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第5章「落日」(18)

 千年の終焉――




 照らし出された広間を埋め尽くす、銀の波。

 数百の剣と槍の穂先、その白刃が広間を染める光を弾き、拡散する。

 それは王と海皇が座る卓とアスタロト等四十九名の衛士達を完全に囲んでいた。

 ぎり、と軋る音がアスタロトの耳元で起こる。

「……卑怯な――ッ、これほどの裏切りを」

 誰もが茫然と息を呑む中、ヴァン・グレッグが漸く、唸るような低い声を押し出した。続く言葉は怒りに呑み込まれる。

 衛士達の面は色を失い、怒りより困惑が占めている。セルファンは血の気の失せた蒼白な面を巡らせ、謁見の間を埋める西海の兵士達を見回した。

「ここまで完全に囲まれていながら、気付かなかったとは」

 独り言に近いがそこにも、ヴァン・グレッグ同様、隠しようもない苛立ちと焦燥が滲んでいる。

(気が付かなかった――)

 セルファンの思いを当然と認めながら、アスタロトには、気付かなかった事そのものへの驚きは無かった。

 気付かなかったのではなく、気付けなかったのだ。謁見の間に入る前からずっと、海皇の放つ圧倒的な気配が広間を満たしていた。

 アスタロトはそれに触れているだけで精一杯だった。

 けれど自分へ覚える怒りには変わりが無い。

 アレウス王国の衛士を率いる役割を、アスタロトは負っているのだ。この状況にみすみす衛士達を――王を置いてしまったのはアスタロトの責任だ。

 レオアリスの顔が思い浮かび、ぎゅっと唇を結ぶ。

 王の守護は、今、アスタロトに託されているのに。

(――落ち着いて、考えるんだ)

 卓に向かい合い、王と対峙する海皇。西海の衛士達、三の戟レイモアと、ナジャル。

 そして謁見の間を埋める数百もの兵。

「公、この場を」

 ヴァン・グレッグが素早く囁く。声は極限の緊張に張り詰めている。

 この状況をどう抜けるか、その判断と指示もまた、アスタロトに託されていた。

 アスタロトは拳を握り締めた。

(囲みは絶対抜けられる)

 この場には空気がある。炎さえ使えれば、兵の数は問題にならない。西海はもし本気でアレウス国側を害そうとするのなら、この謁見の間も城外と同様に、海水で満ちたままにしておくべきだったのだ。

 この状況を切り抜けさえすれば――。

 思考がその先に至った時、アスタロトは、不意に足元が喪失し、暗黒の奈落に落ちるような感覚を覚えた。

 実際によろめいた身体をヴァン・グレッグに支えられる。

「公」

「――」

 ヴァン・グレッグが見つめているのに気付き、アスタロトは無理矢理真直ぐに立った。アスタロトの後ろに立つ部下達も、アスタロトの姿を見ている。

 期待を込めて。

 彼等に動揺を悟られる訳にはいかない――

 だが。

(どう、しよう――)

 鼓動が重く早い。

 足元に突如として口を開けた奈落から吹き上がるそれは、凍る手で心臓を鷲掴みにされたような、鋭利な刃となって心臓に差し込むような、絶望だった。

 西海が城内を海水で満たさなかったのは、油断ではない。

 その事が大した問題ではなかったからだ。

 自分が辿ってきた、あの青く途方も無い重量を以って埋め尽くす水が脳裏を占める。

 この城を出たとして。



 そこに広がる膨大な水の世界を、どう抜けて行けばいいのか。



「公」

 再度ヴァン・グレッグはアスタロトを呼んだ。

「大丈夫――」

 ヴァン・グレッグ達はまだ、その事に気付いていない。

 だがいずれ必ず突き付けられる事実でもあった。

 彼等が絶望に気付く前に、何かないか。

 アスタロトは目まぐるしく思考を巡らせた。何か方法が、どこかにないか。

(方法?)

 この囲みを抜け、レイモアや、ナジャルの手を躱し――

 更にその先の水の檻を抜ける、方法?

(そんなものが、どこにあるんだ)

 アスタロト達は深い海中を自由に行く術など持っていないし、それが出来たとしても、地上に出るまで西海がただ見過ごす訳がない。

 法術ならば可能だったかもしれないが、この場に法術士は一人もいないのだ。

 脚が、自分の意志とは無関係に震える。

(でも、私が何とかしなきゃ――)

 彼等は自分を正規軍将軍と掲げ、炎帝公――、『アスタロト』として、そこに希望を抱いている。

(私が)

 視線を向けた先で、王は姿勢を変える事無く、海皇と対峙して座っている。その周囲には余りに光が溢れ、王の姿を霞ませていた。

 だが、王の変わり無い姿を確かめる事でそれまでの恐怖が薄れ、アスタロトは震える腕を隠し努めて明瞭に言葉を刻んだ。

「大丈夫、方法は必ずある」

 唐突に、そう言ったアスタロトを嘲笑うかのように周囲から笑い声が湧き起った。

 アスタロト達を取り囲む西海の兵士達が、身体を揺らしせせら笑っている。謁見の間がまるで打ち寄せる波のように揺れていた。

 その中を、一際冷酷な嘲笑が肺を掴む。

『驚きの余り声も出ぬようだが、それほど想定外であったか? 不可侵条約の再締結――よもやアレウスよ、貴様そのような妄言を本気で口にしていた訳ではあるまいな』

 投げ付けられた侮蔑に強い憤りを覚える反面、抑えがたい震えが全身を巡る。

 今や海皇が放つ気配は、それだけで他者の精神を押し潰すようだった。

 アスタロトは背後の衛士達の顔を素早く確認した。誰もが蒼白く血の気が失せている。

 王の衛士としての矜持(きょうじ)が彼等を毅然として立たせているが、八方塞がりのこの状況では、いずれ限界が来て心が保たなくなる。

 そしてそれ以上に。

(時間が無い)

