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第2部~大いなる輪~ 第1章「暗夜」(1)





()くも儚く激しく美しきものよ






その大いなる輪を回せ













 海から生まれる風が草原を鳴らして渡る。

 風は一里の控えをぐるりと巡る指標石の間を駆け抜け、輝く青い空に浮かぶ雲を伴い、北東へと吹き過ぎて行く。

 一里の控えの草原に、正規西方軍第七大隊の左軍及び右軍の半数、合わせて千四百余名が整然と、対角翼の陣を形成していた。

 大気が張り詰め、革鎖の鎧の下で僅かに晒された兵士達の腕や首筋を、荒い布目のように撫でる。

 彼等の前方に、西海軍六千名が対峙していた。

 使隷を含めればその数およそ七千――陣の前面に犇めく使隷達がその透ける身体に陽光を弾き、視界を撹乱するかのようだ。

 一度目の泥地化から、この場所に対角翼の陣を敷くまでにも、何度か正体の判らない衝撃が走り大地はその都度泥と化した。

 今や第七大隊が布陣する一里の館から丁度五百間の距離まで、そのぬめる表面を広げ、渡る風は微かな湿り気を孕んでいるように思える。

 西海軍は前進を止めている。再び泥地化が始まるのを待っているのかもしれなかった。

 鎧の下を流れる汗を感じ、兵士は自分の胸当てへと視線を落とした。

 彼が纏うのは銀の鋼を薄く打延べた胸当てと、同じく薄い鋼の板が腰回りや肩、腕、脛を覆うのみの、彫りや装飾を施されていながらも軽微な護り。儀礼用の略装だ。矢や剣の鋭い切っ先は容易くこの護りを貫くだろう。

 これらを纏ってボードヴィルを出た朝には、今の事態は想像もしていなかった。

 けれど鋼の鎧が全身を覆う重装備では、あの泥に沈む。

 どちらがまし(・・)か――

 冷たい汗が皮膚を伝う。耳の奥で鼓動が響いている。重い水袋を体内に何度となく落としているかのようだ。

 その鼓動を縫って、号令が落ちた。

 対角翼陣前方の左右翼二列から、一斉に矢が放たれた。

 矢の筋が空に弧を描き、西海の前列に降り注ぐ。運悪く核を貫かれた使隷が、陽の光に弾けるように崩れる。

 兵士は先ほどからずっと剣の柄を握りしめていた右手に、更に力を込めた。手のひらに滲む汗を感じる。

「抜刀――第一、第二中央陣前進!」

 中将ワッツの号令が再び下り、陣を成す兵達が次々と抜刀して行く。剣が革の鞘を擦る音が風に揺れる林のごとく響いた。

 対角翼陣を形成する合計十四の兵陣の内、両翼の合わさる頂点の左右、第一、第二の集団を形成する一角が前へと迫り出す。手綱に煽られ、騎馬は硬い確かな草原を蹴って疾駆を開始した。

 前を行く騎馬や味方の兵等の間から、兵士の目にも西海の使隷の群れが急激に近付く。

 使隷が蠢き、兵達へ向かってぐぐ、と前進した。使隷達の向こうに展開する西海軍から放たれた矢が飛来する。

「広がれ!」

 視界の端で矢を受けた騎馬がもんどりうって倒れ、盾を翳した兵士の耳のすぐ横を空気を切り裂く唸りと共に矢が過ぎる。背中が総毛立った。

「っ」

 奥歯を噛みしめ、盾を翳し、乗騎の鼻先を定める。剣を握る腕の筋肉が張っている。体内の水袋と騎馬の蹄の音が煩く競い合う。

 迫り出した使隷の群を蹴散らしながら踏み込み、すぐ横の使隷目掛け右手の剣を振るった。

 使隷は崩れたが、切っ先は緑の核を捉えきれないままに駆け抜ける。周囲で同様に、切り崩された使隷の身体が陽光を眩しく反射した。

「離脱―― ! そのまま退け!」

 号令のままに騎首を右方向へ促して回頭し、疾駆を続ける。兵士達の役割は迅速な襲撃と、同等の離脱だ。

 速度を緩めず離脱して行く正規軍の塊を追って、西海の使隷が草原を這い進む。馬上からちらりと後方を回し見ると、西海の本隊前列が兵士達を追って動き出していた。泥地から草原へ這い登る。

