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第1章『闇夜』(10)

 トゥレスは右手を持ち上げ、書庫の扉を再び叩いた。

 午前中、ヴェルナー侯爵家の長子ヘルムフリートに呼び出され、今後一切関わるな、と申し渡されたばかりだが、その同じ日の内に同じ扉を叩くとは、さすがにトゥレスも考えていなかった。

(早くて明日だと思ってたが)

 窓の格子に切り取られた淡い日差しが、廊下に薄い影を落としている。この一日の混乱と不安が、その静かな影の中にわだかまっているように感じられた。

 西海への王の出立と――



 喪失



 あと一刻後、五刻には協議が再開される。そしておそらく、この夜の間に王城内には様々な噂や懸念、疑惑、思惑、混乱が入り乱れる。

 王城はその静けさを払拭され、眠りを忘れたまま朝を迎えるのだろう。

(昨夜はまだ、春の祝祭の最後に浮かれていたのにな)

 僅か一日を経ただけの、夜の違い。

 迎える朝の無慈悲さ。

(この先――)

 トゥレスは束の間窓の外の蒼い世界を見透かし、何も言わない扉へと向き直った。

 もう一度扉を叩こうとした時、ようやく「入れ」と声が返った。

 室内には椅子に座る男の手元に、燭台が一つ。その不安定な灯りが、左右を埋める高い書棚の(あわい)を揺らめく闇で満たしている。

 ヘルムフリートは卓に置いていた燭台を、やや身体から離した。

「何があった」

 紋切り型にそう問いかける。

 トゥレスは直に答えず、扉の前で肩を竦めた。

「さすがに俺も、今は暇じゃあないんですが」

 色々と行くところもある。五刻まであと一刻しかなく、手を付けることは多かった。

「王城警護の任務を責任者が抜け出すのは」

「何があったのだ」

 問い質す声の苛立ちが強まる。

「父上や大公閣下は、殿下と何を話しておられるのだ」

「お父上からは?」

 その問いはヘルムフリートの怒りを煽った。

「私に問うな! 身の程知らずめ! 貴様は質問に答えればいいのだ!」

 トゥレスは口の端に笑みを刻んだ。

「失礼致しました。確かに、現在大きな問題が生じております。その為に内政官房だけではなく、四院も近衛師団も全て、表沙汰にはしておりませんが対応に苦慮しているところです」

