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第5章「落日」(17)

 どこか遠くで鐘の音が、重く分厚い響きを震わせ、十二回鳴った。

 床からの銀の光に浮かび上がる長い卓を挟み、王と海皇が向かい合っている。

 鐘の残響が、周囲に落ちる暗がりに薄く消えていく。

 始めよう、と一人が言い、

 始まりだ、と一人が言った。




 すぐ目の前の事でありながら、アスタロトにはそこがまるで、完全に隔てられた違う空間に感じられた。

 薄い光は王と海皇の胸の辺りまでしか届かず、辛うじて口元の表情が伺える程度で顔は見えない。

 ただ二人の座るその卓だけが世界と異質なものとして存在し、そこで語られる事は既に、アスタロトの関われる範疇を超えた、別世界の事柄だと思える。

 ここに実体、物質として存在するのは王と海皇の二人のみであり、アスタロト達は二人の思念が投げる影に過ぎないのではないか。

 思考が移ろえば、すぐに消えて無くなるだけの。

 自分の鼓動の音が耳に付く。

 アスタロトは自分の居る場所を確かめるように、じっと意識を凝らした。

 今、アスタロト達アレウス王国の衛士五十名は、王のやや後方に立ち、アヴァロンが一人、王のすぐ斜め後ろに付き従っている。西海の五十名の衛士も同じように距離を置き、海皇の後方に控えていた。

 ただ、海皇にはアヴァロンと同じ立ち位置の者がいない。アスタロトはその空白が気になった。

(西海では、近衛師団と似たような組織が三の戟だったはず)

 海皇の守護兵団である三の戟、それを率いる第二序列のレイモアが衛士達と共に控えているという事は、海皇の守護を担う立場の者はこの場にはいないのだろうか。

 三の鉾第一序列にいるのはナジャル――レオアリスがこの場から外れているように、ナジャルの能力が衛士五十名の範疇を超える、それが不在の理由なのかもしれない。

 流れる空気が肌に触れたのを感じ顔を向けると、王がやや身を動かしたところだった。

 それだけで世界が動いたように感じられる。

 始まるのだ。

 身動ぐ事も、声を出す事も憚られた。

 振り返る事はしなかったが、アスタロトの後ろに居並ぶヴァン・グレッグやセルファン達も、おそらく同じ感覚だっただろう。西海の衛士達も、息を潜め、強い緊張に神経を張り詰めている。

 レイモアでさえも。

(――)

 王は左手を上げ、肘置きに肘を付いて頬を預けた。

 黄金の瞳は恐らく、正面に座る存在を捉えている。

「五十年来――いや、先日一度思いがけず(まみ)えたが、まずは息災で何よりだ、海皇よ」

『そなたも何も変わらぬな。始まりの時より、少しも変わっておらん』

「本質はそう変わるまい。例えどれほどの時を経ても。言うなれば本質は、時を経れば経るほどに、削ぎ落とされ明らかになってくるもの。だが、そもそも(・・・・)我等は(・・・)変われぬ(・・・・)存在(・・)ではないか(・・・・・)

 只聞いているだけならば、他愛もない旧知の挨拶と変わらない。

 それがアスタロトの喉をひりつかせる。

 交わされる言葉に込められている真意を汲み取れるのは、王と海皇のみだ。

 何か一つ、間違えば、容易く崩れる積木を前にしているように感じられた。

「さて、再会を懐かしむのは目的を果たしてからとしよう。この場の差配はこれまで同様、招かれた国主が行うが、良いか」

『構わぬ』

 気付けば息を詰めている。

 自分が気負っても仕方ないのだと思っても、自然呼吸は細く、この場に残された空気を失うのを恐れているようだ。

 アスタロトは何とか、海皇の顔を覆う闇を透かし見ようと目を凝らした。

 海皇がどんな顔をしてるのか。その表情が見えれば少しは安心できるのだが、叶わない事が余計に不穏な想いを駆り立てる。

(灯りが欲しい――この広間全部照らす灯り)