 海皇が自らそう告げたように、海皇を縛る枷が、一つ、一つと外れていくのが判る――

 全ての枷が消えれば、アスタロト達は抵抗の余地すら無く、ただそこにある空気の如く呑み込まれる。

 再び呼吸が荒くなっているのに気付き、アスタロトは自らを支配し呑み込もうとする恐怖を懸命に宥めた。

『貴様の読み違いだ、アレウスよ。平穏などと無価値なものを掲げ、脆弱になった自らを恥じるべきではないか?』

(王――)

 アスタロトや衛士達の視線が王へと集まる。

 彼等にとって王はアスタロトに勝る希望であり、そして自らが、王が何事もなく地上へ帰還する為の護衛であるという使命と誇りが、今の彼等を支えている。

 ふと、王の瞳がほんの束の間アスタロトに向けられ、アスタロトは理由の判らないままに息を詰めた。

 もう一度、黄金の瞳に理由を求めようとしたが、既に王の眼差しはアスタロトの上から離れている。

(――)

『その条約はもういらぬ。片割れはとっくに灰と化し、このバルバドスに流した。もはや塵程も存在せぬわ。貴様が後生大事に抱えて来たのが滑稽だ』

 王の手元の不可侵条約の原典が、どろりと溶ける。

 アスタロトは小さく声を上げて踏み出し掛け、喉元に突き付けられた切っ先に気付いた。

「――レイモア、貴様」

 三叉戟を突き付けたレイモアの、ぬるりとした笑みを、アスタロトの深紅の瞳が焼き尽くしそうな光を宿し睨む。

「一里の控えの約定を、恥ずかし気もなく」

『そう急かず眺められよ、炎帝公。舞台はこれから盛り上がるのだ。そして我等はただの観客に過ぎん』

 レイモアと西海の兵士達が嘲笑う声が、謁見の間を覆う。

 海皇が身動ぎし、謁見の間が揺らいだ。

 気配がまた一つ、濃厚になる。

 枷が。

 外れていく。

 身体が震える。

『もう一度だけ問おう。かつての貴様は自ら覇権を得る事に貪欲であった。この私が敬意を覚えるほどにな。白地図に(おの)が足跡を刻み込み、知らしめる。血と肉とが(もたら)す雑多な感情の坩堝(るつぼ)に身を浸すのは、限り無い愉悦よ。それをまた味わいたいと思わぬか――』

 海皇と向かい合ったまま、それまで黙っていた王が、泰然と口を開いた。

 笑みすら含まれた口調だ。

「残念だな、海皇。私はもう二度とそのようには思わぬだろう。そこに愉悦を覚えたのは、そう、そなたと相争い始めた頃までか――まだ互いに王ではなく、世界を狭く見ていた(つたな)き身の間までの事だ」

 海皇が束の間沈黙し、身を縛る恐ろしい程の静寂が謁見の間を打つ。

 次いで海皇から放たれた空気が肌に触れ、アスタロトはびくりと鼓動を跳ね上げた。

『……これほどまでとはな』

 吐き出されたその短い一言に、憎悪と、侮蔑と、嘲笑が込められていた。

 王とアヴァロンの周囲の床が一際激しく光を放ち、四方に壁のように光の膜が立ち上がった。同時に王の身を光る輪が捕える。両の手首、足首、胴。

 アヴァロンが剣の柄に手を伸ばしかけ、王を見た。

「陛下ッ!」

 駆け寄ろうとしたアスタロトや衛士達へ、西海兵が持つ槍が一斉に倒される。

「どけ!」

『もはや貴様に価値は無い。盟約の終焉にその心臓を捧げよ』






 壇上の玉座や並ぶ柱を照らしていた光が断ち切られると同時に、イリヤの姿が掻き消える。

 苦い沈黙が僅かな時間、謁見の間を満たした。たった一呼吸、するだけの間だ。

 だがその沈黙は、ルシファーの思惑が成功した事を雄弁に物語っていた。

「――レオアリス、私は……」

 すぐ背後で、不安に消え入りそうな声が耳を捉え、レオアリスは後ろに庇い立っていたファルシオンを振り返った。ファルシオンは足元の床を見つめ俯いている。

 その姿にレオアリスは強い憤りを覚えた。

 突然、目の前にその身を案じていた兄が現われ、まだ幼い子供が政治的な配慮など意識できる訳が無い。名前を口にする事すら叶わない中で、不安も心配も表に表せず、父王の代わりに国主の役割を負い、我慢していた。

 感じる憤りは、ファルシオンの不安を利用したルシファーの策略と、咄嗟の判断が遅れファルシオンを制止できなかった自分にだ。

(どう対処する――?)

