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第5章「落日」(16)

 第二王妃シーリィアの忘れ形見。

 ファルシオンの兄だと――

 ヒースウッドは広間に響き渡る声で、はっきりとそう告げた。

 ルシファーが階下を見下ろし、くすりと笑う。

 イリヤは唇を引き結び、血の気の失せた顔で広間を埋める兵士達を見つめた。



 残響の消えた後の広間に満ちた沈黙を、初めに破ったのは擦れた呻きだった。

「第二王妃――?」

 沈黙の呪縛から解かれたように、兵士達は身を揺すり、互いに顔を見合わせた。誰の顔も不安と戸惑いが占め、納得している者は一人もいない。

「何の話だ」

「ファルシオン殿下の、何だって……?」

「中将は何を言ってるんだ?」

 今、壇上にいる、やや淡い銀の髪をした青年。

 その青年が、第二王妃シーリィアの忘れ形見で、自分達が掲げる王子だと。

 淡い銀の髪。

 右の、金色の瞳。

 どこかで見た印象――それは、このボードヴィルの大広間に掲げられた、肖像画の、銀の髪、黄金の双眸。

「――」

 再び沈黙が落ちかけた時、一人の兵士が重いものを持ち上げるように腕を上げ、イリヤへ指を突き付けた。

「う、嘘を言うな! ファルシオン殿下に、兄君がいるなんて聞いた事が無い!」

 ざわ、と千五百名もの頭が揺れる。

「第二王妃だって――? ふざけた事を、第二王妃は処刑されたんじゃないか!」

「そうだ……」

「その通りだ!」

「我々が掲げるのは王太子殿下だったはずです! ファルシオン殿下だからこそ、我々は」

「おい、何の話をしてるんだ」

「ヒースウッド中将、あんたは俺達を騙してたんですか!?」

「ファルシオン殿下じゃないなら話が違う」

「待て、一体何の事だ!」

 兵士達の間から、一斉に非難や詰問、混乱の声が湧き上がった。もともと声が反響しやすく造られてる広間が、誰が何を言っているのか聞き取れないほどの声で満ちる。

「違う! 落ち着いて、話を聞いてくれ!」

 ヒースウッドは必死に声を張り上げたが、押し合っていた兵士達の前方の列が崩れ、ヒースウッドの前にどっと押し寄せた。イリヤのいる壇の下まで兵士達が寄せ、ヴィルトールは素早くイリヤの前に立ち、左手をやや剣の柄に近付けた。

 ただ、今のところ兵士達がイリヤへ危害を加える様子はない。兵士達に壇上まで上がる素振りはなく、意識はヒースウッドへと向いている。

 しかし騒乱になるものを辛うじて押さえているのは、ヒースウッドが彼等の上官であるという、意識に染み込んだ規律だけだ。このまま行けば程もなく弾けるのは、火を見るよりも明らかだった。

「殿下、これ以上ここにいるのは危険です。一旦この場を出ましょう」

 小さくそう告げて、ヴィルトールはイリヤをこの場から退かせようと扉を探した。

 入ってきた扉は兵士達の中を通り抜けなければ出られない。一番近いのは、左右のどちらか。

「右か――」

「ヴィルトール中将」

 イリヤはヴィルトールの肩に手を掛けた。振り仰いだヴィルトールの眼に、イリヤの思い詰めた面持ちが映る。

「俺に、話をさせてください」

「殿下、しかしこの状況は」

 ヴィルトールの言葉を遮るように首を振り、イリヤはヴィルトールの灰色の瞳を見据えた。

「好機なんです。ボードヴィルをルシファーの手から取り戻せる」

 ヴィルトールはごく僅かイリヤの瞳を見返していたが、広間へ視線を走らせ、息を吐いた。

「――判りました。しかし私が危険と判断したらこの場を退きます、よろしいですね?」

 イリヤは頷き、前を向いた。

 これ以上騒ぎが続けば暴動になる。それはイリヤにも想像がつく。

 そうなる前に収め、話を聞いてもらわなければ。

 そしてヴィルトールも今朝目を覚ましたばかりだ。まだ本来の体調へも戻っていない状態で、騒動の中で自分を守らせるような事態にはしたくなかった。

 だが、いざ話をしようと向き合ったものの、兵士達は興奮し、意識はヒースウッドに集中している。声を発するきっかけが掴めず、イリヤは焦りを覚えた。

(早く話をしないと――)