 不安の所在を明らかにする光。

「アレウス王国と西海バルバドス、六度目の不可侵条約再締結――加えるべき条項があれば双方この場で申し立てる。まずはバルバドスに聞こう」

『加えるべきは何も無い』

 海皇が返す。

 アスタロトは海皇から、王へ瞳を移した。瞳だけのその動きでさえ、辺りを満たす身を削ぐような空気の為に緩慢だ。

「我がアレウスも同じく、この不可侵条約に申し立てる事は無い。では始めようか」

 王の言葉にそれぞれの衛士達が押し出すように息を吐く。

 王は緩やかに腕を伸ばし、卓の上に右手をかざした。

 掲げた手の下、艶やかな大理石の表面から四角く滲み出すように、光がゆっくりと浮かび上がる。

 形作られたのは白銀に輝く石の台座、そして――

 光を帯びた、古い羊皮紙。

 アスタロトは息を呑んだ。

(あれが)

 それは三百年前、大戦に終止符を打った、二国間の約定。

 不可侵条約を記した原典だ。

 原典は二本、互いに一本ずつ保管される。

(もう一つは)

 海皇もやはり卓の上に手をかざしたが、息を詰めたままアスタロトが視線を向けたそこに、一向に条約は現れない。

 アスタロトの後ろで、衛士達が身動ろぐ様子が空気を揺らすように伝わってくる。急速に何かが心を冷やした。

(海皇は? 何故出さない)

 アスタロトには海皇が、笑ったように見えた。

『アレウスよ』

 手をかざしたまま、海皇の言葉が広間にぞわりと滲む。

 卓を照らし出す床のあえかな光が揺らぐ。

『一つ問おう。そなたはこの三百年、何を思った』

(何故出さないんだ)

 アスタロトは自分の鼓動が高く、耳を聾し、広間中に響いていると思えた。

「問答か。そなたがそのようなものを好むとは知らなかったが」

『この深い海にあっては、日々思索に耽ることしかできぬのだ。この暗く光差さぬ奥津城(おくつき)にあってはな』

 奥津城という言葉に嘲笑が篭る。

 自らの城を奥津城――墓に喩えるその意図に迷いながら、けれど半面、先ほど、あの底知れない暗い水の中から浮かんで来たイスを見たアスタロトにも、理解できる気がした。

 果てなく思える広大な海。

 だが閉ざされた世界だ。

(――)

 ルシファーの姿が思い浮かぶ。

 風を司る彼女とは、ここは対極にある場所だっただろう。

(そうだ、ファーは)

 視線を巡らせたものの、垂れ込める闇の奥までは見通せない。

 アスタロトが独り、この場でルシファーと会うことになるだろうと、そう考えていたに過ぎないのかもしれなかった。

 今ここは、ルシファーの透明な印象と余りに掛け離れている事もあり、もしかしたらルシファーは西海に関わってすらいないのではないかと思える。

(私の思い過ごしで、ファーは何も)

『再会の語らいは後だと言ったが、そなたにとっても時間など、大した意味を持つまい』

 はっとしてアスタロトは前方の卓へ視線を戻した。

 何か、海皇の声がざらりと意識を撫でた気がした。

『決まり切った結果を急ぐより、しばし昔語りを交わすのも一興というものよ』

「昔語りを交わすほど、互いに懐かしむ関わりもなかろう。だが初めの問い――どう思ったと問うのならば、三百年保たれた平穏を喜ばしいと答えようか。この先もそれを保つ為に、私と、海皇よ、そなたが今ここにいるのだと」

 王の口調は淡々と変わらない。それを海皇がどう捉えたのか、アスタロトは対岸の椅子に目をやって、ぎくりと息を呑んだ。

 海皇の口の端が、弓なりに持ち上がる。

 それはまるで、貪欲な獣が血の滴りを前にして舌なめずりをする様を思わせた。

『喜ばしい? 貴様がか』

 一瞬、広間が揺れたように感じ、アスタロトは身構えた。

 だが揺れているのは広間ではない。肌に触れる空気――、それが揺れている。

 振動している。

 海皇が笑っているのだ。それは哄笑だった。

 高みから見下ろし、そこに蠢く者を嘲り(そし)る。

『これは愉快だ。貴様の口からよもや平穏を尊ぶ言葉を聞くとはなぁ……』

 哄笑が深まり、高波の如く押し寄せ、広間全体を圧する。

 笑っている、ただそれだけのはずが、アスタロトは全身を押し潰されるような恐怖を覚えた。

 海皇の意志が、精神を磨り潰す。

 両手が小刻みに震えている。

 止めようが無かった。

『随分と殊勝よな――貴様もかつては私と同じ、喰らう者であったろうに』

(ダメだ――、ここにいちゃ駄目だ)

