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第1章「暗夜」(9)

 緑なす草原を、煉瓦敷きの街道が長く、東へと伸びている。

 西の基幹街道。一里の控えから軍都ボードヴィルへと続く道であり、ボードヴィルから一里の控え、そして不可侵条約締結の街、バージェスへと続く道でもあった。

 その街道とそれを取り囲む草原を、重なる蹄の音を轟かせ、東へ、ボードヴィルへと向け、騎馬の一団が疾駆する。

 草原を埋めるように駆けるそれは、正規軍西方第七大隊の騎馬、左右の中隊合わせておよそ千四百騎の一隊だ。

 そして近衛師団の黒燐の飛竜二十騎が、同様に東を目指し、並走するように上空を翔けて行く。

 草原を威圧して轟く蹄の音とは裏腹に、決して意気揚々とした騎行ではなかった。

 背後に、一里の館を置いてきた。

 王が西海を訪れる際に使用した館、王都と繋ぐ転位陣、それらを置いてきた。

 大将たるウィンスター。

 水都バージェスのその向こう、かつては膨大な海水に隔てられ、今や海面へと浮上した西海の皇都イスに――

 彼等の王を。

 一里の館もバージェスも、未だ振り返れば肉眼で見える。

 ワッツは陣の後方に乗騎を操りながら、胸の内に湧き上がる苦い想いを睨み据えた。毒の杯を舐めるようだ。

 力が足りなかった。

 準備、想定、危機回避のための能力、全てが足りていなかった。

 初戦は、完敗だ。

(初戦――何なんだちくしょう)

 ワッツはその言葉の響きに奥歯をきしらせた。

 ふざけた話だ。あまりにふざけた話だ。

『初戦』

 西海と、アレウス王国との間に、三百年の平穏を打ち砕き、かつての大戦と同じ戦乱の幕が切って落とされたと――

 これが始まりだと。

「ふざけるな」

 ワッツは吐き棄てた。轟く蹄の音に搔き消える。

(回避の方法はねぇのか)

 輝くような緑の草原が、騎馬の行く先に広がっている。そこを帯となって伸びる街道は、前方が青い空と緑との(あわい)に霞んでいた。

 左手には黒々とした森が続き、右手には今はまだ見えないが、いずれボードヴィルの砦に接する大河シメノスが流れている。

(回避の方法は)