 ともかくまずはファルシオンの正面に膝をつき、不安を溜め込んだ二つの瞳を見つめた。

「殿下がお気に病まれる事はごさいません。それに今のルシファーの術は不完全でしょう」

「不完全? どういう事だ」

 玉座の傍に近寄ったトゥレスがそう尋ねる。

 レオアリスは一度、光の消えた先を見た。もうそこには先程の片鱗すら無く、無機質に並ぶ柱がやや寒々しさを感じさせている。

 レオアリスはファルシオンへ一礼し、立ち上がった。

「――何らかの干渉が入ってルシファーの術が断たれた――、俺にはそう見えた」

 トゥレスが遅れてレオアリスの視線を追う。その何の変哲もない空間から、再びレオアリスへと視線を戻した。

「断たれた原因は判らないが、状況から見て恐らくルシファーには想定外だろう」

「――」

 階下ではスランザールとロットバルトが言葉を交わしている。トゥレスは腕を組んだ。

「ボードヴィルはどうする。ルシファーは十中八九、兵を挙げる追い風を吹かせる為に、今の術を使ったはずだ。予定どおり出るか?」

 それはレオアリスも考えていたところだ。状況が掴めていないこの状態では、ファルシオンの傍を離れる事が正しい選択なのか、判断は難しい。

 だが実際にルシファーは、ボードヴィルで動き出した。

 これは今までのような推論ではない。

「……ボードヴィルは抑えた方がいいとは思う」

「ルシファーは警戒を強めたかもしれん」

「少しやりにくくはなるが、元々無警戒じゃあ無いだろう。どうせボードヴィルに入れば時間を置かず気付かれる」

 スランザールが(きざはし)を登ってくる。トゥレスは組んでいた腕を解いた。

「お前の考えも老公の方針も同じだろうが、敢えて言おう。俺は、お前はここを動かない方が上策だと考えている。ボードヴィルを置いても、お前はファルシオン殿下のお側にいるべきだ」

「――」

「殿下――、レオアリス、トゥレス」

 スランザールは広い階段を一段一段踏んで登りながら、階上に声をかけた。最後の十五段目を登りきり、ファルシオンの前で一旦膝をつく。

 レオアリスは階下に視線を落とした。真っ直ぐ扉へと続く深緑の絨毯の上にロットバルトが立ち、自分達を見上げている。

 離れた場所にいる為に読み取りにくいが、向けられる表情からはスランザールとロットバルトの見解は同じだろうと判る。

 レオアリスはスランザールへ視線を戻した。

「殿下、今の一件、急ぎ対応を定めねばなりません」

 スランザールはファルシオンへと、まずそう告げた。

「推測するとすれば、ルシファーは何らかの術で王都とボードヴィルの空間を繋げたか、或いは幻術かも知れませんが、いずれにせよ殿下が彼と対面されるところを周囲に示す事が目的でありましょう。であれば、途中で断たれはしたものの、ほぼルシファーの目的は達せられたと考えるのが無難かと存じます」

 スランザールは一旦言葉を止めたが、疑問が差し挟まれる事は無かった。

「――ルシファーの狙いは挙兵。今の仕掛けは兵を起こす第一歩とする為と推察します。今後第一に対処すべきは、予定通りボードヴィルから彼を救い出す事かと。殿下、それでよろしゅうございますか」

 スランザールは明瞭に、しかし慎重な口振りでそう問い掛けた。

 ファルシオンがスランザールの灰色の眼を見つめ、ややあってぎゅっと唇を噛み締め、頷く。

「そうして欲しい」

 決意と、願いの籠もった響きだった。決意は自らに課せられた役割、願いは自らの兄へのものだ。

 それを汲み取り、スランザールも頷く。それからレオアリスを見上げた。

「レオアリス、そなたは予定通り至急ボードヴィルへ飛び、彼を救出せよ」

 レオアリスはトゥレスと、ファルシオンを見た。

 束の間躊躇い、だが左腕を胸に当てた。

「――承知しました」



 ロットバルトは壇上の玉座を見上げ、そこへ向かうスランザールの背を追った。

 スランザールと大まかに推測を交わした通り、術は途中で断たれたものの、ルシファーの目的は達成されたと考えるべきだろう。

(目的はボードヴィルの正規兵の人心掌握――例え元西方公と言えど、まずはそこから始める必要があったという事か。だがそれは充分予測できたはずだ。その為の最も有効な手法が何かも)

 今回ルシファーが仕掛けた事は幾つかの手段の一つであり、イリヤだけがそれを可能にする。

 そこに思い至らなかったのは明白な失態だった。

 この件に関しては常に、ルシファーに先を行かれている。今回、王都が表立って動けない状況が続いている事も、ルシファーを有利にしている。

(王都だけじゃない。上将にしても制約が多過ぎる。立場上仕方が無い事ではあるが……)

 (とど)まり過ぎたと、そういう思いが強い。

 立場に捉われず、動くべきだったのかもしれない。

(それも後からなら幾らでも言えるか。いずれにせよ、彼がルシファーの手にある以上、我々は後手に回り続ける)

 状況を変える為には、イリヤの救出が最優先だと、それはスランザールとも共通した考えだった。

 ロットバルトは先程空間が繋がった辺りへ瞳を上げた。壇上の玉座の正面、その中空に現われたイリヤの姿と――

 その後ろに、ヴィルトールがいた。

 安堵と焦燥、自責の念、レオアリスはそれらを同時に感じただろう。

(ルシファーは中将を利用する為に生かしたのだろうな)

