気がつけばエディンバラ
「おい、生きているか」
誰かが顔をはたく。
「大丈夫か」
その言葉は何を意味するか彼にはまったく理解できなかった。
舌を巻いた聞きなれない発音の言葉が聞こえてくる。
目を開けると髭がもじゃもじゃとたらした厳ついおっさんが見えた。
不意に鼻孔に空気が入り込みむせる。
左側を見ると海、目の前に赤ら顔のおっさん、右側を見ると遠くに街が見える。
「ここはどこなんだ」
中年のヒゲ男は全く理解していないという風だった。
びしょ濡れで水を吸った道着が妙に重たく、
眠りから覚めたばかりなのに、体中から疲れを感じられた。
中年の男は(後ほど地元の漁師だと知った)仲間を呼びつけた。
「なんだあ、こいつは」
「さっき浜辺で寝てんのを見つけたんだ。変な恰好をしてんだろ。」
「地元の人間じゃあねえな。異国の野郎か。イングランド人でもアイルランド人でもなさそうだが」
「俺の言葉も理解してねえみたいだ。どうすりゃいい」
「言葉がわかんねえんじゃどうしようもねえよ。お役人に知らせるか。」
「外国船が沈没でもしたんじゃねえか。海賊か、交易船か。武器はもってねえようだが。」
「木の棒っきれはもっていたが。戦えるようなもんじゃねえ。杖かな。」
2人の筋骨隆々の男たちがしゃべり続けている。
だが彼は聞き取ることが全くできない。
白人が話すことばだから英語なのだろうか、と思うが
自分が知っている英語とも思えない。
雰囲気はそれらしいがどこの国の言葉なのだろう。
漁師の一人がどこかへ行き、木のコップを持ってきて彼に渡した。
飲め、ということなのだろう。彼はのどが乾いていたの一気に飲み干した。
が、それは明らかに度数の高いアルコールだった。
むせこみ、血が逆流するかのようだった。
漁師は彼が寒がっているだろうと思って酒を渡したのだ。
実際に海から上がった彼は震えていた。
「ま、とにかく役人様に会ってくるわ」
「おう。早いとこ言葉のわかるやつを連れてきてくれ。
俺はさっさと帰ってゆっくり一杯やりてえんだ。」
まだ日は高いところにあるが。彼らは仕事終わりのようだった。
あっという間に酒が回り、体が温まってきた。
漁師の一人は気まずそうに座って、海を眺めていた。
彼はあたりをキョロキョロと見まわし、ここがどこなのか判別しようとした。
わかることといえば、ここが港の近くだということだけだ。
浜辺から少し離れたところに建物が並んでいるのが見える。
船も見える。建物は石造りかレンガ造りに見える。
なんとなく、中世ヨーロッパのような。そんなところだ。
30分ほどたっただろうか。
彼にはもっと長く感じられたが、漁師とは全く違う身なりの男たちがやってきた。
やはり白人だった。
「ふむ。フランスのスパイというわけではなさそうだな。」
リーダー格といった感じの細身の男が言った。
そして後ろには3人ほど、軽装備と剣を身に着けた男たちが立っていた。
「まったく我々の言葉を理解していないらしいが。他に何か荷物は持っていないのか」
「ええ、俺が見つけた時はその服と、木でできた棒だけでしたよ。異国の杖かなんかですかねえ」
漁師は訝しげに彼を見た。
「とにかく、良く見つけてくれた。君たちは戻っていい。後はこちらで引き受けよう。」
「へえ」
漁師たちは浜辺のほうに歩いて行った。
「スパイなら尋問をしたいが、どうにも君はセオリー通りの姿をしていないな。
わかりやすく目立ちすぎる格好をしている。スパイとは思えない。
どこぞの海賊という風にも見えないな。
ブリテン島周辺で見かける略奪者とは違いすぎている。人種からして。
異国の商船が座礁したか沈没して投げ出された、というところかな。
異国文化に詳しい書記官や蔵書保管担当に渡すしかあるまい。」
役人は彼を見ながら独り言のように話した。
そして指を後ろの兵士に向けてくいっとふると、兵士達が彼に近づいた。
彼の腕を後ろにやり縄をかけた。彼は何もせずに突っ立っていた。
あまりに不可思議な光景と理解の追い付かない状況にあっけにとられていたのだ。
そのまま5人で港の方に歩き出した。
太陽の位置からして、まだ昼の2時や3時といったところだろうか。
いや国の場所によっては日が沈まない地域もある。
これだけではわからないな。かなり涼しい気候ということは確かだ。
水に入れば寒気を感じられる。も
しそうでないなら、ちょうど過ごしやすい季節感といえるかもしれない。
(風邪をひかなきゃいいが)
彼はそれだけが心配ごとだった。
広い敷地の中に建てられている石造りの建物の中に連れていかれた。
というより歩いて連行されている時に見た景色は
想像上の中世ヨーロッパの景色そのものだった。
そしてここが、どうやらヨーロッパのどこかということは確からしかった。
建物の中は湿っぽい感じがした。軽装備の兵士らしき人達の駐留所か、刑務所か。
とにかくあまり世話になりたくないところではあった。
建物には三角屋根の見張り塔ようなものも見つけられた。
部屋の中に入ると椅子に座らされ縄は解かれた。
「さて、と。名前ぐらいは聞いておきたいね。」
たれ目のガチな役人は続ける。
「君はスパイとは疑っていない。
もし高貴な身分だと困るから一応暴力的な対応は今のところしないでおく。
外交や渉外交渉のプロフェッショナルに早馬を飛ばした。
そのうち君の国の言葉を話す役人も来るだろう。」
彼は確かに聞こえた。violenceだとかnoble、laungageといった言葉が。
うすうすと予感はしていたが
この男たちが話しているのはやはり英語なのだ。
ちょうど留学に備えてlisteningの練習などもしていたから
多少の理解ができるような気がしてきた。
だが彼がyoutubeで見ていたアメリカ人の英語とは思えなかった。
「君の名前は何だね。」
今度はかなりゆっくりとした口調だった。
what、name
確かに断片的だが理解できる単語が聞こえてきた。
役人は彼の目に理解の色をみたようだ。
さらさらと羊皮紙に羽ペンを走らせる。
「ようやく、それらしい情報が聞けそうだ。
ここいらの海に来てブリテン島の言葉をいずれも話せないのは衝撃的だね。
まあもしかしたら、君の船にも外交専門官がいたのかもしれないが。」
「マイ、ネーム、イズ、ヒイト。ヒイト・キヅカ」
彼はゆっくりと答えた。通じたらしい。
「Heat?スペルは何と書くのか。」
彼は羽ペンとインクケース、羊皮紙のようなものを渡された。
「He i to・Ki zu ka」
「スペルは違うが、興味深い名前だな。Heat君。
君のボキャブラリーからすると、僕ではやはり対応できそうにない。
もうじき紅茶が入る。もし君が異国の重要な立場の人物だったとしたら、
縄をかけたことを許してくれたまえ」
しばらくして銀カップに入った紅茶を衛兵らしき男が持ってきた。
良い香りが、あまりに良い香りが部屋に満ちた。