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最終章『光を紡ぐ』(80)

 

 王都――居城の東に位置するファルシオンの館は、夜が明ける前から多くの侍従達が忙しく立ち働いていた。

 今日、彼等の王子、ファルシオンが即位する。即位式後はこの東の館を引き払い、王の館へと移る。


 既にあらかたの準備は終わらせているものの、当日は一層細々とした作業があり、そして彼等の王太子の即位式の支度をするのは、侍従達にとってことさら大事な仕事だった。


 その一つが、この日の為に用意された正装をファルシオンが纏うこと。




「少しお腕をお上げくださいませ、殿下」


 衣装官長リーネルトは礼節を保ちつつてきぱきと、着付けを進めていく。

 ファルシオンはリーネルトと四人の衣装官の中心に立って、言われるがままに手足を動かしていた。


 真っ白で、柔らかく手触りの良い木綿の肌着を上下、まず身に付け、山吹色に染めた紐で衣装官がファルシオンの身に添わせていく。足元は足首でふわりと絞った。

 続いて下履きを履く。草木染めの濃い緑で、膝から下の外側が開いて白が覗き、また足首で閉じる。


 上着はこれも純白で、リーネルトが詰襟の首元をよりすっきりと見えるよう、何度も立ち位置を変えて眺めながら整えた。

 もう一枚、上下の連なった衣装を、衣装官が二人でファルシオンの頭から被せ、膝上までの長さのそれを、前見頃と後ろ身頃を合わせ、身体の脇で釦と紐で留める。一見黒に見えつつ、光を受けると時折深い藍色の光沢が生地に覗く。


「失礼致します」


 次に襟ぐりを深く取った重ねの上衣。これは深い黒に染め抜かれ、金糸で縁取りと刺繍が施されていた。


 更にその上に、足首まで流れる前開きの長衣を重ねる。纏っている中でも最も手の込んで、華やかな生地と装飾だ。

 暗紅色の艶やかで厚みのある生地は縫製を主産業とするホーンハルト地方、ウルブリアの職人達がファルシオンの為にひと月かけて織り上げたもので、それぞれに金糸や銀糸、暗紅色に染めた糸を用いて繊細な刺繍が施されていた。


 リーネルトはファルシオンの両肩に、二種の長く幅広の帯を掛け、上着に留めた。それぞれ長さは異なり、長い帯は足首まで流れている。

 この時点でもう、着付けを始めてから半刻が過ぎた。


 ファルシオンがそっと、息を吐く。とても美しい衣装だけれど、その衣装の重さが責任の重さのように、心にぐっとのし掛かるように思えた。


「あと、こちらを纏っていただければ、完成でございますよ」


 ファルシオンの様子にリーネルトが労いを浮かべて微笑み、衣装官から渡された布を、両手でふわりと広げた。


 背に纏う為の長布だ。床についてまだ余るほど長く、厚みと光沢があり、これもまた王家の色である暗紅色に染め抜かれている。

 リーネルトの手がファルシオンの肩から足元へ、重厚なそれを相応しく纏えるよう整えていく。

 任せてじっと見つめるファルシオンの耳に、扉を叩く音が聞こえた。


 扉へ寄ったハンプトンがファルシオンを振り返る。


「ファルシオン様、王妃殿下と王女殿下がお越しになられました」


 緊張に張り詰めていた頬が、ぱっと輝いた。

 顔を上げた先、クラウディアとエアリディアルの姿を捉える。


「母上! 姉上!」

「ファルシオン――」


 クラウディアは退いた衣装官達に微笑んで、それから我が子の姿を感慨を込めて見つめた。


「まあ、とてもご立派です」

「似合いますか、母上」

「ええ、とても――本当に……」


 クラウディアは笑みに細めていた瞳に、涙を浮かべた。


「陛下が――あの方が貴方のこの姿をどれほど、お喜びになっているでしょう」

「父上は、私に期待してくれているでしょうか」

「もちろん――この母と同じように――それ以上に」


 ファルシオンはきゅっと唇を引き結び、両手を広げて母を抱き締めた。クラウディアの腕が優しくファルシオンを抱き締め返す。


「今日から、貴方がこの国を担うことになります。公爵方や、スランザール様、各院の方々、そして民の意見を良く聞いて、けれどいずれか一つの意見に偏ることなく、判断をしなくてはなりません」

