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最終章『光を紡ぐ』(76)

 

 廊下にある扉から小さな庭園に出ると、射した日差しが全身を包んだ。

 ひんやりとした廊下にいたことも相まって、やや暑過ぎるくらいの陽射しは、四月ももう終わりなのだと実感させられる。


 あと数日――三日経てば、五月。

 ファルシオンの即位式だ。

 その前日には王の国葬が執り行われる。


 レオアリスは首を巡らせ、少し離れてついてくるアスタロトを見た。

 視線を合わせようとしたものの、さっと逸らされる。

 黙って歩いているのがよくないか、と立ち止まりアスタロトに並ぼうと思ったのだが、アスタロトも同じように立ち止まった。


 つい苦笑を零し、それを見たアスタロトがむっと唇を尖らせる。

 変わらないな、と思った。


「こうやって歩くのも久しぶりだよな」


 最近は基本王城内にいるから、良く顔を合わせることは合わせるのだが。

 前はそう、しょっちゅうアスタロトが近衛師団の士官棟に顔を出しては、遊ぼうとかご飯を食べようとか何だかんだと言ってきた。


「お前、ずっと寝てたから」

「それはある――。俺ってやっぱり剣士なんだなって思った」

「いや、何それ」

「バインド――は良く判らねぇけど、ユージュは三百年、ほとんど寝てたって言うだろ」


 ザインはそれほど深い眠りを必要としなかったようだが、レーヴァレインは剣を失った訳ではないものの回復の為の眠りが長い。回復の為に眠るのは剣士の主な特徴の一つで、氏族が異なっても違いはないようだ。


