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第5章「落日」(24)

 石畳の覆う坂道を、大量の水が川となって流れ落ちて行く。

 坂をなす街に連なる建物の庇からも、水は細い筋となり通りに注いだ。通りの角地に立つ家の壁にぶつかって飛沫を上げて割れ、次の路地を埋め、石段を下る。その激しい水音。

 巨大な街の無数の通りや路地の石畳が、何処もかしこも、流れ落ちる水に覆われていた。

 もし先ほどこの道を歩いたアスタロト達が今ここにいれば、激しい水流に足を取られあっという間に押し流されていただろう。

 西海の皇都、イスは、重い海面を分けて浮上しながら、その身に永く纏っていた重く昏い水の枷を削ぎ落とし続けていた。

 青い空を埋める黒雲の渦へと、優美で不吉な輪郭を張り出して行く。

 ゆっくり、新たな世界へ、その存在を灯火のごとく示すように。

 やがて通りを流れていた海水は、僅かな筋となって石畳みの溝を伝うのみとなった。






 ワッツは速歩を保っていた騎上から、その雲を見た。

「何……だ、ありゃあ……」

 ワッツの喉から洩れた呻きに重なり、同じく気付いた兵士達の間からも次々に声が上がる。

 一里の控えを出てから、まだ半里も過ぎてはいない。そのはずが、いつの間にか、一点の曇りも無かった前方の空一杯に、不吉なまでに黒い雲が広がっていた。

 青い空を覆い隠して渦巻く雲は、地上の何かを目指し低く、低く触手を伸ばし降りて行くように見えた。

「ワッツ中将!」

「見えてる! バージェスじゃねえな、街の向こうだ!」

 ワッツは草原に轟く蹄の音を上回る声量で返した。

(西海か!?)

「速度を」

 上げろと口を開きかけた時、ワッツは我が目を疑い、続く言葉を忘れた。

 蹄が草原を蹴り、ワッツの身体が鞍の上で揺すり上がり、落ちる。その振動で我に返った。

 もう一度、何だありゃあ、と呻く。

 近付いてくるバージェスの街、その屋根や昏い空に伸びる塔の向こうに――何かが、ゆっくりと、迫り上がってくる。

 幾つもの尖塔を備えた、優美な大屋根。白い壁が渦巻く黒雲を背景にくっきりと映える。

「――城……? いや、馬鹿な」

 バージェスから先は西海の海原が果てしなく広がっているだけで、あんなものがあるはずがない。

 そもそも一里の控えの物見の塔から眺めていた時には、確実にあんなものは無かった。そう言い切れる。

 何かが起こっている。もはや疑いようもなく、厳然と。

 一瞬の判断の遅れが命取りだ。

 ワッツは半身を捻り、腕を振り上げた。

「襲歩へ移る! 襲撃陣形に移行しつつ速度を上げろ!」

 横に六騎並んだ方陣形から、ワッツの騎馬を中心に、扇を広げるように横へ変化して行く。前列の騎馬はぐんぐんと速度を上げた。

(くそ、飛竜が欲しいぜ)

 飛竜ならばほぼ一息でバージェスの上空へ到達できるのだ。

 騎馬に限定し機動力を削ぐ事も、不可侵条約再締結の儀の、形式上の決め事だった。あくまで儀礼――そう示す為のもの。

 腹立たしさを飲み込み、馬に手綱を当てる。

 第七大隊千四百騎は轟く蹄の音を立て、バージェスへと突き進んだ。

 残りおよそ半里。









 王の身に何かがあったのだ、と――


 アルジマールの言葉は明瞭に、謁見の間に満ちた空気に響き、それぞれの意識に重く碇のように落ちた。

 しんと横たわる静寂は、まるで身体の自由を奪う底無き昏い水のようだ。

 どこまでも深く沈んで行く。

「……ちちうえ、は」

 ファルシオンがようやく声を発し、だがそれ以上は続かず、喉の奥に彷徨って消えた。

 口元を震わせ、ぎゅっと噛みしめる。黄金の瞳は見開かれたまま、意識の無いレオアリスの上へと注がれていた。

 ロットバルトは向かいに両膝をついているファルシオンの、俯いた面を見つめた。

 たった今目の当たりにしたもの――、レオアリスの剣が一振りとはいえ失われた事が何を意味するのか、僅か五歳でありながら、ファルシオンもまた、理解している。

(恐らく――)

