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第5章「落日」(15)

 レオアリスは自分に向けられているだろうロットバルトの視線を、敢えて意識した。もし事前に話す機会があったとしたら、ロットバルトはレオアリスに自重を求めただろう。

(心配いらない……って、頭で思うだけじゃ無理か)

 この段階でトゥレスとの会話を避けるべきだと、そう考えるのは当然だ。

 ただ、真偽を確かめる猶予は無いままに、状況だけが否応なしに動いていくのなら、今できる事は限られている。

 何より大切なのはファルシオンの身――その守護の任を果たす事をまず考える。

 レオアリスはファルシオンの黄金の瞳と、それに重なるもう一つの瞳を思い浮べ、それから自らの奥にある剣を意識した。




 トゥレスはレオアリスの後ろ姿を眺め、ややゆっくりと歩みを進めた。前を行くレオアリスの姿が、高い場所にある飾り硝子の窓から落ちる白い陽光と時折交差する。

 玉座に座るファルシオンやスランザール、階下に立つロットバルトの視線が、恐らく自分達二人に向けられているだろう。

 会話は届かなくても、所作や表情である程度の情報は伝わる。

(さて、どうするかな)

 ロットバルトは大筋、トゥレスの――、ヘルムフリートの意図に気付いている。問題は、それをどこまでレオアリスに伝えたか。

(信頼を得てる自信はある。がまあ、当然奴ほどじゃあ無いたろうしなぁ)

 レオアリスがどこまで、信じたか――。

 スランザールがトゥレスにファルシオンの守護を命じたという事は、トゥレスへの疑念を公式に発言するには、まだ確証が無い段階だと考えられる。

(だが殿下を俺に託す事に、不安と懸念を抱いている――と言ったところか)

 レオアリスが敢えて今口にするとしたら、トゥレスの行動を制限する為の事前勧告だろう。

 レオアリスは足を止め、謁見の間を支える円柱を背に、トゥレスを振り返った。

 トゥレスも、レオアリスと人二人分ほどの距離を取って立った。

「ここでいいのか? それほど場所が変わった訳でもないが」

「問題無い」

 レオアリスの視線をなぞるように、トゥレスは自分の肩口から後方を眺めた。この場所からはファルシオンの様子も常に視界に収める事ができ、何より自分達の状況もファルシオン達から見える。

 その上で、距離や壁では隔たれていないものの、声を落とせば届かない位置だ。

「真面目だな」

 そう言って笑ったが、レオアリスは真剣な表情のまま、トゥレスへ視線を据えた。

 揺るぎない、こういう眼差しを正面から受ける事に、自分は慣れていない、と思った。

「それで、改まって俺に話ってのは何だ」

 やや身体を斜めに立つトゥレスに対して、レオアリスは柱を背に真っ直ぐ立っている。

 沈黙は僅かな間でしかなかった。

「一つ問いたい。王家を――ファルシオン殿下をお護りするのは俺達近衛師団の本分であり、使命だ。そうだな」

「ああ、異論は無い」

 トゥレスは腕を組み、首を傾けて先を促した。

(やはり、警戒されてるか――)

 自分の中に一抹の落胆があるのを見付け、トゥレスは苦笑した。

(無意味だな)

「正直俺は、迷いを消し切れてない。ルシファーを抑えるのは急務だと判ってる。だが、陛下がご不在の今、ファルシオン殿下のお側を離れていいのか」

 言葉同様の迷いを示すように、レオアリスの視線は束の間足元の白い大理石の上に一旦落ちた。

 ただ、それはほんの僅かな時間でしかなく、レオアリスはぐいと顎を上げ、トゥレスへ、真っ直ぐに眼差しを向けた。

 漆黒の、翳りの無い眼差しがトゥレスの瞳を捉え、固定する。

「だが、トゥレス、お前がいる。だからこの選択に問題は無いだろう」

「――」

 トゥレスは視線を動かせず、レオアリスの瞳の中にある光をじっと見つめた。

「ファルシオン殿下の守護、お前に任せていいか」

 目の前の、まだ年若い顔。

 そう、若い。

 微かな笑いが胸の奥に込み上げた。

(そう来るか……そう来るとはな)