「――はい」


 身体を起こし、ファルシオンはしっかりと頷いた。


「望まない、厳しい判断をしなくてはならない時もあるでしょう。でも覚えていてください。わたくし達も貴方を支えます。貴方は決して一人ではありません。姉上もおりますからね」


 王妃は王母として、スランザールと同様、ファルシオンの為政の相談役を務める。

 エアリディアルも補佐役となり、またファルシオンが王都を不在とする時はその代理を務める役割を負う。


「母上、姉上。私こそ、お二人をお支えします。私をどうか、この先も導いて、見守っていてください」


 二人を見上げ、ファルシオンは黄金の瞳でにこりと、陽光に似て笑った。


「良い国を作れるよう。みんなが、良い国だと思ってくれる国を」


 扉を叩く音の後、衣装官が一人、恭しく一礼して室内に入り、両手で捧げ持っていた艶のある木箱を壁際の卓の上に置いた。リーネルトが近寄り、木箱の蓋を開けて中を確認する。


 リーネルトを追ったファルシオンの瞳に、漆黒の生地が、皺や折り目が付かないよう丁寧に畳まれているのが映った。

 艶のある生地に、銀糸で刺繍が施されているのが見て取れる。

 良く、目にしていた。


 父王の側に控えて立つ、アヴァロンの――近衛師団総将の、背に。


 唯一、近衛師団総将のみが纏うもの。


 そっと息を吐いたファルシオンに気付き、リーネルトは白木の箱を振り返り、微笑んだ。


「王布でございます」








 王城東棟の玄関前、馬車寄せ広場に、近衛師団隊士四千五百名が整然と並び、今日の一日を始める為の言葉を待っていた。

 早朝の空気は隊士達の緊張と昂揚を含み、ぴんと張るようだ。


 今日、九刻から行われる王太子ファルシオンの国王即位式。

 新たな王を戴き、そして同時に、新たな近衛師団総将を、彼等は戴く。


 居並ぶ隊士達の正面には玄関前の十段ほどの階段があり、両側にそれぞれ、なだらかな弧を描いて広がる階段の左側を、相談役である元副総将ハリスが登った。

 隊士達は一斉に踵を鳴らし、左腕を胸に当て、敬礼を向けた。


 ハリスは耳の下で真っ直ぐに揃えた灰色の髪を揺らし、階段の上、幅広い踊り場の中央付近に立った。

 敬礼が起こした衣擦れの余韻の中を、続いて副総将グランスレイ、セルファン、参謀長クーゲルが上がり、中央を一人分開け、ハリスと共に立つ。


 早朝の清涼な空気の中、第一大隊大将フレイザーと、現在はイス・ファロス領事を兼任している副将ヴィルトールが上がる。

 続いて第二大隊大将に就くロンベルク、副将クライフ、第三大隊大将に就くハイマート、副将デル・レイが、踊り場の左右に分かれて立ち、隊士達と向き合った。


 一呼吸置き――

 若い、確とした靴音が階段の石を鳴らした。


 再び隊士達は踵を鳴らし、左腕を胸に当てた。

 ハリス、グランスレイ、セルファンを始め、踊り場に並ぶ将校達も同時に左腕を当て敬礼する。


 漆黒の長布を揺らし、レオアリスは大将達の前を抜け、中央に一つ開けられていた場所に立つと、隊士達と向き合った。

 まだ、その背に王布は無い。


 隊士達が敬礼を解き、両手を後ろに組んで姿勢を整える。

 馬車寄せ広場は水を打ったように静まり返った。


 レオアリスは一糸乱れず並ぶ隊士達を、一人ひとりの視線を捉えるように見渡した。

 四千五百名――この一年で新たに入隊した隊士も少なくない。

 各隊の編成は大きく変わり、第一大隊リム、コーネス、メイベルトは今回新たに中将に任命された。少将クレイドル、少将コウ、ノルトやシャーレの姿も見える。

 第二大隊中将ドナート、エーベルハルト、ゲントナーの内、ドナートはトゥレス在任時の部下だ。

 第三大隊中将のバルデン、ロイボス、シキの内、バルデンもまた、今回の再編に伴い昇任し中将の任に就く。


 彼等を纏め率いるのがレオアリスのこれからの役割であり、新たな王、ファルシオンをその頭上に戴き、守る剣と盾となる。

 グランスレイが片手を延べ、レオアリスへ前に出るよう示した。


()()、隊士達へお言葉を」