 ロットバルトは思考の内でさえ、その言葉を形にするのを躊躇った。

 だが、恐らく、いまここにいる者達は皆同じ事に思い至り、それはほぼ正鵠を射ているのだろう。重苦しい沈黙がそれを示している。

 横たわるレオアリスへ視線を落とす。軍服や床に散った乾いた血が嫌でも目に入った。

 謁見の間に束の間満ちた、あの慟哭に近い苦痛と叫びが脳裏に蘇る。

 レオアリスが見せた苦しみと、混乱、激しい焦燥。

『俺をイスへ』

 それはロットバルトがこれまで見て来た、どんな状態とも違った。

 そしてこれほど先の見えない感覚は初めてだ。

 恐らく、王は。

 その思考の齎す衝撃に瞳を伏せる。

(――今ここで、ただ憂えていても仕方が無い)

 息を吐き、ロットバルトは謁見の間を支配する束の間の沈黙を見渡した。

 そう、束の間だ。

 たった今、問題は一つ一つを直視し難いほど大きく、だがこの驚きや衝撃、混乱とは比較にすらならない問題が、遠からず持ち上がる。

 その為には今の段階で、国としての方針を定め、一定の道筋を立てておく必要があるのだ。

(まずは今ある最大の問題と、その対応)

 国として、不可侵条約が西海により一方的に破棄された事実を、容認するか、否か。

 スランザールへと瞳を向ける。老賢者の面は蒼白で懊悩に満ち、それでいて双眸だけは白熱する光を帯びている。

 その光に、これまでスランザールが目を向けていたものが、ふと脳裏に蘇った。

(――スランザールは)

 不意に、それまでただ階の下に首を垂れていた光る牡鹿が、身を揺すった。

 気付いたクライフが「伝令使が」と声を上げる間にも、伝令使の姿は大理石の床に溶けるように沈み、瞬く間に見えなくなった。

 ベールが一つ靴音を鳴らす。

「アスタロトが呼び戻したのか」

「バージェスに何かあったのかもしれぬ」

 謁見の間の空気が俄かに慌ただしさを帯びる。スランザールは今まで皺ぶいた面を覆っていた懊悩を押しやって厳しい色を浮かべ、まだそこにいるウィンスターからの伝令使へと向き直った。

「ウィンスター。バージェスにおられるアスタロト公を補佐すると共に、最新の情報を伝えよ。対応は現在ファルシオン殿下のもと詮議中じゃ。早刻に結論を出すが、それにはバージェスの情報が要になろう」

 ウィンスターからの伝令使が消えると、スランザールは長衣の裾で床を擦り、ファルシオンとベール、アルジマール、そして近衛師団の三名を見た。

「返答を待たず呼び戻す何かが、バージェスで起きたと想定して動く。更なる状況確認には伝令使の戻りを待つ他は無いが、それまでにできる限りの手筈を整えるのじゃ」

 ロットバルトは立ち上がり、スランザールの落ちくぼんだ瞳を正面から捉えた。

「僭越ながら――、近衛師団は現在、陛下の御不在に際して即応体制にあります。近衛師団をバージェスへ送ってでも、まずは陛下の御身の安否を確認すべきと考えますが」

「近衛師団を? それはかなり踏み込むことになるんじゃないか、この段階で」

 トゥレスが案を検分するように眉を顰める。

「その通りです」

 王都が近衛師団を動かす事は、一里の控えから正規軍が動いた事とは、持つ意味合いに大きな隔たりがある。

「近衛師団を動かす事は、即ちアレウス王国として西海との不可侵条約の破棄を容れると、内外に明確に示す事も意味します。いわゆる分水嶺でしょう。そこを過ぎれば後戻りは容易ではありません」