 トゥレスの動きを牽制する為の多少の駆け引きはあるだろうと思っていたが、それを一足飛びに、信頼する、と言って寄越すとはさすがに予想していなかった。

(駆け引きとしては拙速だが)

 いや、駆け引きなどでは無く、レオアリスの本心だろう。

 初めから、駆け引きをしようなどとは考えていないのだ。

 ロットバルトから何の報告も受けていないからでは無いだろう。トゥレスの行動や思惑について、どう捉えるべきか、迷いはあるはずだ。

 その上で、近衛師団大将として、ファルシオンを当然に護る。

 その意志と目的と、誇りを、互いに共有している事に、確信を持っている。

 そこだけを純粋にトゥレスに託すと告げる事で、トゥレスにも応えろと求めている。

(――ああ)

 異論は――、無い。

 確かにそれは、トゥレス自身の中にも核としてある意志だ。

 近衛師団を志した時にもあり、御前試合を制して王の前に立った時にもあった、誇り。

 この国の王と王家を、自分達が護るという自負だ。

(俺も持っていたもの、か)

 トゥレスはしばらく、黙ってレオアリスの眼差しを受け止めていたが、ややあって組んでいた腕を解いた。

「当然だ――安心しろ。お前がボードヴィルから戻るまでの間、ファルシオン殿下を守護する役割は、俺が確実に担う」

 レオアリスの視線は変わらない。トゥレスがレオアリスの言葉を容れた事に、安堵する訳でも無い。

 ただ変わらない眼差しだ。

 トゥレスは再び、内心で微かな苦笑を覚えた。

「ルシファーを止められるのは、今はお前位だろう。お前はお前の役割を果たす事に集中すればいい」

「頼む」

 短くそう告げ、レオアリスはトゥレスの肩越しに目礼を向けた。ファルシオンの意識が自分達に向けられているのだろう。

「悪かったな、時間を取らせて。それが言いたかったんだ」

 レオアリスが戻ろうと歩きかけた時、トゥレスは腕を上げ、レオアリスの後ろにある柱に右手をついた。前方を遮られてレオアリスは足を止めた。

 戸惑いがレオアリスの瞳に過る。

 トゥレスは、恐らく自分自身の上にも戸惑いがあるのだろうと思った。

 いや、レオアリスのそれは自分の戸惑いを映したのかもしれない。

(さて、今更何を言うか――)

 この件に付いては、トゥレスはもう方向を決めた。

 ただ、そう――、燻るものがある。

(何だ? 些細な抵抗心か――?)

