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最終章『光を紡ぐ』(66)


 ちょうどふた月前、まだ冬の半ばの一月末に、ファルシオンは今日と同じ道を歩いた。


 あの日街はまだ修復半ばで、肌に触れる空気もずっと冷たかった。

 修復を終えた水都バージェスの道は、白い石畳が美しく敷き詰められている。


 今、ファルシオンを警護するのはごく短い隊列だ。傍らにはレオアリスとセルファン、第二大隊大将ハイマート、その左軍中将ロンベルク、第二大隊左軍の隊士十名。

 先頭を歩くのは正規軍西方第七大隊の兵が同じく十名と、大将ワッツ、そして正規軍将軍アスタロト。

 通りの脇には一月にも顔を合わせた、この修復に関わった労働者や職人達、兵士達が並び、歩いて過ぎるファルシオンを歓声と共に迎えてくれている。


 水路に架かる橋をいくつも渡り、磨かれた白い壁の家々の間を抜ける。

 通りの先にあるのは海に面した半円形の広場と、その広場の中央に建つ館。


 かつての西海との不可侵条約締結の場であり、五十年ごとに再締結の儀を執り行った場であり――

 そして明日、西海と新たに取り交わす和平条約の締結の儀を行う場――条約の館と、いつの間にかそう呼ぶのが慣わしになっていた。


 ファルシオンは視線を街の隅々へと向け、潮の気配と空気を感じながら歩いた。

 一月に歩いた時と今とでは、見える景色が何もかも違うように思える。

 街の通りも、海も、その美しさは変わらないが、ファルシオンはあの時バージェスの海を見て、父王が失われたことを想わずにはいられなかった。


 広く、青く輝き、穏やかな波が寄せていた海。その前で自分の存在は、とても小さかった。

 深い悲しみが奥底にあり、そして傍らに、レオアリスはいなかった。


 今、視線を上げればすぐに、柔らかく笑う黒い瞳がファルシオンの眼差しに応えてくれる。

 条約の館の水盆が、アルジマールの詠唱と共に黄金の光を含み、辺りを染めた。あの光景をファルシオンはまだ昨日のことのように覚えている。きっと、この先もずっと忘れない。


 目の前に現れた姿。会いたいと願い、きっと戻ってくると信じていた姿。


 ファルシオンの身体を包んだ、暖かな光を。


「ファルシオン殿下」


 少し先を歩いていたアスタロトが足を止め、声を弾ませてファルシオンを振り返る。「あの橋です」

 水路を挟み、海に張り出した広場と陽光に照らされた条約の館が見える。

 アスタロトは水路に架かる橋を背に、左手を橋へ延べた。


 西の基幹街道の終着点、バージェスの街門前にファルシオン達は王都から転位した。直接条約の館に転位することもできたがそうしなかったのは、アスタロトの希望によるものだ。

 街をもう一度歩いて欲しいのだと。

 そして、ある橋を渡って欲しい――条約の館が建つ海に張り出した広場へと水路を跨る橋を、まず見て欲しいのだと。ファルシオンが前回来た時は、その橋はまだ修復中だった。


 橋は今、側面を布で覆われていた。側面の高さは一間、全長四間(約12m)に渡る。

 緩く弧を描く橋の袂に左右それぞれ三人、橋を渡った先の袂にも、合わせて十二名、職人らしき男達が控えていた。


 ファルシオンの姿を見て彼らは膝をつき、深々と頭を伏せた。一人はバージェスの修復を指揮した工人頭のバスクイールだ。

 アスタロトが声に誇らしさと笑みを含める。


「この橋を造り上げた橋大工達です。彼等に一つ、頼んでいたことがあります。今日の為に――ファルシオン殿下をここにお迎えする為に」

「私を?」

「はい」


 アスタロトは橋大工達を振り返った。「お願い」


 彼等はもう一度ファルシオンへ深々とお辞儀し、きびきびと立ち上がると、手にしていた紐――橋の側面を覆っている布の両端に続いているそれを、声を合わせて引っ張った。

 白い布が空気を煽る音を立て、側面から剥がれる。


 布に覆われていた橋の欄干が陽射しの中に現われる。


「この街が、これからかつての繁栄を取り戻して――、そしてファルシオン殿下の御世に更に繁栄していくように」


 ファルシオンは瞳を見開き、目の前に現われた橋の姿を見つめた。

 橋の側面、腰の高さほどの壁状の欄干は白い大理石が用いられ、浮かし彫りの彫刻が施されている。それから、親柱と呼ばれる橋の袂の角柱には、それぞれ人の胸像が刻まれていた。