 静まり返った謁見の間には、高い位置にある窓から降り注ぐ陽光が、穏やかに落ちている。この王城のこの場所に在っては、その穏やかさばかりに目を向けそうになり、そこに危惧があった。

「しかし既に、アスタロト公爵からの伝令使は、西海が伏兵を以て不可侵条約の再締結を阻害したと、明確に告げて来ている。この状況下では、まずは自国にとって最重要となる問題に対して、間を置かず対策を取るべきだと考えます。バージェスは遥か遠い。ここでの一呼吸が、バージェスでは一刻にもなり得ます」

 スランザールはベールと視線を交わした。アルジマールが片手を上げる。

「僕も賛成だ。西海から事が起こってる。思い切った手段を用いないと僕達はまた後手に回り続けるよ」

「――小隊を数個、半刻でバージェスへ送れるか」

 ベールの問いはアルジマールへ向けられたものだ。アルジマールは僅かに首を傾けた。

「バージェスには転位陣が無い。古いものがあるかもしれないけど、それでも陣を開く時間が掛かる。ただ、今朝陛下がお使いになった、一里の館への道ならすぐに動かせる。それで中隊までなら送れるし、一里の控えからバージェスへの移動を考えても、バージェスへ転位陣を敷くより早い」

 アルジマールの声に微かな疲労を聞き取り、ロットバルトは法術士の顔を注意深く見た。

「貴方以外の法術士ではいかがです。貴方も連続して複雑な法術を用いている、今後の為にも休息が不可欠だ」

「大量輸送になると二、三人掛かりになるし、それだけ手を掛けても僕の方が早い。まあその後はちょっと休ませてもらうけど」

 ベールがアルジマールへと首を巡らせる。

「では倍の人員を掛ければいい。アルジマール院長、貴侯は不測の事態に備えよ」

「そう? じゃあそうさせてもらう」

 アルジマールはすんなり受け入れ、その場にぺたりと座った。すう、と息を吸い、深く吐く。

「ここで寝ていいかな」

「別室を用意する」

 その姿をやや呆れて見下ろしたベールへ、アルジマールは頷いてみせ、肩に落としていた被きを再び目深に被り直した。

 それから億劫そうに右手を上げ、宙空に文字を描く。白く輝いた文字はすぐに空気に霧散して消えた。

「転位陣はドーリを始めとした五人でやってもらう。彼等に指示を伝えたからすぐに取り掛かるはずだ。一里の館への道を開くのに半刻かからない。その間に派兵する部隊を今朝の中庭に集めておくといい」

 派兵、という響きが無造作に放られ、謁見の間の空気をぐっと冷やした。

 首を垂れ、どうやら部屋を用意される前にもう眠ろうとしているアルジマールを一度見下ろし、ベールはファルシオンに向き合うと片膝をついた。

 スランザールがそれに倣い、ロットバルト、クライフ、トゥレスもまた膝をつく。

「ファルシオン殿下。陛下の衛士には第三大隊大将セルファンがおります故、一里の控えへ送る部隊は第三大隊がよろしいかと存じます。まずは中隊左軍から二小隊、百名を送ります。彼等の主任務は陛下や衛士達への救援と情報収集となりますが、バージェスの状況によっては、増強も視野に入れておく必要がありましょう」

 アレウス国としての進む道がこれで方向付けられる。

 ファルシオンは跪き自分を見つめる者達全員の顔を、唇を引き結んだまま見返した。

 不安を宿した瞳がレオアリスへ落ち、ぐいと顎を持ち上げる。

「わかった」

「また、今後の対応を決定し共有する為にも、次の者を召集します。地政院長官。財務院長官代理のゴドフリー侯爵。筆頭侯爵家としてヴェルナー侯爵。正規軍副将タウゼン、参謀長ハイマンス。近衛師団は副将ハリス、また第一大隊大将代理としてグランスレイを」

 ベールはスランザールへ視線を向けた。スランザールが頷く。

 ベールの言葉を聞きながら、ロットバルトは今名前が挙がった者達がこれから入って来るだろう、両開きの扉へ視線を向けた。

(現時点で意思決定と状況の共有に、最低限必要な顔触れか――、これ以上広げるにはまだ判断する為の情報が少ない)

