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第4章「言祝ぎ」(11)

 ヒースウッド伯爵邸に留められてから何日が経ったのか、一度も部屋から出られていないイリヤには、半ば感覚が曖昧になっていた。

 窓は椅子で叩き割ろうとしても、壁に描かれた絵のようにびくともしない。扉も同様だ。部屋は二つ、居間と寝室に別れ、浴室まであった。

 完全な幽閉状態だ。剥き出しの石の壁ではないだけで、以前入った王都の赤の塔と変わらない。

 扉は開かず誰も来ないのに、食事や水はいつの間にか卓の上に載っていた。初めは手を付ける気は無かったが、いざ動く時になって体力を失っているのはまずいと思い直し、無理にも胃に収めた。

 ただずっと眠りは浅い。

 考えるのはまずラナエの事だった。きっとイリヤを心配して、不安で気を揉んでいるのだろう。

 身重の身体で、たった一人、どんな想いでいるのか――何ができるでもなくただ考え続け、焦りが積もり積もって爆発しそうだ。

 ルシファーはイリヤが要求に首を縦に振らない限り、ずっとこの状況を続けるつもりのようだった。

 いっそ、ルシファーの要求を飲んでしまえば――

 どうせ果たせる訳がないのだ、ルシファーの目論みは。

 父王が玉座にいる限り。

 ならば、今ラナエを助ける為にルシファーの話に乗ったふりをしてしまえば

(駄目だ、そんなのは。思いもよらない方向に行く可能性だってある。それにずっとこのままじゃない。期限があるはずだ)

 それが西海との不可侵条約再締結の日だろうと、大体の推測はついていた。

 そこまで粘れば、事態を回避できるかもしれない。

 イリヤ達の不在にロカの領事館が気付けば、それは問題としてヴェルナー侯爵家に伝えられ、ロットバルトに――レオアリスに伝わる。

 その名は強い希望に感じられた。

 ルシファーの能力はおそらく、西海の三の戟ビュルゲルより高いだろうと、対峙した感覚で判る。

 万が一ルシファーと戦う必要が出てきた時、戦えるのはもしかしたらレオアリスだけなのではと思える。

 その意味では、ルシファーの目論みは成功さえしなくとも、阻止するのに非常な困難を伴うものでもあった。

(コリントさんが尋ねて来れば、俺達がいないのが判る。すぐにロカの領事館からヴェルナー侯爵家に伝わるはずだ――)

 ただレオアリスが、イリヤ達の不在をルシファーと関連付けて考えるか判らない。

(どうにかして伝える方法は無いのか。居場所か、ルシファーの目的――せめて先にラナエだけでも助けられれば)

 ラナエが助け出せれば、イリヤにとっては最悪それだけでも良かった。

 後はイリヤが首を縦に振らなければ、それで済む。

 何があっても。

 ラナエは悲しむが、彼女とお腹の子供が助かるのなら、その後は自分がどうなっても良かった。

(ラナエ――)

 どうしているだろう。

 西向きの窓から橙色に染まった空が見え、斜めに陽光が差し込んでくる。光はより一層不安を強くするようだった。

 イリヤは掛けていた椅子から立ち上がり、窓の日除け布を引いた。室内が黄昏の闇に包まれる。

 息を吐き、室内を振り返ってぎくりと身を固めた。

「考えは変わった? ミオスティリヤ殿下」

 それまでイリヤが座っていた椅子に腰掛け、ルシファーがにこりと笑う。

 イリヤは咄嗟に混乱した思考と呼吸を抑え、ルシファーを睨み付けた。

「――何度尋ねられても、お前の企みに加担するつもりはない」

 柔らかな面の中の唇が笑みを刻む。

「貴方が王になれるのに? 別に簒奪じゃあなく、貴方が本来持っていたものを取り返すだけの事。それにそうなればラナエは王妃よ――二人にとって悪い話じゃあないと思うけれど」

