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第1章「暗夜」(8)

 ヒースウッドがイリヤのいる応接室に足を踏み入れた時は、既にスクード達の姿はそこにはなかった。

 ほとんど入れ替わりのような状態で、ヒースウッドが硝子戸から中庭を眺めようとしたら、そこにいるスクード達と目が合うかもしれない。

 イリヤは彼等が出て行った中庭への硝子戸を意識しながら、ヒースウッドの意識が他に向かないよう口を開いた。

「どうしたんだ、ヒースウッド中将。外で何が起きているのか、教えて欲しい。本当に、西海軍が」

 声が上擦っていないかが気になった。ヒースウッドとの間にいるヴィルトールが視線だけで頷き、改めてヒースウッドへと身体を向けた。

 ヒースウッドは硝子戸を気にするでもなく、一つ息を吐いて呼吸を整えると真っ直ぐイリヤを見つめ、膝をついたまま厚い胸板を張った。

「恐れながら、ミオスティリヤ殿下に申し上げます。現在我らがボードヴィルは、シメノスから上陸した西海軍およそ四千と、岸壁を隔て対峙しております」

「――四千も」

 判ってはいたものの、西海軍が、それも四千もの兵がすぐそこに寄せているという事実を耳にして、イリヤは今まで感じたことのない慄きを覚えた。

 これから、おそらく、戦闘になる。

 そう思った瞬間、ふいに自分がどちらを向いているか判らない感覚に陥った。

『ラナエ様は我々が、お探しし保護致します』

 自分は、自分のことだけを考えているのではないか。

「ミオスティリヤ殿下、尊い御身に対し弁えぬことと存じておりますが、なにとぞ」

 ヒースウッドは一旦息を止め、喉を震わせた。

「なにとぞ、兵等の前にお姿をお示し頂き、お言葉を賜りたく――殿下のお姿を拝し、お言葉を賜れば、兵らの士気も一段と上がりましょう」

 そう言いヒースウッドは額を床につけんばかりに落とした。

「殿下の御身は不肖私が、命を賭してお護り申し上げます故!」

 イリヤの心臓の鼓動が、ヒースウッドの言葉に押されるように速さを増す。

 それとも絶えない不安と興奮を含んだ、この騒めきのせいだろうか。

 自分の中の不安。

 自分が本当にしなくてはならないことは何なのか。



『ラナエ様は我々が、お探しし保護致します』

 長いとは言えない会話の後、スクードは明瞭な響きでそう告げた。

 正直に言えば、スクードから彼等の目的を聞いても、イリヤはまだ恐れていた。

 思いがけず現れたスクード達が願ってもない助け手に見えて、実はルシファーの計略ではないと言えるのか。

 そしてまた、スクード達が間違いなくイリヤ達の助け手だとして、このボードヴィルからルシファーの目をかいくぐり、王都への連絡と、ラナエの救出という困難なことが叶うのか。

 そもそも。

 イリヤの脳裏に、ヴィルトール達がラナエを救出しようとした時の、穏やかな部屋を容赦無く染めた生々しい血と色とが思い出される。

 近衛師団隊士三名と、法術士の命が余りに容易く失われた。

 今ヴィルトールが生きてここにいるのも、彼を利用しようとするルシファーの思惑があったからだ。

 それは否応なく判っている。

(――俺は)

 そもそも彼等を巻き込んで、イリヤにその命が保障できる訳もない。

 だがそう言うと、スクードやその部下達は、厳しく張り詰めた面をわずかに綻ばせた。

『ご安心を、イリヤ殿。我々は本来、ウィンスター大将の命を受けボードヴィルを探るのが任務、もとより危険は承知です。もう一つ目的が重なるに過ぎません』



 イリヤは肺に息を溜め込むように、唇を引き結んだ。

 どちらに向かえばいいのか、判らない。

 ただ、ここでヒースウッドと共に動く方が、スクード達の危険を減らせるように思う。

(――)

 それでいいのか、と疑問が心の奥に浮き上がる。

 その為に、ルシファーの思惑に乗って、ボードヴィルの兵士達の前に立っていいのか。

 何より――そうすることは、イリヤが兵士達に、戦えと、そう告げることに他ならない。

(俺が……?)