 イリヤの立場を補強する材料として。

(だが言い換えれば、それだけ彼の立場が確立されていないという事でもある。今の一件が補強したとしても、この先些細なきっかけがあれば崩れる程度のもの――いや、ならば)

 ロットバルトは自分の思考を覗き込み、そこにあるものを見たままに呟いた。

 ルシファーは体制の堅持、継続に、さほど重きを置いていないのかもしれない。

(――)

 ふと視線を流し、後方の入口へと向ける。

 意識を引いたのは廊下から伝わった、硬質な床を叩く足音だった。次いで両開きの扉が内側へと開かれた。

 廊下を満たす陽光と共に飛び込んで来たのはクライフだ。クライフは謁見の間に踏み入り一旦歩調を落ち着かせたが、前方に立つロットバルトを目にして足を早めた。

「ロットバルト、上将は」

「殿下のお側に。アルジマール院長は」

 クライフが壇上を見て頷く。その表情は今にも駆け上がりそうだ。

「準備できた。つうかもう発動したんだ、ついさっきだ。すぐに飛ばねえと」

「発動――と言う事は、ルシファーの術を絶ったのはアルジマール院長の二重結界ですか。なるほど、それなら納得が行く」

「ルシファーってやっぱ……」

 その先を飲み込んで詳しく問う事はせず、ここでも――ここでこそ何事かあったのだと理解して、クライフは眉をしかめた。

「マジかよ。じゃあますます上将には急いで出てもらわねぇと」

「老公が今その話をしています。――それと、ヴィルトール中将は生きていましたよ」

 今想像していなかった言葉を耳にして、クライフは束の間まじまじとロットバルトを眺めた。

「ヴィル――まじかよ……」

 見る見ると表情が明るくなる。

「はは――っ、やっぱりな! 当っ、然だぜ!」

 右拳を左の手の平に鋭く打ち付け、その勢いのまま二つの手を振り下ろした。

「ッしゃ、そうとなりゃ早いとこ行こうぜ。ヴィルトールの野郎まったくドジ踏みやがって、世話が焼けるよなぁ。さすがに今度は俺の事を何だかんだ言えねぇ――、ンだよ、何笑ってんだ」

「さあ、別に――」

「クライフ」

 壇上からレオアリスの声が落ちる。上での話が済んだのか、レオアリスが玉座の奥へ回り、左側に設けられた階段を降りてくる。二人は左腕を胸に当て敬礼を向け、レオアリスが二人の前まで来るのを待った。

 レオアリスは階段を降り切り玉座の正面まで来ると、背に纏った漆黒の長布を揺らし、壇上のファルシオンへと敬礼を向けた。

 それからクライフとロットバルトに歩み寄り、そのまま足を止めず二人の横を抜ける。

「行こう――ロットバルト、不在の間を頼む」

 ロットバルトの黙礼が返るのを視線で確認し、レオアリスは扉へ向かった。クライフがロットバルトの肩を拳で叩き、レオアリスを追う。

 壇上では、玉座の横に立ったままのファルシオンが、深緑の絨毯の上を歩いていくレオアリスの姿を目で追い掛けていた。

 ロットバルトはファルシオンの幼い面に現れた表情を見つめた。

 期待と、不安と――。

 幼い金色の瞳に二つの感情が交じり合い、どちらが強いかは測れない。

 謁見の間を半ば近くまで差し掛かった時、レオアリスの足がふと、止まった。視線を遠くへ投げるように、やや顎を上げる。

 訝しんだクライフが声を掛けるほどの間は無く、レオアリスはすぐに歩き出した。

 壇上で、ファルシオンの瞳が、上がる。

 それはたった今、レオアリスが見せた仕草と似ていた。

「――父上」

 微かな呟きを捉えたスランザールが、ファルシオンへと身体を向ける。

 ロットバルトもファルシオンの様子に気付き、壇上を注意深く見据えた。

 ファルシオンの黄金の瞳が、見開かれる。

 レオアリスは再び、足を止めた。

 今度はクライフが、問い掛けるほどの時間があった。

「上将? どうかしましたか?」

 クライフの声が届き、ロットバルトは視線を戻した。

 もうレオアリスは廊下への扉との中間を過ぎたあたりにいて、控えていた隊士が扉を開ける為に手を掛けている。

 レオアリスは深緑の絨毯の上に立ち止まったまま、俯き、足元を見つめていた。

(何だ?)

 ロットバルトは眉を寄せ、片足を一歩向けた。

 レオアリスはじっと考え込むように動かない。

 その様子が意識の奥を叩いた。

(……違う)

 足元を見ているのではなく、何かの音を聞いているような――

 レオアリスの右手がゆっくりと持ち上がり、鳩尾に当てられる。

 ロットバルトは意識せず、呟いた。

「――ミストラ」

 アリヤタの村だ。

 いつかの光景が不意に脳裏に甦り、明確に意識する前にロットバルトは床を蹴った。






『盟約の終焉に、その心臓を捧げよ』

 ぐぐ、と王を包む光の檻が縮小し、西海の兵士達が口々に雄叫びを上げ囃し立てる。

『殺せ!』

『殺せ!』

『殺せ!』

『我等に地上を!』

『地上の王の血肉を!』

『殺せ!』

「陛下!」

 ヴァン・グレッグが腰に佩びていた剣の柄に手を掛け、抜き放った。それに倣って衛士達が次々と剣を抜く。白刃が鞘走る高い音色が響く。

 アスタロトはぐっと両手を握り締めた。

「――下がれ! 焼き尽くす!」

 鋭い響きに打たれ、今まさに西海兵に打ち掛かりかけていた衛士達が動きを止める。

 アスタロトが一歩前へと踏み出し、気圧された西海の囲みが歪んだ。西海の兵達が上げていた雄叫びが潮が引くように鳴りを潜める。

「公!」

 アスタロトは掌に意識を集中した。

 炎を。

(早く)