 立てられた槍や鉾が陽を弾く。

 進軍は緩やかだ。

「両翼展開!」

 館へと駆けながら放たれたワッツの号令と共に、一里の館前に布陣する対角翼の陣の両翼が、あたかも翼を広げるように前進する。

 駆け戻る中央第一、二陣の騎馬の一団を元の配置に包み込みつつ、広げられた両翼は迫り出した西海軍へと突撃した。

 使隷を砕き、前列の西海兵を薙ぎ、西海軍の上を交差するように左右翼の騎馬が駆け抜ける。

 互いに擦れ違いながら左右翼は完全に入れ替わり、一里の館前方へと戻るとやや翼を広げた状態で再び布陣を整えた。陣に戻った兵士もまた、騎馬の首を西へ戻し、馬上で荒い息を吐いた。

 蹴散らされた西海の前列が、泥地まで後退する。

 束の間の激しい剣戟がその場を通り過ぎ、草原は再び肌をひりつかせる静寂に戻った。

 兵は再び、剣を握る手に力を込めた。

 そこ此処で荒い息遣いが聞こえる。

 生き残った――今は。周囲の損害も恐らくほとんど無い。

 鼓動はまだ耳の奥でどくどくと響いていた。




 泥地まで後退して動きを止めた西海軍を眺め、ワッツは馬上で眉をしかめた。

「草地なら圧倒的に有利だが――どうせ泥地が広がるんだろうなぁ、全く手に負えねぇ」

 周囲の兵に聞こえない程度に口の中で愚痴を洩らす。

 足場が不利にならない内にできるだけ西海軍を削っておきたいが、今の戦法は二度通じるほど西海軍も甘くは無く、このまま機先を制する事ができる時間は、そう長くは続かないだろう。

 ただ、陸上での機動力を見せつけ暫くの間でも足止めをさせる、その役割は果たしているはずだ。

 首を擦ると先ほどこびり付いた泥が乾き、細かい砂になって落ちた。まだ体のあちらこちらが灰色のままで、錆びた発条(ぜんまい)人形になった気分だった。

 うんざりとまた眉をしかめ、ワッツは首を捻って背後の館を振り返った。あの怪物の突進を受けた胸がずきりと痛み、更にしかめ面になってやり過ごす。

 視線の先には館の二階の露台があり、深い庇の奥の広い硝子戸は一枚、外に向かって開かれている。

 硝子戸の向こうの広間に、王都と一里の館を繋ぐ転位陣が敷かれていた。午前中、王とその衛士等が通ってきたものだ。

 それがもう数日前の事にさえ感じられ、ワッツは知らず奥歯に力を込めた。今、ウィンスターが王都と伝令使を遣り取りしている。

(近衛師団は――レオアリスは来るのか)

