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最終章『光を紡ぐ』(52)

 

「お母様、お帰りなさい。お兄様にはお会いできた?」


 玄関へ出迎えた娘を、オルタンスは腕を伸ばして抱き締めた。どれほど外にいたのか、肩や頬がすっかり冷えている。


「まあエルゼリート。こんな寒い場所にいて。そもそも高貴な令嬢は、玄関の外に出て迎えたりしては駄目よ」

「お帰りになると聞いて、随分積もっていたから、お母様が無事帰っていらっしゃるか、気になったの。それに、雪景色もとても綺麗だもの。私が生まれてから、これほど降ったのは初めてなのじゃないかって」


 オルタンスが暮らす館は玄関広間も主邸より小さく、暖炉の温もりが行き渡っている。

 玄関広間に入って暖かい空気に当たり、オルタンスはほうと息を吐いた。馬車の中には足元に温石を置かれているが、それでも寒い。


 もう一度、今度は苛立ち混じりの息を吐く。


「あのルスウェント伯の忌々しさと言ったら……」


 思わず呟きが混じった。

 ヴェルナーに迎え入れられた時から、ルスウェントの目は厳しかった。

 相応しい言動を。奢侈に耽るな。過分に求めるな。出過ぎるな。


「侯爵夫人であるわたくしに」


 エルゼリートが母の袖をそっと引く。


「お母様。お兄様に――」

「そんな幼い仕草をしないでちょうだい、エルゼリート。もっと毅然となさい。貴方は侯爵家の娘なのよ」


 今年十四歳になるエルゼリートは、オルタンスにはもどかしいほど大人しい性格をしている。主邸から移った後もだが、主邸にいた時から不満も、贅沢も言わない。


(誰に似たのかしら)


 眉を寄せて溜息をつく。


(こんなおっとりした性格じゃ、このままこの館の中で埋もれて行くだけだわ。最悪、私だけベドナーシュ家へ戻されることになったら、この子は自分から表に出ようなんてきっとしない)


 それは避けなければ。

 自分譲りの容姿、艶やかで柔らかい黒髪、夫であるヴェルナー侯爵と同じ蒼い瞳。

 将来とても美しい貴婦人として、社交会の華として注目を集めるはずだ。


 磨き上げ、そして社交の場で誰よりも輝いて、相応しい相手へ嫁ぐ。

 容姿も、地位も、それが可能な娘なのだ。


「お母様は負けないわ。ベドナーシュ家に戻されたりしない。そして貴方を必ず、最高の女性にしてあげますからね」


 エルゼリートの両手を掬い上げるように取る。

 居間へと戻って柔らかな絹張りの長椅子に共に腰掛け、蒼い瞳を覗き込む。


「今日の礼儀作法の授業はどんなことを教わったのか、お母様に教えてちょうだい。微笑み方? 言葉遣い? 踊る時の裾の扱い方?」


 さすがは侯爵家、社交界でも人気の高い礼儀作法の教師が幾らでも呼べるのだ。エルゼリートには最高の教師を何人も付けている。


「慎ましく、そして誰よりも注目を受けるには、基本ができていないと駄目。貴方も来年はいよいよ社交の場に出るのよ。その時はわたくし達は公爵家。公爵家の令嬢として恥ずかしくない振る舞いをして、誰よりも注目され、高貴に美しく、気高くあること。この国で貴方よりも位の高い方は、ベール大公夫人とアスタロト公爵を除いては、お二人だけよ。だからお相手も、きちんと相応しい格の方を選ばなくては」


 心の中に秘めて口には出さないが、エルゼリートならばファルシオンの元へ輿入れする可能性も大いにあるのだ。

 侯爵家以上を見渡せば適齢の娘は少なくないが、それでもヴェルナーが最も格が高い。


 エルゼリートは十三歳、ファルシオンは六歳、七歳差は家の格を元に婚姻を考えれば、まるで問題ではない。

 エルゼリートが最高の幸せを手に入れることができると思うと、心が弾んだ。


「いいこと、まずはしっかりと自分を磨いて――」

「あの、お母様」


 おずおずとした様子で、エルゼリートは口を開いた。


「なあに」

「ええと」


 話術の教師も要るわねと、とオルタンスは独りごちた。

 主張できなくては人の心には残らない。流暢な、相手の心を掴む話術がもう一つの武器なのだ。


「はっきりお言いなさい」

「ええと、朝、お願いしたこと――学術院で、お勉強がしたいって……。あの、お兄様に、お話してくださった?」


 エルゼリートは期待を膨らませ、瞳を見張った。


「私、お兄様みたいに学術院で学んで、それで、いつか財務院……とか……」


 呆れと落胆が混じった母の顔を見て、声はみるみる小さくなり、口の中に消えた。

 オルタンスは溜息と共に首を振った。


「エルゼリート、またそんなことを。貴族の令嬢として必要なのは、相応しい相手の目に留まるよう、自分を磨くことよ」

「でも」

「高貴な家の娘が学問なんて。駄目よ。ましてや学術院だなんて、社交界で笑われるわ。変わり者と見られたら嫌でしょう? 勉強なんて主邸に立派な図書室があるから充分。ああ、でもあの図書室のせいで学問だなんて、そんなことを言うのかしら」