「まあ、これは単に俺の老婆心だが――レオアリス」

 レオアリスの思考を拾おうとするように、やや覗き込むような姿勢で、トゥレスはレオアリスと顔を正面で突き合わせた。

「世の中清廉な人間ばかりじゃない」

「――」

「信じる事が悪いとまでは言わない。そいつは向けられる方も誇らしいものだが、時には抱えきれん。俺はお前のそういう処が時々心配だよ」

「どういう」

 トゥレスは右手を浮かせ、そのままレオアリスの肩を叩いた。

「まぁ気にするな、念の為だ。単に俺がお前よりは歳食ってるって事さ。素直な心ってのはどうしても、歳を重ねると擦り切れてくるしなぁ」

「トゥレス、俺が気に障る事を言ったなら謝るが、ふざけてる訳じゃない」

「俺だって真剣だぜ。安心しろと言ったろう――そいつを信じろ」

 手を放して踵を返し、歩き出す前にロットバルトをちらりと見て、トゥレスは笑みを浮かべた。






 西海の皇都イスは、どこもかしこも、王都アル・ディ・シウムと同じ造りに見えた。

 そしてどこもかしこも、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。

 海水が隔てる為か、この街そのものに生命の気配が無い為か、物音一つ伝わってこない。

 温度も少し、下がった。

 街門からの大通りを進む間、途中途中にある細い路地の奥にも、人の姿は一つも見当たらず、初めから無人だったように感じられる。

 レイモアは一里以内から人を遠ざけていると言い、確かにそうなのだろう。

 それでも、三百年間住む者のないあのバージェスの街でさえ、これほどの無機質さは無かった。

 まるで、そう、がらんどう(・・・・・)のような感覚。

 この息を潜めるほどの静寂は、気持ちが落ち着かない。

 アスタロトは左右に立ち並ぶ住居に目を向けた。

 閉ざされたままの窓、下ろされた日除け布、鎧戸。花も飾られない窓際と、煙の無い煙突。

 ふっと、アスタロトの脳裏に、一つの光景を浮かんだ。

 無言の丘に広がる、墓標の群れ。

 ぎゅっと唇を引き結ぶ。

(そんなふうに考えるな)

 自分で自分を不安に落とし込んでしまっている。

 先ほどから鳩尾の辺りが重く、呼吸をする度に得体の知れない手で胃を掴まれるような息苦しさを覚えていた。

 自分が、何かを怖れているのを、アスタロトは自覚していた。

 それがアスタロトの不安を煽っている。

 それ(・・)――

 右手を握り込む。

 この先に蹲るもの。

 底の無い闇の塊のような――

 呼吸が荒い。

 肩が揺れる。

(判ってる。海皇だ……判ってる)

 この街に入ってから、アスタロトはずっと呼吸を抑えていた。ねっとりと絡み付くような、深く、濃い水を感じる。

 息を整え、揺らぐ炎、自らが信頼を置く緋色の炎を頭に思い浮かべる。

 だがそれは、いつになく曖昧だった。ここが海中である事が、原因の一つかもしれない。

(海中だからか――こんなんじゃ私、何かあった時役に立つのか?)

 そう思ってから初めて、アスタロトはギクリと息を呑んだ。

 海の中で、自分の炎はどこまで有効なのだろう?

 今までその事を考えていなかった。

 地上にいたからだ。この深い海中に思いも至らなかった。

(本当に、私が来るべきだったのか――?)

『お前には、西海は不利だ』

 ふいに、朝のレオアリスの言葉が鮮明に響いた。

(レオアリス)

 あの時、レオアリスは迷う表情をしていた。ここではアスタロトの炎が力を持たないのではないかと、レオアリスは気付いていて、アスタロトに忠告していた。

(そうだ――)

 けれどアスタロトは、自分の想いばかりで、その言葉を正面から受け取らなかった。

 罪悪感に鼓動が跳ねる。

 もし、何か問題が起こったら?

 アスタロトはこの任務を与えられた時から、あらゆる可能性を考えなければいけなかったのだ。王を護る為に。

 後ろを歩く王へ意識を向ける。それはアスタロトの鼓動を少し、和らげる事でもあった。

 王は、アスタロトの抱える不利には気づいていなかっただろうか。

(まさか)

 そうは思えない。王だけがこの中で唯一、かつて西海を訪れている。

(――だから(・・・)私を選んだのか)

 あくまでも、今回の儀式が不可侵条約再締結を行なう事が目的であり、アスタロトを伴ったのも、五十名の衛士を形式的に整えたに過ぎないと明示する、その一つとして。

 西海の言を容れ、レオアリスを伴わなかったのと同様に。

 戦闘能力だけを見れば、レオアリスの能力が衛士五十名という約定を超えるものであるのと同様に、炎帝公と呼ばれるアスタロトの能力も、五十名の範疇を超える。

 西海が異を唱えなかったのは、こと西海に於いては、アスタロトの能力は脅威にはなり得ないと判っていたからだったのか。

(王は、初めからそのつもりだったんだ)