 橋を挟んで向き合うようなそれは、街側に王。

 そして海側に幼いファルシオン。


「――父上……」


 ファルシオンは瞳を見開いたまま、小さく呟いた。

 傍らに立つレオアリスの顔を見上げ、その手を握る。


 街側にある王の彫刻は、右手を欄干に沿って海へと延べている。

 橋の先に王を向いて立つ、ファルシオンの像へと。

 深い知性と威厳を称えた横顔は、ファルシオンがいつも見ていた父王のものだ。

 口元の温もりを帯びた笑みも。


 ファルシオンの瞳から涙が溢れる。

 次々と伝うそれを、ファルシオンは手の甲で拭った。まだ繋いだままの手を、レオアリスの手が握り返す、優しいその力。


「父上だ」


 まるでファルシオンへ想いを託すような。

 そしてファルシオンを、懐へ迎え入れるような――

 父王が見守ってくれているような、そんな想いがファルシオンの胸の中に膨れ上がった。


 父王の存在はここにあって、そしてファルシオンのそばにあって、いつも手を差し伸べていてくれるのだと。

 ファルシオンにこの国の未来を、託して、信じてくれているのだと。


 一歩、足を踏み出し、そして歩み寄り、ファルシオンは父王の姿を刻んだ親柱に両手を伸ばした。

 手のひらで石の表面に触れる。

 冷たい石の奥に、確かに、温もりを感じた。


「――ありがとう」


 伏せた瞳から、金色の光を帯びた涙の粒が零れた。







 同じく三月三十日、和平条約締結に向けてバージェスに入ったのは内政官房長官ベール、地政院長官ランゲ、財務院長官ヴェルナー、スランザール、法術院長アルジマール。

 更に同日付けで西海の首都イス・ファロス領事に任命されたヴィルトールとその家族、それから十五名の領事館員もバージェスに到着していた。


 彼等はファルシオンに一歩先んじてバージェスに入り、ファルシオンの為に条約の館を整えて到着を待っていた。


 それから、もう一人。





 太陽が水平線に落ちて行く午後四刻。沈む太陽の左、水平線の上にぽつりと一つ、黒い点が現われた。

 次第に大きくなるにつれ、一つの点だったそれは幾つもに分かれ、やがて船の形が肉眼でも分かるまでに近付いた。

 船団だ。


 アレウス国がその船団を迎えるのは、これで三度目になる。そして復興したバージェスが初めて迎える船でもあった。

 マリ王国海軍、メネゼス船団の十二隻。


 十二隻の船はいずれもマリ王国海軍旗を掲げ、その上で船首に二つの旗を並べて掲げている。

 揺れる旗の一つはマリ王国国旗、もう一旗は、アレウス王国国旗。


 迎える半円広場にも同様に、二国の国旗が並べて掲げられ、吹き渡る風に揺れていた。





 白い帆を掴んだ風で大きく膨らませ、十二隻の軍船は水都バージェスの港へ入港した。

 とは言え桟橋に停泊できるのはまだ八隻までで、残りの四隻は桟橋の先に錨を下ろしている。

 一番外側に停泊した旗艦から降りたメネゼスは、真新しい桟橋を歩き、海に向かって造られた門を潜った。


 門は半円広場の縁、海との境に一つだけ、壁も天井も扉も無く、二つの国の境界を繋ぐように置かれている。

 大戦前、双方の慶賀使の行き来の為にこの門が使われていた。


 大戦の間、そして大戦終結後三百年間もこの門は海に向けて開かれていながら、来訪者が行き来する為の門として使われたのは絶えて無かったことだ。

 三百年の間――五十年に一度の行き来の時のみ、館の水盆が道として用いられた。


 メネゼス一行は広場に迎え出たファルシオンの前に進んだ。

 伴った部下達を後方に残して立ち止まり、メネゼスが片膝を一度軽く石畳に折る。


 ファルシオンは一歩進み出た。


「ようこそお越しくださいました、メネゼス提督。今回、西海との和平条約締結において、締結の証人として貴方を、マリ王国国使としてお迎えできたこと、心から嬉しく思っております」


 メネゼスはそのまま膝を下ろし、深々と一度、礼を向けた。

 上体を起こし、隻眼でファルシオンの面を見上げる。


「昨年十一月から、季節は瞬く間に巡りました。復興したこのバージェスに我々マリ王国が第一歩目を刻めたこと、そして王太子殿下へ再度の拝謁の栄に浴せたこと、光栄に存じます」

「どうぞお立ちください」


 ファルシオンに促され、メネゼスは身を持ち上げた。

 六尺三寸(約190cm)の(いわお)を思わせる武人の前で、まだ四尺に満たない小さなファルシオンは自然体で向き合っている。

 メネゼスは上体を軽く伏せた。


「この度、マリ王国国王イグアス三世の名代として、貴国及び西海、二国間の和平条約締結の立ち会いとして参りました。我が王、そしてアレウス国王太子殿下の御名のもと、大役を務めさせて頂きます」