「何があった」

 ヘルムフリートは口早に、もう一度尋ねた。

「西海が不可侵条約を破棄し、イスに赴かれた王の御身に重大な支障が生じたと、お父上方は考えておいでです」

「不可侵条約の破棄?! 何だそれは!」

 椅子の脚が引っ掻く音を立てる。ヘルムフリートは焦りを滲ませ、トゥレスを睨むように立ち上がった。

「本当なのか!」

「確認中ですが、現地から戻られたアスタロト公のご報告でも、そのように。またこの後すぐに、協議が再開されます」

「馬鹿な――そのような」

 ヘルムフリートはその場で何度か、行き先に迷うように左右に身体を振った。

「そのような事態――ち、父上に、お尋ねしなくては」

「先ほどの協議の場では、まだ確認できた情報も少なく、具体的な対策はほとんどなされていません。この先も場は迷うでしょう」

 トゥレスは、ヘルムフリートの顔を見据え、付け加えた。

「弟君――第一大隊のヴェルナー参謀官も、この状況には手を打ちかねていたようですしね」

 さっとヘルムフリートの顔が強張る。

「……あれが、協議の場にいたのか……」

 震える声が薄暗い部屋に落ちた。

「どけ」

「どちらへ?」

 扉の前から身を移しながら、トゥレスは横を通り抜けるヘルムフリートの顔を眺めた。

 答えは帰らず、ヘルムフリートが廊下へ出る。

「また何かありましたら、こちらで」

 閉まりきらずに薄く開いた扉の隙間から、薄暮に染まる廊下を足早に遠ざかるヘルムフリートの後ろ姿が見えた。











 柔らかな、薄い光が室内を満たしている。

 ファルシオンは瞳を開け、ゆるく瞬きを繰り返した。

 薄い日除け布の重なり合う窓から、白い光が淡く滲んでいる。

 自分がどこにいるのか、まだ思い出せないままに、冷えた空気が全身を包むように悲しみが沸き起こった。

 その悲しみが、記憶を連れてくる。

 謁見の間で起きたことが、どっと心の中になだれ込んだ。

「……ち、うえ――」

 口の中で微かに消えたその響きは、胸を掴み、ファルシオンの瞳を揺らした。

 目の奥が熱くなる。

 窓から差し込む白い光が広がり、室内が滲む。

 あの時(・・・)――

 ファルシオンを包んでいたものが、消えた。

 生まれてからずっと、自分を包んでいたものがあったことに、初めて気が付いた。

 そしてそれが、もう、なくなってしまったことに。



 なくなってしまった。



「父、上――」



「殿下」

 傍から掛けられたその声は、微かに掠れて聞こえた。声を追ってすぐ黒い瞳が覗き込む。大好きな色だ。

 いつも安心させるようにファルシオンに注がれてきた眼差しに、胸の中に温かい安堵が湧き上がる。

 けれどそれは、くるりと悲しみに姿を変えた。

 ファルシオンが長椅子の上に起き上がるのを、レオアリスは手を差し伸べ、助けた。革の手袋越しの手のひらは温度を感じさせない。

 黒い手袋が赤い血で濡れていたことを思い出す。

 胸の奥を重い塊が、棘のように刺した。

「ここはまだ王城です。ご気分は」

 だいじょうぶ、と答えようとしたが音にならず、首を振る。

 ファルシオンの身体を背凭れに預け、レオアリスは長椅子の前に片膝をついた。レオアリスの向こうに、ロットバルトとスランザールがいるのが見えた。

 彼等のさらに向こうに、薄い紗布で隠された窓が十字に重なる格子を滲ませている。

「二刻ほど眠っておられました。あと一刻で協議が再開されますが、もしご気分が優れないのであれば、一度館にお戻りになりますか」

 声はやはり掠れている。

 あの時、耳を捉えた叫び――慟哭が、ファルシオンの中に甦った。



 そして、ファルシオンには、その理由がわかってしまった。



「殿下――?」

 瞳の奥で熱が増す。

 駄目だと思ったけれど、もう熱は堰を切っていた。

 (みは)った瞳から涙が溢れ、頬を転がる。

 雫が微かな音を立て、長椅子のすべらかな生地に吸い込まれた。

「――殿下」

 レオアリスの顔が目の前にある。

「レ、オ……」

 ぎゅっと唇を噛んだ。

 泣いてはいけない。

 ファルシオンは王太子だ。

 父王の不在の間、父王の代わりを任されたのだ。

 父王が、ファルシオンを信頼してくれたのだから。

 だから、父王が戻るまで――、ファルシオンが、しっかりしなくてはいけないのだ。

 戻ってきて、良く頑張ったと、父王に褒めてもらうまで。

(ちちうえ、が……)

 泣いてはいけない。

 泣いてはいけない。

 泣いてはいけない。

 けれど――、

 できなかった。

 初めに落ちた涙を追って、次から次に、柔らかな頬を雫が伝う。

「ちちうえ、は」

 指先でレオアリスの軍服の袖を握り込む。

「……父上は、もう、お戻りには、ならないの……?」

 レオアリスの手がびくりと震える。

「い、いちばんめの、兄上、の、ように――」

 一度も顔を見た事の無い兄。

 それでも、会いたくて仕方がなかった。

「もう、お会い、できないの?」

 嗚咽の塊が喉の中で大きく膨らんで、弾けた。

「やだ……」

 喉の奥から次々と、塊が零れ落ち幼い喉を震わせる。

「いやだ――やだよぅ――、ちちうえ、」

 レオアリスの腕がファルシオンの頭を抱える。

 ファルシオンは声を上げ、泣きじゃくった。

「ちち、うえに、あいたいよぅ……っ」

 胸が苦しい。泣いてはいけないのに。

 父王に会って、温かい膝の上に乗せてほしい。

 頭を撫でてほしい。

 でももう、それが叶わないことが、ファルシオンには解ってしまった。

「ちちうえ――」

「――殿下」

 掠れた、声。

 背中に感じる腕に力がこもる。けれど、そこには温度が無かった。

「殿下――お父上は……王は――きっと」

 声は掠れ、その先は音にはならず、ただ腕の力だけが増した。

 父王の執務室に戻った時、レオアリスが浮かべた笑みにも温度が無かったと、ファルシオンは止まらない悲しみの中で思った。






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