 そう広くはない庭園は、少し歩くともう端まで辿り着く。低い腰壁で仕切られ、眼下に裾野のように広がる王都の街が広がっている。


 レオアリスは足を止め、振り返った。


「覚えてるか?」


 アスタロトがいつもよりも少し遠い位置で立ち止まる。


「あの時、アスタロトが言ってくれたこと」

「わ、私が――あの、前に言ったことは、その」


 とたんに挙動不審になり、アスタロトは首をあちこちへ巡らせた。


「あれはちょっと、忘――」

「忘れた? マジで?」

「忘れたっていうか――、忘れて欲しいっていうか」

「アスタロトが一番最初に、お前は剣士だって言ってくれたんだろ」

「え?」

「ん?」


 真紅の瞳が見開かれて瞬く。


 瞳のそれはアスタロトの持つ炎のようだ。初めて会った時にも思った。

 性質そのものが炎のようだ。


「あ」

「あ?」


 今度はアスタロトが首を傾げる。


「いや、それが本題じゃないんだ。話をしようって言ったのは」


 瞳の炎が揺れるのが、綺麗だと思う。初めて会った時からこの瞳は真っ直ぐ、時折大きく揺らいて迷いながらも、いつも正面を見据えていた。


「俺は、アスタロトのことが好きだよ」


 初めて会った時からだ。

 思い返せば。


 アスタロトは初めに硬直し、それからおろおろと辺りへ首を巡らせ、それから、喉元から迫り上がるようにゆっくり真っ赤になった。


「答えになったか?」


 俯き、アスタロトは両手をぎゅっと握りしめた。


 小さな呟き。


「それは知ってる」

「――」


 まだ俯いている。

 レオアリスはもう少し待って、それから首の後ろを掴むように手を当てた。


「知ってる……? いや、まあ、そうか。もうずっとだもんな」

「レ――レオアリスが、私を好きなのは知っている!」


 悪事を暴くように言われた。


「うん?」


 アスタロトはばっと顔を上げ、視線が合ってまたばっとそれを逸らした。


「……ど、どのくらい……?」

「どのくらい? どのくらいって言うと」

「どのくらいの好きかってことだよ! 例えば――ハヤテと比べて……!」


 自分で言いながら、アスタロトはますます真っ赤になった。


「いや、待って! ちょっと待った! ハヤテは人間じゃないからやめよう。しかも負けたらちょっと立ち直れないし……」


 片手を前に突き出し、もう片方で額を押さえて考え込んでいたが、はっと顔を上げた。


「ユ、ユージュとか」

「何でユージュ?」

「い、いや別にっ。じゃなくてエ――ア……」


 言葉をぐっと飲み込む。


「じゃなくて、お爺ちゃんたちとは――?!」


 アスタロトの顔は真剣そのものだ。


「じいちゃん達って――え、じいちゃん達とアスタロトとどっちが好きかって……比べるものか……?」


 何だろう、この質問は。

 今、何の話をしていたのだったか。

 だが答えなくては許されない眼差しをしている。


 少し考えて、顔を上げる。


「どっちがとかは比べられないけど――、変わらないかな」


 アスタロトはやや長いと感じる時間、息を詰めてレオアリスを見つめ――、それから溜めていた息をそっと長く、吐き出した。


「ありがとう――。嬉しい」

「……そうか」


 話をしようと思っていたのはこのことだ。

 中途半端だったことがずっと気になっていたから。


「けど、こんなのでいいのか?」


 正解がある訳ではないだろうが、こうしたことには疎いレオアリスは正解なのかどうか判らず腕を組んだ。


「うん」


 アスタロトはどことなく満足そうだ。

 ならいいか、と頷き「戻るか? このまま話してもいいし、時間が無ければ――」

 そう言ったレオアリスの袖を、アスタロトの指先が掴んだ。


 首を向けたレオアリスの視線からまた目を逸らし、ぼそりと零す。


「この際、お願いがあるんだけど――聞くだけ聞いて」


 レオアリスは身体を戻し、俯いたアスタロトの後頭部辺りに視線を落とした。


「あれ」

「?」

「あれを、や……」

「あれ?」

「や、や、やってほしい……」

「あれって何だっけ?」


 何かやることがあっただろうか。腕を組む。

 アスタロトは息を吸い込み、思い切り吐き出した。


「こ――こないだ、園遊会でエアリディアル殿下にやってたやつ!」

「エアリディアル殿下に?」


 何だっけ、とレオアリスは更に首を傾げた。


「膝つくやつぅ!」


 どすりと、足を踏み込む。足首くらいまで地面にめり込んだんじゃないか。

 レオアリスは眉を寄せ――、それから、ふっとそれを解いた。


「膝――? ああ、挨拶の」


 思い出した。

 社交の場での、貴婦人に対する挨拶の作法だ。膝をついて手を取り、その手の甲に額を寄せる。


 アスタロトは真っ赤になった。


「何で?」


 アスタロトは更に真っ赤になった。


「――……この先、一生ないと思うから……」

「そうかな。いいけど。今か?」

「えっ」

「――」

「――」


 アスタロトはこくこく頷いた。


「じゃあ」


 レオアリスはアスタロトに一歩、近付いた。

 アスタロトがそっと息を呑むのが判る。


 その表情を初めて見るように思える。

 友人でもなく、正規軍と近衛師団でもなく――


 レオアリスは右手で、体の脇に垂らしたままのアスタロトの右手を取り、膝をついた。







 いつか、憧れたように。

 レオアリスが背に纏った漆黒の長布が、膝をつく動きに合わせて春の鮮やかな緑にふわりと揺れる。


 アスタロトは夢の中にいるように、その動きを見つめていた。

 三日後にはその背に、王布を纏うのだと――


 上体を伏せ、レオアリスが額をアスタロトの右手の甲に寄せる。


「――はっ」


 意識が飛んでいた。

 手の甲に向けた視線が、上げられた瞳と重なった。


「ほぎゃあ!」


 アスタロトは叫んでよろめき、思わず手を引いて二歩三歩、後退った。

 レオアリスは呆気に取られた様子で


「お前な……」


 落としていた左膝を上げ、立ち上がった。


「やれって言うからやったのに……」

「ご、ごめん! へへ!」


 破壊力抜群だった。危うく心臓が破裂するところだった。

 今も血管を破りそうなほど心臓が早鐘を打っている。


 ぐるりと反転して胸を押さえ、何度か深呼吸を繰り返す。

 レオアリスはまだ呆れているようだが、そのまま黙ってしばらく空へ視線を投げていた。


 風が抜ける。

 一気に上がった体の熱を柔らかく持ち去るようだ。


「……ありがとう」


 アスタロトはもう一度、そう言った。

 レオアリスが瞳を戻す。


 初めて会ってから、もう、五年も経つのだ。


「――私ねぇ、色々考えたんだ、この一年」


 唐突だろうか、と思ったが、レオアリスはアスタロトへ顔を戻し、口を挟むことなくその先を促した。


 気持ちを落ち着けて改めて見回せば、柔らかな陽射しが庭園全体を輝かせ、風も気持ち良い。

 三日後の、ファルシオンの即位の日が今日みたいに気持ちの良い日だといいな、とアスタロトは風に身体を伸ばした。


 風――

 風を感じるごとに、もういない女性(ひと)を思い出す。


 アスタロトにとっては姉のようでもあった。


「ファーとか見てて……、ファーは、こんなこと言うの、許されないのかもしれないけど、きっと西海と戦いが始まることがどんなことか、判ってても――それでも止められないくらいすごく、すごく好きな人がいて、でももう居なくて、忘れられなくて、でも忘れてしまった振りをして」