 ここは。


 もう既に、海皇の胃袋の中だ。


(王)

『本質は変わらぬと、ほんの数瞬前にそう言ったのは、他ならぬ貴様ではないか』

 アスタロトは王の背へ手を伸ばそうとしたが、意思に反して腕は上がらず、開こうとした口は凍り付いたように喉さえ鳴らなかった。

『それとも変わったか――。否』

 王の後ろ姿が遠い。望みを込めてアヴァロンを見たが、その距離もまた遠く感じられた。

『時を経て本質は研ぎ澄まされるもの――全く同意よな』

 舐めるように告げる。

『貴様とて覇を欲しよう。己が欲望の為、地上の覇を欲したからこそ、奸計を練り地上と海とを別ったのであろうが。それとももう飽いたと言うのならば理解できるが』

 海皇の言葉のどこかに、アスタロトは何故かどきりと鼓動を踊らせた。

 何にだろう――妙に気になる。

(――)

 椅子に座る王の後ろ姿を見つめる。

 もしレオアリスか、スランザールがここにいたら、アスタロトがを引かれたそれに、もっと明確に気付いたかもしれない。

 ここ最近、漠然とだが王に感じてきたもの、その一面を海皇が言い表わした事に。

 それまで黙っていた王が、静かに言葉を返す。

 だがその響きは、海皇の獰猛さと同じ高さにある静謐だ。

「選んだのはそなた自身だ。荒れた大地より肥沃な世界をな。豊かだったではないか、バルバドスは――そなたが喰らい尽くさなければ。耕さず喰らえば荒れるのも道理」

『黙れ』

「どうしたい。今一度盟約を交わすか。()の古き盟約も、もう我等二人を解放するだろう」

(何の話――?)

 不可侵条約再締結ではないのか。

 何を話しているのか掴めないまま、強烈な不安が足元から全身を掴むように上がって来る。

「――王……陛下」

 ふいに、闇から声が湧いた。

『新たな盟約で、何を縛る』

 呑まれ縛られたまま卓を見つめていたアスタロトは、背筋を走った悪寒に身を震わせた。

 海皇が背負う闇の向こう――

(何か来る――)

『海皇よ、いつまで茶番を続けるつもりだ』

 アスタロトが視線を向けた先で、わだかまる闇が形を為すように、人影が進み出た。

 首筋の毛が逆立つという感覚は、これかと思う。

 人の形ではある。

 だが――

(何だ、あれ(・・)――)

 本能的、根源的に戦慄を抱かせる、塊――その、欠片、いや、

 一部を無理矢理そこに押し込めたような。

 海皇とはまた違う、絶対的捕食者の持つ容赦無い威圧を何食わぬ顔で纏っている。

 男だ。

 床の放つ光は腰から下しか照らさないが、背が高いのが見て取れた。踝まである長い上衣の裾が闇を流すように揺れる。

『待ち飽きた――』

 西海の衛士達が後退る。レイモアはその場に立ったまま、僅かに足幅を開き、男へ身体を向けた。抑えてはいるが、レイモアは気圧されている。

(――ナジャル……)

 自然と、その名が脳裏に浮かんだ。

 三の戟の第一序列、バルバドスの古き王――



 海を呑む者(ナジャル)



(あれが)

