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最終章『光を紡ぐ』(50)

 

「何故ここに貴方がいるのです」


 詰問調の高い女性の声に、レオアリスはそれが自分に向けられたものだと思い、顔を向けた。


 だが声は扉口に立つブロウズに向けられていて、発したのは訪ねてきた若い女性だった。侍女ではなく、その身なりから身分の高さが窺える。

 一度だが、見覚えがある。見かけたのは王城の夜会の席だったか――ヴェルナー前侯爵の、夫人。

 ロットバルトにとっては義理の母に当たるのだろう。年齢的には姉と言った方が近いのだが。


 オルタンスは扉を開けたブロウズへ眉を寄せた。


「まあいいでしょう。わたくしはこちらの方に大事なお話があるの。お前、しばらく部屋の外に出ていてちょうだい」


 ブロウズは低く上体を伏せたが、頷かなかった。


「御言葉ではございますが、お客様のお側を離れぬよう御館様から指示を頂いております。私のことはいないものとお考えください」

「わたくしがお願いしているのよ」

「私の主人はヴェルナー侯爵でございますので、主人の許可がない限りは承りかねます」


 オルタンスは自分の意を汲まない従者をむっと睨みつけた。


「いいわ。ではせめて部屋の隅に離れていて」


 そう言い置き、オルタンスは改めて姿勢を整え、レオアリスへ優雅にお辞儀した。

 身を起こすと黒髪がさらりと流れる。


「急な訪問、お許しいただけますね。わたくし、先代侯爵の妻、オルタンスと申します」


 レオアリスは思い掛けない訪問を受け、ブロウズがこの場に残ってくれたことにほっとしながら、一歩前に出て左胸に腕を当て上体を伏せた。


「お初にお目に掛かります」一瞬、呼び名に迷う。「夫人(フラゥレ)。近衛師団大将、レオアリスと申します」


 フラゥレは未婚、既婚に関わらず身分の高い女性全般に使う呼称だ。既婚女性に対してはフラゥマと語尾を変化させる呼びかけもあるが、初対面の場合はフラゥレがより礼節を保てる。


「緊張なさならくて良いの」


 オルタンスはにこりと微笑んで、暖炉の前、紅茶が置かれた低い卓を挟んだもう一つの椅子に腰を降ろした。二つの椅子が斜めに向かい合う配置になっている。


「どうぞお座りになって」


 優美な手振りでオルタンスはレオアリスに椅子を勧めた。

 前侯爵夫人と向かい合って座る――というかそもそも二人のみ、対面で会話する状況に戸惑いを覚えたが、立っている位置が近過ぎて見下ろす状態になってしまう。


 ちらりと扉を見たが、長老会への呼び出しはまだ来ないようだ。


「失礼します」


 レオアリスは腰掛け、オルタンスが口を開くのを待った。

 オルタンスは両手を口元で合わせた。そっと頭を傾ける。


「貴方にお会いできて、とても嬉しく思っております。この度は、近衛師団総将にご就任なのですね。わたくしからもお祝いを申し上げさせてください」

「恐縮です」


 予定には無いこの会話が、ロットバルトにとってどのようなものになるだろう、とレオアリスは考えを巡らせた。

 ロットバルトの口からこの女性のことを聞いたことは無い。

 父侯爵に関することをほとんど話題にしなかったからでもあるが。


「貴方のことは他にもお聞きしました。北の、とても淋しいところでお育ちになったとか――お可哀想。王都に上られてからもさぞ苦労なさったのでしょうね」

「苦労は、特に――。至らない点としては多くありましたが」

「まあ。控え目でいらっしゃるのね」


 オルタンスは慈しむような眼差しで微笑んだ。


「ロットバルトが貴方を信頼していると聞いています。他者を寄せ付けないところがあるから、とても不思議――立場が全く違うからかしら。本来だったら言葉を交わす機会もないでしょう?」


 どう返答すべきか迷うレオアリスを他所に、オルタンスは僅かに膝を寄せた。声を潜める。


「貴方にお願いがあるのです」


 首を傾け、斜め下から見上げる。


「ロットバルトは昨年ヴェルナーを継がれて、この五月には公爵に叙されます。そうなると一つ、問題が出てくるの。お分かりでしょう」

「問題、ですか」


 慎重な返しにオルタンスは緑の瞳にじれったさを浮かべた。


「お立場が違うからお分かりにならないかしら――。身分の高い方は、正式な場では伴侶を伴うのがしきたりなのです。けれど今、ロットバルトはまるでそのお考えがないでしょう」