 不意に背後から、疾駆する騎馬と兵士達を追いかけるように、雄叫びが上がった。

 迫り来る地鳴りに似た響きに、騎馬の足並みが乱れる。

「構うな! 進め!」

 ワッツは叫び、だが自らも振り返った。

 振り返りたくなかったと心底思う。

 初めは、砕けた硝子の欠片が、陽光を辺り構わず弾いているように見えた。

「――ッ」

 緑の草原の向こうに、一里の館が――、沈んでいく。

 半透明の塊か、巨大な膜か、そんなものが一里の館全体を覆い、呑み尽そうとするようだった。

 使隷の群れが、館にびっしりと取り付いていた。

 陽光を弾きながら、泥の海に沈んで行く。

 緩やかに。

 あまりの事に声もなかった。

 斜めに傾いだ館の屋根の遥か先、浮上した西海の皇都イスの高い尖塔が見えた。

 浮上した古い都と、沈んで行く館との、その皮肉な対比。

「――大将」

 街道の両脇に建っていた指標石も泥に消え、あたかもそれは、西海とこの国との境界が無くなったと告げているのかと思えた。

 興奮した馬の嘶きが蹄の音の中に混じる。ワッツは巡らせていた頭を正面へ戻し、前方を焼き尽くさんばかりに睨んだ。

「隊列を乱すな、そのまま進め――! 俺達の目標はまず、街道沿道の村民の確保だ!」

 ウィンスターがワッツ等に任務を与えたのは、振り返らず、引き返さず、怒りに命を棄てることなく進めという意味だったのかもしれない。

 おそらくそれを判っているのだろう、手綱を握る兵士達はその面に怒りや悲嘆を滲ませながらも、騎行の速度を緩めず駆け続けた。





 ボードヴィルとの間にある村は、西海進軍の影響を今夜までに受ける可能性の高い所で、まず一つある。

 ワッツ等西方第七大隊千四百騎はそのクヘンの村に、一里の控えを発って半刻ほどで到着した。

 およそ三里、あの場所からの距離の近さに、ワッツは再び奥歯を噛み締めた。

 今の段階で村民まで移動させる必要まであるのか、ここに至る馬上で何度となく意思が揺れていた。

 しかし一里の控えを呑み込んだ西海の泥とここまでの距離とを実感した今となっては、改めてウィンスターの指示は適切だと言わざるを得ない。

 ワッツは街道の左側に広がる小さな村を見渡した。

 辺境のほとりに相応しい、常ならばひっそりとした佇まいを見せるだろう村は、街道を塞ぐように現われた正規軍の一団に、興味と、半ば怯えを含んだ騒めきに包まれていた。

 朝にはただ街道を通り過ぎて行っただけの正規軍が、今になって何故この村を訪れたのだろうか、と。

 老人や小さな子供たちが、丸太組みの簡素な住まいからあちこち出てきては、ワッツとエメルが小さな村の舗装もされていない通りを歩く姿を目で追いかけた。

「ワッツ中将、村長の住居はあちらです」

 少将のクランは一足先に確認した村の中央へと、先に立って歩いていく。道に出ていた村人が慌てて道を開けるが、ワッツ達が通り過ぎるとすぐにまた通りを埋めた。

 クヘン村の住民数はおよそ二百名三十世帯と報告されている。ざっと見回した限りでも、ほぼ間違いはなさそうだった。

(二百名――移動は徒歩か荷馬車か)

 通りに出ているのは幼い子供や老人が多い。

(ほとんどは畑かどこかに出てるんだろう)

 村の奥に畑が広がっているのは確認している。この騒ぎを聞いてすぐに戻って来るはずだ。

(説得と、準備。何刻かかる?)

「こちらです」

 ワッツを迎えた村の中央のこぢんまりとした広場には、既に人だかりができていた。

 その輪の中から一歩前に出る形で白髪の老人が立ち、近付いて行くワッツ達へ、不安そうな顔を向けていた。




「この村を出てけというのですか?!」

 齢七十を越えようかというヘクト村の村長カーブスは、驚きというよりも呆れが混じったしわがれた声を上げた。思わず立ち上がった拍子に、木を組み合わせただけのような椅子が、板張りの床でひっかく音を立てる。

