第七話
スケッチの中の私はその薄く白い眉も、ゆるやかな髪もその一つ一つが鉛筆で丁寧になぞられ、私よりも綺麗な姿でこちらに微笑んでいたのです。
その横には一枚のメッセージカード。
【今日はクリスマスイブです。贈り物はできませんが、あなたの姿を描きました】
その時の心境は、うまく言葉では表せません。
私はふらふらと膝をつき、気付けば座り込んでいました。
……彼は。
私が鏡を開かなくなっても、なお、そこに居たのです。
太陽がすべてを眩しく照らす、夏の間も。
木枯しが吹き、落ち葉も想い出も流されていく、秋の間も。
雪積もり、そのすべてが白い大地の下に包まれる、冬の間も。
私が記憶から遠ざけようとしていた、その間ずっとずっと。
でなければ、クリスマスイブにしか意味のない言葉を、どうして窓に飾れましょうか。
「ああ……」
私は鏡の縁をそっとなぞり、涙をぐっと飲み込みました。
彼はずっと待ってくれていた。
なのに私は、それを無視し続けてしまった。
――酷いことをした。その一念が、溢れるように胸を突くのです。
頬を伝う涙を拭い、私はもう一度だけ彼のいない私室とスケッチを見つめて己の後悔を嘆き、それから彼の気持ちを少しでも理解しようと奥歯を噛み締めて、……かぶりを振って、決意します。
たとえ私が過去の女、哀れな亡霊であろうとも。
彼が望むのであれば寄り添おう。
彼が私を見捨てる、その時まで。だから――
もう一度、きちんと話をしたい。
そう誓ったのです。
しかし、その日以降。
彼と鏡越しに話をすることは、二度とありませんでした。
鏡を開きすぎれば私は魔法の力を消耗し、帝国の勇者や魔女相手に怪我をします。
そのため鏡を開ける時間は、以前に比べてとても短くなりました。
一方で彼も大学受験のまっただ中であり、予備校などでタイミングが悪かったのでしょう。
窓に貼られたメッセージから読み取るに、彼はすこし遠くの予備校に通い、ときに深夜零時を過ぎて帰宅したり、また勉学のため泊まり込むこともあるようでした。
私はほんの少しだけ彼が布団で疲れたように眠る姿を見かけたことがありましたが、起こすのはどうしても躊躇われて、声をかけずに終わりました。
私は一度たりとも、彼の未来の邪魔になりたくなかったのです。
やがて冬を越えて春を迎え、彼からは一言【大学のため家を出ることにしました。夏休みにまた言葉をお届けします】というメッセージだけが残されました。
その約束通り、彼は大学から夏休みや正月の合間にふらりと実家へ戻っていたようで、私が思いついたように確認すると、窓に貼られたメッセージが時々変わっておりました。
【そちらのご飯の味は分かりませんが、健康に良いものを食べて元気に過ごして下さい】
魔女は栄養不足にはなりません。心配は無用です。
でも折角なので、その日のご飯は小鬼さんに頼んで新鮮な焼き魚と野菜といった、なんとなくビタミンがありそうな盛り付けをお願いしました。エルフさんは珍しくもりもり食べる私を、不思議そうな顔で見ておりました。
【夜は布団を温かくして寝てください。風邪などひかないように】
魔女は風邪などひきません。あなたは私の母かと思いました。
でも折角なので、骸骨さんに頼んでふかふかのお布団を用意して貰いました。久しぶりに丸まって寝込むと、翌日の朝はとてもよい目覚めを迎えることができました。
【歯磨きはきちんとしてください。この前、俺も虫歯になって辛かったです】
魔女は虫歯になりません。むしろあなたが心配です。
……翌日、こっそりエルフさんが飼っているペットの毛を拝借して歯ブラシにしてみましたが、じゃりじゃりして上手くいかなかったうえ、即日バレてものすごく怒られました。
当たり前ですけど。
その後も彼の言葉は続きました。
日々研鑽を積む彼は実家に帰る暇すらないほどに忙しく、その言葉はどれも不定期に残されていました。
【無事に国家試験に合格しました。これから頑張ろうと思います】
【研修医の当直がこんなに大変だとは思いませんでした。電話の音が耳から離れません】
【先月、救急で運ばれてきた女の子が一命を取り留めました。嬉しかったです】
文章はとても簡素で、日常生活の一遍を丁寧に切り取ったかのよう。
そして、それ等のメッセージは彼の知らないところで、私に大いなる勇気を与えてくれました。
――これだけ長く続けば、私にだって分かります。
彼が、私をずっと想ってくれているということを。
……彼と離れ、辛いと思うこともありました。
別れようとも思いましたし、今でも時おり胸が苦しくなることがあります。
ですが、やるべきことはひとつ。
彼が元気に過ごしているなら、私もまた毎日を一生懸命に過ごすこと。
たとえ会えなくても、彼は自らの道を切り開き、今なお私のことを想ってくれている。それを数年かけて信じられるようになったいま、私にできることは毎日をしっかり生きることでした。
それが私にできる、彼への恩返しだったのです。
朝起きてカーテンを開き、太陽の光を浴びて背伸びをする。
朝ご飯をきちんと頂き、魔女として結界を管理し、皆さんの幸せのために汗を流す。
そうして夜はまた美味しいご飯を食べ、お風呂で身体を休めて疲労を癒し、布団に入ってしっかり眠るのです。
雨の日も。
風の日も。
帝国軍が大挙して押し寄せてきたときも、国が飢饉に苛まれたときも。
やがて小鬼さんが寿命を迎えて亡くなり、エルフさんも相応の歳をとって懇意の殿方と結ばれ、骸骨さんの骨がちょっとばかりくすんできた、そのあとも。
足を踏ん張って元気に過ごし、その度に私なりの道を示して戦い続けていきました。
――それから、とてもとても長い年月が経ちました。
私や彼がどんなに真面目に過ごしても、月日は否応なく世界を変えていく。
彼がその後、どのような未来を辿ったのかは分かりません。しかし、こちらの世界には大きな変化の波が押しよせていました。魔法の技術革命です。
いかに私が強力かつ数百年の長寿をもつ転生魔女であっても、人類の進歩には及びません。時の流れは濁流のように押し寄せ、黒の帝国もまた歴史的な滅びに瀕しながらも人間らしい戦争技術を用いて変貌を遂げていきました。その勢いはいつしか私達、白の国の周囲にあった赤と青の双国や、麗しい緑の国をすべて覆い尽くすほどでした。
一世紀もあれば地べたを歩いていた人間が二度の大戦を越え、核兵器を持つ時代へ進むのです。その流れはこちらの世界でも同じこと。
彼ら帝国の力は長い年月を経て、ついに私の力を凌駕し始めたのでした。