 それが今は一番の朗報だろう。

 そうなって欲しいもんだが、と独りごち、ワッツは再び前方へと視線を戻した。







 父王がいつも政務を執り行っていた椅子は、ファルシオンにはまだずっと大きく、座ると広い背もたれが幼い身体を包み込んだ。

 父王の匂いがする。

 その匂いに触れた瞬間、不意に喉の奥に熱く重い塊が競り上がり、ファルシオンは俯いてそれを押し込めた。

「殿下……」

 スランザールが背中に手を当て、労わるように小さな背を撫ぜる。手のひらの下で背中は頼りなく震えた。

「……ちちうえは、お戻りになる」

 掠れた声は、問いかけのようにも、自分に言い聞かせているようにも取れた。

「お辛いと存じますが殿下――今は父王陛下の代理として殿下が、お母上やお姉君をお守りになり、国民をお守りになるのです」

「母上……あね、うえ」

 微かな音で呟き、ぎゅっと唇を引き結んでファルシオンは顔を上げた。

 見開かれた瞳は心細そうに揺れ、ただ金色の光は失われず、まだそこにある。

「私が、支えてさしあげなければ、ならないのだ」

 今この執務室にはスランザール、ベール、そして扉脇にトゥレスが立っている。

 執務机は長方形に広い室内の左寄りに右奥の壁を向いて置かれ、その壁と執務机との空間には、二十名が囲める楕円の広い卓が置かれていた。

 王のもと、重要案件を審議する為の場だ。奥の壁に謁見の間へ通じる扉と、その扉を正面に見て左の壁には廊下へ通じる扉がある。右の壁は広い窓が柱を挟み、等間隔に五枚、並んで柔らかな午後の光を斜めに呼び込んでいる。

 そしてファルシオンが座る執務机の後方の壁にも一つ、扉があった。その先は王の私的な部屋で、今はアルジマールとレオアリスが移されていた。

(レオアリス)

 ファルシオンは謁見の間で流れた大量の血を思い浮かべた。

 死んでしまうかと思った。

(だいじょうぶ)

 ぎゅっと両手を握り締める。小さな二つの手のひらの中には、硬い石が握られていた。

 レオアリスが身に付けていたものだ。小鳥の卵ほどの大きさの青い石――くすんだその色の奥に、何かの模様が隠れている。

 細い鎖は千切れていた。

(だいじょうぶ)

 アルジマールが大丈夫だと、そう言ったのだから。

 だから早く――、早く傍に戻ってきて欲しい。

『剣が一振り失われてる』

 アルジマールの言葉が耳の奥に甦り、どくりと心臓が跳ねた。

 それがどういう意味か――

「殿下」

「平気だ」

 そう押し出した時、執務机を挟んで正面に立つベールの横で、微かに空間が揺れたかと思うと、一羽の鷹が現れた。

 先ほども謁見の間に訪れたウィンスターの伝令使だ。

『申し上げます――』

 やや引っ掻くような響きが混じったウィンスターの低い声が流れる。

 伝令使はバージェスからアスタロト達を救出した事、セルファン、ヴァン・グレッグを含め十数名が重傷を負っている事、そして西海の皇都イスの浮上、一里の館への撤収、西海軍の侵攻とバージェス周辺の泥地化、当面の行動は転位陣の維持を目的とする事などを矢継ぎ早に告げてくる。

『また――』

 そこでやや、ウィンスターは言い淀んだ。

 それから、低く、だが明瞭な声が告げる。

『アヴァロン閣下の剣を、回収致しました』

 確かに、室内の空気が凍り付いた。扉脇に立っていたトゥレスが瞳を見開き、言葉を失ったように唖然として伝令使を凝視している。

 スランザールはファルシオンのいる場でこの伝令を聞いた事を後悔するように、痛ましくファルシオンを見つめた。

 ファルシオンは俯き椅子に小さな身体を沈め、肩を強張らせている。

「殿下――」

 一旦ファルシオンを休ませるべきだろうかとスランザールが考えた時、ファルシオンは椅子の上で息を吐いた。

「一里の控えにいる者たちは、そこにいて大丈夫だろうか」

 握り締めた手は白い。

「西海軍は大勢いるようだ……ウィンスター達は一里の館にいてよいのか」

 椅子の中で不安そうに身じろぐ。ウィンスターが率いるのはおよそ千四百名、それに対し西海軍は六千名を超えると言った。

 ベールが執務机を挟み、ファルシオンへ一礼する。

「殿下の御懸念はごもっともです。しかしながら、一里の館にある転位陣は、増援や補給の為の、重要な生命線でもございます。可能な限り維持するというウィンスターの選択は、現状では唯一のものでしょう」