 農作業で焼けたカーブスの浅黒い実直そうな面には、ありありと不信と不安が刻まれている。

 無理もないと思い、そして次の言葉もワッツの予想通りのものだ。

「無茶な―― ! いくら西方軍様だって、そんな馬鹿げたこと言わんでください」

「驚くのも無理だと思う気持ちも判る。だが村長、事態は急を要します。すぐに村民全員、必要な荷をまとめてもらいたい」

「そんな……西海軍なんてどこにいるんです」

 街道は西方第七軍の軍馬の嘶き以外、静かものだ。今現在、この村の平穏を崩しているのは西方第七大隊だけだった。

「この村を出て行けなどと、そんな 本気で」

「避難です。まだ姿が見えないだけです――だが」

 ワッツはカーブスを見上げる視線に力を込めた。

「見えてからでは遅い」

「――」

「一里の控えは、西海軍の手に陥ちました」

 口にした言葉は我ながら苦かった。

「速やかに、落ち着いて行動してもらいたい。これは依頼ではなく、西方軍第七大隊大将ウィンスターによる退避命令です」

「そんな、」

「おいよせ、まだ話し中だ!」

「話中も何も、村を出ろってのはどういうことだ!」

 外で言い合う声が聞こえたと思うと、居間も玄関も区別の無い質素な家の扉が荒っぽく開き、村の男達が数人床板を鳴らして踏み入った。

「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、――村長!」

「カーブスさん!」

「待て――」

 男の肩を掴んで引き出そうとした兵士は、室内から向けられたワッツの指示を受けて手を下ろした。

 畑に出ていた男達が騒ぎを聞きつけて戻って来れば、一悶着起こるのは初めから分かっていることだ。

 彼等を納得させるにはどうすればいいか、ワッツは内心息を吐いた。

(戦場の方がまだ気が楽だぜ)

 入って来た男達は三人だ。カーブスの前に座っているワッツを見つけ、ワッツが椅子を軋ませて身体を向けると、剃り上げた強面と筋肉の張った肩や腕に気圧されたのか、唇を舐めた。

 ただ、男達の年齢は三十代から五十代とまちまちだが、みな困惑と憤りを、土で汚れた顔に浮かべている。

「そ、村長」

 ワッツではなく、カーブスへと身体を向ける。

「一体何なんだ、この騒ぎは」

 抑えた口調もすぐに語尾が上がる。

「西海軍が攻めてくるって聞いたぞ、どういうことだ!」

「全員にちゃんと説明してくれ! かみさんや子供が不安がって」

「俺から説明しよう」

 ワッツは硬い椅子から立ち上がり、彼等の前に立った。

 ワッツの剃り上げた頭が男達の頭半分ほど上に行き、鍛えられた頑丈な体躯は部屋全体に立ちはだかるようで、男達は顔を引きつらせて後退った。

「な、何だ、あんた」

「俺は正規軍西方第七大隊左軍中将、ワッツという者だ。騒がせているのは申し訳ないが、重要な話があってこの村に来ている」

「中将――」

 中将はどのくらい偉いのか、と男達が互いの目を見交わす。

「村の責任者とまず話をするのが混乱が少ないかと思ったが、この状況じゃ今さらか。あんたがたと話をすれば、村民を納得させられるか?」

「何を言って」

「わ、わしらは別に、村の」

 村の代表として話せるのかと問われ、男達は更に及び腰になった。

(厄介だ)

 話が進まないかもしれない。西海軍との距離を、ちらりと考える。

 一里の控えから、更に出てくるのか――。

 及び腰の男達に目を向け、そして椅子に腰を落としこの場をどうすればいいか困惑している村長へと視線を移す。

 そもそもこんな事に慣れていなくて当然なのだ、普通に平穏に、慎ましく生活してきた村は。

『村を出ていけと』

 ワッツは出て行けとは言っていない。

 村人全員が避難する必要があると、そう説明した。

(同じ事か)

