表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/536

第1章「暗夜」(5)

 レオアリスはファルシオンの執務机横に窓硝子を背にして立ち、楕円の卓に着く十二名へ身体を向けた。

 それまで室内にいた者はそれぞれ、ベルゼビアの齎した空気がレオアリスが纏って入ったそれに払われたように感じる反面、どこか別種の、形の掴めない不安に取って代わったようにも思えた。

 右手の窓から射し込む光に背を向けているせいか、レオアリスの面は固く、血の気が失せて見える。

 今、この状況であれば当然だろうという思いと、別の場所で浮かぶ漠然とした不安が、楕円の卓を囲む者達の間にあった。

 ファルシオンが広い椅子からやや背中を浮かせ、安堵と不安、二つが同じほど鬩ぎ合う瞳でレオアリスの横顔を見つめた。

 グランスレイ、スランザールやベールの眼差しが、入口の横に立つロットバルトへ向けられる。あれほどの状態にあったレオアリスが、今ここに立つ事に対しての懸念、止めるべきだったのではないかという疑問が含まれている。

 ロットバルトはその問いに返す言葉を持たず、一度瞳を伏せ、それからファルシオンの執務机の傍に立ったレオアリスへとそれを向けた。

 背後の窓から射し込む淡い陽光のために、表情は掴みにくい。ただ、注意して見ればそれと判るが、呼吸はゆっくりと抑えられ、肩が上下している。

 その様子はまだ、危うく思えた。

 あらゆる意味で。




 およそ半刻前――既に討議が始まっているだろう執務室に至る廊下を避け、ロットバルトはもう一つの細い廊下を使い、レオアリスとアルジマールが休む小部屋へと入った。執務室に隣接する、王が休養を取る為の部屋だ。

 椅子に腰かけていたクライフが顔を上げる。

 クライフの面に変化が無いのを読み取り、ロットバルトはレオアリスが横たわっている寝椅子へ瞳を向けた。目を覚ました様子は窺えず、その事に懸念と安堵との二つを同時に覚える。

 歩み寄る間に捉えた顔色は白く、アルジマールが治癒の術を施した時と変わらず、瞳は固く閉ざされたままだ。

 手を伸ばし触れた額から、それだけでそうと判る熱が指先に伝わる。

 あの苦痛の響きが脳裏に過ぎり、ロットバルトは拳を握り締めた。腕を掴んだ手の、指から伝わった力――。

「熱がかなり高いんだ。でもアルジマール院長もまだ目ぇ覚まさねぇしよ」

 傍に椅子を置いて座っていたクライフが立ち上がり、レオアリスと、もう一つ、彼の左側に置かれた広い椅子の上で身体を丸めて眠っているアルジマールを目で示した。

「俺達は待つだけだ」

 普段のクライフの上には見る事のない、焦燥と、懸念と、苛立ちが見える。苛立ちは自分自身へのものだろう。

「親父さん……ヴェルナー侯爵とは話せたのか」

 低く抑えた声でクライフは一度奥の扉に目を向けた。扉の向こうには王の執務室がある。

 ロットバルトもまた、今その先にいる顔触れを想像しながら、頷いた。

 既に彼の父を含め召集を受けた者達が集まり、事態への対応策を話し合っている頃合いだ。

「詳細を伝える時間はありませんでしたが、大枠は」

 諸侯が召集される半刻の間にグランスレイへ状況を伝え、残りのごく僅かな時間で父ヴェルナー侯爵と話をしたが、できたのはそこまでだった。

 ただ、その二名以外の誰に対してもまだ接触する段階ではなく、この後の動きは隣室での結論を待つしかない。

 ベールやスランザールが導こうとしている確たる決着はあるものの、やはり懸念は拭えない。

 単なる王の不在ではない、王の安否すら判らないこの非常に危うい状況下で、議論が思わぬ方向へ展開していく事も十分に考えられた。

 レオアリスの不在についても、当然疑問が呈されるだろう。

(王の安否――)