 ファルシオンは転位陣が、と繰り返した。

 今日だけでも父王が西海へ赴く為や、またボードヴィルへの対応、そしてこの西海の進軍への対応など、常に転位陣が重要な位置を占めていて、幼いファルシオンにもその大切さは理解できた。

「万が一、泥地化が進み、館が包囲される事態になれば、もはや維持は困難となりましょう。ウィンスターへはその前に、撤退を選ぶよう伝えます」

「……泥の上では戦えない。せめて飛竜がいなくては」

 ベールはゆっくり頷き、頭を伏せた。

「手配致します」

 ベールはトゥレスを招き、手短に指示を出した。トゥレスが敬礼を向け、執務室から退る。

 間を置かず、次にベールはスランザールへ視線を向けた。ウィンスターの伝令で、看過できない情報はまだ他にもあった。

「――老公、イスの浮上と、ウィンスターは言っていたが」

 室内の温度がぐっと下がったように思え、窓際に落ちる陽射しの僅かな版図が際立って感じられた。

「イスが浮上するとは――この三百年、いや、西海との歴史が始まって以来、どのような書物にも見聞の記録は無いの」

「……どうも西海は、周到に用意をしていたようだ」

 厚い樫の扉が叩かれる。 壁際の置時計を三人の目が同時に確認する。招集した内の誰かが到着したのだ。

 検討し忘れた事はないか――スランザールとベールが互いの瞳を見た。






 ウィンスターは待ち侘びた王都からの伝令使が、現れる際に揺らす空間の歪みを視界に素早く捉えた。鷹の姿が完全に結ぶ前に嘴へ手を伸ばす。

 開いた鷹の嘴から流れたのは内政官房長官ベールの声だ。

(大公)

 ファルシオンの決定を支えているのは少なくとも、スランザールと大公ベールという事になる。

『近衛師団第三大隊の転位が間もなく整う。貴侯からの報告を以って編成を半個中隊に増強すると共に、内三十騎を飛竜の編成とした。ただし、飛竜については移送の数は落ちる。一度で五騎が限度だろう』

「五騎――」

 ウィンスターは今自分がいる場所を見回した。

 転位陣はここ、一里の館の二階広間に敷かれ、広さは横二十間、奥行き十間あるが、やはり人だけならば五十名の転位が可能でも、飛竜を含むとなると五騎が限度なのは仕方がない。

 三十騎ですら充分とは到底言えないものの、まずは飛竜が手元にあるだけでも有難かった。

 露台へと続く広い硝子戸を確認する。両開きの硝子戸を開けば飛竜の出入りには問題は無い。

「中隊半数か」

 近衛師団の半個中隊は、正規軍の半数である二百五十名――それもまた充分な数ではないが、今の状況では多ければいいという訳でもない。

 何より必要なのは飛竜、大地の泥地化に対応する為の機動力だ。

『飛竜についてはフィオリ・アル・レガージュの砦跡に開いた転位陣も使う。しばし堪えよ』

 ウィンスターは姿の見えないベールへ目礼した。

 伝令使は途切れずベールの言葉を伝えてくる。刻々と変わる報告に対し、王都の決定は迅速だ。

 王都も少なからず混乱を来たしているだろう、とウィンスターは胸の内で思いを巡らせた。

 だがその中で、王都は近衛師団の派兵を決めた。

 それは西海との決裂に、逡巡の余地はなし、とそう示している。

『ボードヴィルへは残存部隊の増援、西方第六大隊に対しても全隊の派兵を命じている。だがこれも時間を要する』

「ボードヴィルへも――」

 ボードヴィルへの増援命令は、表面通りの目的ではないのだろう。

 ボードヴィルが王都の指示通り動くか、今現在は疑問の方が強い。

(ヒースウッド伯――ヒースウッドとルシファーとの関わりを前提として出方を見るおつもりか)