 戦闘になればもはや引き返しようもなく、西海との不可侵関係は終わり、二国間の争いに発展する。

 けれどここで動かなければ結局、王の命は奪われ、アレウス王国は遠からず西海に呑まれるだろう。

 まずはこの場を切り抜ける。

 その後の事は、その時考えればいい。

(早く―― !)

 アスタロトは苛立って自分の掌を見た。

 そこに一向に、炎が現われないからだ。

「公、今はもう」

 ヴァン・グレッグの言うとおりだ。もう迷っている暇はない。

 迷っているつもりはない。

「――」

 アスタロトは、両手をゆるゆると持ち上げ、その手を凝視した。

「公?」

 唇からぽつりと呟きが零れる。

「そんな……」

 炎が。

「そんな」

「公、お迷いになっている時ではありません」

「違うッ!」

 声を荒げ、その事にはっと口を閉ざすと、アスタロトは瞳を見開いたまま、ヴァン・グレッグではなくその向こうへ、視線を彷徨わせた。

 違うのだ。

 迷っているのではなく――

「公――どうなさったのですか!」

 炎が現れない。

 ぐらりと世界が回った。

 哄笑が湧き上がり、アスタロトの耳を捉えた。

『なるほど……これがルシファーの約束した花か』

 愉悦を含み、海皇が嘲笑う。

「ファー……?」

 こめかみがどくどくと脈打ち視界が歪んでいて、海皇の姿がはっきりと見えない。

 それよりも何故、海皇がルシファーの名を出すのだろう。

 約束をしたと、言った。

 ルシファーが、何を。

(関係ない。今は、炎を)

 ここを抜けなくてはいけないのだ。それには炎が必要だ。

(何で、炎が現れないんだ)

 ルシファーは、海皇に何を、約束して

 やはりルシファーは、西海と

(こんなこと、今まで、一度も)


『あなたが、アスタロトでさえ無かったら』


(私が?)


 彼女を、信じていたのに


 頭の中を止めどなく疑問が浮き上がり巡っている。





                    『あなたが、アスタロトでさえ』





(どうして炎が)


 ルシファーが相談に乗ってくれて、気持ちがずっと軽くなった。


(そうだっけ)


 そうだったはずだ。

 彼女が同じ立場だから。


 彼女だけは、アスタロトの気持ちを判ってくれた。誰もがアスタロトの想いを否定する中で彼女だけは、彼女は自分自身も許されず大切な人を失ったからアスタロトを同じようにはすまいとアスタロトを心配してくれて同じ立場だから彼女が



 同じ――



『約束』



 全ての音、全ての思考が一瞬、消えた。

 アスタロトの意識はまだそれを否定していたが、奥底の無意識の中では、それを理解していた。


 アスタロトの炎が失われる事を、ルシファーは知っていて。


 そう、導いて――


 約束を。


(海皇、に――?)

 ざらりと、頭蓋の裏を撫でられる感覚があった。

「――っ!」

 鋭く息を呑み、身を引いた肩がヴァン・グレッグにぶつかる。ヴァン・グレッグの手がアスタロトの肩を支え、同時にその手に篭った力が、ヴァン・グレッグの動揺を如実に伝えてくる。

「公ッ、どうか、迷いをお捨てください! 今はこの場を抜ける事だけを」

『そう責めるな。決断ができぬ訳ではないのだ。ただ炎を呼び出せぬだけ』

「――何を」

 ヴァン・グレッグは青ざめ、答えを求めてアスタロトの横顔を見つめた。恐らく強張った顔をしていたはずだが、アスタロトにはそれを取り繕う余裕がなかった。

 先ほどの感覚――海皇の意識が、アスタロトの内側を覗き込んだのだと判った。

 忍び笑いが床を這う。

『娘――、そなた、(おの)が主君を疎むか』

「――な、にを」

 ふいに放たれた言葉が喉を穿つ。

 どっと心臓の鼓動が跳ね上がった。

 衛士達が互いに顔を見合わせている。

 それはアスタロトにしか意味の掴めない言葉だったが、アスタロトには海皇が何を指し、自分の中に何を見たのか、はっきりと理解していた。

(――私は)

『ではこれは、そなたの望み通りではないか?』

 何度か意識に(のぼ)りそうになり、慌てて押し(とど)めていたもの。

 だが捨て切れず、心の奥底に(とど)めていたものだ。


 どうして自分がアスタロトなのか。

 アスタロトである以上想う事もできないのか。

 アスタロトでさえなければ。

 ルシファーが言ったのだ、王が認めないと。

 だから。

 王さえ。

(私は)

 両手の指先まで、凍り付くように冷たく、感覚がない。




 王さえ    いなければ    と――




 二度と戻れない、奈落を覗き込んだ。

(わ……)

