹色の羽織りを纏い、背筋を正して分厚い本を読んでいる。じっと少年の顔を見つめているが余程読書に夢中なのかこちらの視線には一切気づいていない。
窓から差し込む陽光で少年の髪が淡く煌く。穏やかな風が吹き込み、それに合わせて髪が靡く。
(綺麗だな…)
少年をぼんやりと眺めながらそんなことを思った。
部屋の中は風の吹く音と、少年が本をめくる紙の音しか聞こえない。沈黙の時間が続いていたが不思議と居心地が悪いとは思わなかった。むしろ、とても心が穏やかだった。
ふと、少年が読んでいる本の文字に目にとまった。『術式皆伝』と書かれていた。
(あれ…何で読めるんだろう)
不可解な現象に眉根を寄せる。
字は読めないし、書けないはずだ。そのはず…なんだけど。
「…どうかされましたか?」
急に声を掛けられてびくりと肩を揺らす。声の主は本を読んでいた少年だった。分厚い本は閉じられており、少年の視線はこちらに注がれている。
少年の心配そうにこちらを伺う様子に何と返したら良いものか分からず口を噤んでしまう。
「だったら良いのですが…」
…ん?
返答していないのに、会話が成立している…?
おかしな状況に違和感を覚える。
「お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。本日の勉強は終わりましたのでいつも通り庭に参りましょう」
少年はそう言って微笑んだ。
''いつも通り''とは?見に覚えが全くないがこの少年と知り合いだっただろうか。『いつも』という言葉を使う程一緒にいたのなら覚えていない筈がないと思うのだけれど…。誰か別の人と間違えているのだろうか。
我々が初対面であることを伝えようと口を開きかけるがそれより先に少年が話し始めた。
「…父上でしたら今朝早くに仕事に向かわれたので夜まで戻られません」
少年が不機嫌そうな顔でそう伝える。
また勝手に会話が成立している。それより父の所在など聞いてもいないし考えてもいない。この少年は一体誰と会話をしているのだろう。辺りを見渡しても他に人の姿はない。
「今日は何をして遊びましょう。昨日は父上が御在宅だったせいで遊べなかったので今日は日が暮れるまで思う存分姉上と遊べます。嬉しいです!」
あ、ねう…え……???
この少年が人違いをしていると確信した。自分に弟はいない。母は物心つく前に病死してしまったと父から聞かされていたし、父は母を愛していたのか新しく妻を娶ることは一度としてなかった。
「姉上、お手を」
少年はサッと立ち上がり手を差し出してくる。その動きは姉に対して少々過剰な気遣いなのではと思える程の従順さで、妙な擽ったさを感じつつも差し出された手にそっと触れ、優しく握った。
少年は嬉しそうに手を握り返してきた。少年の手はとても温かかった。
ふと、気がつけば自分の目頭が熱くなっていることに気がついた。気を抜けば涙が溢れてしまいそうだった。
少年のことは知らないはずなのにこの手の温かさには覚えがあった。それどころか、どこか懐かしいとさえ思ってしまった。
「姉上…?」
少年の握る手に力が篭った。
「また声が聞こえるのですか?頭痛はしていませんか?お身体が優れないようだったら医務官を呼んで参ります」
少年が懸命に声をかけてくるがそのほとんどが耳に入ってはこなかった。ただ、この手の温もりを失うことへの圧倒的な恐怖と悲しみが高波のように押し寄せてくる。
離れてはならない、この手を決して離してはならない。
そう、頭の中で警鐘が鳴り響く。
───その瞬間、手の温もりが消え、視界が黒く染まった。
***
「ん…」
重い瞼を開く。仰向けになっていた身体を起こそうと上半身に力を込めた瞬間、骨が軋むような激痛が全身を駆け巡った。
「いっ…!?」
ずきりと頭に鋭い痛みが走る。これはやばいと思った都子はすぐ様仰向けに寝転び掛け布団を頭が隠れるくらい深くかぶった。
怠くて心なしか身体も岩のように重たいような気がする。
「……あれ…ここどこだ…?」
ふと我に返り、布団から顔を出して辺りを見回す。
六畳半程の部屋。木製の長机とその上に蝋燭が灯されている。部屋の隅には都子の荷物が置かれていて、普段着の着物と老婆から貰った襟巻きが部屋干しされていた。着替えた覚えはないが今自分は夜着姿になっていて薄っぺらい布団の中にいる。
「そうだ…私、仔狼の身体を探してて…それで…。それでどうなったんだっけ…?」
記憶が飛んでいるような、切り取られているようなぽっかり穴が空いているような妙な気分だ。