 ボードヴィルがもし動けば、と考え、ウィンスターは続く言葉を打ち消した。

 ボードヴィルが動いたとしても、それだけで疑念が消せる訳ではない。

 西方第六大隊は間違い無く動くはずだが、軍都エンデからの距離を考えれば飛竜を以ってしてもおよそ二刻を要する。

 レガージュから飛竜が到達するのに転位も含め一刻。

『また、第一陣の転位と共に法術士団から五名を送る』

 伝令使はそこで口を閉ざした。

 ウィンスターは束の間続く言葉を待ったが、ベールの託した指示はそれで終わりのようだった。

(近衛師団第一大隊の動きは無いか――)

 それが何を意味するのか、遠く離れ、伝令使での遣り取り以外術の無いウィンスターには推し測る事は困難だ。

「有難うございます」

 ウィンスターは王都からの伝令使へ一礼し、踵を返した。

 露台への硝子戸へと歩み寄りながら、壁際に置かれた長椅子に視線を落とす。

 そこにはまだ意識の戻らないアスタロトが横たえられていた。同様にバージェスで負傷した衛士等もこの転位陣の間に寝かせている。全員、転位陣を利用して王都へ戻すつもりだ。

 開いている硝子戸から露台へと歩み出て、その下に展開する対角翼の布陣を見渡す。

 千四百名での布陣は目に見えて薄い。西海が進軍を進めれば、今の陣容では半刻と持ち(こた)えられないだろう。

 だが、この一里の控えからの撤収は最終手段だった。

 一里の館を手放せば王の残ったイスから遠退き、王都との大量輸送の手段をも失う事になる。レガージュに転位陣があるものの、今この区域で動いている転位陣はこの館とレガージュ、それだけだ。

 再び輸送手段を確立するまでの兵と国土の損失は、想像するだに寒々しい。

 そしてもう一つ、重大な問題がある。

 この一里の館が西海の手に落ちた場合、転位陣を万が一にも、西海軍に利用される訳にはいかなかった。

「それだけは何としても避ける」

 法術士はその為に使う事も、大いに有り得た。

(いや――、大公のお考えはそこにあるやもしれん)

 背後で転位陣が光を放ち始める。

 ウィンスターはその光を背中に感じながら、前方の西海の布陣を睨んだ。一度押し返した西海軍には、まだ動きは無い。

 再び西海軍が進軍を開始するまでに、どれだけの兵力を転位させられるかが命運を左右する。

「――ワッツ!」

 布陣中央にいたワッツが露台に立つウィンスターの姿を見上げ、騎馬を寄せる。

「王都からの増援は飛竜三十騎、法術士団より五名を含め、近衛師団第三大隊の中隊半個だ。たった今転位が始まった」

「第三大隊――」

 ワッツが繰り返した真意は、ウィンスターにも判る。

 第一大隊が動かない事――それに対する疑問と、懸念だ。

 何故、と。

 しかしワッツはすぐにその二つを面から隠した。

「飛竜と法術士ですか、有難い」

「だが移送には時間がかかる」

 ワッツの表情はそれも仕方が無いと理解したものだ。

 けれど次の言葉には、驚いた様子を見せた。

「泥地化が再び進行した場合、今度はこの館まで到達するだろう。その時は貴様は左軍一隊を率い、泥地に呑まれる前に退け」

「――しかし」

「ボードヴィルとの間には幾つか村がある」

 ワッツはウィンスターの眼を見据え、それから上官が指摘した事実に奥歯を鳴らした。

 このまま西海の侵攻が進めば、おそらくボードヴィルへの途上にある村は放っては置かれまい。例え村を襲う意図が西海に無かったとしても、泥地化に呑み込まれる恐れは決して低くはない。