 扉の外も騒がしい。この男達以外にも、既に村を出なくてはいけないのだという話の断片が伝わっていて、それに対する不満や疑問が中にいるワッツの耳にも聞こえてくる。

 今の状況を見て、この混乱を見れば、村人全員を避難させるなど無理だと感じられた。

 大体、避難と一口に言っても、二百人もの村人達がどこで落ち着けるのか、村に戻って来れるのか、戻れるとしていつなのか、全く判らない状態なのだ。

 今のワッツに答えは無い。

 彼らはそれを敏感に感じ取っている。

 感じられないのは、西海軍の存在くらいだろう。

 ただ――、ワッツが肌で感じているのは、西海軍の存在と、侵攻だ。

 疑いようもなく、明確に。

 大地を泥の海と化し、ワッツの部下を、一里の館を、呑み込んだ。

 西海の泥がこの村を呑み込むまでに、あと何刻あるのか。

 ワッツは息を吐き、吐いた拍子に胸がずきりと痛んで眉をしかめた。泥地で魚だか爬虫類だかの西海の怪物に突進されて受けた傷だ。

 痛みは、泥に引きずり込まれる事なくこの程度で済んで、運が良かったのだと、そう伝えて来る。

「――どいてくれ」

 三人の男達の間を抜けて、ワッツは表に出た。

 村長の家の入口を囲むように、村人達が詰めかけている。

 先ほどは見なかった働き手の男達、女達、腰の曲がった老人や、まだ訳もわからない幼い子供達、腕の中に赤子を抱えた母親。

 村長の家から出てきた大柄な軍人の姿を見て、彼等はやはり束の間口を閉ざした。

 だがすぐ後から出てきた村長へ、吹き溜まっていた疑問や不安が一斉に投げ掛けられる。

「村長! 村を出るっていうのは本当なの」

「何で出なくちゃいけないんだ」

「カーブス村長!」

 カーブスは生真面目な面に汗を浮かべ、村人達を見回した。

「その――西海が、侵略してきて、ここが危険だからと……」

「何なんだ!」

 わっと集まった村人達が声を上げた。

「西海だって」

「何言ってんだ」

「今日は王様が、西海の王様と話をしに行ったんじゃないの」

「静かにしろ!」

 嵐のような騒ぎの上から大音声を叩きつけたのは、家の前にいた右軍中将エメルだ。

 ワッツはエメルの様子を見て、それから静まり返った村人達を見た。

「西海は、アレウス王国との不可侵条約再締結を、破棄したのだ!」

 不可侵条約の破棄、と言って、村人のどれほどが理解しただろう。ワッツのその疑問への答えは、村人達のぽかんとした顔の上に表れている。

「西海は条約を破り、水都バージェスから進軍を開始した! 大地を泥と化し、足場を造りながら進んできている! この村にたどり着くのが何刻後になるか判らんが――いずれこの村は、西海の泥に呑まれる! そうなる前に避難をしろと、そう言っているのだ!」