 眠っているレオアリスに視線を落とす。

 アルジマールが警告したように、おそらくあの謁見の間にいてレオアリスの姿を見た者はみな、王の身について、最悪の状況を思い浮かべている。

 それが明確になった時に、どのように対応し、どのように混乱を収めていくのか――。

「なあ、ロットバルト」

 クライフは俯き床を見据え、その声は俯いているせいもあり、喉の奥でくぐもっている。

「お前この先、どうなると思う」

「――」

「王が……、陛下が――もし」

 ロットバルトはレオアリスの血の気の失せた頰から、瞳を逸らした。

 だが、考えなくてはいけない。

「――陛下の御身については、今の討議が終わり次第、おそらく何らかの方法で確認を」

 ふいにぐいと腕を引かれた。ロットバルトとクライフ、それぞれに息を飲む。

 落とした視線の先で、レオアリスの瞳が半ば開かれていた。

「嘘だろ」

 クライフが呟き、ロットバルトもまた同様の感情を覚えた。

 あれからまだ一刻も経っていない。目を覚ますには早過ぎる。

「上……」

 ただ完全に意識が戻ったというよりは、瞳は目の前の二人に向けられているのではなく、どこか別の所を見ているように思えた。

 漆黒の瞳は虚ろに光を拒み、硝子玉のようだ。

 微かに口元が動いたが、声は聞き取れなかった。

 瞬きにより押しやられた涙が一筋だけ、頬を落ちた。

「――上将」

 瞳に意識が灯った瞬間、跳ね起きた。

「王――ッ」

 途端に身体を折り、噎せ返る。

 伸ばした指が寝椅子の背もたれを掴む。押し殺した苦痛の呻きが咳に混ざった。

「上将」

 また血を吐くのではないかと、腹の奥がぐっと冷える。同時に素早く執務室への扉へ目をやり、掛け布を掴んで頭から身体を覆った。

 幸い王の休息の為に整えられたこの部屋は、外部の音を一切遮断してくれている。

 くぐもった咳と苦鳴、それと共に抑えた肩が跳ねる。

 クライフが布越しに背中に手を当てながら、奥歯を噛み締め、呻いた。

「俺ぁもう……嫌だぜ、こんな」

「――」

 終わりなく続くように思えた咳も、次第に静まり、抑えていた肩がゆっくりとした呼吸を取り戻した。

 ややあって篭っていた力が僅かに抜ける。

 背もたれを掴んでいた右手が解け、レオアリスは顔を上げた。

「――どこだ、ここは」

 拾う言葉に一瞬迷ったのは、ここが王の休養の為の間だからだ。王という響きを聞かせる事に躊躇いを覚えた。

「……第五層執務室の、隣室になります」

「隣室――」

 レオアリスの右手が身体を覆っていた掛け布を手繰り、掛け布はするりと寝椅子の座面に落ちた。

 現れた横顔からは生気が失せている。

「執務室においては現在、ファルシオン殿下のもと、大公が東方公及び各院の正副長官を召集され、討議を進められているところです」

 言葉が余りに足りないかとも思ったが、レオアリスは置かれた状況を飲み込んだようだった。

 扉へと視線を向け、それから壁際に置かれた大時計を見た。

「一刻も殿下のお側を空けたのか」

 右手が、鳩尾に当てられる。その手は微かに震え、握り締められた。

 俯き、瞳を床に落としたまま、声を押し出す。

「ロットバルト。俺は殿下に、何か言ったか(・・・・・・)

 ただそれだけの、低く、短い問いだった。

 その中に含まれた、自らの失態を懼れる――ファルシオンに与えたかもしれない苦痛を、懼れる響き。

 剣を失った理由――、その推測を(・・・・・)、自分は口にしたのかと。

「――いいえ、何も」

 ロットバルトは明確にそう返した。

 束の間の沈黙があり、ややあって、俯いていた顔が上がった。

「そうか」

 椅子の座面に置いていた右脚を降ろし、背凭れに手をついて立ち上がる。

 上体が僅かによろめき、ロットバルトとクライフは咄嗟に支えかけた腕を堪えた。

「殿下の所に戻る。用意してくれ」

「けど、上将、まだ」

 クライフが口籠り、ただ賛成しかねる事を示して両手を広げた。

 ロットバルトもほぼ同じ思いだ。隣室の議論は荒れるかもしれず、そこで話される内容はレオアリスにとって、苦痛を覚えるものでしかないのは判りきっている。

「現在の議論は大公が中心となり進めておられます。貴方は今は、自身の回復が最優先でなければいけない。殿下もそうお望みです」

「もう問題は無い」

 それを信じるはずもなかったが、続く言葉は否とは言い難い響きがあった。

「殿下の守護すら果たせないなら、俺に意味があるのか」

 レオアリスの瞳の奥底に仄見える冥い闇――ただファルシオンの名を口にした時にそれは確かに薄れ、戻るべきか否か、ロットバルトは束の間の逡巡と、扉の向こうの見えない状況とを秤に掛けた。