「そんなものは俺達には不要だ!」

 イリヤの勢いとは全く対照的に、ルシファーは肩を軽く竦めた。

「本当に残念――」

 そっと呟やいた唇が、背筋が凍るような笑みを刷く。

 イリヤは知らず、一歩、足を引いた。

「――」

「貴方の意志で動いて貰いたかったのだけど、仕方ないわね。もう時間も無いし、駒を進めさせてもらうわ」

 すい、と右手を宙に延べる。

「これを見て」

 ルシファーはイリヤとの間の何もない空間に、指先で縦に長い大きな楕円を描いた。

 描かれた楕円の中が、瞬きの間に鏡に変わる。室内が見え、思わず自然に覗き込んだ。

 今いる部屋だ。

「? ――」

 違う、と呟く。表面にはイリヤの姿は映らず、日除け布の色や窓枠の形など、室内の様子も少し違う。鏡ではなく、窓から別の部屋を覗き込んでいるかのようだ。

「何を……」

「ラナエよ」

 ぎくりとしてイリヤは楕円に近寄った。

 覗き込んだ楕円の中心がゆっくりと動いて映し出す景色を変える。

 寝台を映し、横たわるラナエの姿を映した。

「ラナエ!」

 伸ばしたイリヤの手が硝子の面を叩くように楕円の表面にぶつかる。

「ラナエ!」

 何度も表面を叩き、ラナエの名を呼んだが、ラナエは寝台に横たわったまま、イリヤの声は聞こえていないのか、目を開ける様子がなかった。

「ラナエに何をした!」

 楕円の向こうにルシファーを見下ろしたイリヤの右の瞳が、内側から溢れるように金色の光に染まる。

「ラナエに何かしたなら許さない! 彼女を、今すぐ解放しろ!」

「眠っているだけよ。不安は今の彼女の身体には悪いから」

 ルシファーの言葉にイリヤはさっと激しい憤りを昇らせた。

「何を、白々しいお為ごかしを」

「見ていなさい」

 ルシファーが指を上げ、楕円を裏から指し示す。イリヤが見ている面からだけではなく、ルシファーの側からも同じ光景が見えているようだ。

「今から、彼女を助ける為に近衛師団の将校と法術士が来るわ」

 イリヤはルシファーの言葉の意味が咄嗟に飲み込めず、不審そうにルシファーを見た。

「近衛――師団?」

 はっとして楕円の中を見つめる。

「まさか、近衛師団って」

「そうよ。レオアリスではないけれどね。彼は王都を動けない。でももう貴方達の失踪を、レオアリスは知っているわ。私が関わっている事はまだ判っていないと思うけれど――疑ってはいるでしょうね」

 イリヤは再び、まじまじとルシファーを眺めた。

 次第に――、湧き上がりかけた僅かな希望が、黒く染まっていく。

 レオアリスが果樹園の不在に気付き、近衛師団が動く事はつい先ほどまでイリヤが望んだ展開だったのに、ルシファーはそれをあっさりと覆した。

(近衛師団がここに来る事を、ルシファーは知っている――)

 どくりと心臓が鳴る。

「わざと……」

 来る事を知っていて、イリヤに見せようとしている。

「レオアリスも、初めから自分が来ればいいのに――ファルシオンの守護の役目があるとは言え、貴方を利用しようとしたらどれほどの混乱になるか、判っているはずなのに。やっぱりまだ、現実味が無いのかしらね」