 エメルの言葉は苛烈で、充分に現実味があった。

 ワッツや、兵達には。

 すぐに波が寄せ返すように、村人達の中に声が上がる。

「勝手なことを言うな!」

 エメルは更に口を開こうとしたが、村人達の声にかき消された。

「だからってわしらに村を捨てろというのか!」

「そんなのめちゃくちゃだ!」

 前の者の肩を押すように声を出し、家の前にできていた輪が歪む。

「村を捨てて、俺達の生活はどうすればいいんだ。麦や家畜や家をくれるのか」

「軍が世話してくれるの?!」

「畑は。誰が世話するんだ、畑を捨てて行けってのか」

「病人や老人もいるんだぞ」

「赤ん坊だって、どうするの」

「村を離れたら生きてけないわ」

「何で俺達が村を出なくちゃいけないんだ!」

 一人が伸びあがり、声を張る。

「あんたら軍隊だろう!」

 ワッツは腕を組んだまま、目を閉じた。

「大体西海が攻めてきたなら、あんたらが戦えばいいじゃないか! その為の軍隊だろう!」

「私たちを守るのが仕事でしょ! 何でこんなところにいるの!」

「そうだ、一里の控えに行ったんだろう!」

「まさか戦いもせず逃げてきたのか!」

「ふざけるな!」

「無責任じゃないか!」

「お――俺達だって、残りたかったんだ!」

 まだ若い兵士が堪りかね、声を振り絞った。

「あの場で戦いたかった!」

「だったら何で戻ってきた!」

「結局逃げたんじゃないか! 大将はどうした! いないじゃないか」

「案外先に逃げちまったんじゃないのか」

「違う! ウィンスター大将は」

「――よせ!」

 ワッツは肺から全ての息を吐き出した。他を圧して空気を打つ。

 びくりと口を閉ざした村人達の視線が、ワッツへと集まった。

「我々が争ってる場合じゃあないんだ」

 低く抑えられた響きに、加熱していた空気が僅かばかり、冷まされていく。

「西海の進軍は本当だ。西方第七大隊ウィンスター大将は一里の館に、留まった」

 ワッツの瞳に浮かぶ光を、村人達は息を詰めて見つめた。

 背筋を冷やすに十分な眼差しだった。

「我々第七大隊には、今現在西海軍による泥地化に対抗する術はない。今はボードヴィルへ帰投し、体制を立て直し、新たな手段を講じる以外、できる事は無い」

 静まり返った広場には、ワッツの言葉と、風が揺らす木々の騒めきだけが聞こえている。

「現在も斥候に西海軍の侵攻を見張らせている。西海軍はここまで侵攻しないかもしれない。

「だが、ひとたび侵攻してくればこの村は、泥の中に呑まれる。既に呑まれた何十名かの兵士達と同様にだ。例え呑まれなくても、この村に、西海軍への対抗の手立てはあるか?」

 村人達の間に進み出る。誰も何も言わず、ワッツの周囲は自然に開けた。

「これは冗談でも言い訳でもねぇ。冗談や言い訳で、部下の命は捨てねぇし、危険と判ってる村も捨てねぇ」

 ワッツは首を巡らせ、胸に走った痛みにやや眉を動かしながらも、村人達を見た。

「自らの命を守るには行動が必要だ。畑はまた耕し、種を蒔き、作物を実らせることができる。村は木を切り、家を建て、もう一度作ることができる。一旦離れて何事もなけりゃ、また戻れる。――だが命だけは失えば戻らない。今隣にいる家族や隣人をもう一度作ることは、不可能だ」

 村人に囲まれた中でもワッツは頭一つ高く、誰もがその姿を見ることができた。

「何事も無く見えても危険は迫っている。俺達はそれをほんの半刻前に、身を持って感じてきた。大袈裟過ぎると思っても備えと対応は必要だ。あんた自身の命と、家族の命を守るには」

 村人達は互いに、自分の傍にいる相手を見た。

「今は隣にいる人間の為に、一緒に来てくれ」




 ワッツは目を閉じた。

 閉じると胸にじわりと滲む痛みが自覚される。その痛みの向こうに、泥に飲まれた部下と、沈んで行く一里の館が甦る。

 村人達は短く言葉を囁き合いながら、それぞれの家に戻った。出立の準備をしているのか、それとも扉を閉ざしワッツ達をやり過ごそうとしているのか、落ち着かない空気が漂っているほかは、村は静かだ。

 村人達には、一刻後には村を出たいと、そう告げた。

「ワッツ中将」

 エメルの声がかかり、ワッツは目を開けた。

 申し訳程度に設けられた村の門が、街道からやや北に入った位置にあり、第七大隊はその前の草地と街道に兵と騎馬を休めていた。騎馬の落ち着かない嘶きがあちこちで聞こえている。

 門の横に積まれた空の樽に寄りかかって座っているワッツへと、右軍中将エメルが近づいてくる。

 ワッツの前で立ち止まり、エメルは一度、門から続く村の通りを見た。

「どうする。もう一刻経つが」

「誰も出てきてない。準備に時間がかかってるのかもしれねぇが……、どうしたもんかな」

「そろそろ出た方がいいんじゃないか。泥が一里の控えを埋めたのは、半刻も無かった。一里の控えからここまで三里しかない。それを考えれば時間はもうあと一刻もないだろう」

 エメルの目には少なからず苛立ちがある。ワッツは寄りかかっていた空の樽から背中を起こした。

「そうだな……」

 ワッツはここで待つ間、ずっと考えていた。

 もし村人達が留まる選択をした場合、自分達もまたここで留まるべきか。

 西海軍が侵攻してくれば命を落とすと判っている者達を、そうと判って置いていく訳にはいかない。

 だが、可能な限り早く、ボードヴィルへ戻る必要もまた、あった。

「ワッツ中将」

「ああ――」

「ワッツ中将殿!」

 エメルの向こうから少将クランが声を張る。クランが指さした上空に、黒燐の飛竜が二騎、螺旋を描いていた。

 開けている草地の一画へ降りてくる。

 西海軍の偵察に出ていた近衛師団隊士で、黒鱗の飛竜の背から降りた隊士は足早にワッツの横に駆け寄った。

 第三大隊所属のノヴェリという名で、二十歳半ほどのやや細身の青年だ。彼等はセルファンの指揮に戻るはずだったが、セルファンは重傷を負い、アスタロトと共に王都へ転位させていた。