 ロットバルトは改めて執務室内を見渡した。

 ここでどのような議論が交わされたか、今の段階で掴む事は難しい。ただ明らかに、レオアリスが戻った事により場が変化している。

 スランザールの瞳を見れば、先ほど向けられた懸念は隠れ、ただ慎重に細められた視線が返った。

「王の剣士が戻ったのはちょうどいい」

 ベルゼビアがレオアリスへ首を巡らせた。

「第一大隊大将に尋ねたい。貴殿はルシファー討伐の為に西のボードヴィルへ赴いていたと聞いたが、相違ないか」

 その口調にはひやりと意識に触れる含みが感じられた。

 レオアリスは僅かに視線を下げ、黙礼を返した。

「第一大隊を率いてか――師団に目立った動きは見られなかったようだが」

「いいえ――」

 息をつき、瞳を上げる。一つ一つの動作が緩やかで、それが見る者に普段とは違う感覚を齎した。

「ルシファー相手に、隊を率いては、却って被害を招きます」

「なるほど、言う通りだろう。では、貴殿単身で赴いたと?」

「僭越ながら――この件に関しては、同道した私から詳細のご報告をさせて頂く事になっておりました」

 ロットバルトは一礼し、ベルゼビアの視線を捉えた。

「しかし、事態が動く前に今回の急を受け、任務を半ばで置かざるを得ず、帰還致しましたが――」

 ベルゼビアがやや瞳を細め、薄い笑みを刷く。

「良い。そもそもの本題はそこではないからな。ならば本題に戻そう」

 そう言うと、ファルシオンの座る執務机と楕円の卓の間に立ち、卓を囲む者達へ、視線を投げた。

「何度も言うが、私の趣旨はとても単純だ。陛下は御不在時の代理としてファルシオン殿下を指名され、北方公、スランザール、貴殿等を補佐とされた。それは事実であり、そこに異論などあろうはすがない。だが、現状はもはやその段階ではないのではないか――そのひどく簡単でありながら看過できぬ問題を、この場で問おうというだけだ」

 室内に緊張と居心地の悪さ、抑えた苛立ちも滲む。ロットバルトは執務室の一番端からそれを見渡した。

 執務室の扉が開かれた時に感じた張り詰めた空気の理由は、ベルゼビアの発言で理解できた。ファルシオンを支える体制、王の不在時における体制。

 その権力争いが既に始まっているという事だ。

 それはいずれ避けられない反応ではあったが、今、この場で持ち上がるには早過ぎる。

(今の段階で必要なのは、いかに端的に事態に対応するか――むしろ余計なものは削ぎ落すべき時間帯だ)

 ふと、ロットバルトは視線を動かした。ファルシオンの傍に立つ、レオアリスへ。

 首の後ろを、冷たい刃が撫でたような感覚を覚えたからだ。

(――)

「改めて貴殿等の心を問おう。如何にファルシオン殿下の御前であろうと、如何に不敬な言であろうと――国の方針を決め、この先の混乱を抑える為には、今この場で問わねばならん」

 ヴェルナーが慎重な中にも非難を含んで口を開いた。

「それを陛下が定めて行かれたのだと承知しています。万が一の際、無用な混乱を招かぬようにと」

「万が一」

 ベルゼビアは声の中に棘と冷笑とを滲ませた。

「陛下が御隠れになったかもしれぬこの状態が、その万が一の中に織り込まれていたと?」

「東方」

 肌を削ぐような感覚が、部屋にいる全員を包んだ。文官であるゴドフリーやランケが堪え切れず呻き、椅子に身体を落とす。

「東方公、どうか――」

 低く、抑え込んだ声だった。

 列席者の視線が、声の主へ――レオアリスへと集まる。

 ベルゼビアへ向けられた双眸からは感情が一切失せ、ただ無機質な刃の光が浮かんでいる。

「それ以上は」

 測り違いをしていたと、ロットバルトは気が付いた。

 完全な測り違いだ。

 レオアリスの――、今、彼が身の内に(いだ)いている、怒りを。

 ベルゼビアはレオアリスを振り返り、その姿を見た。

王の剣士(・・・・)――貴殿が一番、理解しているのではないか。我らが王は、既に」

 レオアリスの身体を青白い光が雷光のように爆ぜる。

 同時に、レオアリスの背後の窓硝子に亀裂が生じた。

「上将!」

 グランスレイとロットバルトが咄嗟に発した制止の中、レオアリスは一歩、踏み出した。

 止める間もなく、レオアリスがそのまま、ベルゼビアを斬ると

「レオアリス!」

 ファルシオンが立ち上がり手を伸ばす。

「殿下の御前じゃ、レオアリス」

 落ち着いた、だが鋭く打つ声に、レオアリスは踏み出すのをその一歩で止めた。

 ファルシオンの指先が辛うじてレオアリスの左腕の袖を掴んでいる。その指先が緩み、ファルシオンはすとんと大きな椅子の上に腰を落とした。

 束の間の凍るような沈黙の後、誰ともなく、安堵に吐き出した息が重なる。

 窓際へ下がったレオアリスを見定めるように見つめ、ベールはベルゼビアへと向き直った。

「それ以上は謹んでもらおう、地政院長。少なくとも今その議論を持ち出す事は、それこそ無用の混乱を呼び込む行為でもある」

「確かに、これ以上の発言は私の命を危うくするようだ。最も、その方が有難いと考える者も幾らかはいるのではないか」

 皮肉を込めた言葉には、ベールは視線を向けなかった。

「現時点はこのまま評決としたいが、良いか。無論、体制については情勢を見つつ、都度判断する必要がある」

「その情勢がどの時点を指すのか疑問だが」

「東方公、そこまでに」

 廊下の向こうから、扉を叩く音が三度、鳴らされた。

「正規軍将軍、アスタロト公爵、帰還されました」

 一瞬、室内を沈黙が(よぎ)る。

 そこに(おそ)れる感情が、確かにあった。

「アスタロトが戻ったか。これで必要な顔ぶれは全て揃ったと言う訳だ」

 ベルゼビアは一人、口元を笑みに歪めた。

「結論はまず、アスタロトの報告を聞いてからにしようではないか。それによってはすぐにでも、判断せざるを得ぬかもしれん」

 ベールは改めて楕円の卓を見渡し、それから他の者達と同様に、再び開く扉を見た。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