「聞いて……聞いてくれ」

 声を張ったものの、喧騒にあっという間に掻き消されてしまう。

「話を」

 視線の先でヒースウッドが、一歩、後退った。兵士達の塊が前へと押し出てくる。

(まずい)

 弾ける。

 その時ヴィルトールが、イリヤと兵士達の中間へ、数段を降りた。

 剣の柄に手をかける。

「中将? 駄目だ」

 ぎくりとしてヴィルトールの肩に手を伸ばした時、ヴィルトールは剣を鞘から半ばまで引き、それを再び勢い良く鞘の中に落とした。

 鞘の内側を刄が走り、鍔が打ち合う高い金属音が響く。

 余韻を追い、ヴィルトールは一喝した。

「――静まれ!」

 鋭く発せられた声が天井と壁に反響しながら、口々に言い募っていた兵士達の間を裂き走る。

 兵士達が雷に打たれたように顔を上げる。

 イリヤの前に立ちはだかるヴィルトールに気付き、その姿に気圧され、広間は一瞬にしてしんと静まり返った。

 目の前の将校が、確かに国王の守護たる近衛師団であり、隊士等を律する中将なのだと改めて認識した顔だ。軍の規律に慣れた兵士達にとって、それは何より受け入れやすいものでもあった。

 ヒースウッドを取り囲もうとしていた兵士達は、落ち着きを取り戻してヴィルトールと、壇上のイリヤへと向き直った。

(――今だ)

 イリヤは急激に早鐘を打ち始めた鼓動を、懸命に宥めた。

 ヴィルトールが作ってくれた機会だ。

 これを逃したら、このボードヴィルの兵士達と向き合って話をする事は、恐らくできなくなる。

 息を吐き、吸う。

「聞いてください――」

 胃に力を込めて、声を張り上げる。

「俺は、ヒースウッド中将の言うように、確かに王家に連なる者ではあります。しかし、決して」

「ミオスティリヤ殿下――」

 柔らかく澄んだ声が落ち、イリヤは舌を凍り付かせた。

「そのような御言葉遣いは、王の後継者たる御方に相応しくはございません」

 額に滲んだ汗が、こめかみを伝う。

 ルシファーがふわりと、薄い絹を靡かせてヴィルトールの隣に降り立った。

「見事に騒ぎを抑えたわね、ヴィルトール中将。さすがは近衛師団第一大隊の右軍を預かるだけはあるわ」

「――」

 ルシファーの手がヴィルトールの背に当てられる。その何気ない仕草が示す意味にイリヤは息を呑んだ。

 静まり返っていた兵士達は、ルシファーの突然の出現に驚き、意識はイリヤから逸れルシファーへと集中した。

「西方公だ」

「ルシファー様」

「さ、西方公? どうしてここに」

 兵士達の間に、再びくっきりとした意識の違いが現れる。

 ルシファーは嫣然と微笑んで彼等へと向き直った。

「今日――たった今、古の海バルバドスとの三百年目の不可侵条約再締結の儀が行われている――」

 ルシファーが語り始めると、騒めきは潮が引くように消えていった。

「この時のために、私は王国を出て、備えてきた。ヒースウッドや、ここにいる近衛師団第一大隊中将ヴィルトールと」

 ルシファーは風に揺れる花のような柔らかさで、前を向いたまま一段、階段を上った。ヴィルトールがちらりとルシファーに視線を流す。

もう一段――、ルシファーとイリヤの距離が縮まる。

「ミオスティリヤ殿下と――」

 零れ落ちた響きが兵士達の耳に落ちる。

「殿下――」

「しかし、……そんな」

「ミオスティリヤ殿下は確かに、シーリイア妃殿下の忘れ形見よ。陛下は十九年前、身ごもっておられたシーリイア妃殿下のお命をお(ゆる)しになり、お二人を密かに生かされた。けれど今は、その事を貴方達に充分に語って聞かせる時間は無いわ」