「ボードヴィルへ向かい、その過程にある街道沿道の村へ触れを出し、退避させろ。付き従う者があればボードヴィルへ連れ、まずはボードヴィルで保護するよう整えろ」

「それは――」

 ワッツはウィンスターをまじまじと見上げ、その視線を落とした。

「ボードヴィルに……」

 ややあって顔を上げ、ウィンスターの瞳を見据える。

「左軍全隊をですか。そうなるとお手元に残るのは、エメル中将の右軍半数のみとなりますが」

 その数は僅か四百名程度だ。

「騎馬兵はその数でもまだ多過ぎる、今の状況下ではな。それも退かせる事になるだろう。兵の犠牲は極力避けたい」

 ウィンスターの背後から白い光が差し、並んだ硝子戸が一面光を含んだ。

 物音一つ無かった広間から俄かに飛竜の鳴声が響いた。

「来たか――せめて三十騎、転位が終わるまで()たせたいものだ」

 ウィンスターは背後を振り返り、それからもう一度、西海軍の布陣を見据えた。

「西海にも動きがあるぞ」

 ワッツが馬上で首を廻らせる。

 ウィンスターの立つ二階の露台とは視点が違うが、ワッツの目からも西海軍の蠢きが見て取れた。

「こっちの動きに気付いたか」

 呟いて太い眉をしかめ、ワッツは物見の塔を見上げた。

「監視兵! 些細な動きも報告しろ!」

 物見窓から顔を出した兵は前方を睨み、声を張り上げた。

「前列、使隷が動きます―― ! 本隊も前進―― ! 速度を上げてきます!」

 風が吹き寄せ、兵達の間に立ち並ぶ軍旗を音を立てて煽る。

 ワッツは館の前面に布陣する自軍へと騎首を向けた。

「左右翼前進、直列隊形! 長弓斉射用意、射角七十!」

 ワッツの指示を二騎の伝令が運ぶ。左右の翼陣が馬蹄の音を鳴らし動く。

「中将! 使隷が水状に変化! 速い! 残り四百間まで到達!」

 物見兵の声が飛ぶ。ワッツから西海軍の進軍速度は見えないが、想像以上に速い。

 西海軍との間に横たわる距離はおよそ五百間だった。

「二百五十間内侵入で斉射しろ!」

(使隷を足代わりにしてんのか)