「――止せ」

「世界はいつまでも、変わらず平穏だと思ってる」

 微笑んだルシファーは、ぞっとするほど美しかった。

「崩壊を見た事が無いから」

「止めろ」

「何を言っているの。貴方の大事なラナエを助けに来るのよ。しっかり見なさい。貴方が首を縦に振るまで起こり続ける事を」

「――」

 楕円の中の空間が、ゆらゆらと揺れた。

 寝台と窓の間の床の上に、次第に、光る法陣が現れた。




「遅いな――」

 ヴィルトールの呟きを耳にして、傍らで法術士の施術を見つめていたファーレイが視線を上げる。

 法術士はここへ転位した時にも触媒に使用した手鏡を自分の手前に置き、それを中心に小さな法陣を布いている。呟くような術式が静かに流れる。

「いま少し――」

 既に何度か術を試みている為、ファーレイは法術の進行具合の事かと思ったのだが、ヴィルトールの視線は空に向いていた。陽は西に消え、薄く星が輝き始めている。

「中将、どうか?」

「いや……」

 ヴィルトールが気にしていたのは、カイが一刻過ぎても戻っていない事だ。

(ボードヴィル近郊、西海が近いという点を重く捉えて、対策を検討されているのかもしれないが)

 王都で何か問題が発生した事もあり得ると、懸念も浮かんでくる。

(仕方ない事とは言え、この距離は厄介だな)

「中将」

 ファーレイが驚いた声を発し、法術士が手にしている手鏡を指差した。

「今、鏡の面に」

 法術士の呟く術式が速度を増す。鏡の表面は幾つもの色彩が混じり揺れている。

 時折それが、一つの固まりになろうとするように中心へ寄った。

「――これは、凄いな……」

 ヴィルトールは感嘆の呟きを洩らした。

 ゆっくり――

 つるんとした鏡面に形が浮き上がる。

 朧気にしか見えないがどこかの室内と、広い寝台、そこに誰か横たわっている。どうやら眠っているようだ。

「若い娘だね――ラナエ・ハインツか。他に人は?」

「おそらく、ですが、室内には一人でしょう」

「一人か……」

 イリヤが一緒であれば有り難かったのだが、そう簡単にはいかないらしい。

 ただこの短時間でここまで辿り着けるとは、アルジマールは本当に優秀な術士を出してくれたものだと感心した。

「彼女の所へ飛べますか?」

「今なら探索の法陣に捉えていますので、可能だと――しかし非常に固定しにくいのも事実です。いつまで繋いでいられるか……」

(どうする――イリヤ・ハインツに辿り着くのを待つか)

 ヴィルトールには法術は詳しく判らないが、今ラナエの姿を捉えているのは、簡単に成し得ている訳ではないのだという事は判る。

 しかもラナエ・ハインツは懐妊していると聞いている。

 救出の機会があるなら、それを見過ごす手は無い。ラナエから幾らか情報も得られれば、イリヤにも繋がるだろう。

(そもそもラナエ・ハインツはイリヤへの交渉材料として使われている可能性が高い)

 ヴィルトールは鏡の面に揺れるラナエの姿を見ながら、デュカーに問い掛けた。

「――もう一度探索の術を掛けた場合、イリヤ・ハインツへ繋がる事もありますか」

「どうやら触媒が示すのがこの娘だという点と、今現在も術式が安定していないという事を考えると、保障致しかねます。一度切って次に繋がるかは、五分かと」

「なるほど」

 そう呟き、ヴィルトールはしばし腕を組んだ。

 ラナエを今救出するか、それともまたいつ来るか判らない次の機会を待つか――

(まだ上将に連絡が取れていない。この状況で動くのは良策か――?)

 組んだ腕の内側に、軍服の懐に収めたアルジマールの触媒の感触がある。

 数日前、レオアリスを舞台上から西の地へ呼び寄せた、あの転位の触媒だ。念の為にと、レオアリスがアルジマールへ依頼して、出立前にヴィルトールへと渡されていた。

「中将殿、そろそろ、術が切れます。次を待たれますか」

 揺らぎ始めた手鏡の表面に目を落とす。

 危害を加えられてはいなさそうなものの、身重の女がいつまでも耐えられる環境ではない。

 彼女がその身に育む子の血筋と、脳裏に過ぎったヴィルトール自身の妻子の姿も、決断を押した。

 ヴィルトールは組んでいた腕を解いた。

「いや、機会を逸しない内に動きましょう。転位を」

「承知しました」

 デュカーは頷くと、再び術式を唱え始めた。




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