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最終章『光を紡ぐ』(81)


「ファルシオン様」


 明るい窓際の卓で、母や姉と話し込んでいるファルシオンへ、ハンプトンは背筋をぴんと伸ばし、歩み寄った。

 心の内で、ファルシオンが国王となれば、こうして名前を呼ぶこともほとんどなくなるのだと、その名の響きをしみじみと噛み締める。


「近衛師団大将、レオアリス様が、控えの廊下にお着きとのことです。まもなくこちらへお越しになるでしょう」


 迎えが来たら、ファルシオンは即位式の場に向かうのだ。そして六年間を過ごしたこの東の館には戻らず、王の為の館に移る。

 近くて、遠い。


「――うん。わかった」


 ややおずおずと、だが語尾は明瞭に、ファルシオンは頷いた。


 席を立ち、ファルシオンは今、この部屋にいる侍従達の一人ひとりを、聡明であどけない黄金の瞳で見つめた。

 それからハンプトンを。


 ファルシオンが王の為の館に移れば、侍従長も変わる。それは王太子時代との訣別の意味も持つ。


「今まで、ありがとう。生まれた時からずっと、側にいてくれて」


 そう告げた声はもう幼いままではない。

 六歳という年齢にはそぐわず――立場に相応しい振る舞いを、思考を、求められ、それに応えられてしまう聡明さを持っていることを、ハンプトンは愛おしく誇らしく、そして申し訳なく思った。


 侍従達が淋しさを堪えきれず洩らす嗚咽を聞きながら、ハンプトンはファルシオンを初めて迎えた日のことを思い返していた。


 待ちに待った世継ぎだった。十九年前に一度、失われてしまった東の館の主人。

 新たに、生まれたばかりのファルシオンを預かった時、それまで主人の無い館を管理していたハンプトン達はどれほど嬉しく、誇らしかっただろう。


 世継ぎとしての教育の為、母であるクラウディア王妃からも、姉エアリディアルからも、そして父たる王からも、ファルシオンは一定の距離をもって育てられた。

 ハンプトンを始めとする侍従達に囲まれて日々を過ごし、養育官、教育官が幾人も付き、ファルシオンに王太子としての振る舞いや考え方、責務、意志の有りようを伝えた。


 ほんの二歳ほどの時、病で生死の境を彷徨った後は時折発熱を繰り返して周囲を心配させもしたが、四歳を過ぎるとそれもほとんどなくなった。


 ハンプトン達の見つめる中で、健やかに成長した。

 真っ直ぐに、優しく、思慮深く、聡明に。

 少し――自分へ厳し過ぎるほどに。


 ファルシオンが生まれた時、これほどまでに早く、これほどの大役を担わなければならないなどと、誰が想像しただろう。

 ハンプトンは六年間、大切に、大切にファルシオンを守り、その成長を傍らで見守ってきた。

 我が子を、というのは烏滸がましいとハンプトンは自分を諌めるが、注いだ愛情は我が子へのそれと変わりはない。


 今、大切な王子の晴れ姿が、ハンプトンにとっても心の底から誇らしい。

 そして心の底から、ファルシオンが幸せになるよう願っている。


 ハンプトンはファルシオンを見つめ、恭しく上体を伏せた。


「わたくしどもはこれからも、ファルシオン様をお支えしてまいります。いる場所は違えど――」


 いつまでも見守っている。

 再び背筋を伸ばしてそう告げた。


「殿下」


 こう呼ぶのは最後だ。

 涙を堪えているファルシオンの瞳に、にこりと微笑む。


「お身体のためには好き嫌いなく、苦手なお野菜などもしっかりとお召し上がりくださいませ」


 声に泣き笑いが混じり、ファルシオンはぽろぽろと涙を零した。

 その涙を手で拭い、幼い顎をぐいと持ち上げる。


 扉を、(おとな)いの音が三度、鳴らす。もう時間だ。

 侍従達は壁際に下がって並び、クラウディアとエアリディアルはファルシオンの後ろに立った。


 ファルシオンが扉へ顔を向け、歩み寄ったハンプトンが銀の把手を引いて開く。

 室内へ身を引いたハンプトンに続き、レオアリスが一歩、歩み入り、その場に片膝をついた。

 纏う漆黒の長布が動きを追って床にふわりと降りる。


 一度上体を深く伏せ、レオアリスは身を起こした。廊下に、十名の近衛師団隊士が同じく控えている。


「王太子ファルシオン殿下。御即位の儀にあたり、お迎えに上がりました」






 ファルシオンの即位を祝い、王都の街そのものが湧き沸き返るように賑わっていた。

 屋根という屋根、窓という窓、通りの至る所に色鮮やかな旗と長く引く布が色彩豊かに飾り付けられ、風になびいている。


 国中から集まったのではないと思えるほどの多種多様な屋台が、大通りどころか狭い路地にまで途切れることなく並んで目当ての人々が繰り出し、王都の各層をぐるりと巡る運河も、物売りの小舟や歌や演奏を聴かせる小舟、遊覧の小舟で進んでいるのだかいないのだか分からない状態だ。