 近くに固まっていた他の近衛師団隊士達も門の前に集まる。

「泥地化は緩やかながら今なお進行中。既にこの村まで、およそ二里の地点まで進んでいます。速度は落ちましたが、止まる気配は今のところありません」

 このまま行くと、あと四刻、日没の六刻頃にはクヘン村まで泥地化が進む計算だった。

 無論、ここまで広がらない可能性は、村人達にああ告げた今でも、ワッツ自身あると考えている。

 ただそれは、今考慮する材料ではないとも。

「ワッツ中将」

 決断を促すように言ったのは、エメルではなく近衛師団の准将のダントンだった。

 先を急ぎたい思いは、第七大隊の兵も近衛師団も同じだ。

 ワッツは息を吐き、手のひらで首筋を撫ぜた。まだざらりと乾いた泥が肩に落ちる。

「――半刻後に村を出る。村人達を連れて移動するとなると行軍速度が半分以下に落ちるだろう。日が暮れる前にボードヴィルに着きたいからな」

 緑の細い目をクランへ向ける。

「家を全部回って急かして来い」

「はッ」

 クランは右腕を胸に当て、ワッツから離れると部下数名を呼んだ。

 クランの指示を受け、六名の兵士が門を潜り、手近な家の戸口を叩く。

 ワッツの視線の先で、若い兵士は何度か木の扉を叩き、声をかけ、上げていた腕を下ろして戸口から離れた。

(――)

 出てくる者はいない。

 兵士達の呼ばわる声が村の中から聞こえている。

「どうして出て来ない。死にたいのか」

 エメルが苛立ちと共に草地を踏みしめた。

「ワッツ中将、俺はこれ以上待つのは無駄だと思う。我々が時間を失うだけだ」

「かもしれねぇ」

「ならば決断すべきだろう。仕方がない」

 ワッツは太陽の傾いていく方角へ視線を向けた。

 いっそそこに西海軍の影が見えれば良かったとさえ思える。

 部隊を置いていくか、本隊ごと留まるか。

 泥地化が村を飲み込めばワッツ達には太刀打ちができない。

 やはりそうなる前に、村人を寝台から引き剥がしてでも連れて行くしかない。

 じっと村を見つめていたクランの声が落ちる。

「中将」

「――仕方ねぇ、無理にでも」

「いえ」

 それまでと違う響きに顔を上げると、門に近い一軒の家から、若い夫婦が赤子と荷物を抱え、出てきたところだった。

 それに背中を押されたように、その向かいの家の扉が開く。

 すぐに村は、村人達が交わし合う声で騒がしくなった。

 ワッツは肺に溜まっていた熱を、吐き出した。






 行軍は、蝸牛が枝を這うように感じられた。

 そろそろ初夏を迎えようとするこの季節には、陽射しを受けた草原の間を緩やかに進む速度は相応しい。

 平穏の中ならば。

(行軍とは呼べねぇな)

 ワッツは長く伸びた人馬と荷車の列を見渡した。

 家財道具を載せた荷車は草原の中を進ませる訳にも行かず、石敷きの街道の上に列を成している。

 幸いなのはクヘン村が、三十世帯しかない小さな村だったことだ。辺境の最端部にある村ということもあり、この程度の規模で済んだ。

 だがボードヴィルの辺りには、クヘン村の倍かそれ以上の規模の村が幾つもある。

(ああクソ、全く――とにかくボードヴィルに着いてから考えりゃいい。まずはあそこがどうなってんのか――)

