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第1章「萌芽」(7)

 波が岩壁に打ち付ける音が風に乗って上がってくる。

 海面から十間もの高さがある岸壁の上には色鮮やかな緑の下草が敷き詰められるように広がり、その大地が青く輝く海や遠くの水平線と寄り添い続く様は気持ちのいい眺めだった。

 左も右も、やがて水平線も岸壁も一緒の点になって視界から消える。左側の先には交易都市として栄えるフィオリ・アル・レガージュがあった。

 草地に覗く白い石の土台の前で蹲っていた男は、ずっと被っていた灰色の(かず)きを肩に落とした。

 四月だというのに照り付ける日差しがとにかく暑く、普段は陽に当たる事のなさそうな男の白い額には汗が玉のように浮かんでいる。もともとその格好――法術士独特の灰色の長衣がこの日差しには向かないのだが、首から上を風に解放した事で汗は少し引き始めた。乾燥した土地柄だ。

「デュディエ少将、何か解りましたか?」

 声と共に草を踏む足音がする。デュディエは振り返り、軽装の正規軍兵士が歩いてくるのを待った。第七大隊左軍准将のリンだ。

 彼女の少し先にも五、六人の兵士達が立ったり座ったりしながら主に足元に視線を注いでいる。この岸壁の上にはざっと見渡すと十人ほどの兵士がいた。

 白い石の土台が近寄ってくるリンの足元を過ぎ、長く延びている。立ち上がって全体を眺めると、それが屋敷跡である事が見て取れた。

 彼等は朝からここを調べているのだ。

 西方軍第七大隊大将ウィンスターは、左軍中将のシモンに命じ、先日の報告書に上がった海岸沿いの屋敷跡に調査隊を向かわせた。准将リンを指揮官として構成された兵士三十名と第七軍に派遣されている法術士団の少将デュディエ一名で、改めて周辺の住民への聞き取りと、法術的な観点からの現地調査を行っていた。

「本当に最近まで建ってたんでしょうか。半月前は建ってたなんて証言もありますが、こうも見事に跡形が無いと俄かには信じられませんね」

「崩れたのが最近である事は確かのようだ。この時期は下草の成長も早いせいで大分地面を覆っているが、土台の石を見ると崩れた面と壁面とで陽による焼け方が違う」

 デュディエが指差した部分の土台を、リンはしゃがみ込んで調べた。

「草の下の土に欠片が散っているだろう。それもほとんど泥を被ってない。あまり雨に降られてないせいだ。この辺りでは、直近ではいつ雨が降ったかな」

 リンはデュディエの言葉通りの状態を認め、頷いた。

「三日前に一度。でも短時間でした。それ以前は、おそらく三月の下旬以降降っていないと思います」

「この付近に似たような条件の館はないのだろう」

「調べました。ありません」

 デュディエは納得したように胸の前で腕を組んだ。リンが立ち上がり、デュディエと肩を並べるようにして土台全体を見渡した。

「何故崩れたのかは判りますか」

 デュディエの纏っている灰色の長衣が、吹き抜ける風に広がり、バタバタと音を立てた。

「何かの跡はある……法術か、それ以外の何かか――だが自然に崩れたものではないのは確かだ」

「自然にではないなら、何が――」

 デュディエは少し憮然とした顔で首を振り、風に煽られる長衣の合わせを手繰った。

「私では今の段階では判らない。時間があれば何かしら調べ出せるかもしれないが」

「どの程度の期間ですか」

「少なくともひと月」

 リンは瞳を見開きデュディエの自嘲気味の顔を眺めた。

「だがひと月も掛けられまい。まずはウィンスター大将から王都に報告していただき、法術院に上級の術士を派遣してもらうのがいいだろう。時間が経てば分析もより難しくなる、できれば明日にでも派遣されるよう、私もアルジマール院長に申し入れよう」

「は!」

 リンは敬礼し、また草を踏みながら散らばっている兵士達に号令を掛けた。






 西方第七大隊のリンやデュディエが消失したとされる屋敷跡の調査を行った翌日、西方第一大隊中将ワッツは、軍議の後、近衛師団第一大隊大将レオアリスへ、正式に面会を申し入れた。

 十日後に第七大隊への赴任が決まっているワッツは、自分が赴任するまでにこの妙な一件が片付いているかどうかが非常に気になっていた。管轄しているのはワッツが行く左軍だと聞いて尚更だ。