 ルシファーは深い暁の瞳を、兵士達の上へ向けた。

「もうすぐにでも、西海は動き出すでしょう」

 静まり返っていた兵士達の頭がざわりと揺れる。

「西海?」

「西海が、何を」

「侵略よ」

 するりと放たれた言葉は、兵士達の息を奪った。

(違う――)

 イリヤは唇を噛みしめた。

「今陛下は、衛士五十名という約定に縛られた状態で、西海の皇都イスにおられる。――何故」

 石造りの広間には、ルシファーの言葉だけが流れている。

「今回に限って、不可侵条約再締結の場が皇都イスだったのか。何故」

 大気が質量を持って身を縛るようだ。呼吸が難しい。

 ルシファーの言葉だけが、ただ唯一、肺に供給される。

「西海は、近衛師団第一大隊大将を、衛士五十名から外せと言ったのか――」

 重い水を分けるように、兵士達が首を動かして互いを見る。

「し――しかし、だからこそ炎帝公が、お傍に」

「アスタロトの炎は、海中では無意味よ」

「――」

「そんな、まさか」

 ゆっくりとその場の空気が形成されていく。

 イリヤはもどかしく、ルシファーが紡ぐ呪縛の過程を見ていた。

「不可侵条約はもう結ばれない。西海は陛下の御身を捕えるつもりでいる。大戦から三百年――海皇は、地上への復権を果たそうとするでしょう」

(まだだ――、まだ壊せる)

 肺を圧迫する重苦しい空気の中で、イリヤは浅い呼吸を繰り返した。

(俺という存在が、この仕掛けの一番の弱点だ)

「このボードヴィルは最前線になる。貴方達正規軍は、何の準備も心構えもなく、唐突に西海の侵攻の前に曝される可能性もあった」

 兵士達の身体が揺れ、微かな潮騒のような騒めきが広間全体に広がっていく。

「幸い、ミオスティリヤ殿下は西海の意図に気付かれた。王籍を離れ、公式に動く事の叶わない殿下は、私と、近衛師団第一大隊の大将を頼ってこられた」

 兵士達の目がイリヤに向けられる。

 まだ半信半疑――、だが、傾きかけている。

 イリヤはぐっと拳を握り込んだ。

(俺の存在が認められなければ、ルシファーの目論見は成功しない)

「そして、ファルシオン殿下を」

「――っ」

 ルシファーの背中を睨む。手を伸ばせば、その肩に届く。

「あなた方はこの有事に当たって、ミオスティリヤ殿下を護る兵となる必要がある。けれど、いきなりこの方がファルシオン殿下の兄君だと告げたところで、納得するのは難しいでしょう」

 手を伸ばせば。

 くるりと振り返り、ルシファーはイリヤの手を掴んだ。

「!」

 ルシファーの唇が笑みを刻む。

「だから、見せてあげるわ――」

 ルシファーの掴んだイリヤの手が、輝き始めた。






 シメノス大河がすぐ足元を流れる。シメノスの河岸から、崖壁にへばりつくようにして、細い階段が岸壁の頂上を目指して続いている。

 今そこを、麻布の外套で頭から全身を覆った男達が、音を潜めて登っていた。古びた麻布の色が岸壁と同化している。

 足場は人一人分の幅程度しかなく、岸壁を削り出して造られた石段は、もし足を滑らせて落ちれば岩場に全身を叩きつけるか、シメノスに流される事になる。この辺りは流れも早く川底は岩が転がり、シメノスに落ちれば結局、流れに命を落とすだろう。

 その危険な道を敢えて進む十名の男達は、正規軍の兵士だった。麻の外套の下に時折革鎧が覗く。

 一里の控えから急ぎ戻った、ワッツの揮下だ。

 ワッツの指示でボードヴィルへ向かった彼等は、見晴らしのいいサランセラム丘陵を避け、森からシメノス沿いに抜けてこの階段を登っていた。

 列の中程にいた兵士が身を乗り出し、頭上を振り仰ぐ。太陽の影になり黒々とした岸壁と、そこから僅かにボードヴィルの城壁が覗く。大分登ってきて、もうあと直線で十間ほどだ。