 戦場全体が見たい。露台へ上がろうかと思いを巡らせた僅かな間に、前線の号令を耳が捉えた。

「斉射―― !」

 弦が空気を打ち鳴らし、自軍の前列から一斉に矢が放たれる。驟雨の音が響いた。

 ワッツは思わず口を開けた。

「もう二百五十に到達だと?!」

 先ほどまでの鈍重な進軍が嘘のようだ。

 ワッツの位置からも、布陣する兵達の馬体の合間に光を弾き地面を這う波と、その波に乗るように迫る西海軍の姿が見える。

 降り注ぐ矢の雨に倒れる兵を乗り越え、迫る。速度は騎馬の疾駆に近い。

「第二斉射! 射角六十、三拍で撃て!」

 二の矢を(つが)え、引き絞り、放つ。

 第二射はほぼ水平に空気を切り裂き、西海軍の前面に突き立った。前列が崩れ、だが崩れた兵を使隷の波が呑み込み、突き進む。

「くそッ、止まらねぇか!」

「百五十間に入ります!」

「前列、盾、槍構え! 四、五列抜刀! 二、三列は再度斉射! 射角五十五で三拍、斉射後抜刀!」

 後退も頭を過ったが、その時間は無い。今退けば兵達は混乱し、西海軍の波に呑み込まれる。

 盾がぶつかり合う音、抜刀の鞘走り、第三射の唸り。

 だが西海軍の数は圧倒的だ。

 第三射の矢が西海軍の上に降り注いだ後、一瞬、辺りには静寂が満ちた。

 響くのは前面に迫る西海軍の音のみ――

 露台の奥で、二階広間の硝子戸が開け放たれた。

 空気を重く掻く音と共に、広間から次々と、近衛師団隊士の操る五騎の飛竜が姿を現わす。館の前に展開する正規兵達の間から短い歓声が上がった。

「あれは――法術士か」

 飛竜の背には近衛師団隊士の他に一人、灰色の長衣を纏った男等を乗せている。合わせて四騎。

 そして飛竜の前面には一騎ごと、やや薄い緑の光で構成された丸い法陣が浮かんでいた。

 黒鱗の飛竜は翼を広げて露台から浮き上がり、そのまま力強く羽ばたくと空へと舞い上がった。

 正規兵を鼓舞するように彼等の上を滑空し、館の上空に至る。

 ウィンスターが露台へ歩み出ると、上空へと片手を上げた。

「まずは進軍の足を止める。機動力の違いを叩き込め」

 五騎の飛竜が翼を打ち鳴らし、迫る西海軍へと疾駆を開始する。

 一呼吸の間もなく、新たな翼の音と共に、開け放たれた硝子戸から再び、五騎の飛竜が露台に現れる。

 騎乗するのは近衛師団隊士のみだが、同じく光の法陣を纏い、上空へ舞い上がった。

 ウィンスターの背後で、三度(みたび)転位陣の白い光が湧き上がる。

 ざぁあっ、と空気を切り裂く音が沸き起こる。

 視線を向けた空へ、西海軍から放たれた無数の矢が波のように立ち上がるのが見えた。

 上空に迫る飛竜を射落とそうと迫る矢を、飛竜の前に張られた光る法陣の盾が悉く防ぐ。同時に四騎の飛竜の背に光の球が生まれ、星の如く砕け、流星となって降り注いだ。

 地上を埋める西海の兵列を光の矢が穿つ。風が巻き起こった。

 残りの六騎が地上を滑空し、その光の盾と近衛隊士の槍とで西海の兵列を蹴散らし、離脱する。

 西海軍の陣は歪み、明らかに進軍の速度を落とした。混乱が西海軍の中に生まれる。

 正規軍兵士から上がった歓声と共に、速い風がワッツの頬を叩いて過ぎる。

 ワッツは声を張り上げた。

「援護斉射用意―― ! 第一列は防御態勢を維持、二列から五列、射角六十、三拍!」

 飛竜が上空へ駆け上がり開いた空間へと、四列から放たれた矢の驟雨が切り裂き突き立つ。

 同時に上空の十騎が再び西海軍の群れを襲撃した。

 非常な勢いで迫っていた西海軍の前進が、ぐぐぐ、と軋る発条(ばね)仕掛けのように揺らぎ――止まる。

「止まりました――距離六十間!」

 波と化していた使隷がその身を起こし、人型を纏う。

 西海軍と正規軍の布陣、そして上空の十騎の飛竜が睨み合い、静寂が落ちた。

(やはり飛竜の機動力は有効だ――だが、本気で退かせるならこの十倍は欲しい)