 全ての意識が自分に向けられているように思える。

 そこに侮蔑と落胆がありありと感じられ、振り返る事ができなかった。

 背中を冷たい汗が流れ、眩暈がする。喉の奥に詰まった塊を、ようやく押し出す。

「違、う……」

 レオアリスの姿が脳裏に浮かぶ。意識の向こうからアスタロトに投げられた眼差しにはまるで温度が無く、全身が冷たくなる気がした。

「……違うよ――」

 でも、炎が現れない。それが何よりの証拠なのではないか。

『中々の趣向だが、愛でるには少々物足りぬ花よの。血を以て大輪の花へと育てようか』

 海皇の右手が上がる。

 長い卓の上に細い光が浮かんだと思うと、一条の輝く槍を形作った。

 思わず息を呑み後退るほどの力の発露――だがその穂先は光る輪に囚われた王へと向いている。

『娘。主を救いたくばこの槍、その炎を以って焼き滅ぼして見せよ』

「――っ」

 アスタロトは左手で自分の右手首を掴み、もどかしく握り締めた。皮膚に爪が食い込み、紅い血の玉ががぷつりと浮かぶ。

「……公」

「アスタロト様?!」

「――う」

 身体中の、どこを探しても、炎が見えない。

 どん、と空気を震わせ、輝く槍が放たれた。

「陛下!」

 槍が王の身を貫くと思えた瞬間、アヴァロンが王と槍との間に立ちはだかった。

 金色(こんじき)の閃光がひらめくと同時に、右手に抜き放たれた剣が、槍の柄を断ち切る。

 反れた槍の穂先は、アヴァロンの左肩を掠め、肉を抉り取り、その後方の謁見の間の天井へ突き立った。

 天井が穿たれ、その下にいた西海兵達の上に轟音を立てて崩落する。

 海皇の槍を断たれた事に、レイモアの顔色が変わる。

 アヴァロンの手に握られたのは、黄金の剣だ。

 守護者に対して王が下賜した、およそ地上で鍛えられた刃の中で至高とされる(つるぎ)

 刀身に精緻な彫刻の施された剣が、存在を示すように光る。

「閣下―― !」

 セルファンは目の前に突き出されていた剣を打ち払い、一歩踏み出して叫んだ。王とアヴァロンの卓まで、今は西海の兵で埋められている。

 アヴァロンの左肩から流れ出す血が、左肘を伝い、床へと滴った。

 だがアヴァロンは王の前に、堅牢な城壁のごとく立ちはだかっている。

「アヴァロン閣下!」

「陛下の御身は私が護る。そなた等は囲みを抜ける事に注力せよ」

 海皇が喉を鳴らすように笑う。

 ただ声の響きには、それまでの明白な侮蔑とはやや違う色があった。

『それなりの剣を持っているようだな、面白い。その剣で私を打ち倒しには来てはどうだ? 一太刀与える可能性はあるやもしれんぞ』

「私は陛下の御身を護る盾だ。ただその役割を果たす」

『護るか、その意志は叶わぬものを、忠義な犬よ。だが確かにその(つるぎ)と意志、一撃で折るには足りぬか』

 再び、今度は三条の槍が卓の上に浮かんだ。

 宿る力は先ほどと変わらず、三つの切っ先全てがアヴァロンとその向こうの王へ向いている。

 同時に放たれれば、アヴァロンとはいえ先ほどと同じく断ち切るのはほぼ不可能だ。

『少しばかり余興に付き合ってもらおうか、アレウス。何、貴様は動けぬだろう、そこで眺めているだけでよい。貴様の盾が何撃保()つか、賭けても良いぞ』

 ぐぐ、と槍の周囲の空気が凝縮するのが判る。

 槍を放つ為だ。

 アスタロトは喉を掴むような重苦しい塊を感じ、喘いだ。

 自らの中に微かな熱の揺らぎすら感じ取れない。

 まるで初めから、炎などアスタロトの手に無かったように。

(……私は、本当に……)

「――海皇よ」

 静謐な声が、この場に揺らぎ満ちていた熱をすっと撫でた。

 謁見の間が喧騒から、さざ波の如き静寂へと変わっていく。

 海皇の頬に浮かんでいた笑みが消える。

「盟約に終焉(おわり)を定めたのは、そなたであった」

 再び広間は静まり返り、意識は王と海皇とに注がれた。

 王の口調は淡々としていながら、改めてその声を聞くと、この存在が海皇と同じ位置にいるのだと気付かされる。

「それは正しかった。その点に於いて、私はそなたに感謝すらしている」

 王の声が静寂を圧し、アスタロトは束の間、自らの内に渦巻いていた嫌悪と焦燥とを忘れた。紛れもない、確たる敬意が自分の中にあるのが判る。

 それと。

「そなたは再びあの血肉と怨嗟に塗れた大地を欲すると言い、私に同じものを望まぬのかと問うた。私は望まぬと答えたが、それは我が心の全てではない。正直に言おう――」

 不安。

 それが他の感情を圧して湧き上がる。

「私はもう、()いたのだ」

 それは生命の気配を感じさせない、歳月を経た大樹の(うろ)のごとき響きだった。

 アスタロトは自分の心臓が、一瞬鼓動を止めたように感じた。

 それから、急速に音を立てる。

「永く縛られ過ぎた。まあ千年の歳月に摩耗せぬ者などおらぬだろう。いつ頃からか私は、この終焉を心待ちにするようになっていた」

『……愚かな事を』

 海皇の言葉は、茫然と呟かれたように思えた。

「盟約が縛るのは互いの血と心の蔵。ならばこれを破却すれば解放は叶ったのかもしれぬが、そなた一人残してゆくのは、いささか無責任であったからな」

 王が左腕を上げ、正面に座る海皇と対比するように、顎を預けた。

 その身を捕えていた光は、気付けばどこにも無かった。

「そなたが記した通り、我ら二人を縛っていた盟約は今、終わりを迎える。となれば、我等も終焉を受け容れるのが当然だろう。だから(・・・)私は(・・・)ここに来たのだ(・・・・・・・)