 主邸にいる頃、エルゼリートは目を離せば一階にある図書室に入り浸っていた。オルタンスとしては本よりも美しい衣装や宝石に興味を持ってもらいたかったが――


 オルタンスはそこで、はたと手を合わせた。


「そうだわ、図書室――」


 図書室ならばロットバルトが利用する機会も多いはずだ。


「エルゼリート、主邸の図書室ならば、幾らでも連れて行ってあげるわ」


 美しい頬を輝かせた母を見つめ、エルゼリートは困ったように微笑んだ。





 晩餐の席にもいくつかの種類がある。

 晩餐会として多くの招待客を招き、盛大に催されるもの。当主は席の主人として、大食堂か館の中で最も豪奢な広間を会場にして、贅を尽くした食卓を整える。招かれる側は正装に身を包み伴侶や婚約者を伴い、一人で参加する姿は余り見られない。


 家族間の食卓も、正式な作法に則った食卓は晩餐として、やや格式張った場になる。身内のみが席に着くが盛装をするのが基本だ。実際のところ、侯爵家などでもそう毎日格式張った食卓に着くことを好まず、三日に一回程度に抑えている家も少なくないが、晩餐の場としては当然最も機会が多い。


 そして二番目に多いのが、少人数の限定した相手を招き、目的を持った会話をする為の場として仕立てられる晩餐会だ。


 ヴェルナー侯爵家長老会が開いた晩餐会は、今回、近衛師団総将への就任を控えたレオアリスと胸襟を開いて会話し、親睦を一層深める為のものだった。


(味がしない……)


 いや、美味しい。多分とても美味しいのだが、意識を集中しているのが料理ではなく、自分の手の動きであり、向けられる視線であり、交わされる言葉であり、そしてずらりと十人ばかりは後ろに控えている給仕達であり、料理を味わう余裕が全くない。


(つらい)


 唯一救いは今日の主客が自分自身であり、そのお陰で当主であるロットバルトが隣の席にいることだ。

 目の前がルスウェントだが。


(うう……)


 目の前に新たに置かれた料理は、白い(無駄に)広い皿に一口分程度の肉と野菜が彩りよく盛り付けられている。皿の縁は金と青で繊細な彩色が施され、これ一枚でも価値がありそうだ。


 あと何皿出てくるのかと憂えながら傍らに顔を向けると、若い当主の優美としか言えない物腰の笑みが返った。


(うう)


 幾つもある銀器から決められたものを手に取る。料理によって使うものが決められている。

 葡萄酒を注ぐ音、食器の立てる微かな音、給仕達が絨毯を踏む柔らかな足音。高い天井から幾つも吊るされた燭台の投げる煌びやかな灯り、真っ白な布を張った卓上の銀の燭台や幾つもの器、硝子の杯が揺れる光を柔らかく弾く。


 十人が席に着いていても食堂は静かと言っていいほどで、その中を低い、何とも落ち着き払った笑い声がその静けさを壊さずに響く。


「レオアリス殿と言えば、やはり先のナジャルとの戦いの武勲を挙げられる方も多いと思いますが、私が印象深いのは王都での戦いでしょうか」


 顔を向けたのはブラウドール伯爵だ。豊かな口髭と髪は白髪混じりの灰色、髪の色よりももう少し薄い灰色の目はより老成した印象を受ける。


「長く眠っておられた直後に、王太子殿下の危機を救われた」

「確かに、後から状況を聞いた私でも、どれほど安堵に胸を撫で下ろしたことか」


 ブラウドールの傍らで頷いたサンドニは子爵で、ブラウドールよりやや若そうだ。

 レオアリスは二人へ丁寧に会釈した。


「過分な評価を頂き、痛み入ります。ただあと数日、いえ、半日でも早く目が覚めていれば、もっと自らの役割を果たせたと思うと、申し訳ない思いです」

「何の――西海の王都襲撃など、誰しも考えの及ばないところでしたからな」


 ブラウドールは思い出しても身が震える、と首を振った。


「これまで幾度となく王太子殿下を護られた、その功績があってこそ、この度の近衛師団総将就任となった訳ですね」


 そう言ったアッヘンバッハ子爵は、小柄でこの場で最も年齢が高く八十歳を越えているが、その刻んだ歳月に加え穏やかさと品の良さが全体から滲み出している。


(一番ほっとする)


 とは言え、レオアリスを主客として招いている為か、全員見事なまでに会話の中心にレオアリスを置いてくる。


 さすがはヴェルナー侯爵家の長老会、来賓をもてなす心配りに一片の曇りも無いと、感心させられつつ、顔が引き攣らないようレオアリスは最大限の努力で礼節を保った笑みを維持した。





 晩餐の場が終わったのは開始から二刻が経った、夕六刻を過ぎた時分だった。


 招待への礼を述べ終え、廊下に出ると大食堂よりも冷えた空気が身を包んだ。開放感も相まって心地良い。


(任務を果たした――)