「こんな賑わい、今まで春の祝祭でもなかったわ」


 マリーンはひっきりなしに訪れる客の対応をしながら、目が回る忙しさに息切れ半分、喜び半分にそう言った。掻き入れどき間違い無しだが掻き入れる手が足りない。人気は黒森の香木と姿絵だ。出しても出しても飛ぶように売れる。


「ああ、嬉しいけど私も街を回りたいー!」


 帳場の隣の父をむうっと睨む。


「午後の、殿下の――陛下の、祝賀行進だけは絶対、絶っっっ対に! 見逃さないからね! 父さん! 店を閉めてでも行くから!」


 忙しく品出しをしていたダンカはデントが反対するかと思ったが、義父は娘の倍近く早く手を動かして品物を包みつつ帳簿に書きつけながら「どうせその時間、店に客は来ないだろうし、香木も姿絵も午前中で在庫切れだ」と同意した。


「レオアリスの晴れ姿でもある、見逃せん」

「そうよね、そうよね!」

「絵師は準備してもらってる。描き留めて、姿絵にして売るぞ。マリーン、声をかけてこっちを振り向かせるんだぞ。少しでもいい構図を!」

「任せて! どこよりもいい構図を!」


(合言葉かな)


 ダンカはふっと微笑んだ。


「あら――歌」


 マリーンは今日何十回目か黒森の香木を包む手を止め、通りから流れてくる音楽に耳を傾けた。帳場の前の客も、中で香木や姿絵、手鏡などを選んでいる客も、雑貨が並べられた硝子窓の向こうに視線を送っている。

 楽隊か、吟遊詩人だろうか。

 緩やかで複層的な旋律の弦の音と、女の澄んだ歌声。


「これ――そう、ファルシオン殿下がお生まれになった時の歌よ」




 妙なる楽の調べに 月の花は輝き


 その御手で幼き太陽を(いざな)


 幼き陽は次第に 輝き 高く天へと進む


 天は月と太陽と大地と 我等を(いだ)


 恵みを巡らせ 命を巡らせる






 ファルシオンはレオアリスの前に数歩、進み、足を止めた。

 片膝をつき、自分へと真っ直ぐに向き合っているレオアリスと視線を合わせる。


 ふいに、これまでの記憶が身体を包み込み巡るように湧き起こった。

 初めて会ったのは四歳の時。レオアリスと父王との面会に同席した時だ。

 自分が父王の傍らに座っていた、あの時の誇らしい気持ちと父への思慕と、玉座に座っていた父の頼もしい姿と温かい手を思い出し、涙がじわりと滲む。


 自分には兄がいて、生まれたばかりで亡くなったのだと聞いていた。その兄の面影を、レオアリスの上に重ねた。

 遊んで欲しくて何度も呼び出して、困っていただろう。

 兄の、イリヤのことで自分勝手ばかり言ったファルシオンの前に、それでも立ってくれていた。


 西海に囚われた時もファルシオンを助けてくれたし、昨年の誕生日の祝賀行進ではファルシオンの馬車の横にレオアリスが馬を置いていた。

 夜会でも、それからマリ王国のメネゼスとの交渉の時もファルシオンの側にいた。

 王都に西海軍が侵攻した時、ずっと眠っていたレオアリスはファルシオンの呼ぶ声に目覚め、ファルシオンの前に立った。


 バージェスの、条約の館で、天井絵から降り注ぐ鮮やかな色彩の光の中、水盆の上に横たわる姿――

 その光景を昨日のことのように覚えている。


 いつだったか――そう、去年の三月のことだ。

 五歳の誕生日の祝いに、レオアリスから懐中時計を贈られた。銀細工と象嵌に飾られた美しい――異国の、ローデンのものだ。遠い国から来たその時計が、同じ時を刻んでいること。


 誰もが、国が違っていたとしても、同じ時の中にいるのだと、そんなことを想った。

 あの時、いつか一緒に、この国の様々な場所へ、知らないたくさんの国へ行こうと、そんな話をした。


「約束したことを、覚えているか。いつか、いろんな場所と、いろんな国へ、行こうって」


 レオアリスの眼差しがファルシオンの瞳を捉える。

 ずっと追っていた眼差し。


「幾つもの約束を、俺は貴方にしました。様々な場所へ共に行くと」


 ファルシオンが呼べば、その前に来ること。


「そして必ず――お守りすると」

「ぜんぶ、約束どおりだ」


 王になれば自分の望む通り行動することはできないけれど、傍らには約束通り、レオアリスがいてくれる。

 即位し、周辺が落ち着けば、国内の視察も行くことができるだろう。

 今回、マリやローデンの王や、トゥランの皇太子が来てくれたように、他の国を訪問してみたい。


「一緒に行こう」


 レオアリスは微笑んで、ファルシオンの意を受け止めるようにもう一度上体を伏せた。





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