『貴様――』

 アスタロトは自分の鼓動が全身に響き渡るのを感じた。周囲の音は鼓動に掻き消され、それでいて王の声だけが明瞭に耳に届く。

 王が何の為に、ここへ来たと、言ったのか。

 無意識に首を振る。

(そんなの、駄目だ……)

「過ぎ去った時を焦がれ求めても仕方がなかろう、海皇。例えこの国の始まりが何であろうと、地と海とを(わか)つものが何であろうと、最早この地に生きる者達にはさほど意味を持たぬ事なのだ」

(ダメだ――だって、レオアリスが)

 頭の奥で、光が瞬く。

 つい数刻前に見た、レオアリスの姿。

 昨夜、王城の庭園で王の前に立っていた、姿。

 あの(つるぎ)――

(約束したんだ、私)

「そこから離れられぬのは私とお前だけ、ただそれだけの事よ」

『……()れ言を』

 三条の槍が一斉に放たれる。

 アヴァロンの剣が二つの穂先を捉えて反らせ、それぞれが左腕と右の腿を抉った。

 反れた槍は一歩も動けないままの西海の兵十数名を串刺し、尚勢いを失わず後方の壁を破壊する。

 壁が音を立てて崩れ落ち、その向こうの廊下が剥き出しになった。恐怖が西海の兵達の間に広がる。

 三条目の槍は、剣で捉える事が叶わず、アヴァロンの右の脇腹に突き立っている。アヴァロンは揺るぎもしない。

「閣下ッ!」

 駆け寄ろうとしたセルファンへ、西海兵の槍が突き出される。躱して斬り伏せ、だが尚も突き付けられる無数の穂先に、セルファンは後ろへと下がるしかなかった。

『どうした――蹂躙せよ』

 取り囲む西海の兵達がその言葉に押しやられるように雄叫びを上げる。

 ヴァン・グレッグは正面の兵を斬り倒し、号令した。

「目の前の相手を確実に斬り伏せろ! 一歩も退くな! 陛下の元へ辿り着くのだ!」

 西海兵が犇めくように寄せる。輪は何度か縮みかけ、押し切れずに戻る。

 アスタロトもまた腰に帯びていた剣を引き抜いた。

 見下ろした瞳に、儀礼用の美しく繊細な装飾を施した剣が、頼りなく映る。

「公、危険です、中央に!」

 ヴァン・グレッグがアスタロトの斜め前にいた兵士を斬り倒し、叫んだ。

「そんな事できない!」

 叫び返したものの、次々に繰り出される剣や槍を躱すだけで精一杯だ。横にいた近衛隊士が槍に脇腹を突かれ、崩れる。

「!」

 手を伸ばして身体を支えようとしたところへ、剣が振り下ろされた。

「公ッ!」

 咄嗟に振り上げた剣が額に迫る白刃を捉え、弾く。

 だがそれで、儀礼用の剣は呆気なく折れた。

「剣が……!」

「公、後ろへ」

 ヴァン・グレッグに押しやられ、アスタロトは衛士達の輪の中へとよろめいた。振り仰いだ視界に広がるのは、衛士達が押し寄せる西海の兵を懸命に防ごうとする姿だ。

 儀礼用の剣や僅かばかり肩や胸を覆うだけの鎧は役に立たず、負傷していない者は一人もいない。

 だが一人として諦めている者もいない。

「――」

 アスタロトは血が滲むのも構わず、唇を噛み締めた。

(何をやってるんだ、私――)

 海皇は椅子に腰掛けたまま激しい戦闘の様子を眺めていたが、退屈を露わに左手を振った。

『その程度の数に手間取るとは、役に立たぬ者どもよ。ならば少しばかり血を捧げてもらおうか』

 海皇が右足の踵が、とん、と床を叩く。

 次の瞬間、床から無数の槍が立ち上がり、そこにいた数百の西海兵を突き刺した。

「な――」

 西海の兵達もアレウスの衛士達も、束の間愕然と凍り付く。

 ほぼ三分の二もの自軍を容赦なく串刺しにし、槍は何事も無かったかのように再びするすると縮む。

 消えていく穂先が床に広がっていく血溜りに、とぷりと波紋を残した。

『残りは殺せ』

 言葉を失っていた西海兵達は、恐怖と自暴自棄の叫びと共に、一層激しく打ち掛かった。

「こ――れでは、保たん……ッ」

 ヴァン・グレッグが軋む歯の間から押し出す。

 海皇の槍に串刺しにされ、床に重なるように倒れた西海兵達の身体の下を、彼等が流した血が椅子に坐したままの海皇へと集まっていく。

 海皇が右手を伸ばすと、寄り集まった血は(ねじ)れながら細長く立ち上がり、そのまま形を変えた。

 一条の、三叉鉾だ。

 血の色に赤黒く艶めき、だがその刃は見る者をそれだけで切り裂くが如き獰猛さを放っている。

 アスタロトは身を震わせた。

(あ、れは――)

