第三話
「柏原さん」
私が声をかけると、彼はふと顔をあげてキョロキョロと見渡し、窓辺の私に気付いて椅子ごとずてんとひっくり返りました。
「城木さん!?」
彼は近づき、おそらくベランダを開けて手を伸ばしたと思いますが、その腕は空を切るばかり。
それでも久しく呼ばれた名前に、私の胸に大きな喜びの花が咲きました。
「ど、どうして! これは何ですか?」
「分かりません。鏡の奇跡としか言えませんが……」
私は、溢れる言葉をきゅっとかみしめて。
「お久しぶりです。私いろいろありまして、いま魔女をやっています」
「いろいろあり過ぎじゃないですか!?」
「はい。いろいろありすぎました」
それから私達は色々な話を、色々という言葉では足りないくらい色々お話ししました。
私が魔女として転生した話。こちらで元気に過ごしている話。
久しく顔を合わせた彼からも、私が亡くなった後の話を聞きました。あのあと、どうやら大変な騒ぎになったようです。
なにせ彼氏を庇って彼女が死んだ――その高い話題性に取材が殺到し、学校でも自宅でも彼はずいぶんと苦労したようです。
「申し訳ありません。私がうっかり死んでしまったせいで」
「いや、俺が庇うべきでした……なんか、なんというか。謝っても、謝りきれません!」
「いいえ。あなたが亡くなっていたら、私の方がひどく滅入っていたと思います。それに物事には時の運もあります」
「――でも。悔やしいです」
何となく、彼の言葉から以前にはなかった暗い影のようなものを感じました。
よく見れば彼がすこし痩せ細った気もして不安に思っていると、彼はふと青い顔をして。
「城木さん。転生できるってことは、ですけど。もし俺が死んだら、どうなるんでしょうか」
「その発想は大変宜しくないと思いますが……」
私は天使から聞いた言葉を思い返し、彼に説明を行いました。
異世界への転生はたしか『己に非がない死を迎えた』人間に二度目の人生を与えるものです。よって自殺はもちろん、己の過失による事故死をはじめ、あらゆる意図的な自死には一切の救済を与えない。
……そんなことを説明していた気がします。
彼は後ろ髪をかいて、何ともいえない顔をしました。
「では、城木さんにお会いすることは無理、なんですね」
「はい。それに、あなたまで亡くなりましたら、また別の方が悲しみます。私がそれを望まないのは、よくご存じのはずです」
「……分かってます。俺だってあなたに貰った命を簡単に捨てる訳にはいきません。ご心配をかけて、すいませんでした」
彼は謝り、もうすこし楽しい話をしようと提案します。
私も頷いて、結局その日私達は夜通し積もる話を続けました。
朝日が昇るまで会話は続き、やがて彼が学校に行く時間が訪れました。私はまた今晩と告げて通信を切りました。
長時間の魔法が堪えたのでしょうか。鏡の魔法を解いたとき、私は魔女になってはじめて全身にずしりと重い疲労を感じることになりました。
ですが心は身体とは正反対に、とても晴れやかなものでした。
その日から毎晩、私達は時間を決めて話をすることにしました。
残念なことに鏡の魔法は一度決めた通信場所から動かすことができないようで、彼が部屋にいる時しか話をすることができませんでした。
私の話題は山ほどありました。耳の長い女性や面白い骸骨さん、陽気な獣人や妖精の話。
六本足で歩く植物や、形の変わる不思議な洞窟のこと。
「城木さんは、そちらに来てから随分話すようになりましたね」
「ええ。話題が増えましたから」
当時の私は箱入り娘、蝶よ花よと育てられた世間知らずでしたから、こちらの世界は新鮮です。もちろん彼が居てくれればもっと嬉しいのですけれど。
一方で彼の話題にも大きな変化がありました。机に置かれた赤本の存在です。
「柏原さんは、医学生を目指しているのですか?」
「はい。人を助ける仕事につきたいと思って」
「以前は、美大を目指していたとお聞きしましたけど」
「……悔しかった、から」
私は失言を悟りました。
「俺はあなたの前で、あれだけ好きだと言っておきながら何もできませんでした。ただ見てるだけの弱い自分が嫌になって、……できることをしたい。そう思ったんです」
「柏原さん。それは私への罪悪感、ですか……?」
「正直それもあります。でも俺自身の希望でもある。この先あなたに貰った命で、一人でも誰かを助けたい――頑張りたいって、思ったんです」
それ以上、私に言えることはありません。
私の人生は転生により激変しました。
しかし彼もまた、大きく変わり始めていたのです。
私達の会話は楽しくもあり、どこかズレているものでした。
彼は学校の部活や中間テストの成績、文化祭の準備の気苦労を口にします。一方の私は骸骨さんが腰の骨を盗まれて立てなくなったとか、豚顔のオークさんが最近腹に肉がついて辛いとか(私には違いが分かりませんが……)。
話題に共通点は何もなく、それでも楽しいものでした。普段のお付き合いの時より喋っていたと想います。
ただ、本当に大切なことは……
あなたへの秘めた想いは、口にすることができませんでした。
魔法の鏡越しの対面。かつては指一本触れることすら許さなかったのに、いまはその指一つに触れることすら叶わない。
――でも、それで満足すべきだと思います。
こうして彼と会話をできるだけで、望外の幸せなのですから。
日々は否応なく流れます。
彼は次第に受験勉強が本格化し始めました。目指すは医学部。彼はもともと成績優秀ではありましたが、それでも一筋縄でいかないことは私にも理解できたので、とくに試験期間中は通信を控えるようにしました。
そして私の方も、長々と通信を続ける訳にはいかない理由ができました。
帝国が本腰を入れ始めたのです。