 当然、法術士もだ。

 飛竜だけでも配備が叶うのは、早くともレガージュの転位陣を用いて到達すると考えられる、一刻後。

 物見の塔から再び兵士が声を張る。

「ワッツ中将!」

 ワッツは兵士を振り仰いだ。「何だ!」

 素早く目をやった西海軍の前衛に目立った動きはない。

 ただ、兵士は遠見筒を右目に当て、遥か先を覗き込んでいる。おそらくバージェスか、更に先だ。

 じわりと首の後ろに汗がにじんだ。

「何かあります! 西海軍後方――海上です! 妙な、黒い塊です――生き物か、いえ、何かの像のような」

「像? 何だ、それは!」

「あれは増幅器だ」

 ふいに落ちた声に、ワッツは露台を振り仰いだ。声には聞き覚えがあった。

 いつの間にか灰色の長い衣を纏った男が、露台の手摺に手をついて前方を睨んでいる。

「……ボルドー中将か」

 露台の上でボルドーが灰色の被きを落とし、現れた顔をワッツへ向けた。

「増幅器ってなぁ何だ?」

「我々で言うところの法術を、文字通り増幅させる為のものだ。大掛かりな術を使う時に用いる」

 ワッツが前方を透かし見ようと馬上で首を伸ばすのを見て、ボルドーが何事か呟き、指を鳴らす。

 ワッツの重い身体が鞍からふわりと浮いた。

「うおっ、おっ」

「見ろ。三基ある」

「ぉお?」

 視界はボルドーと同じ高さまで上がり、ワッツは宙空に立つような姿勢で、取り敢えずボルドーが指で示した先を睨んだ。

 残り六十間の草原を挟み犇めく西海軍の更に奥、浮上したイスとバージェスとの合間の海面に、ボルドーの言う通り三基――、黒色の彫像のような物体が浮かんでいる。

 遠目に見てもその大きさが判る。

 不吉な、見た事もない形は、海の生物か。

「なるほど、てことはあれが泥地を作り出してんだな」

「そのようだ」

「よく見えた、降ろしてくれ」

 平地と変わらず立ってはいるが、どうにも心許ない。ボルドーは特に何も言わず、再び指を鳴らした。

 浮いていた身体が空を切って急降下し、元の鞍の上にすとんと降りる。馬にはどこも驚いた様子はない。

「――相変わらずな野郎だ」

 ワッツは肩を落とし口の中で呟き、それから騎上で首を持ち上げ、もう一度西海軍の奥を見透かした。

「増幅器――」

 おそらく、時を待たず再び泥地化があるのだ。

 そして次に泥地化すれば、この館も泥の海に呑まれる。

 再び白い光が硝子戸と露台を染め、収まる。

 次いで五騎の飛竜が硝子戸を抜け、長い首をもたげると空へ舞い上がった。

 ボルドーが自らの前に丸く輝く法陣を描く。

 法陣は一度明滅し、初めのそれを中心に渦を描くように分裂した。

 分裂した法陣が空へ浮き上がり、五騎それぞれの前面に盾となって張り付く。

 露台の奥では転位陣の発動の光が止む事無く、硝子戸を染めていく。

 予定する飛竜は三十騎、あと三度の転位――時間にしておよそ四半刻を要する。

 前方を睨むワッツへと、ウィンスターの視線が落ちた。

「ほどなく泥地化が広がるだろう。貴様は指示した通り、ボートヴィルへの撤収の準備を始めろ。いつでも迅速に動けるようにな。泥地化が始まれば猶予はない。機を逃すな」

 ワッツは右腕を胸に当て、ウィンスターへ上半身を折り、顔を伏せた。

「承知しました――」

 身を起こし、騎馬の手綱を繰り、兵列へと騎馬を進める。背中にはウィンスターの視線が、離れずずっと注がれているように感じられた。

 いや――、ウィンスターの姿が、ワッツの意識から離れないのだ。振り返ってみたならば、ウィンスターの眼差しはワッツではなく、この戦場に据えられているのだろう。

 自分の感傷が何の理由からか、良く判っていたが、今は敢えてその考えを押し退けた。

 千名からの兵をこれ以上の損傷無く引き上げる事、彼に託された任務はそれだ。

「聞け! 見た通り、近衛師団の飛竜はこの状況で有効だ! 次の我々の行動は二つの内いずれかとなる! 一つには西海軍が更に前進する場合。これは先刻と同じく援護斉射を主とする! もう一つには泥地化が進行する場合――この時はまず左軍から後退する! 範囲によっちゃボートヴィルまで退く事になるぞ! 合図を待て!」

 伝令兵が馬を駆り、ワッツの指示を全隊に伝えていくごとに、兵達に緊張が(みなぎ)った。

 吹き寄せる風の中、館のある後方から、騎馬がワッツへと駆け寄る。

「中将! ボルドー中将から伝令です!」

 ワッツは振り返り、露台に立つボルドーを見た。

「西海の奥に動きが――増幅器が光を溜めていると」




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