 その考えはイリヤにとって全く現実的ではなかった。

 同時にそれは、胃を冷たい手が掴むような感覚をもたらした。

「ミオスティリヤ殿下――」

 イリヤの沈黙に、ヒースウッドはやや狼狽えたように筋肉の張った上半身を動かした。

 階上の騒めきが突風のように膨れ上がる。

 ヒースウッドがはっとして顔を上げた。

 兵士達の叫ぶ声と彼等が立てる鎧の擦れる音や石畳を蹴る足音だ。

 それらが慌ただしく入り混じり、廊下と、そして中庭へ面した硝子戸を通じ、イリヤ達のいる部屋まで落ちてきていた。

 西海軍に動きがあったのか――ヒースウッドの面に焦る思いが生じたのが、イリヤにも判った。

 ヒースウッドがその場に立ち上がった。

「何かあったようです。やはり御身を危険に曝す訳には参りません、殿下はこちらで」

「行こう」

 口をついて言葉が飛び出していた。狼狽えたのはヒースウッドの方だ。

 慌ただしい動作でイリヤの面と部屋の扉とを、天秤にかけるように交互に見た。

「し、しかし」

「危険が迫ってるのに、自分だけここにいる訳にはいかない」

 イリヤの言葉を噛みしめるように、ヒースウッドの顔が次第に輝く。再び跪き、大柄な身体を深く折り曲げた。

「もったいないお言葉――殿下の御身は必ずや、不肖この私がお護り申し上げます!」

 ヒースウッドから逸らした視線がヴィルトールとぶつかり、灰色の瞳の中に懸念の色を見つける。

 どくりと心臓が鳴った。

 それでいいのか。

 だが既に廊下へと足を向けているヒースウッドの姿と、階上から落ちてくる騒音に引かれるように、イリヤは扉へと足を踏み出した。





 城壁の守備回廊は、西海軍が展開するシメノスを眼下に、まずは守備の態勢を整えていた。

 引き出された投石機や矢立の車輪の響きも今は静まっている。

 シメノスから吹き上げる風に乗って流れる騒めきが、兵士達の緊張した息遣いの中に流れ込む。

 いつ攻撃が始まるのか、城壁の上には息詰まる緊張があった。

 何度となく繰り返してきた訓練とは違う。

 現実の、西海軍の侵攻だ。

「ケーニッヒ少将」

 恐る恐る声を掛けられ、ケーニッヒは歩いていた城壁の狭間を背に兵士達を振り返った。

 やや離れた所に、四人の兵士がケーニッヒへ遠慮がちな顔を向けている。四人ともケーニッヒが第一小隊長の頃からの部下だった。

「どうしたシサイ、ウォレン達も。持ち場は整ったのか」

 そう尋ねながらも、まずいな、という思いが胸を過った。

 兵士達の表情がだ。

 シサイがまだ若い朴訥な面で何度か瞬きをした。

「整っております。――その……ケーニッヒ少将、お聞きしてもよろしいですか」

「手短にしろ」

「何で今、西海軍がボードヴィルにいるんでしょう」

「何故だと? 決まっている、西海が我が国を裏切ったからだ。西方公とミオスティリヤ殿下が危惧されたとおりだったと証明された」

「そうですが……」

 シサイやウォレン達は互いの顔を見交わしてそこに不安と疑問を確認し、またケーニッヒを見た。

「でもついさっき、条約再締結の儀が始まったばかりじゃないんですか」

「あいつら、どこから来たんですか」

「こんな早く――何でレガージュからは何も言ってこないんでしょう」

 言葉にはされないだけの同様の疑問が、シサイ達の後ろからケーニッヒに向けられた幾つもの視線の中にある。

 初めの興奮は過ぎ、兵士達の間にはやや困惑と気後れともいえる感情、そして不安が滲みかけている。良くない兆候だった。