「あんまり関わりたくねぇんだよなあ、あの院長……」

 そう独りごちつつ近衛師団第一大隊士官棟入口の短い階段を登り、玄関を潜ると左手にある受付の硝子窓を叩いた。事務官のウィンレットが顔を出し、すぐに心得た顔で廊下に出てくると敬礼を一つして中庭へ向かった。



「上将、ワッツ中将です。応接室にお通ししています」

 ウィンレットが扉を叩き、レオアリスは執務机から立ち上がった。ちょうど午後の三刻、指定時刻ぴったりだ。

「ワッツらしいな」

 余り構わなさそうに見えてワッツは約束した時間に遅れる事は無い。

「二人とも同席してくれ。ウィンスター大将からの情報だ」

 グランスレイとロットバルトにそう言い、レオアリスは隣接する応接室の扉を開けた。長椅子に座っていたワッツが立ち上がる。

「応接室なんて改められちゃあ、やっぱ落ち着かねぇな」

 と文句のような事を言って、後から入室したグランスレイとロットバルトに目礼した。さっと表情まで引き締まったのは、ワッツがグランスレイに対して抱いている敬意からだ。

「ワッツ中将、どうだ、最近は」

 グランスレイに尋ねられ、ワッツはもう一度背筋を伸ばした。

「いや、肝心なところは中々進捗も無いんですが、副産物で色々仕事させていただいてます。まあ盗人捕まえたり不正な店押さえたり、そんなところですが」

 レオアリス達が座るのを待ってワッツもまた腰を掛ける。座面の奥にあるバネが重そうに軋んだ。

「お忙しいところ、お時間を頂いて申し訳ありません」

 口調を改めてそう切り出した。

「別に問題ない。正式な面会の申し込みだったから少し驚いたけどな」

 正式に面会を申し込むという事は、ワッツが正規軍中将として近衛師団大将へ話をするという事になる。正規軍の内部でも了承を得ているのだろう。

 たった今ワッツは大きな進展は無いと言ったばかりで、では何が主題なのかと、それが気になった。

「何か判明したとか、そんなんじゃ無いんですがね。西方第七軍の捜索状況と、レガージュとかあの辺りの情報と――、もう一つ。まあ正式に報告上げてる内容ですんで、大体もう炎帝公から聞いてる話かもしれませんが」

「直接は聞いてない。最近会えてないんだ」

「へえ。そりゃ珍しいですね。まあ今は仕方ねぇか」

 ワッツは意外そうな顔をしたが、特にそれ以上は気にする様子もなく膝を詰めた。

「で正規軍の状況なんですが――、まず西方公の行方については、西方第七軍にも有益な情報はありません。情報を得られる可能性が最も高いのは西方第七軍と踏んでましたが、西方軍自体にも、正規軍全体でも得られた情報はほぼ皆無です。いや」

 ワッツは一度口元をひん曲げた。

「ほぼじゃないですね。正直に言やあ全く無い」

 レオアリスは頷いた。情報が容易には出てこないだろうとは半ば予想していた事であり、ワッツの口調からも同じ考えが窺える。

 ただやはり徒労を感じるのは否めない。つい溜息が出る。

「正規軍全体もそうか――。今の段階で捜し出すのは難しいだろうな。結局離反からもう半月にもなる。もっと早い段階で何かしら動きがあるものだと思ってたが、随分予想が外れた」

 レオアリスは長椅子の背に凭れかかり、半ば一人の考えに沈みながらそう言った。

『この国を滅ぼすことになる』と、ルシファーははっきりと告げた。

 その言葉は挑発的で、予断を許さない宣戦布告に思えたが、現実には何も起きていない。

「あそこまで言っておきながら、何で何の動きも無いんだ……。何か待ってるのか? 何をしてたら無いと思う?」

 問いかけられて、ロットバルトが口を開く。

「もし本気で西方公が国に対し何かを仕掛けようと言うのであれば、先ず必要なのは資金、その次に軍隊の徴収でしょうね。ルシファー公爵家に限らず四大公爵家は私兵を所有できない。しかし国相手に事を起こそうとするのなら軍隊は欠かせない要素です」

「――それだよな――。だけど今の状況じゃ、大っぴらに兵なんて募るのは到底無理だろう。西方公の所領下じゃそんな動きはまだ見られてないらしいし」

「その手の動きは正規軍でも聞いてないですよ。第一そんなにひっ詰まった事態だなんて、ほとんどの人間は思っちゃいないですからね」

「正規軍では議論には?」

 ロットバルトがワッツへ尋ねる。

「現状、西方公は正規軍や王都がどう動くか、推移を見守っている状況でしょう。しかし離反を取り繕おうとしなかった以上、その間全く何も動かないとは考えられない。何かしら水面下では動いているはずですが、正規軍ではその動きに対する予測は議論に上がっていますか」