 アスタロトを帯同したのは、諸侯の不満を散らす為だ。

 この儀式は、不可侵条約を再締結する為に、両国間で三百年間続いて来た、決まり事をまた繰り返しているに過ぎない。

 それが王の意思だ。

 何事もなく、この先も、今まで通りの関係を続ける。

(――炎を使う事態なんて考えるべきじゃない。例え西海に何かの意図があったとしても、私達は六度目の繰り返しで終わらせるんだ)

 そう思ってみても鼓動は早く、自分が納得していないのは明らかだった。

 王を振り返り、その意思を確認したかったが、やめた。

 レイモアに自分の不安を悟られる気がしたのだ。

 振り返る代わりにアスタロトは顎を持ち上げ、再び両手を握り締めた。

 やがて見覚えのある城門に至り、レイモアは足を止めた。

 見覚えがあるというのは正しくはない。

 だが、城門もまたアル・ディ・シウムの王城のものと瓜二つで、今自分達がどこにいるのか頭が混乱しそうだった。

 先導するレイモアが進んで行く前庭、広間、階段、廊下――景色に幻惑されるようだ。

(何故だろう)

 どんな経緯があって、二つの都は同じ姿をしているのか。

 そしてこれほどに、二つの都は違うのか。

 アスタロトは不可侵条約以前の古い盟約について知らなかった。それはアスタロトに限った事ではない。

 大戦以前の文献はほとんど失われ、王立文書宮の奥に僅かに残されるのみとなり、千年の昔語りは絶えている。

 ただ、アレウス国と西海、二つの国にはアスタロトが考える以上の因縁があるのだと、それだけは判る。

 レイモアは階段を上がり五階まで王とその一行を導くと、高い扉の前で再び足を止めた。

(謁見の間だ)

 一目でそうと判る。

 ただ、ここだけは明確に、王都と異なるところがあった。

 両の扉に掘り込まれた意匠が違う。扉を飾るのは、古の海バルバドスを表すような異形の海洋生物や、西海の兵団の姿だ。

 それが殊更、この向こうに海皇がいるのだと示していた。

 今、海皇の存在が、あたかも目の前にいるかのように感じられる。

 収まりかけていた鼓動が止めどなく早くなっていく。

 鼓動に合わせて肩が揺れる。

 視界が揺らぐ。

 目が回りそうだ。

(気持ち、悪い)


 怖い。


 ふと、誰かが、横に立つ気配がした。

 全身に貼り付いていたものがすうっと足元に落ちていき、消える。

「……陛下」

 アスタロトは傍らの王の姿を見て、そっと、長い息を吐いた。

 微かに軋む音に目を遣れば、謁見の間の扉が開き始めるところだった。扉の奥から、足元に冷たい空気が流れ込み、アスタロトと王の服の裾を揺らす。

 アスタロトは呼吸を整えながら扉を見つめていたが、何となく、足元を冷やす風に視線を落とした。

 風は扉が半分開いた時が最も強く吹き流れ、今は勢いを弱めている。

(――風)

 はっと気付いて顔を上げ、アスタロトはそのまま天井を見上げた。右手を持ち上げ、確かめるように指を開く。

(空気がある)

 ルシファーの暁の瞳が一瞬脳裏を過り、アスタロトは扉の向こうにその姿を探して視線を戻した。

 同時に、扉は内に向けて開き切った。

 開かれた扉から真っ直ぐに延びる黒い絨毯が、その先の暗がりに消えている。

『海皇陛下がお待ちです』

 そう促すと、レイモアは裾を揺らして黒い絨毯の上を進み始めた。バージェスから西海との門を潜った時と同じく、セルファンがまず暗がりに足を踏み入れる。

 絨毯の渡る床はやや銀色がかり、底冷えし、微かに光を発している。光源はそれだけだ。

 アル・ディ・シウムの謁見の間では、高い窓から陽光が差し広間を照らしていたが、ここは上を見上げても天井まで見通せない。床の放つあえかな光では広間を僅かも照らす事ができず、左右も暗がりに満ち、どれほどの広さなのか、王城と同じだろうと想像する他は知る術が無かった。