 早くヒースウッドが戻ってくれないかと気を揉みつつ、ケーニッヒは語気を強めた。

「落ち着け。レガージュが気付かなかった何らかの侵入手段があったのだ」

 まさかレガージュも……という強烈な不安が一瞬突き上がったが、ケーニッヒはそれを振り落とした。

「こんなに早く攻めて来るとは思わなかったが、我々はこれを予期していた。慌てることはない」

「――そうですが」

「そんな事でどうする、国の要衝たるボードヴィルを護る兵士が」

 ケーニッヒは右手を伸ばしてシサイの肩を掴み、安堵させるように二度ほど軽く叩いた。

 それから城壁の縁に立って狭間を背にし、混乱気味の兵士達と向き合う。

「良く聞け――今の我等の姿を見るのだ! 不足しているものがあるか? 何が不足しているのか、周りを見回してみろ!」

 ざわざわと兜や頰当てを着けた頭が揺れる。

「兵、装備、城壁――無いだろう! 我等の迎撃態勢は充分に整っている! そして何より、我々にはこのボードヴィル砦がある――違うか!」

 張り上げた声が風に乗り、城壁や物見の塔の上にいる兵士達に届く。

「恐れることは無い! 見ろ―― ! シメノスから立ち上がるこの高い崖を! 砦を! ここを満たす水も無く、奴等がどうして越えられる! 奴等はしょせん海の民だ、陸上で我等に勝る訳がない、そうだろう! 違うか!」

 兵士達の表情から、次第に不安が薄れ、背筋が伸びて来たのを見て取りケーニッヒはひとまず安堵の息を吐いた。肺の奥にあった暖かな息は、自分に言い聞かせるのにも似ていた。

 腰に帯びていた剣を鞘から抜き放ち、頭上へ掲げる。

「今、ミオスティリヤ殿下もこの場においでになる! 我々の役目は殿下と共にまずこのボードヴィルにおいて西海の侵攻を止め、撃破することにこそある! その任を誇ろう!」

 応じる歓声が上がり、剣や槍、ボードヴィルや正規軍の軍旗が翻る。

 それが相乗効果となって歓声は更に高く城壁と、砦を包むように満ちた。

 皮膚を震わせるような歓声の波に兵士達の士気が高まったのを感じ、ケーニッヒは下ろしたままの左手をぐっと握り込んだ。

(逆にいい機会だった――下の西海軍を威圧するに充分だ)

 自らの意気もまた高ぶっていくの噛み締めながら、ケーニッヒは突き上げていた剣を下ろした。

 シメノスの岸壁とこのボードヴィルの城壁に揺るぎはない。

 いち早く西海軍を察知したからこそ、このボードヴィルから上流へ遡上する事を許していない。

(これまでの我等の活動が功を奏したんだ)

 その思いが強い。

 ルシファーが警告したとおり、西海は不可侵条約再締結を破棄し、この国に攻め入ったのだ。

 このボードヴィルが西海の思惑を打ち砕く嚆矢(こうし)になるのだと。

 ふと、視界の端で何かが光を弾いた気がして、ケーニッヒは狭間から眼下の西海軍を見下ろした。

 西海軍が動き出したのかと思ったが、西海軍はシメノスを一面埋めたまま、現れた時と変わりがないように見える。

 剣か鎧が光を弾いたかと目を凝らす。ただ光を弾いたと感じた場所は、西海軍の中ではなく、もっと近い所だった。

 岸壁の辺りだ。

 再びキラ、と陽光を弾いた。

「何だ? 水溜まりか……?」

 ケーニッヒは目を凝らし、岸壁を見つめた。ちょうど僅か半刻前、スクード達が登ってきた細い路へ目をやったが、そこには異常は見当たらない。

 いや。

 キラ、と――確かに何かが光を弾く。

 それも一箇所だけではないことにケーニッヒは気が付いた。

(何だ……何かある)