「正式な軍議の場じゃ、まだ上がってるとは聞いてない。考える段階だとは思うし一番上じゃ考えてると思うが――」

 岩のような顔の中の細い眼が鋭い光を浮かべた。

「さっきも言ったとおり、そこまでひっ詰まった状況だとはほとんど誰も思ってないんです。大掛かりに捜索を掛けてても、あれぁ面子だ。いわゆる威嚇行動に過ぎません。絶対に捜し出すぞ動いたら叩くぞってやっちゃいるが、さすがにこう情報を得られないんじゃ、実際に相手が動かなけりゃどうにもならない位置に追い詰められてるのは、気が付きゃ俺達の方だって事になり兼ねませんね」

 レオアリスはつられてワッツの顔を見た。

 追い詰められる。

 ワッツは何か具体的な心当たりがあってその表現を使った訳ではないようだが、その言葉はレオアリスの心に引っかかった。

 現時点ではまだ、手詰まりというほどの状況ではない。離反した後、ルシファーが表立って動いていないからだ。

 おそらく見せかけに過ぎない――誰もがそう理解していていながら状況の穏やかさから、何も問題など起きないと錯覚している――

 レオアリスですら、自分の中の切迫感が少し薄れているように思えていた。

 何より、もう四日後には春の祝祭が始まる。街だけではなく王城や、正規軍と近衛師団があるこの第一層も、どこかしら祝祭の雰囲気に浮かれていた。

 このままの状況が続けば、早晩『追い詰められた』という状態になるのではないかと、そんな危惧を覚えた。

「上将?」

「いや……単純に消息を追っても行き着かないなら、見る方向を変えなきゃな。例えばどんな状況であれば動くのか――兵力が整ったらか。どの段階なら整ったって考える……」

 幾つかそう呟き、それから改めて自分の立場を思い起こした。

「けど師団に捜索の下命がない中で、俺がこんな事言ったってしょうがない」

 もし可能ならとっくに飛竜を引っ張り出しているのだろうと、レオアリスの様子を見てワッツは笑った。

「現段階じゃ近衛師団まで出る話じゃないでしょうし、そこまで行ったら相当不味い自体って事だ。意見は参考にさせてもらって、近いうち正規軍でカタをつけますよ」

 いつ、と確信に基づいたものではなかったが、ワッツ自身自分の考えを疑わずにそう請け負った。

 それまで話を聞いていたグランスレイが組んでいた腕を解く。

「ワッツ中将、先ほどもう一つと言ったが、それは」

 ワッツは背筋を伸ばして、改めて表情を引き締めた。

「失礼しました、本題はそのもう一つの方で。一番真新しい情報ですが」

 一度言葉を切り、それは何かを躊躇ったようにも見えたが、すぐに続けた。

「西方第七軍からの報告の中に、レガージュ近郊で奇妙な家が見つかったというものがあったんです」

「家? 奇妙なって」

 言葉に興味を引かれたが、ぱっと情景を想像する事はできなかった。

「正確には見つかったのは家じゃなくって土台なんですが」

「土台? 土台が見つかったって言うと、つまり遺構みたいなものって事か?」

「いやぁ、遺構とは違いますね。完全に土台だとの事です。つい最近――二十日前までは屋敷が建ってたって証言が複数出てますが、今はすっかり土台だけで」

 ワッツが示そうとしているものが何なのか、まだ良く見えてこない。レオアリスは黙ってワッツの言葉を待った。

「西方公捜索の中で、どんな些細なものでも報告を上げろと言ってますから、西方公とは別件のものもかなりあります。八割、九割は明らかに関係なし、残りもまあ疑わしいという程度で行ってみて、やはり関係なかったという落ちで」

 それは西方に限らずどの方面隊も変わらない、と付け加える。

「ただ、こいつはどうも、ウィンスター大将が何か引っかかるものがあったようで、法術士団の中将一人入れて現地の調査と周辺住民の聞き取りをさせたんです」

「ウィンスター大将が」

 ウィンスターが法術士も加えて詳細な調査をさせたという事に、レオアリスも興味を引かれた。

「現状で詳しい調査をさせたって事は、――ウィンスター大将はその屋敷が何か、西方公に関係があると思ったからか?」

「そうでしょう」

 ワッツは頷き、それから太い首を右手で揉むように擦った。

「しかしまあ結局その調査で判ったのは、たった二点です。崩れた原因が法術か、もしくはそれ以外の力が働いていただろうという事と、住民の話もどうやら本当だって事――。ただファルシオン殿下がレガージュに入られる直前は、確かにまだ屋敷はあったという証言もあるようで」

