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最終章『光を紡ぐ』(67)


 波が半円広場の石壁に寄せ、その都度ごく小さな飛沫を上げる。

 空を雲が半分ほど埋めていたが、風に流れる雲の合間から時折太陽が覗き、広場に敷き詰められた白い石の僅かな段差さえ、くっきりと浮かぶほど鮮やかな影を落とした。


 昨日入港したマリ海軍の軍船は、桟橋の左側に四隻停泊していた。船団の内残りの八隻は沖合に場所を移している。

 桟橋の右側は、今日の主役のもう一方の為に開けられたものだ。


 十一刻。


「ファルシオン殿下」


 スランザールの穏やかな声を聞き、ファルシオンは条約の館の窓辺に立ち上がった。


「西海の船が見えました」


 一度大きく息を吐き、ファルシオンの瞳が窓の向こう、広がる海原に二つの船影を捉える。館の三階からだと沖合いに、今は遠く離れた西海の皇都――首都と、その位置を変えた――イス・ファロスの影がある。


 近付いてくる船の細部はまだ見えないが、マリ王国海軍船よりも二回りも小さく、全体で陽光を弾くようだ。


 ファルシオンはスランザールと、控えていたレオアリスを見上げ、「迎えに行こう」と頷いた。





 西海の船は、詳しく知っている訳ではないレオアリスにさえ、これまで見た船とはまるで違う物に見えた。

 三日月型の細長い船体は小船のように低く、全体が青や銀色に色を移ろわせながら光るようだ。

 そして、帆も、櫂もなく、波間を滑るように進んでくる。


 ファルシオンも瞳を見開き、驚きともに傍らのスランザールへ問いかける瞳を向けた。


「スランザール。あれが、西海の船なのか」

「寡聞ながら――私も、これまでの文献の中でも目にしたことがございません」

「スランザールも。アルジマールは……」

「あれ! あの船はどういう原理なんでしょうかね!? 帆も櫂もなくてどうやって進んできてるんでしょうか?! もっと近くで良く見たいです! いえ、一艘欲しい!!」


 アルジマールはすっかり興奮して足踏みをしている。そのまま駆け出しそうだ。


「セルファン殿」


 ベールに指名されたセルファンは、一瞬、浮かんだ戸惑いを持ち前の落ち着きの中に押し戻し、アルジマールの斜め前に膝をついた。


「ご静粛に――アルジマール院長」

「うわぁ。一番信頼失っちゃいけない気持ちにさせられるひとに言わせた」


 アルジマールがしおしおと肩を落とす。


『おい、あんな船は生まれてこの方見たことが無いぜ、どうなってんだ』


 もう一角ではメネゼスが、傍らの副官ガルシアの肩を掴まんばかりだ。

『ちょ……港を一周回してぇな。頼んで来るか。あれ一艘持って帰りゃ、陛下が相当大喜びされるだろうな』

『落ち着いてください、提督。お気持ちは解りますがそれは後ほど』


 ガルシアが見えない手綱を引いている。

 レオアリスはアルジマールとメネゼスの反応に


(わかりやすい……)


 と内心の笑みを抑え、近付いてくる船に視線を向けた。


 西海の船――

 思い出すのはナジャルとの戦いだ。


 落ちた海の中、ゆっくりと近付いて来た、巨大な、白く美しい鯨の姿。


 『灯台鯨(ファロスファレナ)』と彼等が呼んだ、西海穏健派の移動要塞であり、人々の暮らした街。あの優美な姿。


 自らが巻き起こした水の奔流の中で、静かに砕けて行った。


 ヴィルトールへ視線を向けると、同じことを思っていたのか、ヴィルトールはレオアリスへにこりと哀切の混じった笑みを返した。


(それでも、あの街は引き継がれた)


 西海の新たな首都名、イス・ファロスは、ファロスファレナの名と意志を受け継いだものだと言う。


「綺麗な船だね、すごく。内側から光ってるみたいだ」


 アスタロトは呟いて、真紅の瞳を細め近付いてくる二艘の船を見つめている。

 やがて船は、彼等の為に空けられていた桟橋へ、滑るように着岸した。


 揺れる船上に立つのは、レイラジェ、ミュイル――そして、ファルシオンやレオアリスは初めて目にする衣装の西海人二名。長く裾を降ろした二重の服は、軍人ではなく文官のようだ。

 もう一艘にも軍人が二名、文官が一名。それぞれ警護の兵が五名付いている。


(文官――軍属じゃない。そうか)


 レオアリスの中の西海軍の印象は、まだ昨年のシメノス戦で目にした姿だ。


 同時に、今はもう和平に向けて両国が進んでいることも、今の彼等が海皇やナジャルとは異なることも、彼等自身が藻掻き続け、あのファロスファレナの姿のように――ナジャルと戦った人々であることも。