 城壁の上に設けられた狭間から、兵士が二名、立っているのが見えた。

 兵士は後ろへ手を延べ、続く仲間達を止めた。兵士達が歩みを止める。先頭の兵士がゆっくりと再び顔を覗かせる。

「――普段より配置が多い。狭間に見えるだけで二人、塔の中にも二人はいる」

「警戒体制だな。やはりワッツ中将の言った事は正しかったのか」

 平常時なら見張りは城壁の角に設けられた塔に一人、城壁の上を通る回廊には、互いの姿を視認できる間隔で一人、立つ程度だ。

 条約再締結の儀が行われているからとも考えられるが、それにしては物々しい空気がある。

 ワッツが彼等を呼び、ボードヴィルへ至急戻って偵察しろと指示した時、ワッツの指示した理由を彼等はほとんど信じていなかった。

 だが、今はワッツの言葉は真実味を帯びて響いてきた。

「中軍は――ヒースウッド中将は、本当に裏切っているのかもしれん」

「どうしますか、スクード少将。これ以上進めむと死角が無くなります」

 先頭の兵士は振り返り、指揮官の判断を求めた。スクードはちらりと上を見て、眉をしかめる。

「まずはボードヴィルが警戒体制を取ってる事を本隊に報せよう。伝令使を飛ばせ」

 ワッツが今回組んだのは一個小隊、およそ百名だった。彼等十名の他は下流の森に伏せている。

「は」

 隊の後方にいた伝令兵がすぐさま頷いたが、伝令使を呼び出そうとしても一向に姿を現わさず、何度目かに首を傾げた。

「どうした?」

「伝令使が、呼べないようです」

「呼べない? どういう事だ」

 伝令兵が頭を伏せる。

「申し訳ありませんっ。今朝の確認では、何の問題も」

 スクードは嫌な感覚が呼び起こされ、しばし沈黙した。何かが確実に、起こっている。

 それは確かなようだった。

「――仕方ない、ダンリー、オーリ、悪いが本隊に戻れ。そこからもう一度試すんだ。それでも埒が明かなけりゃ、時間が掛かるが一里の控えに馬を飛ばして、ワッツ中将の指示を仰ぐ」

「は」

 一番後ろにいたオーリと伝令兵のダンリーが頷き、狭い階段を降り始める。スクードは彼等の後ろ姿を束の間見送り、再び顔を戻した。

「俺達は暫くここで待機だ。指示次第じゃ砦に潜入する事になる、今のところは身体を休めておけ」

 そう言うと彼等は慎重に腰を下ろし、僅かに窪んだ岩に背を預けた。





 イリヤの手から輝きだした金色の光が、丸い円となって広がり、彼の背後へと延びる。

 驚きに見守る兵士達の前で、石造りの壁に至り――

 その壁を、光で満たした。

 イリヤは眩しさに腕を上げ、目を覆った。

「何をする……」

「ほうら、見て」

 ルシファーが背後で囁く。

 声は柔らかく頬を撫ぜる風のように耳に届く。

あなた方は(・・・・・)繋がっている――」

 階段を登ろうとしたヴィルトールの足が、途中で縫いとめられたかのように止まる。

 光の奥に、何かの形が浮かぶ。

 それは見る間に形を取った。

 そこに別の空間があるかのようだ。

 円柱の立ち並ぶ、広間。床に敷かれた深緑の絨毯を辿った先に、大理石の階段が続いている。

 その上に置かれた、椅子――玉座。

 そこに、幼い少年が座っている。

「……ファルシオン……」

 イリヤは、震える唇で呟いた。

 ファルシオンが瞳を上げた。





 正規軍法術士団中将ボルドーは、目の前の小柄な人物とその手が為す業を、感嘆の思いで見つめていた。

 繊細で緻密な、それでいて強固かつ堅牢、膨大な力を凝縮したそれが、ボルドーの見つめる前で次第に組み上がっていく。

 ルシファーの結界ごとボードヴィルを覆うための、二重結界。

(見事だ――さすがは法術院長)