 広場を吹き抜ける海風と同じ、爽快さを覚える声の響きに、ファルシオンは大きく頷いて微笑んだ。


「どうぞ、よろしくお願いします。さあ、長旅でお疲れでしょう。今晩はお身体をゆっくりと休めてください」


 ファルシオンの挨拶が済むと、次にベールが進み出てメネゼスと握手を交わした。


『簡略な席ではありますが、宴席を設けております。麾下の兵士達にも羽を伸ばして頂ければ。短期間での重ねての航行に報いられるものであれば良いのですが』


 ベールのマリ語に対し、メネゼスは隻眼に喜色を浮かべた。


『アレウス国への航路はすっかり馴染み深くなりましたが、有難い。特に部下達をおかで休ませてやりたいと思っています』

『本番は明日、西海との和平条約締結後、正餐の席にご出席頂きます。そこでまた、今後のことも含め、有益な話を交わせれば』

『ぜひ。その結果を我が王も心待ちにしております』


 ランゲも握手の為に手を差し延べる。


「まだ貴船団の十二隻全て、桟橋でお迎えすることができず恐縮の思いです。今後港を拡張した暁には、桟橋に十二隻全てが並ぶ威風を感じることができましょう」

「貴国の変化には目を見張る思いです。それが可能になるのも遠いことでもないのでしょう。その際はぜひ、寄港させて頂きます」


 続いてアスタロトへ、メネゼスは歩み寄り、片腕を額の前に掲げるマリ王国海軍式の敬礼を捧げた。


「将軍閣下。フィオリ・アル・レガージュで共に戦えたこと、光栄に存じます」

「こちらこそ、メネゼス提督。あの船団の火球砲が、道を切り開いてくれました。心から感謝を――。救助と、それから捜索に協力して頂いたことにも」


 ナジャルとの戦いで海に落ちた兵やレガージュ船団の水夫達を、マリ海軍の兵も協力して救助してくれた。

 その後の――行方が分からなかったレオアリスの捜索も長く続けてくれていた。


 メネゼスは隻眼を続いてもう一人、ロットバルトへと向けた。


「ヴェルナー侯爵。見事な戦術を見せて頂いた。財務院に身を置かれるのは軍人として惜しいと思いますが、とは言え全体を俯瞰できる場に立たなければ組み上げるのは困難な戦略でもありました」

『無理を申し上げました。しかし一つでも欠ければ、今日のこの日は無く、今も尚戦っているか――アレウス国は壊滅に瀕していたかもしれません。マリ王国、そして貴船団の御尽力に、深く感謝いたします』

『そう言って頂けると、兵達も喜ぶでしょう。我々も大切な交易先を失わずに済んで良かった』


 メネゼスは最後にレオアリスへ歩み寄った。

 片手を延べる。


「レオアリス殿――。貴殿と再びこうしてお会いできたこと、僭越ながらアレウス国へ、そしてアレウス国王太子殿へ、深い慶賀の念を表したい」


 レオアリスは差し出されたメネゼスの右手を握った。手のひらは長年握り続けた剣と、おそらく船の帆を繋ぐ綱などの索具を扱い続けたことで、固く分厚い。

 メネゼスの隻眼を見つめる。


「温かいお言葉、御厚情に私こそ、心から感謝致します。それからこれまで、そして今回の貴国のご協力に対して、心からの御礼を申し上げます」

「初めて会ったのは、レガージュ海上の船の上だった。あの時はこうして手を握り合うことはなかったが――いや」


 握る手の力が増す。


「貴殿が無事戻り、今言葉を交わせることをまずは喜びたい」


 手を離し、一度、二人の会話を見守っているファルシオンへ視線を向けた。

 銀色の柔らかな髪が陽光を受け、瞳と同じような金色を含んでいる。


 一年前――そう、ほぼ一年前だ。メネゼスが率いるマリ海軍の船団がレガージュ沖に現われたのは。


 あの時メネゼスの目には、ファルシオンはまだまだ幼く、経験もなく、ただ勇気だけを抱えて立っているような存在だった。


「五月の即位式では我が王と共に、王太子殿下がその頭上に王冠を戴く姿を拝見できることを楽しみにしているが」


 隻眼が和らぐ。


「俺は個人的にも、王太子殿下がどのような国を造り上げるか、この目で見たいと思っている。きっとその傍らには貴殿がいるのだろう。一年前の船上と同じように」


 心して支えろ、と、メネゼスは力強く言い、笑った。





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