 その三叉鉾は、海皇と同じ気配がした。

『あれは海皇の鉾だ、娘よ』

 声がした方を見れば、ナジャルが一人、混乱の中に悠然と立っている。

『血を得れば得るだけ、力を増す。そなたらの王を贄としたら、さぞや世界を破壊するであろうなぁ』

「――っ」

 ヴァン・グレッグの肩をレイモアの鉾が貫き、そのままヴァン・グレッグの身体ごと床から持ち上げる。

「ヴァン・グレッグ!」

「将軍!」

 横合いから伸びたセルファンの剣がレイモアの手元を凪ぐ。

 剣はレイモアの左甲を切り裂いたが、レイモアは鉾の柄をしならせ、ヴァン・グレッグの身体を床へと叩きつけた。

 くぐもった苦鳴と共に飛び散った血が、アスタロトの頬にも跳ねる。血はすぐに冷えた。

(私は……)

 アレウス国の衛士を束ねる者として、ここに来た。

 王と、衛士達を守るために。

 唇から流れた血が、顎を伝って一粒落ちる。

 床に辿り着く前にそれは紅く揺らいで、消えた。

 ヴァン・グレッグは仰向けに倒れ、血に染まった上半身が荒い呼吸に忙しく上下している。その周囲でも既に数名の衛士等が膝をつき、あるいは倒れている。

 レイモアの鉾が今度は、セルファンへと向けられた。鉾先がセルファンの剣を折り、脇腹を掠めて戻り、再び繰り出される。

 耳の周りで鳴り響く叫び、怒号、剣の打ち合う音、苦鳴。

 剣は折れ、衛士達の抵抗は次第に背中を寄せ合うように押され小さくなって行く。

 もう数呼吸後には、白刃に呑み込まれる。

「私は」

 ごく微かな揺らめきが、水甕の底に沈んだ銀貨が纏う黄昏の光に似て、意識を捉えた。

 多分それが最後の揺らめきだ。

 それで本当に尽きるのだろう。

 アスタロトは躊躇わず手を伸ばした。

 意識の底へ。

 肉体の腕はレイモアへ――、

 海皇の鉾へ。

(今だけでいい)

 水の底に沈められていた最後の火種が、膨れ上がる。

 アスタロトの掌から迸り出た炎が、レイモアの鉾を焼き溶かし、その向こうの海皇へと走った。

『炎とは、()ほどに美しいものか――』

 ナジャルの口元が笑みを刻む。

 血溜りを背に、笑みが恍惚と歪んだ。

『だが所詮、消えゆく前の最期に放つ輝きでしかない』

 アスタロトの炎は、海皇に触れる手前で四散した。

「――」

 アスタロトは瞳を見開き、肩で大きく呼吸を繰り返しながら、自分の手を見つめた。

 一条――。

 それだけで、炎はもう現れなかった。

 届かなかった。

 海皇の三叉鉾が、絶望を謳うようにどくんと脈打つ。

 アスタロトはその脈動に引かれ顔を上げ、赤黒い光が蠢く()の鉾を眺めた。

 内に潜む、魂を削るような力と怨嗟――

 槍がゆっくりと倒れ、血の色にぬめる鉾の先を王へと向けていく。

『王を贄としたら』

「――陛下!」

 喉が裂けそうなほど声を張り上げ、アスタロトは炎の無い右手を伸ばした。

「貴方だけでも地上へ!」

 恐らくできる。王ならば容易いはずだ。

 王は腕を持ち上げ、アスタロトに応えるように、掌を向けた。

「陛下!」

 王の黄金の瞳と合い、その底を覗き込んだ気がした。

 その手から金色(こんじき)の光が湧き起こる。

 光はアスタロト達を包み、目を眩ました。




「そなた自身を見つめよ。何に縛られる」










「――陛下!」

 眩い光が消え、ゆっくりと視界が回復する。

 アスタロトはまだ定まらない視界と思考で、何歩か(まろ)ぶように前に出て王を探した。

「――何、だ……」

 唇は動いたが、肺から空気が零れただけで、声にはなっていなかったかもしれない。

 初めは、何が起こったのか、全く理解できなかった。

「何で、こんな所に……」

 周囲で膝を付き、あるいは身を起こした衛士達が、アスタロトと同じく愕然と呻く。

 アスタロト達が立つのは、暗いイスの謁見の間ではなく、膨大な重量を持つ海中でもない。

 天窓の丸い飾り硝子。それを通して陽光が降り注ぎ、鏡のような水盆を美しく染めている。

 水都バージェスの館の、広間だ。

 先ほどまでの戦場があたかも夢だったかのような平穏と静寂が、そこに満ちていた。

 西海の兵の姿は無く、ただ手にしている折れた剣やまだ血の流れる傷が、たった今までいた戦場が現実だったのだと示している。

 アスタロトは視線を彷徨わせ、ここにいる顔を茫然と数えた。

 ヴァン・グレッグ、セルファン、衛士達――重傷を負った者もいるが、生きている。

「……」

 まだ、頭が上手く働かない。

 アヴァロンがいない。




 王の姿も、無かった。









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