「殿下がお入りになる前――本当に最近だな」

 まだ半月前の事だ。正確にはファルシオンがフィオリ・アル・レガージュに入ったのは三月の朔日、王都へ戻ったのは翌日、四月の一日だった。

「その証言の正確な日付は?」

「三月の終わりごろで、正確な日は覚えてませんでした。しかし毎日その近くを通っていて、道から丘の上の屋根の先っちょが見えてたようです。それが四月に入って気付いたら、何もなくなってたって話で。で、残ってるのは土台だけ、です」

「土台だけ――」

「まあそれだけならここに持ち込まないんですが」

 ワッツは苦笑を含んだ。

 いや、正直に言えば半分ほどは迷惑な話だと思っている。

「法術院に上がった報告を聞いて、アルジマール院長がやる気になっちまって」

「アルジマール院長?」

「復元するらしいですよ、その屋敷を」

「――はぁ?」

 レオアリスは思わず聞き返した。

「復元て――、崩れた屋敷をかよ」

「そう言ってます」

 ワッツが太い首を竦める。

「……呆れたなー」

「そんな事が可能ですか」

 グランスレイがレオアリスに尋ねる。

「いや、普通無理。……というか、そんな事は考えないんじゃないか? その場に残された記憶とか情報を辿るってのはよくやるやり方だと思うけど。そこにある樹とか、まあ岩でもさ、結構色々覚えてんだよ。そういうのを聞き出すのはできる」

「なるほど……」

 と頷いたが眉根に一本皺がある。

「けど復元か。元から法術を掛けてる物ならまだしも、屋敷一軒を復元なんて、俺が聞きかじってるくらいの術式じゃちょっと無いな。ただ法術の基礎はその場の要素を利用するものだから、残された情報とか元素から、かつての状態を再構築する事も可能なのかもしれない」

 その為にどれほどの知識と精神力が要るのか、考えるだけで眩暈がしそうだ。

 法術の方に意識を持って行かれたレオアリスの代わりに、ロットバルトが肝心な事を尋ねた。

「しかしそこまでするという事は、アルジマール院長も西方公に何か関わりがあると考えていると?」

「そうなんでしょう。でなけりゃとんだ骨折り損だ。あの院長の相手をするのを考えたら胃が痛い」

「でもそれは見たいな……いつやるって?」

「二十二日です。祝祭の三日目か」

「六日後か。さすがに結構準備時間を取るんだな。けど二十二日じゃ祝祭の一般公開期間初日だなぁ。見には行けないか」

 レオアリスは残念そうに言ってワッツを見た。

「ワッツは赴任……前」

「有難い事に。俺の赴任までにゃあカタを付けて王都へ帰ってもらいたいですね」

 ワッツは心底そう言った。さんざんな事を言っているが、アルジマールはワッツの妻であるシアンの上司でもある。

「一日二日で法術は終わるんじゃないか? 後はどう調査するのか判らないけど」

「復元できたら西方軍が中に入るんですよ。どうなるのやら」

 中に入れる状態になるのかも怪しいところだ。

「取り敢えず、今回はこれだけです。報告があったらまたお知らせします」

「有難う。赴任まで慌しいだろうけど、何か判ったら教えてくれ」

 ワッツは座ったまま一礼すると、椅子を軋ませて立ち上がった。改めて正規軍の正式な敬礼をし、ワッツは応接室を出た。

 ワッツを見送り、ロットバルトはレオアリスを振り返った。

「どう思います」

「アルジマール院長なら可能なんだと思うけど、問題はそれで何が出てくるかだ。西方公と関連があるのか――当然今の時期それだけ大掛かりな事をするんなら、関連の可能性があると考えてるんだろうが」

「現時点での根拠は西海沿岸という位置と屋敷が崩れただろう時期との、この二点です。可能性が高いどころか、まだ関連は無いと証明できる要素の方が多い状況ではありますね」