 そして、奥に横たわる影の中の存在――それだけがはっきりと判る。

 音を吸う絨毯を踏み、歩く。広間そのものが息を潜めているように、物音一つ無かった。

 ややあって、前方に微かな揺らぎを目にしたと、そう思った瞬間だ。

 足元から、ふいに光が湧き起こった。

「!」

 アスタロトは咄嗟に手をかざした。

 闇に慣れた目を一瞬眩まし、光はゆっくりと静まっていく。

 残った光は足元まで垂れ込めていた暗闇をいくばくか後退させ、その中に幾つかの形を浮かび上がらせていた。

 白い(きざはし)が正面にあり、上へと延びている。壇上に玉座の影が見えた。

 その(きざはし)の前に、絨毯に十字に交差するようにして横長の広い卓が置かれていた。

 長い卓の左右の端に、二つの椅子が向かい合っている。その一つには既に、背の高い男が座っていた。

 アスタロトは密かに息を詰めた。

 床から立ち上がる光が卓の辺りまで白く浮かび上がらせている。海皇の纏うゆったりとした裾の長い衣装が、銀色の淡い光を返す。

 しかし光は卓に遮られて弱まり、海皇の顔を影の中に隠していた。

(あれが、海皇――?)

 背格好は、そう、王と変わらない。

 目を凝らしても、その表情は窺えなかった。

 レイモアは海皇の座る卓に近付き、恭しく膝を折った。

『海皇陛下――アレウス国国王陛下をお連れ致しました』

 アスタロトは息を詰めた。

 海皇が、どのような声を発するのか――

 ゆら、と空気が揺れる。

 身体が見えない塊に押された気がした。

『アレウス――懐かしき光渡る地より、この昏き世界へ――、良くぞ来た』

 闇が言葉を発した。






 広間は兵士達の熱気で満ちていた。

 集まった将兵はボードヴィルに駐屯する西方第七大隊の半数、城壁で監視に立つ兵を除いておよそ千五百名に及んだが、中将ヒースウッドから発せられた召集の目的を理解していたのは、その中の七割程だった。

 七割も、とも言えるだろう。

 彼等はヒースウッドの召集が、彼等がこれから掲げる王太子についてだとほぼ確信していて、互いに口には出さないが、その昂揚、畏れ、不安が、やや殺風景な広間を高い天井まで満たす熱気に繋がっていた。

 あと僅かでボードヴィルの町の時守が、時計台に登り十二の鐘を打とうというところで――兵士達の後方の扉が開いた。兵士達が一斉に踵を打ち付け、背筋を伸ばす。

 中央に開けられた道を、中将ヒースウッドが、正面の演壇へと向かい歩いて行く。前を向いて立つ兵士達の横をヒースウッドが通り抜けて行くごとに、張り詰めた静けさの中に微かな騒めきが生まれる。