 レイモアと同じ三の戟――だが、あれは全く違う。

 確か、ナジャルは大海蛇の姿で知られると。

 はっとして、アスタロトはそれまでの怖れを忘れ、踏み出した。ナジャルがどのような姿で現われようと、問題はそこには無い。

「異議を申し立てる」

 海皇とナジャルの視線がおそらくアスタロトへ向けられ、アスタロトは身を縛り掛けた威圧を何とか振りほどいた。

 深紅の瞳が炎を灯したように鮮やかな光を宿す。

「三の戟ナジャル殿とお見受けするが」

『いかにも』

 呼吸の為に息を吸うだけで、足が勝手に退りそうになる。それを堪えるのに相当な気力が必要だった。

「単純に言おう。貴侯の列席は、衛士五十名の約定を超える」

 王は振り向かないが、アヴァロンの意識がアスタロトに向けられたのは感じ取れた。アヴァロンの上に発言を止める様子は伺えない。

 ナジャルはアスタロトの指摘に平然と頷いた。

『その通り。賢明なる娘よ。故に外で待っておったが、どうにも待ち飽きた。既に破綻しておろうに中々終わらぬのでな。いや、始まらぬ、か』

「何を――」

 まるで幼子に言い含めるようなゆったりとした口振りだ。気紛れに応じはしたが、アスタロトの存在は、ナジャルにとって何ら危惧を抱かせるものではないのだ。

 だがそれより、ナジャルの言葉が頭の奥で(せわ)しく瞬き、アスタロトは顔があるだろう闇をまじまじと見つめた。

 破綻。

 既に破綻している、と。

「……何の話か――」

 その言葉を打ち消し、アスタロトは声を押し出した。

「両国の不可侵条約再締結のこの儀において、(いたずら)な言葉を用いて掻き回すのは遠慮願おう」

『破綻しておると言ったろう』

「――っ」

 アスタロトは真紅の瞳を揺らし、ナジャルを見据えた。

「くどいぞ、ふざけるな」

「公!」

 アスタロトがナジャルへ詰め寄り兼ねないのを見て取り、ヴァン・グレッグとセルファンが口々に静止の言葉を挟み、ヴァン・グレッグはアスタロトの斜め前に立った。

「公、ご自重を」

 その瞬間、冷たい手が背中を撫で上げたような感覚がアスタロト達を捉えた。

『退がれ、ナジャル。今は貴様の出る幕ではない』

 鳩尾がぐっと縮む。

 海皇がナジャルに向けたものは、自らの守護を担う存在へのそれでは無かった。

 言うなれば同じ捕食者同士――、隙を見せれば頭ごと食い千切る無慈悲さと貪欲さだ。

『だが、貴様の言通り――』

 そしてそれ以上に――

 王へと、海皇が向けた意識は、ある絶対者が纏う嘲笑に満ちていた。

『もはや盟約は費える』

 絶対者。


 『死』が纏う嘲笑。


 広間の空気が身を揺すった。

 アスタロトは凍り付いたまま、海皇を見つめた。

 海皇の口元が愉悦に吊り上がっている。

『我が身をこの墓に縛る忌々しい鎖は、消えゆかんとしている――アレウスよ』

 再び、広間は海皇の、身を揺するような笑いに揺れていた。

『双方の血により結ばれた盟約は、双方の血により泡沫に帰す』

 突然、目の前が白一色に染まった。

 脳髄に突き刺さるように、目の奥に激しい明滅を感じアスタロトは咄嗟に両手で瞳を覆った。

「なん――何だこれっ」

 光――

 光が四方から膨れ上がっている。

 痛みを伴うほどの強烈な輝きに身動きが取れないまま、しかしやがてゆっくりと、光は収まり始めた。

 アスタロトは覆っていた手を下げ、それから、視界の戻った瞳を、大きく見開いた。

「――な、ん」

 続く言葉は初め見つからなかった。

 辛うじて意識が印象を形にする。

(――波)

 光を弾き乱反射しながら、十重二十重(とえはたえ)に卓を取り巻く、白刃と槍の穂先の、波。

「公、これは」

「まさか、こんな事が――」

 ヴァン・グレッグやセルファン愕然と呻く。

 近衛師団と正規軍およそ五十名の衛士達も咄嗟に剣の柄に手を掛ける事も忘れ、ただその光景を見回している。

 あり得ない――

 憤りや糾弾よりもまず、眩暈がした。

 一里に入る事を許されるのは、双方衛士五十名のみ。

 それが不可侵条約再締結の儀における、二国間の約定だ。

(何てことだ……)

『千年の終焉――さても愉快よなぁ』

 恍惚と愉悦が入り混じり笑う海皇の声が耳を打った。



 アスタロト達の周囲には、剣や槍を手にした数百もの兵が、謁見の間を埋め尽くし(ひし)めいていた。





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