 とにかく無事に終わったことにほっと胸を撫で下ろす。

 大体の会話はロットバルトが繋いだり引き取ったりしてくれたお陰で問題なく乗り切れた。


 窓の外はすっかり暗い。雪はどれほど積もっただろうか。

 余り積もり過ぎるとさすがに、馬車での移動は困難かもしれない。


(歩いてもいいけどな、久し振りに)


 王都なら道に迷う心配もない。


「こちらへ」


 侍女が恭しくお辞儀し、前に立って歩いていく。


 この廊下も天井まで二間ほどの高さがあり、天井は弓を張ったような造形が美しく連なっている。穹窿(きゅうりょう)天井と呼ばれる様式だ。

 廊下の右側にある窓は一つひとつが広く、天井と同じく頂部が尖った弓状を型取っている。硝子を縁取る装飾的な枠が窓を光と景色を取り入れる役割以上のものにするようだ。


 等間隔に降りる柱とその間の壁には落ち着いた浮き彫りで装飾されており、時折絵画が掛けられ、談笑用にか長椅子が置かれている。


(すごい館だな)


 心に余裕が出てきたレオアリスは歩きながら、美しい造形の一つ一つをしげしげと眺めた。

 晩餐の食堂は重厚な趣きで、最初に通された応接間とも趣向が違った。

 議場は壮麗だったが、そもそも議場が家の中にあるのがもう驚きだ。

 長老会を有する侯爵家ともなれば、個の家というよりも組織と言った方が近いのかもしれない。


 長い廊下を過ぎ、角を左へ一度、右へ一度曲がると左側に階段が現われる。

 侍女は階段を降りるのではなく、昇っていく。


「え」


 侍女は振り向き、「こちらでございます」ともう一度深々とお辞儀し、付いてくるよう促した。


「ま――」


(だあるのか?)


 今度は何だろう。

 長老会での挨拶、晩餐の場での親睦、その後は、と急にまた両肩に重石が乗ったような気分になりながら、これもまた目を見張るほど美しい木製の手摺りを巡らせた階段を上がる。


 上がり切ると広い空間を抱えた回廊に出た。階段から続く木製の手摺に囲まれたそこは、一階までの吹き抜けになっている。玄関広間の吹き抜け空間とはまた違う場所だ。


 束の間気鬱さを忘れたレオアリスを案内し、侍女は一つの扉の前で立ち止まった。

 二階で見た先ほどまでの扉とは異なりやや小振りの、高さ七尺(約210cm)ほどの落ち着いた木製の扉だ。


 開いた扉から部屋に入ったレオアリスは、感嘆に目を見開いた。

 六間ほどある横長の部屋は、壁一面が天井まである作り付けの書棚になっている。二階分の空間があり、二階の床に当たる位置には瀟洒な手摺りを設けた細い通路が巡らされている。

 書棚に掛けられた梯子、整然と隙間なく並べられた書物の革の背表紙は、蔵書が一体何冊あるのか数え切れない。


 部屋には幾つもの椅子が置かれ、向かいの壁の中央に張り出した暖炉には火がゆるやかに揺れている。

 奥寄りにある広い文机と椅子。


「書斎――」

「どうぞ、もうしばらくこちらで、御自由にお寛ぎください」


 そう言うと侍女は恭しくお辞儀し、レオアリスを一人残して扉を閉めた。


「もうしばらく?」


 いつまでかとか、この後どうするのかとか説明が欲しいと思ったが、改めて見回した空間はひどく落ち着く心地良いもので、自分一人しかいないこともありレオアリスは息を吐いた。

 書物が大量にある空間といえば王立文書宮だが、文書宮とはまた違う、濃縮された、それ故に落ち着ける空間だ。


「本を読んでいいってことかな」


 見れば既に飲み物などが低い卓の上に用意されていて、ということはしばらく出入りはないのかもしれない。

 とはいえ勝手に手に取るのも躊躇われる。レオアリスは視線を巡らせ、取り敢えずどんな本があるのか、ひとしきり眺めることにした。


 本棚の背表紙を眺めながら歩いていると、壁を埋める書棚の中で一箇所、ちょうど扉二枚分ほどの空間になっていることに気がついた。近づくとそれは窓だ。

 レオアリスは瞳を輝かせた。


 ただの窓ではなく、半間ほどの奥行きがある空間だ。部屋とは言い難い。腰掛けられるように床が一段上がっていて、そこに綿を詰めた触り心地の良い布が敷き詰められている。

 壁の片側は寄りかかりやすいようにか緩い曲線を描き、ちょうど首を置く部分が膨らんでいる。


 隠れ家のようなその空間の魅力に堪らず、レオアリスはそこを居場所に決めて、曲線を描く壁に寄りかかった。


 息を吐き、窓の外に目を向ける。

 暗い夜の中、雪が静かに降っている。


 暖炉の中で、薪が一度、微かに音を鳴らした。





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