 ただの見慣れた岩肌の上に、何か。

 岩の間に残った水溜りなのか、とにかく視認はできないが、それと思って見ればあちこちで何かが太陽の光を弾いている。

 兵に良く確認させようと、一旦狭間から覗いていた身体を起こしかけた時、もう一つのものがケーニッヒの気を引いた。

 シメノスを覆い尽くす西海軍の中から、薄い煙か布のようなものがすうっと空へ上がって行く。

 目で追った先の、薄い雲を靡かせた青い空に、その煙か布かが形と色を変えるように、ルシファーの姿が現れた。

「――」

 西方公。

 あんな所にいる。

 西海軍の陣営の中から上がってきたように見えたのは、見間違いだろうか。

(――当たり前だ)

 別の、西海軍が焚いた松明か何かの煙を見間違えた。

 きっとルシファーは初めからそこに居たのだ。

 西海軍を監視していたのだろう。

(……西海軍が、火を?)

 ケーニッヒはシメノスに蠢く西海軍へと視線を落とした。

 シメノスを遡り攻めて来た四千もの兵。

 西方公が、彼女が懸念していた通りになった。

 初めは西海が攻めて来るなどと、そんな事が本当にあるのかと疑っていたが、何度もルシファーの話を聞く内にヒースウッドがまずルシファーを信じた。すぐにヒースウッド伯爵家も、ルシファーを支持することを決めたのだ。

 ケーニッヒもヒースウッドが言うならと――いやヒースウッドの言葉だけではなく、ルシファーの言うことにはそれだけ、信じられるだけの根拠があったからだ。

(根拠?)

 西海が攻めて来ると信じられるだけの根拠。

(どんな、根拠だった……?)

 ケーニッヒが信じたものは。

 西海軍から立ち昇ったものは見間違いだろうか。その先にルシファーがいたのは。

 西海軍が現れたのはルシファーの予想通りだ。

 だからこそボードヴィルは心構えができていた。

(――)

 都合が良すぎないか。

 何を信じていたのか。

「西方公……?」

 ふいに狭間から伸びた透明な腕が、ケーニッヒの頭を掴み、一息に捻った。

 ごきん、という鈍い音と共に頭が時計の針を急に進めたように半回転した。

 見開かれた両眼に、青い空とその中に立つルシファーの姿が映っていた。

 ルシファーの暁の瞳が。

「……」

 まだケーニッヒの瞳は上空のルシファーに向けられたまま、身体はぐらりと傾ぎ、狭間を乗り越え遥か下のシメノスへと落ちていった。

「……ケーニッヒ少将ッ!」

 その様を目の当たりにし、驚いたシサイ達が駆け寄ろうとした先で、ケーニッヒの身体と入れ替わるように狭間から、透明でぬめりのある塊が滑り落ちる。

 湿った音がした。

 シサイ達が見つめる先で、透明な塊は厚みのある弾力を感じさせながら、立ち上がった。

 人型を取る。

 透き通った皮膚が小刻みに震え、波紋が走る。

「な……何だ、こいつは!」

 兵士等が後ずさり、腰の剣を引き抜き構えた時、あちこちで同様の声が上がるのが聞こえた。

 見回せば城壁の回廊に、狭間から次々と透明な塊が滑り落ち、それが次々と身を起こしていく。

 次々、――次々と。

 陽の光に透ける身体がゆらゆらと揺れた。

「――」

 見たこともない光景に兵士達は息を飲み、立ち尽くした。

 この相手は何なのか。いつの間に登って来ていたのか。

 剣や槍で戦えるのか。

 戦うのか。

 どこからも彼等を指揮する声が無い。

 透明な人型達――西海軍の使隷は、身体を屈め、一斉に唸りを上げた。

 兵士達目がけ、びちゃりと湿った音を立て前進を開始する。

 陽光を弾き、押し寄せる波のようだ。

「あ……あ」

 兵士が身じろぎした、その時に、彼等の背後から強い風が吹いた。

 瞬間、そこにいた使隷が切り刻まれ霧のように散る。

 呼吸を止めた兵士達の上に、張りつめた声が響いた。

「恐れるのはまだよ! 戦いなさい! ボードヴィルを守るために!」

 ルシファーが彼等の背後の塔の上で叫ぶ。

 その白い手が示した前方から、再び狭間を擦り抜けて透明な塊が這い落ちた。





 前を行くヒースウッドの背中を見ながら、階段の一段一段に重い身体を押し上げる。

 ヒースウッドの執務室を出て廊下を歩き、耳を聾するような階上の騒めきを聞くうちに、自分がしようとしていることが改めてのしかかり、イリヤは迷い始めていた。

(何をしようとしてるんだ、俺は)