 西海への対応と並んで、現在の最大の問題が、情報の開示と共有だ。

 どこまで情報を出し、どこからを伏せるか。

 いずれにしても混乱は必至だろう。

 誰がどのような反応を示すか、注意深く見定める必要がある。そう考えつつ、ロットバルトは再び口を開いた。

「失礼ながら、その方々が揃うのであれば、場所を変えるべきかと。落ち着いた議論が必要であり、この場は不要な動揺を誘います」

 レオアリスの血が床の大理石や絨毯の上に散っている。謁見の間に入ってきて、目にしない訳にはいかない。

「上将についても、このままの姿が諸侯の目に触れるのは避けたいと考えています。出来れば剣の事も」

 避けたいと口では言ったが、ロットバルトとしては、この後の場では一切を回避するつもりでいた。

 いつまでも隠し通せるものでも無いが、今、混乱の初期にレオアリスが剣を失ったという情報を示せば、更に幾つもの影響を生じる事になる。

「同感だ、レオアリスの剣については時期を見る。まずは陛下の執務室へ場を移そう。レオアリスはその隣室に休養させる」

 ベールが頷くとファルシオンはそっと息を零した。先ほどからずっと小さな手を解かず、握りしめている。

「不在の理由は、どのように?」

 トゥレスの問いに、ロットバルトはトゥレスだけではなく全員を見渡した。

「アルジマール院長の見立て通りなら、それほどかからず目を覚ますでしょう。それまではルシファーへの対応中として、現在は呼び戻しているところだと、その説明で対処が可能と考えています」

 いつ目覚めるか、その根拠は実際には無かったが、今はそう言う他はない。

「殿下、どうぞ執務室へ」

 ベールとスランザールがファルシオンを促し、玉座への階へと向かいかけた時、それまで黙っていたクライフがぐっと顔を持ち上げた。

「待ってください! ボードヴィルは、どうするんですか」

 ほんの四半刻前まではボードヴィルからのイリヤの救出が最重要とされ、まさにボードヴィルへと発つ直前だった。

 ヴィルトールが生きていると判った事も、クライフには尚更ボードヴィルへと意識が急かされる要因だ。

 そもそもボードヴィルの抱える問題は、除かれた訳ではない。

 ファルシオンがやはり、不安と、押し殺した期待の滲んだ瞳をベールとスランザールへと向ける。ベールはそれぞれの視線を見返した。

「ボードヴィルへの対応は現状では困難だ。ルシファーに対する為、レオアリスが赴く事が不可欠だったのだからな」

「俺が行きます! 潜入して状況を把握するだけでも」

「対応せぬとは言わん。それが今ではないだけだ。堪えよ」

「しかし……!」

 クライフは尚も言い募りかけたが、ぐっと奥歯を噛み、そこに自分の焦りを押し込めた。

「――失礼、致しました」

「ボードヴィルへは勧告を送り、状況を見る」

「私を――第二大隊がボードヴィルへ対応する手もありますが」

 その場の視線が、やや離れた所に立つトゥレスへと集まる。

 トゥレスは組んでいた腕を解いた。光を帯びた瞳で、ベールとスランザール、そしてファルシオンへと向かい合う。

「むろん損害は回避できませんが、手ぶらでも帰りません。お任せいただけるのであれば」

「――」

 ベールは束の間吟味するようにトゥレスを見つめ、だが首を振った。

「それは最善手ではない。第二大隊の損害は半数を超えるだろう。そもそもレオアリスが動けず、総将アヴァロンとセルファンが西海へ赴いている以上、貴侯まで王都を離れては近衛師団が立ち行かん」

「……確かに。出過ぎた事を申し上げました、お聞き流しください」

 トゥレスは頬に僅かな笑みを刷き、了承の意を表して一歩下がった。ベールが再びファルシオンを促して階を昇って行く。

 ロットバルトはトゥレスの様子を視界の端に捉え、執務室へと向かう為に自分の前を通り過ぎるのを待ってから、レオアリスを抱え立ち上がった。





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