「まあ少しでも可能性があるなら確認したいってのは変わらない。関連があったらいいな。そうしたらこの停滞も解ける」

 停滞、というのは今の状態を表すのに一番そぐう気がした。それは閉塞感と言うべきなのかもしれない。

 レオアリスは執務室への扉を開けようとして、ふと把手を回す手を止めた。

 閉塞感、という言葉が何となく、ルシファーを思い出させたからだ。

「――」

「上将? どうかしましたか」

 そのまま立ち止まっている様子を見て、グランスレイが尋ねる。

「いや――印象、なのかな」

 首を振ったものの、レオアリスは独り言のようにそう言った。

 それから扉を開き、執務室に戻る。中将達は各隊の訓練中で空席だ。

 誰もいなかった執務室は白い陽光が窓際に差し込み、どことなく閑散としている。

「できれば今回の離反に至った理由の根底が何なのか、そこを見つけられればいいんだが。ただ」

 一旦言葉を切り、自分の中にある考えを確かめた上で、口にした。

「これは推測だが、原因はおそらくずっと過去の事なんだろうと思う」

「過去、ですか?」

「何度かそんな事を言っていた」

 そう考える一番の理由は、アスタロトの館でルシファーと対峙した時に、離反する事について彼女が言った言葉にある。

『理由はあるわ。でもそれはもう、長い時の間に、私を止めるだけの力を持たなくなった』

 その言葉は矛盾していて、謎掛けのようだ。それがどういう意味なのか。

 ただ、そう言った時の彼女にはどこか、磨り硝子を一枚隔てた所にいるような印象があった。

 いや、一貫して、ルシファーの印象は暮れ行く薄闇の空のようだ。

 寂寥という言葉は、それを例えるに相応しいだろうかと意識の片隅で思う。

 ファルシオンがフィオリ・アル・レガージュからの帰還を王に報告した時に、謁見の後、ルシファーが口にした言葉が(よぎ)る。


『私は、もう一度選ぶ』


 もう一度――

 確かにそう言った。

 では、一つ目は?

 その一つ目が、ルシファーの行動の原点にあると、そう思える。

 そしてそれが判ったら、次に見えてくるのは何だろう。



『もうお前は、抱え続けるのに疲れてしまった』



 もう一つ、ぽんと浮かんだ言葉に、レオアリスは眉を顰めるようにして記憶を手繰った。

 どこで聞いたか良く覚えていないが、つい最近だ。

 そんな言葉を、誰かがルシファーに言ったのではなかったか。それともルシファー自身が口にしたのか。

「――過去なら、どこまで遡るんだろう」

「西方公に就く前から調べられれば一番いいのでしょうが、そもそも彼女が西方公に就いたのがいつか、明確に記された文献は無いんです。大戦以前の文献自体が散逸して少ない。遡れて、そうですね――」

 ロットバルトは王立文書宮で整理保管されている文書、文献類の大体の構成を把握しているのだろう、すぐ続けた。

「五百年ほどだったはずです」

「五百年――」

 一言で言ったが想像が付かないくらい長い時間だ。法術による延命でさえ、今の限界が四百年と言われている。

「だから、膜を隔てたような感覚があるのかな」

 そんなに長い時間など、過ごした者にしか判らない――過ごした者だけの感覚があるのだろう。

 長すぎて、そこまで生きたいとは思わない。

「――」

 ふと、王もまた変わらない――いや、それよりも長い時を過ごしているのだと、そんな事を思った。

「四大公爵家そのものが、我々とは違うところにあるんです。長命もそれぞれ有している力も、他にそうした要素を持っている家は無い。その事がこの国の安定を支えている理由の一つでもあります。この国の形成においてどちらの要素が先だったのか、興味がありますね」

「どっちが先か――確かにそうだな」

 レオアリスにしてみれば四大公爵家という響きそのものは、例えば内政官房や地政院といった王政を担う部署と同じに捉えていた。

 いわゆる仕組み、定義だ。

「西方公という一角が欠けて……ただ国政そのものにはそれほど変化が無いように見えるけど、実際はどうなんだろう」

「機能そのものは補完できているでしょう。それをこの先ずっと(たも)つのか、少しずつあり方を変えていくのか、そこは議論すべきところでしょうね。その前に西方公が何か事を起したら、状況は変わるかもしれません」

 それに対応するのが正規軍やレオアリス達近衛師団の役割だろう。

「取り敢えず、過去という面では遡れる限りの文献を探ってみます。スランザールがあの様子では、出てくるかどうか、あまり期待はできませんが」

「頼む」

 レオアリスは執務机に戻ると、椅子に腰掛けた。





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