 スクード達が動きやすいように。

 ルシファーの目を誤魔化す為に。

 ラナエを助ける為に。

 その為に、これから戦う兵士達の前に、あたかも彼等を導き鼓舞するように立つというのか。

 その資格も、能力も、意志も無いイリヤが、これから命を危険に晒して戦う彼等を、その命を捨てろと高みから追いやるのか。

(望んでるわけじゃない)

 だが、イリヤがしようとしているのはそういう事だ。

 喧騒が、ひときわ大きくなった。兵士達の上げる声――声というよりは怒鳴り声や叫びに近い。

「戦闘が」

 ヒースウッドが足を速める。

 それらが逆にイリヤの迷いを更に揺さぶった。

「……ヒースウッド中将」

 やはり、と言おうとした時。


 聞こえていた喧騒が、ふっと止んだ。


「何が……」

 ヒースウッドが呟き、続いて石段を蹴って駆け出した。

「殿下は、どうかこの場に!」

 振り返りながらイリヤに止まるように告げる間も、足を止めず階段を曲がる。

 イリヤは束の間その場に立ち尽くしたが、明確な思考が動く前にヒースウッドを追って階段を駆け登った。

「殿下―― !」

 ヴィルトールの制止の声が聞こえたが、イリヤはそのまま城壁の上へ、飛び出した。

 そこには陽光が満ち、一瞬視界が輝く白に染まる。

 イリヤの頬を叩くような風が吹いた。

 瞬きし、色が戻ったイリヤの目の前で、ヒースウッドが立ちはだかるように背中を向けている。

 その向こうに垣間見える。


 いつか見た光景だ。

 月光の降り注ぐ王城の庭園。



 そこに倒れた、幾人もの人、人、人――人。



 吐き気が、胃の裏側から湧き起こる。

 全く同じだ。自分が以前目にした――

 自分が引き起こしたものと。


「殿下」

 背中に手が当てられ、イリヤははっとして瞬きを繰り返した。

 庭園の光景は消え、ボードヴィル砦の無骨な石組みが現われる。

「――」

 堅牢な城壁を(かたど)る石組みは、大雨の中と見紛うばかりに濡れている。

 兵士達がその水溜りに折り重なり、顔を埋めるように倒れていた。

(……全員、)

 まだ彼等は、手足を動かしていた。

 弱々しく藻掻く手足が水溜りを揺らす。

 ヒースウッドやイリヤの姿を見つけ、纏いつく水の中から手を伸ばす。

「――っ」

 イリヤの中で、身体の奥底から、先ほどの吐き気とは全く違う感覚が噴き上がった。

 右の瞳が、薄い金から鮮やかに色を深める。

 イリヤの身体を、瞳と同じ色の輝きが包んだ。

「殿下?!」

 ヒースウッドが振り返り、驚いた顔で一歩後退る。

 自分が力を使おうとしているのが判った。

 そして反面、何かに動かされる感覚がある。

 まるで自分の力ではないものが、自分を外から動かそうとするかのようだ。

 イリヤを包む光が眩しいほどに輝く。

 金色の光は激しい風を伴い、イリヤの足元から四方に迸ると、倒れもがいている兵士達の上を走った。

 光を受けた水の塊が身を震わせて弾かれ、一斉に後退した。

 定感覚で並ぶ狭間からシメノスへの岸壁へ逆流し、滝のような音を立てて滑り落ちる。

「な――」

 ヒースウッドはイリヤを振り返ったまま、それ以外の活動を忘れたかのようにイリヤを見つめた。

「殿下……」



 イリヤは瞳を見開き、目の前の光景を見ていた。

 身体から沸き起こった光――ファルシオンと、父王と同じ、力だ。

 そしてそれと同時に、まるで違う、自分のものではない力。

 瞳が彷徨い、姿を探す。

(風――)