 こうして傍らで見ているだけで、背中に冷たい汗が吹き出してくる。

 施術に入って既に三刻近く、片時も途切れず詠唱を続けているアルジマールの精神力にも舌を巻くばかりだが、更に驚嘆すべきは、アルジマールが何も暗記していない(・・・・・・・)事にだった。

(今、この場で、術式を生み出し、組み上げているのだ)

 ボルドーはアルジマールの足元に敷かれた法陣から視線を引き離し、壁際の置き時計の針を確認して扉へ顔を向けた。ボルドーの部下である法術士団のブロンが扉の前に立っている。

 今は十二刻を僅かに過ぎている。西海の皇都イスでは、アレウス王国と西海バルバドスとの間で、不可侵条約再締結の儀が始まったところか――

「おそらくあと四半刻かからず完成する。王太子殿下へご報告しろ」

 ブロンは頷いて廊下に出た。ボルドーは部屋の右奥へ、足を向けた。無造作に置かれた木箱に男が腰掛け、壁に背を預けて目を閉じている。

 ボルドーは靴先で、木箱の下をゴツンと叩いた。

「起きろ、クライフ中将。充分怒りは蓄えただろう」

 呼ばれてクライフは眼を開けた。

「怒りなんてねぇよ」

 そう返し、箱から降りて背を反らし、右肩を回す。「まだ無事な奴等全部回収する。補助よろしく頼むぜ、ボルドー中将」

「出来る限りはな」

 ボルドーの淡々とした口調にクライフは片頬をしかめ、それからアルジマールへと改めて目を向けた。

「院長のアレは、ルシファーを抑え込めんのか? 現場が見えねぇからイマイチ実感が湧かねぇんだけど」

「可能だろう」

 ボルドーは言い切り、クライフを見ないまま告げた。

「貴殿の大将がルシファーを抑えられるのかと問うようなものだ」

「あー、なるほどね」

 今度は反対の肩を回し、クライフは床に描かれた法陣の淵に立った。

「納得だ。じゃ早いとこ行こうぜ。上将が来たらすぐ飛べるのか?」

「その予定だ。私がルシファーの結界の前まで転位を使う。その後アルジマール院長が閉じる――転位先では状況次第で取るべき道は幾通りにも変化する。万が一も覚悟してもらうぞ」

「もうできてるよ」

 クライフは床の上で光る法陣の複雑な線を、そこに敵の名前が印されているかのように睨んだままそう言った。

 ちょうどその時、アルジマールの詠唱が止まった。

 その沈黙がやけに大きく感じられ、クライフは視線を上げた。

「終わったんすか?」

 クライフは組んでいた腕を解き、法陣の中央に立つアルジマールを見た。ボルドーも法陣の縁に立つ。

「院長」

 アルジマールは顔を上げ、(かず)きの奥に隠された瞳を、二人を通り越し壁へ向けた。

 虹色の輝きが、被きの下で揺らぐ。

 その光がクライフの背筋を撫ぜた。

「院長?」

 アルジマールの唇から、微かな声が漏れた。

「――何をやってる……ルシファー」

 アルジマールの呟きを掴み取ったのは、足元から光が立ち上がった時だった。





「失礼致します」

 謁見の間に入ってきた正規軍法術士団員ブロンは、ファルシオンが座る玉座へ跪き顔を伏せた。

「ファルシオン殿下、法術士団中将ボルドーよりお伝え申し上げます。もうすぐアルジマール院長による二重結界が完成いたします。近衛師団第一大隊大将におかれては、ご準備をなされたいと」

「わかった――レオアリス」

 ファルシオンは頷いて、傍らに立つレオアリスへ視線を向けた。

 レオアリスは一礼し、それまで下に控えていたトゥレスが上がって来るのを待つ為に、ファルシオンの玉座の斜め後方へ場所を移した。

 そのまま視線を落とし、レオアリスは自分の両手を見つめた。

 これで動ける――と、その想いが胸の奥から湧き起こる。

 どれだけの間、もどかしさを抱え込んでいただろう。

(動ける――)