仔狼の新しい身体を見つけた所までは覚えているがその後がどうにも思い出せない。寝起きで頭が働いていないのだろうか。あの後どうなったかも分からない、此処がどこかも分からない、何故今自分は夜着を着ているのかも分からない。分からないことだらけで苛々する。
そういえば飛虎と仔狼はどこだろう。姿が見えない。
「あー…身体いったい…」
身体が痛過ぎて本能が動くことを拒否している。瘴気に当てられて頭痛が長引くことはあれど全身が激痛に襲われるのは今回が初めてだった。動くこともままならない程とは、いよいよ死期が迫ってきたか?死ぬのは良いが痛いのは嫌だ。
それと、何だろう。倒れる直前に何かあったのだろうか、何か胸を締め付けられるような、悲しいような、変な感情がぐるぐるしている。
グーッと腹が鳴った。
いつから寝ていたのか分からないが物凄く腹が減っている。自分では動けないし、飛虎と仔狼の姿は見えないし、どうしたものかと考えていると部屋の襖がバンッと勢い良く開かれた。
「都子!!!飯を持ってきたぞ!!」
「ちょちょちょちょ!!?静かに!!」
「女将が粥を用意してくれたんだ!!俺が食べさせてやるぞ!」
「仔狼」
「ああー良い匂いだ!!先程俺も頂いたのだが女将の粥は絶品だったぞ!!都子もこの良い匂いを嗅げば寝てる場合ではなくなるぞ!!」
「だーかーら!!静かにって!!」
飛虎の声が聞こえているのかいないのか、仔狼は花が咲いたように笑っている。その横で叱りつけている飛虎だったが、都子にとってみれば飛虎の声も同じくらい喧しかった。
布団の中から二人の茶番を眺めていたが、ふと飛虎の視線と絡み合い、暫くの沈黙の後、飛虎は都子の胸に勢い良く飛び込んだ。
「都子、都子大丈夫!?」
「う、うん。記憶がちょっと朧げだけど大丈夫…」
身体は少し…いや、かなり痛いけど。
「そうじゃなくて!!」
うん?そうじゃなくて??
飛虎が青ざめた顔で都子を見つめている。
「都子、何かあったのか?」
先程までお粥を見てうっとりしていた仔狼も、長机にお粥を置いて都子の傍に駆け寄ってきた。
「え…いや、何にもないけど…」
「じゃあ何で泣いてるの!!」
「えっ」
飛虎に指摘されて初めて気づく。
自分の目から止め処なく溢れるものの存在に。泣き過ぎて目は真っ赤に腫れ上がり、頬は涙で濡れ、心なしか身体も熱い気がする。
「わ、分かんない…。何で泣いてるんだろう…」
身体は痛いけどこんなに涙を流す程痛い訳じゃない。起きた時見知らぬ場所に一人だったことへの寂しさで泣いていた訳でもない。
「…そうだ、夢を見たんだ」
「夢?どんな?」
飛虎が聞き返す。
「覚えてない。覚えてない…んだけど、何でだろう…覚えていなきゃいけなかったような気がする…」
どんなに思い出そうと思っても少しも夢の内容を思い出せない。それが、何故かどうしようもなく悲しかった。
「そっか…。大丈夫だよ、大事なことならきっと思い出せるから。知らないことを思い出すことはできないけれど忘れているだけなら何かの拍子に思い出すきっかけがあるはずだよ。だから、もう泣かないで。泣くと更に体力を消耗しちゃうよ。都子は今病人なんだから安静にね」
「うん」
都子は袖で涙を拭った。
身体を労ってゆっくりと上半身を起こす。盆に乗った熱々のお粥を仔狼が都子の前まで運び、食べさせてやる。ほんのり塩味が効いたお粥が空腹の胃にじんわり染み渡る。
「美味しい…」
「都子、すまなかった。俺の呪いが思っていたより多かったみたいで大量の瘴気が溢れてしまったんだ。すぐに飛虎に向かってもらったんだが間に合わなくて…」
新しい身体を得た仔狼は都子の記憶の中の仔狼とは身体の肉付きも身長も別人だった。顔だけは同じだったので仔狼であることはすぐに分かったが。まだ新しい死体だったおかげもあり、多少肉付きが良い。それでもかなり痩せてはいるが、以前の身体は少し力を入れてると折れてしまいそうな程細かったた。それに比べれば見た目的にも良くなったと思う。元々都子の頭ひとつ分くらい高かった身長は今では目線が揃うくらい縮んでいた。死体の元の持ち主が生前ほとんど栄養が取れない生活を送っていた為か、かなり低身長なようだ。
「そういえばその着物どうしたの?」
「ああ、これか。女将が息子の小さくなった着物を一着譲ってくれたんだ。身体を取り替えた時に着物も頂戴したのだが随分と泥や血で汚れていたからとても助かった」
「川で洗ったけど取れなかったんだよね」
流石に血だらけの装いで人通りを歩く訳にはいかず、川で着物を洗ったようだが、完全には落ちず、しかも匂いもかなり酷かったという。
偶然通りかかった村で都子の療養ついでに着物を新調しようと立ち寄ったようだが、この村には人がほとんど住んでおらず服屋もなく、どうしようかと悩んでいた時に宿の親切な女将が不要になった着物を一着分けてくれてという訳だった。