 理解しておきながら、自分が知らず身構えていたことに気が付いた。いつの間にか手を握り締めている。


 彼等自身は自らを戒め、贖罪を負った上で、新たな国を造っていこうとしている。

 ただ、侵攻で踏み躙られた人々にとってみれば、その行為は簡単に許せるものではない。

 西方軍の初期の避難判断のおかげで、シメノス流域では一般人の被害は出なかったが、王都では五月のナジャル出現時、そして十月の侵攻時に多くの住民達が亡くなった。

 多くの兵達も。

 その事実は消えない。


 レオアリスは桟橋の上の一行を見つめた。

 逆に言えば、西海の人々から自分達は、どう見えているのだろう。

 王都へ侵攻した西海軍、そしてシメノスを遡上して侵攻した西海軍兵士達は、そのほとんどが失われている。


(簡単じゃない)


 これから和平条約のもとに国交を樹立し関係を深めて行くが、蟠りが本当に薄れて行くのはまだずっと先のことなのだろうと、そう思う。

 ただそれでも――


 今、一歩踏み出したことだけだ確かであり、こうして和平条約の為に訪れた彼等を迎えることは、新たな意志で前へ進む想いも再確認するようだ。


 桟橋の手前に控えていた正規兵の列から、ワッツが進み出て上陸を促す。

 西海の一行はそれぞれ緊張した面持ちで桟橋の先、バージェスの街を見上げ、迎えるファルシオン達を見た。


 レイラジェが一歩踏み出す。

 桟橋の先、広場への上り口に、三百年使われることのなかった門がある。


 その下を潜る時、レイラジェはほんの僅か立ち止まり、感慨深い様子で門を見上げた。






 和平条約の調印式は四月一日、正午に始まった。


 条約の館の一階中央にある広間は、広さ三十間四方(約90㎡)、二階までの吹き抜けとなっていた。東側の玄関がある壁面以外は、二階部分に三方にぐるりと廊下が巡らされている。階上への階段は二つ、南と北に向かい合っていた。


 広間中央に水盆が置かれている。その上の丸い天井絵が雲に遮られた淡い昼の光を通し、条約の館の広間とその下にある水盆をやんわりと淡く染めている。


 硝子のように凪いだ水盆の前に、椅子が二脚、並んで置かれていた。ふたつの席は今はまだ空席だ。

 その後ろにやや引いて、もう一つ席が置かれ、立会人であるマリ王国国王代理、海軍提督メネゼスが既にその前に立っている。


 アレウスと西海、二つの国は国主の席を挟み、それぞれ向かい合って立った。

 アレウス王国側は七名。


 ファルシオン。

 四院の長であるベール、アスタロト、ヴェルナー、ランゲ。

 スランザール、アルジマール。

 加えて領事館に赴任するヴィルトールと領事館員達。

 護衛としてセルファン、第二大隊隊士十名が立席後方に控える。


 西海も同じく七名。


 初代元首であるレイラジェ。

 武官からは大将ミュイル、かつてのヴォダ麾下の大将イフェル。フォルカロルの副官であった大将ベンゼルカ。

 文官からはグンニル、エブラーン、ザルカ。

 それぞれ条約の調整、交易の準備に携わってきた顔ぶれだ。


 バージェスに置かれる領事館に赴任するのは、エブラーンと十名の領事館員達。

 護衛として兵十名が西海側立席の後方に控えた。

 兵達はアレウス国側も西海側も、儀仗のみを持ち、武器は帯びていない。


 静まり返る広間に、街の鐘楼の鐘の音が落ちる。

 正午の鐘――十二個目の鐘の音の、澄んだ余韻の中、水盆前に立つ列席者達はメネゼス以外、それぞれ身体を斜め前方へ――二つの階段へ、互いの視線が交差するように向けた。


 彼等の視線に合わせるように、広間左右の階段の降り口に、二つの人影が立った。

 アレウス王国国王代理、王太子ファルシオンが北の階段に。

 西海元首、評議会議長レイラジェが南の階段に。

 二人は互いに目礼し、同時に階段へ足を下ろした。


 ゆっくりと広間へと降る。ファルシオンにはレオアリスが警護として従い、レイラジェにはアルビオルが同じく従っている。

 階下に降り立ち、二国の列席者達の間を歩み、ファルシオンとレイラジェは、用意されていた椅子の前に立った。


 レオアリスとアルビオルは椅子から三歩離れ、レオアリスはファルシオンを、アルビオルはレイラジェを視界に収めて立つ。


 場が整ったのを見渡し、メネゼスが一歩前へ出た。


「マリ王国国王代理として、本日、このアレウス王国、西海、両国の和平条約締結の儀にあたり、僭越ながら立会人を務めさせて頂く」


 力強い声が明瞭に広間に流れる。


「全てに先立ち、今日のこの日、この場に、二国が平和裡にまみえられたこと、心からお喜び申し上げる」


 内政官房事務官がメネゼスの側に進み、捧げ持つ絹張りの台座に載せた書状を差し出す。

 メネゼスが手に取ったそれは、和平条約締結の前段としてアレウス王国、西海の二国が整えた声明だ。


「二国に代わって、読み上げさせて頂く」


 メネゼスが朗々と張った声が、僅かに水盆の硝子に似た水面を揺らした。





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