 漸くだ。

 遥かボードヴィルへと想いを巡らせかけた時、ふと、足元に落ちた玉座の影が濃くなっている事に気付き、レオアリスは顔を上げた。

 振り返る瞳に光が差す。

「何だ」

 ファルシオンの玉座の前方に、光が溜まっていた。

 窓から落ちた陽光かと思ったが、違う。

「殿下!」

 レオアリスが身を返すと同時に、光は広がり、ファルシオンの前まで満ちた。

 その光の中に、誰かの影が浮かぶ。

 レオアリスは瞳を見開き、息を呑んだ。

(イリヤ――! 何だ、これは)

 イリヤは驚いた顔をして立っていた。その後ろに、ヴィルトールの姿がある。

(ヴィルトール!)

 ぞわりと、背中を言い様のない悪寒が伝った。

(これは――あれはどこだ)

 二人の背後の空間と、そこに居並ぶ兵士達の姿。濃紺の軍服――正規兵だ。

 一様に驚き、呑まれたその表情が明瞭に見えた。

「あにうえ……」

 傍らで小さな呟きが零れる。

(まずい、これは)

 漠然と、だがレオアリスは状況を直感的に理解した。

 恐れていた事だ。イリヤの血を媒介に、ルシファーがこの王城の結界を擦り抜け、ファルシオンの前に現れる事――だがこれは、想定通りではない。

 これほど堂々と、空間を繋ぐとは。

「兄上!」

「殿下」

 咄嗟に止める言葉が間に合わず、ファルシオンは顔を輝かせ、(まろ)ぶように玉座を降りた。両手をイリヤへと伸ばす。

 レオアリスは腕を伸ばし、その身体を抱えた。

「いけない、殿下――」

 不意に。

 大気が揺れた。

「何だ」

 レオアリスはファルシオンを庇って立ち、視線を走らせた。

 イリヤの姿が揺れる。

 あたかも実体のように目の前に広がっていた空間が、すうっと四散した。





 イリヤの前にファルシオンの姿がある。

 ファルシオンはイリヤを認め、その大きな瞳を喜びに輝かせた。

 「兄上」と――

「……だめだ、ファルシオン」

 イリヤは瞳を見開いたまま、首を振った。

 ファルシオンが玉座を降りて、イリヤへと両手を伸ばす。

「兄上!」

 レオアリスがファルシオンを抱えるのが見えた。

 背後の兵士達が驚き、騒めくのが判る。

「ファルシオン殿下だ」

「殿下が、兄上と……」

 イリヤはルシファーの意図をはっきりと理解した。

「っ」

 膨れ上がった怒りと共にルシファーを振り返ったイリヤは、すぐ背後にいたルシファーの瞳が驚きに見開かれたのを見た。

 何に、と思う間もなく、どん、と地響きのような音を立てて建物全体が揺れ、広間を満たしていた輝きが消える。

 イリヤの視線の先で、ルシファーが唇を噛みしめた。押し出した呟きが漏れる。

「――アルジマール……!」

 視線を戻した時、ファルシオンのいた空間は消え、ただの石の壁に戻っていた。





 法陣が輝き、光の柱を立ち上げた。

 クライフの目にも、術が発動したのが判る。アルジマールが法陣の中心に手をかざし、その手が法陣から昇る光に透けるほど輝いていた。

「院長――」

 踏み込みかけて法陣円を割るのを避け、たたらを踏む。

「院長、まだ上将が! ――っつうか俺達がまだここにいるってのに、何で結界を」

「問題ない、一ヶ所開けてる――ルシファーが今やった事の方が問題だ」

 クライフとボルドーが顔を見合わせる。

「ルシファーが? 一体、今何が」

 アルジマールの隠された瞳が、灰色の被きの下で揺らいだ。

「王城と空間を繋げたんだよ」

「王城と? それは、どういう」

「詳しい説明は後だ。早く、大将殿を呼んでくれるかい。向こうもごたついてるだろうけど、あんまり時間は無い。ルシファーはもう僕の結界に気付いたはずだ」

 クライフはまだ問いたくて開きかけた口をそのままに、踵を返して廊下へと駈け出した。





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