藤色の着物が仔狼に良く似合っていた。
「そうだ、この村ってどの辺りか分かる?」
「えっと女将さんは井落村って言ってたよ。ここからだと日雛の都が近いね」
「私、都に行きたいの!!ちょっと調べたいことがあって」
都子は前のめりになって主張した。元々、日雛の都には立ち寄ろうと決めていたので、ここから近いのであれば好都合だった。
「分かった。じゃあ次の目的地は都だね。でも、都には北条家の屋敷があるよ?大丈夫かな…」
北条家、という名を聞いて少しだけ身体が硬直する。この世の祓い師と呼ばれる者たちの全てが北条家の一族とその分家たちで成り立っていることは国内外問わず誰もが知る話だ。昔から日雛の国は霊も妖怪も全て祓い師が退治してきた。権力も財力も不明だが、ひとつだけ皆が周知していることがある。それは、北条家、つまり本家の当主となる人物はひとつの例外もなくお祓い様が継ぐということだ。どんなに腕の良い祓い師になろうと、どれ程努力を積もうと、そのどれもが全ては無駄なのである。お祓い様になってしまったが最後、強制的に跡取りにされ、強制的に次期当主としての教育が施される。断ることはできない。
お祓い様の力がいつ誰に、どれくらいの期間を空けて発現するのか、都子には分からない。ただお祓い様の力は北条家、またはその分家の一族にのみ発現する能力であるということは知っている。都子が育ったのは伊代国で日雛に来たのは三年前である。都子は北条家と繋がりはないはずだ。だが都子にお祓い様の力が宿ってしまったのは紛れもない事実。つまり、お祓い様になってしまったことで今現在、本家の中に跡取りになれる者がいないことになる。明日にでも一族からお祓い様の力が宿る者が誕生すれば問題ないなのだろうけど、このような力を持つ者が何人も立て続けに生まれる保証はない。そんなことが頻繁に起こっているのならお祓い様という存在を神のように扱うことも、無条件で次期当主にすることもないはずだ。それに都子が日雛の国を旅してる間訪れた村には霊がうじゃうじゃと蔓延り、しかも本家はそれを放置していた。一度も除霊を行ったことがなかった都子でさえあれ程の力を使うことができたのだ。本家にもし、たくさんのお祓い様がいるのなら今この国に悪霊などいるはずがないのだ。今、本家の当主に就いてるお祓い様は何か余程の理由があって悪霊がのたうち回る村を放置せざるを得ないと判断しているのか、それとも単純に都子よりお祓い様の力が弱いのか。
お祓い様の力が宿るのに強いとか弱いとか関係あるのか?と思ったけれどそう考えるしかない状況にあると思う。
今の当主が使えないのなら早々に次期当主を立てないといけないのだろう。だが、今本家にはお祓い様の力を宿した者が現当主以外にいない。当主になれるのはお祓い様だけ。もし、都子がお祓い様だと本家の者、もしくは分家の者に知らられば都子の意思とは関係なく強制的に本家に取り込まれてしまうことは避けられなくなるだろう。一族の人間ではない自分にお祓い様の力が宿ってしまったことについて、分からないことだらけだが、たとえどんな理由があろうと都子に本家を継ぐ気は一切ない。
「北条家とは?」
仔狼が飛虎に尋ねる。
「何百年も続く祓い師の一族だよ。彼らは国民の中でも特にお祓い様信仰が強くてね、都子の力に気付いたらどんな手段を用いても都子を捕縛しにかかると思うんだ」
「除霊はまだ一度しかやったことないし、誤って人前で使ってしまうようなことはないと思う。だけど、飛虎と話すのは…」
「そうだね。都に着いたら取り敢えず僕と都子は会話を控えた方が良いね。それとあまり長居はしないようにしよう」
「分かった」
都子は飛虎の言いつけを心に留める。
それから体調が万全になるまでゆっくり療養し、その二日後、宿を発つことになった。
快晴で絶好の旅立ち日和だ。都子は久しぶりに外に出た開放感に自然と足取りも軽くなる。
赤い襟巻きを首に巻き、荷物が入った風呂敷を抱えて世話になった宿を後にした。
「……」
都子は襟巻きを引き上げ口元を隠し、己の髪を掬い上げた。黒い髪が陽の光に照らされて淡く紫色に煌く。ぐっ…と髪を握り潰すように力を込めてハラリと離した。
「ああ…気持ち悪いなぁ」
溢れ出た声はとても小さく、そして酷く掠れていたせいで足音と風の音で搔き消え誰の耳に届くこともなく消え失せてしまった。
年内に二、三話投稿すると言っていたのは何だったのか…。
超マイペース更新ですみません!!
拾弐話です!次話も半分まで書き上げてますので近いうちに!!