 頭の奥が割れるように痛んだ。



「殿下!」

 イリヤの身体が膝から力を失い、石組みの床の上に倒れかかる。

 後ろから手を伸ばしたヴィルトールと、直後にヒースウッドもイリヤが冷たい石に膝を打つ前に支えた。

 城壁の上を見回したヒースウッドは、倒れていた兵士達が身体を捉えていた水から解放され、呻きながらも、何とか身体を起こす様を呆然と眺めた。

 負傷はあるかもしれないが、倒れたままの者はどうやらいない。

 ヒースウッドの中で驚きがゆっくりと、強い喜びと畏敬の想いに変わる。

「ミオスティリヤ殿下――」

 歓喜に打ち震えた声で呟き、ヒースウッドはイリヤの俯いた顔を覗き込んだ。

「殿下……、ミオスティリヤ殿下!」

 何度か呼ぶとイリヤの顔が上がった。

 その瞳からはもう先ほどの輝きは薄れていたが、城壁の兵士達を見つけ、イリヤは安堵するように息を吐いた。

「生きてる――良かった」

 ヒースウッドはイリヤから素早く二歩離れ、膝をついた。

「ミオスティリヤ殿下―― ! 御身の恩情に心より感謝申し上げます!」

「――ヒース……」

 膝を支え体を起こしたイリヤの耳に、風がうねるような歓声が響いた。

 目を向けた回廊のあちこちで、死の水から解放された兵士達が立ち上がり、イリヤへ顔を向け、剣や槍を高く掲げながら口々にイリヤの名を叫んでいる。

「――」

 よろめいた背中がぶつかり、振り返るとヴィルトールが厳しい面のまま、正面を見据えていた。

 その視線を追った先に、低い塔屋の屋根の上に立つルシファーの姿を捉える。

 イリヤと目が合うと、ルシファーはにこりと笑った。

 ヒースウッドが立ち上がり声を張り上げる。

「同志達よ――恐れるな!」

 髭を蓄えた面に赤く血を昇らせ、ヒースウッドは肺の奥底から叫んだ。

「我々には、ミオスティリヤ殿下がおられる! この大恩に報いる為にも、我等一同、改めてミオスティリヤ殿下のもと一丸となり、西海軍の進撃を阻み、殿下の御身とこの国を守護し奉る!」

 回廊の兵士達が応え、歓声はボードヴィルの砦を揺るがした。

「ミオスティリヤ殿下!」

「ミオスティリヤ殿下万歳!」

「ミオスティリヤ殿下―― !」

 歓声と熱気が頭上へ広がる空へ抜けていく。

 イリヤは言葉もなく、全身の血が下がっていくのを感じながら、ただルシファーを睨んだ。

 目が回る。

 ルシファーの白い頬の笑みが、離れた場所からもくっきりとイリヤの瞳を焼いた。

 歓声の中を、鋭い警告の声が響いた。

「また来たぞ―― !」

 再び城壁の狭間から、透明な液体が流れ落ち、人型を取っていく。

 一瞬、兵士達の歓声が途絶えた。

「恐れるな!」

 ヒースウッドは一番近くにいた一体に突進すると、手にしていた抜身の剣でその透明な体を斬り下ろした。

 剣が微かに光る緑色の核を捉え、使隷があっけなくただの水に返る。

「こいつは西海軍の操り人形だ! 我々は既に対抗手段を知っている! 緑の核を砕けば力を失うのだ! 押し返せ!」

 ヒースウッドの周囲にいた兵士達から、広がる波紋のように武器を翻し始める。

 喚声と金属音、足音、水音、様々な音が入り混じり、城壁の上に満ちた。




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