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第5章「落日」(3)

 追い掛ける前に、自分の役割を思い出した。ファルシオンが居城を出る時間まで、あと四半刻もない。

「――」

 もうアスタロトの姿の見えなくなった廊下をもう一度見つめ、レオアリスは居城への入口がある反対側へと歩き出した。壁に並ぶ扉や通路を幾つか過ぎると南の大階段がある。

 アスタロトも、この大階段を昇った四階にある正規軍の執務室に行くつもりだったのだと思うが、逆方向に走っていったな、と背中に跳ねる黒い髪を思い浮かべた。たぶんそれなりに準備があるだろうに。

(正式軍装だって言ってたが、間に合うのか?)

 南の大階段は吹き抜けの広い窓から入り込む朝の光が壁に反射し、眩しいほど明るい。そこを六階まで上がると、階段の先に居城の「門」がある。

 門の先には登城者が案内の管理官を待つ「控えの廊下」が真っ直ぐに延び、通常はここを入るとまず、廊下の左右にある控えの間に案内される。

 しかし今日は、既にレオアリスを待っていたファルシオン付きの侍従が三人、レオアリスへとお辞儀をし、一呼吸置いて歩き出した。

 侍従達は初めの挨拶以外話しかける者もなく、白い廊下に足音だけが響く。さすがに他に待っている者も今日は無いようだ。

 廊下は真っ直ぐ王城の中心部まで延びて、一旦広い階段を中央に備えた円形の広間に出ると、そこから左右と正面、三方に(わか)れる。右手の廊下を選び東面へ進むと王太子ファルシオンの館があり、正面の廊下は王城北面の王妃とエアリディアルの館に続いている。

 王の館に行くには、広間の中央にある広い階段を昇る。ここをレオアリスが昇ったのは、まだ数えるほどだ。

 レオアリスは一度階段の上を見上げ、侍従達の先導のまま右の廊下へ進んだ。

 衣擦れの音と足音以外は全くと言っていいほど聞こえず、廊下はしんと静まっている。

 規則正しく廊下を鳴らす、自分の靴音。

『私が』

 アスタロトはここのところずっと、悩みを抱えていた。余り話す機会もなく、アスタロトも自分から悩んでいるとは言わなかったが、その位は見ていれば判る。

 一度か、二度ほど、何を悩んでいるのかはっきり尋ねた――つもりだ。

 尋ね方が悪かったのか。

 そうかもしれない。

 アスタロトの悩みが何か、レオアリスには全く――

『私が、』

 レオアリスはぴたりと足を止めた。

 あの時の真紅の瞳――普段とは違う揺らぐ炎。

『私がレオアリスを好きだなんて、考えたこともないでしょ』

「――わ……っかんねぇだろ、んな事!」

「大将殿?」

 はっとして視線を上げると、廊下の少し先で、侍従達がやや慌てた顔で振り返りレオアリスを待っていた。

「あ、いえ――何でもありません。失礼しました」

 侍従達の訝しそうな面からやや視線を逸らせつつ、レオアリスは再び歩き出した。

(――)

 あんなアスタロトの様子は初めて見た。

 追い掛けるべき、だったのかもしれない。

 ただ追い掛けて、何を言えばいいのか、正直、多分咄嗟には思い付かない。

『レオアリスのことを』

 嫌われているとは思っていない。アスタロトだって自分が彼女を嫌っているとは思っていないだろう。

 要はそこ(・・)ではない話、だ。

 もうファルシオンの館の扉はすぐそこだ。白い廊下に浮かぶように銀色がかった重厚な両開きの扉があり、そこに副侍従長であるブルジェが待っていた。レオアリスを見て深くお辞儀をする。

「おはようございます、大将殿。ファルシオン殿下のお支度も、もう整われるところでございます」

 そう告げて扉を押し開け、今度はブルジェが先に立って歩き、緑の庭園に面した廊下を、普段ファルシオンと面会する居間の前までレオアリスを導いた。右手を上げてそっと扉を叩く。

「ファルシオン様、大将殿がお見えです」

 両開きの扉が光の筋を広げながら開いていく前で、レオアリスは膝を着いた。




 広場に集まった人々の騒めきが、細い飾り窓を通して、この居城の一室へも微かに伝わってくる。

 ほどなく王城五階の謁見の間で諸侯への謁見があり、その後場所を前庭の露台に移して、王の国民への姿見式が行われる予定になっている。

 西海への出立、特に今回、西海の皇都イスへ初めて王が赴くにあたり、王が国民に対して掛ける言葉はどのようなものか。

 スランザールはその表面を遠くから眺めるような心持ちで、しばらく飾り窓の向こうの賑わいを想像していた。

 やがてスランザールは、外の陽射しを細長く切り取る飾り窓から目を離し、その皺深い面を、陽射しを挟んだ窓際に向けた。

「貴方にお聞きしてよろしいですかな、陛下」

 スランザールの視線の先には執務机が置かれ、その向こうに王が腰掛けている。謁見の始まるまでの僅かな時間、室内に入室が許されているのはスランザールとベール、そしてアヴァロンだけだ。