 ずっと。


 ルシファーがしたことは、決して認められるものではない。

 けれどその心の叫びは、奥深くに押さえ込まれていたそれは、アスタロトの心を刺し貫いた。


 あの時、自分が支えになれたらよかったのにと、今更ながらに思う。


「ブラフォードはさ、すかしてて腹立つやつだったけど、でも、」


 アスタロトが何を話し出したのか、掴み難いだろうけれど、レオアリスはただ聞いている。

 問わず語りに、気持ちが向くままにただ話していて、それをただ聞いてくれている。



『自分のために向けられる炎を、見たかった』



 ブラフォードの最後の手紙に、そう書かれていた。


「そんなの生きてれば、あるかも知れないじゃないか。いや無いけど」


 でも、あったかもしれないじゃないか、と。


「そんなことをずっと考えてたら、私、自分の想いはどこにあるものなのかなって」


 ルシファーのように、長く長く抱え込んで、自分でも判らなくしてしまうような?

 それとも、ブラフォードのように、自ら手放すような?


「自分でもきちんとは解ってないんだ」


 レオアリスが自分を好きだと言ってくれて、はっきりそう言ってくれて、とても、とても、とても嬉しかった。


 けれど、多分、まだ――

 アスタロトが抱えるこの想いとは違う。


 軍事力の一極集中と、ルシファーは、(いだ)き始めた淡い想いとはまるでかけ離れた響きでそう言った。

 この一年、大き過ぎる力が何を齎すか、均衡が崩れた時に何が起こるか、アスタロトは自分の目でまざまざと見つめて来た。


 だから。

 でも。



 でも、想いは欲しい。

 立つところは別でもいい。


(私を一番にしてほしい。もう一人二人、同じ一番がいてもいいから)


「けど私、望んでることはわかってるんだ」


 ずっと一緒にいたい。

 同じ目線で。

 すぐ手を伸ばせる位置で。


「レオアリス」


 アスタロトは一歩離れ、レオアリスの姿を瞳に収め、背筋を伸ばした。


「一番最初に会った時みたいに、アナスタシアって呼んでよ」


 レオアリスが瞳をやや開く。

 ほんの少しの驚きと――懐かしさ。

 笑みを広げる。


「もう私も、アスタロトとして充分やっていけるから」


 だから、アスタロトの名で自分の立ち位置を確認する必要はない。

 アスタロトは右手を伸ばした。


 レオアリスはしばらくアスタロトを見つめていたが、口を開き、名を呼んだ。


「――アナスタシア」


 綴られた響きに、鼓動が一つ鳴る。

 手を伸ばし、アスタロトの差し出した手を掴む。


「会った時みたいだな」



『王都に行くからな』と、少年は言った。



 約束通り、今、目の前に立っている。

 それが嬉しい。


 口元が笑みに解ける。

 ゆっくりと深呼吸をしてみると、肺に流れ込む空気が身体に染み込み、底に揺らいでいた重い何かを溶かしていくようだ。


「私も――初めて会った時みたいに」


 えへへ、とアスタロトは照れ臭そうに鼻先を擦り、俯いた。


「アリスちゃんって呼んでいい?」

「いや、呼んでなかっただろ」

「否定がめちゃ早い……」


 ぎゅっと、握った手に力を込める。

 今ここに、この手があって良かった。

 ここにいてくれて良かった。


 纏う王布は初めに願っていたものと、少し違うけれど――

 レオアリスが王布を纏うこと、その姿を傍で見ることができるのが、本当に良かった。


 そばにいることが。


「これからもさぁ、ずっとずっと一緒にいようね。いっぱい食べて、いっぱい話して、遊んで――、一緒にいよう」


 レオアリスが笑う。


 頷く代わりに、握り返す手の力が答えた。






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