 並ぶ隊士達へレオアリスの立場を呼びかけ、同時にレオアリスに自覚を促すように。


 グランスレイの落ち着いた、経験と意志に裏打ちされた眼差しに、レオアリスは入隊した当初から今までのグランスレイの姿を思い起こした。

 かつての出来事を見てきたが故の煩悶を内包しながら、常にレオアリスの前にその姿を置いて模範を示し、若いレオアリスを補佐する立場になってからは王から与えられた役割に相応しい言動、振る舞いを身に付けるよう、導き支え続けてくれた。


 温もりが胸の内側にふわりと浮かぶ。

 グランスレイだけではなく、フレイザーやクライフ、ヴィルトール。今ここにはいないロットバルト。

 セルファンや――トゥレス。近衛師団の部下や同僚。

 アヴァロンと。


 自分はその積み重ねだ。ここにいるのは。


 レオアリスは一歩踏み出し、隊士達の前に立った。

 向けられる意識と視線が肌に感じられ、彼等の意志と自分自身の意志が向かい合っているようにも感じる。


 レオアリスが何を言うのか――

 総将として戴くに相応しい存在となれるか。


「――今日、王太子殿下が即位される」


 ふと、この五年間が脳裏を過り、レオアリスは用意してきた挨拶をなぞろうとしていた口元を、一度結んだ。

 一呼吸置き、続ける。


「近衛師団としての決意を述べようと思って、ここ数日準備してきた。けど」


 レオアリスの纏う空気が年相応の柔らかさを帯びる。


「まずは少しだけ、俺自身の想いに触れさせてもらいたい。弁舌は人に聞かせられるほど得意じゃないが」


 自分の心を内省するように半ば瞳を伏せ、すぐに上げる。


「俺は五年前、この王都に来た。初めは右も左も分からずに――何の根拠も無く。でもただ、どうしても、ここに来たかった。王都に――王の御前に」


 王の御前試合を経て、その願いは叶った。


 北の果ての雪深い村で、御前試合を知ったのは全くの偶然だった。

 竜の宝玉という参加資格を得て王都へ来ることができたのも、色々な出来事が重なったからだ。


「近衛師団に入隊して、五年、振り返ってみれば、俺はいろんな失敗も、それから経験も、重ねてきた」


 乗り越えて進もうと一歩踏み出し、一歩進んだと思っても、その都度自らの不足を思い知らされる。


「そしてそれを、ここにいる全員が目にしてきてると思う。俺が近衛師団総将に就任することに、足りないと、それこそ未熟だと感じていることは幾つもあって、歯痒さとか、色んな考えとか、感情があるだろう」


 過去も、年齢も、それだけには依らない未熟さも。

 いつでも、自分の立った場所と本来の自分は遠い。


「俺はまだ、本当にこの立場に相応しいと言えるほどの力を付けていない。あるのはこの剣と、願いと、意志だけだ。俺が総将として確かに、明確に、皆に示せるのは。総将として持つべき視野の広さもまだまだだし、経験も足りない。アヴァロン閣下のようになりたいけど、足元にも及んでいない。そのことを踏まえた上で――」


 だから常に、前を向いて、一歩踏み出していきたい。


「約束する」


 隊士達の面は真っ直ぐ、自分に向けられている。

 レオアリスはもう一歩、踏み出した。


「俺は、必ず、ファルシオン殿下と王家をお守りする」


 それが、これまで積み重ねてきた様々な事から掴み取った、自分自身の願いであり、誓いだ。


「この身の剣と、今俺の前にいる、近衛師団隊士である皆の、一人一人に誓って」


 視線を返してくる、四千五百の眼差し。


「一人の近衛師団隊士として、そしてここにいる近衛師団四千五百名全体で、王家と王太子殿下――新たな王をお支えし、お守りしたい。それぞれが自分自身の力を発揮し、志を一つにして、共に歩んで欲しい」


 合図は無く、ほとんど同時に、隊士達は踵を鳴らし、左腕を胸に打ち当てた。


 まだ低かった太陽が、青く染まり始めた空へと次第に、昇っていく。






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