「誰だ――」

 ヒースウッドの後から入ってきたのは、兵士達には見覚えの無い青年だ。

 身分を感じさせる装い。薄い銀の髪と、近寄りがたさを覚える空気。

 彼の左側にいた兵は、その瞳を緑柱石のような明るい緑だと思い、右側にいた兵は金だと思った。

 そして何より兵士達の興味を引いたのは、彼のすぐ後ろを歩く男が、近衛師団士官の軍服を纏っている事だった。

「近衛師団? 何でまた」

「あの紀章は第一大隊の中将だぞ」

「一里の控えから来たのか?」

 囁きの中に、恐る恐る、伺うような声が交じる。

「王太子殿下の警護で来たんじゃないか――」

「ならもう、殿下がおいでなんじゃ」

「殿下? お前、何の話をしてるんだ」

「あの若い方の男は誰だろうな。随分身分が高そうだぜ」

「何となく見覚えないか?」

「ああ……」

「ヒースウッド伯の(ゆかり)なのかもしれないな」

 兵士達の視線は一つ残らずイリヤとヴィルトールへ集中していた。




 広間の高い位置に廻らされた回廊に立ち、階下のイリヤとヴィルトールの姿を見下ろして、ルシファーは唇に薄い笑みを浮かべた。

 騒めきは広間全体に広がって、視線がイリヤとヴィルトールの二人に集まっている。何の為に近衛師団の将校がボードヴィルへ来たのか、ただ一人正体の知れない存在(イリヤ)が誰で、何の為なのかを訝しむ目だ。

 だが恐らく兵士達は、正装したイリヤの上に、明確に気付かないまま誰かの(・・・)面影を見ている。

 このボードヴィルの砦城にもある幾つもの肖像画の中に、一際大きくその肖像画が掲げられている。

 イリヤは張り詰めた面を、それでも落とさずに真っ直ぐ前に向けていた。

(ヴィルトールが来てからは随分落ち着いたわね)

 だからと言ってイリヤが、素直にルシファーの思惑を受け入れると決めた訳では無いだろう。

 ヴィルトールがいる事で、自分が置かれた状況を打開する希望が見えたと、そう考えているはずだ。

(兵士達の不審は、イリヤにとっては好都合でしょうね)

 彼等がイリヤを受け容れなければ、ルシファーの思惑は崩れる。

 そして、彼等がイリヤを受け容れる事は容易い事ではないと、そう考えているだろう。

(正しいわ)




 ヒースウッドは壇下で立ち止まり、イリヤを振り返ると恭しく膝をついた。

 その様子に、再び兵士達が騒めく。見るからに軍人ではない相手にヒースウッドが膝をつくという事は、あの年若い青年が彼より――、おそらくヒースウッド伯爵家よりも、位が高い事を示しているからだ。

 それが近衛師団の中将を帯同しているとなると、王家に関係する人物なのか、と。

 ふいに高く澄んだ金属音が響いた。

 時計台の鐘が正午を報せ、十二の音を響かせる。

 誰もが、一里の控えに――その先の水都バージェスに――そして西海の青く広がる海に、思いを巡らせた。

 不可侵条約再締結の儀が、いよいよ始まる。

 鐘の余韻が広間にも束の間漂い、そして消えた。

 イリヤが一人、壇上に上がり、広間へと真っ直ぐに向き合う。兵士達は思わず身を引き締めた。

 ヒースウッドは壇下に立ったまま、居並ぶ兵士達を見回し、声を張り上げた。

「同志達よ! 我等は今、崩れんとする(せき)の前に立っている!」

 兵士達は、背筋を張り直立し真剣な面持ちで聞いている者と、まるで訳が判らずにヒースウッドを見返している者と、二通りに分かれた。

 だが、いずれもヒースウッドの言葉と、その熱気に呑まれている。

「これは我等だけ――このボードヴィルだけの問題ではない! この国、我等が守るべきアレウス国そのものへの憂慮すべき問題であり、我等は全身全霊を賭して、この問題に立ち向かわなくてはならんのだ!」

 明朗な声が石造りの壁や床に響く。

 ヒースウッドは息を吸い込み、一言に言い切った。

「この御方は、ミオスティリヤ殿下である――」

 しん、と水を打ったようや静寂の後、騒めきが広がる。

 初めやや遠慮がちだったそれは、すぐに大きくなった。

「ミオスティリヤ……?」

「何を言ってるんだ?」

「殿下って、どういうことだ」

 ヒースウッドは腕を広げ、一歩、前へ出た。

「第二王妃シーリィア妃殿下の忘れ形見にして、ファルシオン殿下のお兄君――我々が戴く御方だ!」





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