 ワッツは最後の荷車が通り過ぎるまで止めていた馬の手綱を引き、ゆっくりとした足取りで進ませた。

 クヘン村を出て一刻、陽はほぼ斜めに差し夕刻が近いことを知らせている。まだ村人達の中に疲れは見えないのがせめてもだ。

 ただし長閑(のどか)すぎて、村人達は村を出たことを、早くも後悔し始めているのではと思えた。

 またワッツは自分の考えを振り払う。

(大騒ぎしただけで終わってくれりゃ、それでいい)

 もうそうはならないことも、ワッツには判っていたが。

 眠気を誘う辺りの長閑かさと移動速度を辛抱強く堪え、東を目指して進む。

 陽はますます傾いていく。

 やがて、それまで平坦で遠くまで見通せた景色が、やや違った様子を見せ始めた。前方の地面が緩やかに隆起し、その形が重なり合うように広がっていく。

 サランセラム丘陵に近づいたのだ。

 この辺りまで来ると、ボードヴィルまでの距離はあと二里ほどだった。

「ワッツ中将、前方を!」

 周囲の兵士が指さした先をワッツも見た。

 暮れかけた街道の向こうから、騎馬の一団が駆けてくる。一団が掲げるのは正規軍の軍旗だ。

「第六の援軍か?」

 期待に鼓動が跳ねたが、しかし数呼吸もしないうちに、それは午前中に自分が一里の控えから送り出した部隊だと見て取れた。

 ボードヴィルの偵察に向けた小隊だ。向こうはワッツ達に気付いていたのだろう、速度を緩めず近付いた。

「ワッツ中将!」

 先頭集団にいた一騎が、更に速度を上げて抜け出した。

 ワッツの前に来て、騎馬を降りる。

 准将ゲイツは敬礼を忘れず、それからワッツを見上げた。

 ボードヴィルは、と問おうとワッツが口を開く前に、ゲイツは咳き込むように告げた。

「シメノスから、西海軍が侵攻しています!」

 告げられた言葉の意味が一瞬吞み込めず、ワッツは口を開けた。

 この部隊はボードヴィルへ向けたはずではなかったか。

 シメノスから。

「――何だと?!」

 呑み込んだ途端、様々な疑問が一息に沸き起こる。

 何故ボードヴィルに西海軍がいるのか。

 いつの間に。

 どうやって。

 シメノス河口のレガージュはどうなっているのか。

「ボードヴィルは、無事なのか」

 渦巻く疑問の中から辛うじて、まず何より抑えるべき疑問を拾い、そう尋ねた。

「街門を閉じ、応戦していると」

「応戦……」

 ワッツは一瞬、思考を放棄しそうになって、ぐっと奥歯を噛んだ。

「くそ、ますます手に負えない事になって来やがった」

 舌の奥で呟く。

 バージェスからの侵攻がどこまで進むかまったく不明な中での、今度はボードヴィルへの侵攻とは。

 しかも今、大将ウィンスターはいない。

 失って改めて、ウィンスターがどれほどの導き手だったのか、自分が彼にどれほど信頼を置いていたのかが思い知らされる。

 ただでさえ離反の疑念の強いボードヴィル残留部隊と、ワッツが今率いる千四百名の兵士達を、どう動かしていくのが最善なのか。

(最善なんて考えてもしかたねぇ)

「ボードヴィルの中の状況は判るのか」

「スクード少将と五班の班長レジット、二班が向かいました。シメノス側から入ったスクード少将の班とは、いまだ連絡が取れません。街に入ったレジット班は、西海軍のボードヴィル襲撃後、戻りました」