「改まって、珍しい事だ」

 王は閉じていた双眸を上げると、そこに面白がる光を浮かべ、スランザールの真剣な面差しに投げた。

 スランザールは硬い面を崩さず、壊れやすい細工物に触れるように慎重に口を開いた。

「そう、大事な事でございます――。ずっと疑問として胸に有り続けておりました。貴方にお仕えして数百年――国内で貴方にお仕えする者の中では私が最長であり、これほどの年数は特殊でありましょう。その私も、ついぞ知り得る機会に巡り合いませんでした」

 王の過ごして来た永い時――この国において、誰一人それを共有した者はいない。それはこの国以外であっても同じだろう。

 恐らく、あの西の海の存在以外は。

「改めてお尋ねします。貴方は――時に埋もれたあの古い盟約の始まりを、ご存知なのですか」

 この国の、始まりを。

 海皇と盟約を結んだのは、王その人なのか。

 あの盟約は真実なのか、と――

 盟約には年代の記述はなく、その内容の真偽も定かではない。

 ただ、スランザールは半ば確信していた。

 何故今自分がそれを問うのか、その理由も。

 王はしばらく黄金の双眸で、スランザールを見つめた。

 そこにある深い――黄金の闇。底知れないそれは、王が過ごしてきた歳月の積層を示すようだ。

 その積層、その上に立ちそこから見える景色は、スランザール達とどこまで同じで有りうるだろうか。

 光の向こうで王が、やがてゆっくりと、口を開く。

「私と海皇は、盟約に縛られた存在なのだ」

 王の姿は、窓から差し込む細く白い光の幕に半ば溶けている。そのせいか、言葉は遠い、こことは違う空間から落ちてくるのではと思えた。冷えた空気がひやりと漂う。

「いや、私と海皇だけが、と言うべきか」

「――陛下」

「あの盟約を知る者が、そこに何とかして意味を見い出そうとするのも、無理のない事であろう。だがそれは無駄な事――最早あの盟約には意味は無いのだ。過去の経緯という以外はな」

「陛下」

 スランザールは怖れるように遮った。

 王の目を再びここ(・・)へ向けさせるように。

「陛下。西海に赴かれるにあたり、留守を預かる我々に安心を頂けませんか。世界は何一つ変わらず、盟約は続くのだと」

 白い光の中、王はその口元に微かな笑みを浮かべている。

「世界は変転し続けるもの」

 まるで託宣だ。

 スランザールは自分の足元にある硬い床が偽りのものに過ぎず、一歩踏み出せばそこに暗く深い奈落が広がっているような、奈落に沈む冷気が靴裏から這い上がるような戦慄を覚えた。

「古い盟約は時を経て、変わり行く世界を縛り、変転を妨げるだけのものに成り果てる――誰も千年を見越した盟約など、作りようがないのだからな」

「陛下、どうか――」

 スランザールは首を振った。

「どうか」

 王に足元の奈落ではなく――深く長く背後に尾を引いた陰ではなく、正面に差し込む光を是として欲しいと

「父上!」

 春の陽射しがとたんに暖かさを取り戻した。

 両開きの扉が開き、戸口に膝をついたファルシオンが、王へと明るい眼差しを向けている。

「お迎えに上がりました。諸侯も謁見の間にそろっておりますし、広場ではもう、民達が待ちわびております」

 スランザールはそれまで気付かずに溜めていた息を吐いた。

 深い安堵を覚える。幼い、真っすぐな輝く瞳をしたファルシオンは、希望に満ちた未来そのものだ。

 笑う気配を感じてスランザールが目を上げれば、王が執務机の向こうから立ち上がり、ファルシオンの方へと、スランザールの傍らを抜けるところだった。

 笑いを含んだ言葉が耳を掠める。

「そなたらしくもない。この程度の真理を恐れるか」

「私は――」

 スランザールは全てを言わず、口を(つぐ)んだ。王に従うアヴァロンの瞳がスランザールに向けられ、すぐに正面に戻される。

 王はファルシオンの前に足を止め、立ち上がった幼く柔らかな銀の髪を撫でた。ファルシオンが思わぬ喜びに頬を輝かせる。

 その様子にスランザールもの引き結ばれていた口元も笑みに変わる。

「スランザール殿」

 アヴァロンが一度、スランザールの傍らに足を止めた。その顔は真っ直ぐに王に向けられている。

「陛下の守護の役目、決して疎かには致しません」

「――頼むぞ」

 スランザールはそう頷き、アヴァロンが王の後について廊下へ出るのを見送った。

 スランザールもまた廊下へ出ると、壁際に立つレオアリスの姿が目に入った。

 レオアリスがスランザールの白っぽい面を見て、微かに眉を寄せる。

 問いかける瞳に鋭いと自嘲を覚えながら、スランザールは曖昧に頷いて廊下を歩き出した。



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