「レジットの話を聞きたい」

 ゲイツはレジットを呼び、すぐ近くに控えていたレジットが素早くワッツの前に立った。

 三十半ばの男の顔に、混乱が見える。

「街と砦の様子はどうだった」

「襲撃はシメノス側から、突然でした。しばらくは街には情報が下りてきませんでしたが、襲撃の情報が街に広がって、その内街の外へ出る事を禁止すると、触れが回りました」

「西海軍が襲撃したと言ったか? 住民の様子は」

「はい、はっきり。住民達は、混乱というより、戸惑いの方が強く、広場に集まっていました。その触れが回った半刻後に、その」

 ワッツの顔を窺うような、慎重な視線が気になった。

「ボードヴィルは、その、ある人物を掲げたと」

 レジットの声には疑いと、困惑が、ありありと感じられた。

「誰だ――西方公か」

「い、いえ」

 唇を湿らせる。

「その、伝令が言うには、――王太子殿下だと……」

「王太子殿下?」

 何を馬鹿な、と言いかけて、ワッツは途中で口を閉ざした。

 ヒースウッドの離反とルシファーとの関わりを密告したエメルが、確かにそう言っていた。

 ルシファーは王太子を掲げようとしているのだ、と。

「――ファルシオン殿下を掲げるところを確かに見たのか」

「我々は。しかし、伝令が告げた名は、ファルシオン殿下ではありませんでした。その――」

「……何だとォ?」

 思わず声が上がる。

 レジットの報告を耳で受け止めながら、ワッツは驚きと不審の混じった険しい面差しをサランセラムの丘へ向けた。





 重なり合うサランセラムの丘陵の向こうに、ボードヴィルの砦に伸びる尖塔が見えてくる。もう四半刻もなく、ボードヴィルへ辿り着ける距離だ。

 西日はほぼ、ワッツ達の背中から差していた。

 ワッツはまず三つの丘を挟んで部隊を留め、自ら十騎を率いて更に二つの丘を越えた。

 ボードヴィルを見下ろす最後の丘の上に上がる。

 なだらかに下って行く斜面の先に、大地の裂け目のようなシメノス岸壁を背にした、ボードヴィルの街がある。

 ワッツ達の足元から石敷きの街道が、ボードヴィルへ向けて伸びている。

「――」

 ボードヴィルへのその道を、正に遮り、西海の使隷の群れが犇めいていた。

 あたかもそこに、シメノスの流れが溢れ出たように。

 西海の果てない水が、流れ込んだように。

「ワッツ中将、尖塔を」

 遠見筒を手渡され、ワッツは筒先をボードヴィルの砦城の尖塔に向け、硝子の球面を覗き込んだ。

 尖塔に旗が(なび)いている。

「あの旗は、何だ」

 正直に言えばワッツは、レジットの報告を半分ほど信じていなかった。

 ボードヴィルが王太子を掲げたという話はエメルが密告したとおりにしても、その王太子がファルシオンでは無く、十八年前に非業の死を遂げた第二王妃シーリィアの遺児なのだという、荒唐無稽な話は。

 ルシファーは、何をしようとしているのか。

 筒の中でたなびく旗を、一つひとつ確認する。

 砦の尖塔上に、三旗。

 一つはアレウス王国旗。暗紅色に金糸で、王家の紋章が描かれている。

 一つは、正規軍旗。濃紺の生地に、剣と盾と、炎の意匠。

 もう一旒(いちりゅう)

 暗紅色の布地には、王位継承者を表す銀糸で王家の紋章が描かれ、王子を表す緑の若草が紋章を囲んでいる。

 だが王太子ファルシオンの旗に描かれる若草は通常、希望と誠実を表す待雪草と君子蘭だ。

 今、ボードヴィルの尖塔に掲げられた旗は、遠見筒の中でさえ、違うものだと判った。

 ワッツ達の距離では細部まで見て取れなかったそれは、忘れな草(ミオスティリヤ)


 その旗は王家の旗と正規軍軍旗との間で、強く吹き抜ける風に、存在を誇示するように靡いていた。





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