 ようやく、オルタンスが言わんとしていることが見えてきた。


「貴方からも、ロットバルトに言ってほしいの。いい加減相応しい伴侶を選ぶようにって。正式な場に伴う者もいないなんて、周りからどう思われるか……」


 貴族のしきたりや考えは、漠然とではあるが理解できる。

 ただレオアリスが口を挟む内容かと言われれば、違う。


「申し訳ありませんが、その件は私などが何事かを申し上げる内容ではございません。ご本人の意思に寄らなくては」

「では、わたくしも共に長老会に出ます。そこでこのことを申し上げて、考えて頂きたいの。いいでしょう?」


 唐突だ。

 レオアリスはさすがに返す言葉を思い付かず、束の間口籠った。


「――それも、お応え致しかねます。長老会については、私は御招待を頂いただけの者なので」

「そんなことを仰らず――わたくし、常々お伝えしているのに、誰も耳を傾けてくれようとしないのよ」


 オルタンスは椅子から立ち上がり、レオアリスの近くに寄った。

 押されるようにレオアリスは立ち上がった。


「この家でわたくしの味方はいないのだわ。貴方が頼りなの。貴方から私も長老会に出られるよう、ロットバルトにお願いしていただきたいのよ」

「いえ――」


 ブロウズに視線を送る。

 一歩前へ出かけたブロウズへ、「お前は下がっておいで」と短く言いつけ、オルタンスは立ち上がったレオアリスの手へ、指先を伸ばした。


 咄嗟に一歩身体を引いたのは、挨拶以外で手などに触れるのは礼を失する――特にこうした状況では――からだが、失敗したと、レオアリスは内心頭を抱えた。

 オルタンスの目に憤りが浮かんでいる。


「わたくしに、恥をかかせるの――」

「失礼致しました。決してそういうつもりでは」


 やや冷徹と言える声が割って入る。


「貴方に長老会への出席の権利はありません、ベドナーシュ(フラゥマ・)婦人(ベドナーシュ)


 オルタンスはびくりと顔を上げ、扉口を振り返った。

 そこにいつの間にか立っていたのはルスウェントだ。


「ル、ルスウェント伯爵――」

「こちらに何の御用でおいでですか。当主の、そして長老会の招いた客人に、失礼な振る舞いをされては困る」

「わたくしは、何も失礼はしておりません。そこの者にお聞きになったら」


 ブロウズを示すと、


「では、その者に仔細を確認しましょう」


 ルスウェントは頷いた。オルタンスは顔をこわばらせ、「失礼致します」と押し出し、ルスウェントの横を抜けて廊下へと出た。


 レオアリスは盛大に零しかけた息を堪え、ルスウェントに向き直ると一礼した。


(何だったんだ――)


 全く流れが掴めない。


(いや――長老会――?)


 一番の目的は長老会に出席することだったのだろうか。

 ひとまず安堵したが、とは言え次に目の前にいるのはルスウェントとなると、全く状況が変わった気がしなかった。


(帰りたい……じいちゃん……)


「不作法なことで、さぞ面食らわれたでしょう」

「いえ。私こそ、不作法をしていなければ良いのですが」

「それはここにいた従者が理解しております」


 ブロウズは顔色を変えていないが、ルスウェントの言葉に顔を伏せた。


(ロットバルトに感謝しよう)


「長老会前にお話をさせて頂きたいと考え、こちらに参りました」


 ルスウェントが椅子に座るよう促し、レオアリスはうっかり無限循環に陥ったような感想を覚えてしまった。

 精一杯気を取り直し、椅子に腰掛ける。本番はまだこの後だ。


「わざわざ長老会へお呼び立てして恐縮です。この度の近衛師団総将への就任に、正式に祝福をお伝えしたいと考えた故です」

「私の方こそ、これまでの御高配に対し、御礼を申し上げる場を頂き感謝致します」


 ルスウェントは五十を過ぎた思慮深い面に笑みを浮かべた。

 一見しただけではとても穏やかで、眼差しは親しみを覚える。


「以前、一度お話をさせて頂きましたが、その時私は身勝手なことを申し上げました」


 ルスウェントとの会話は記憶に新しい。

 昨年の十月、レオアリスが目覚めて――西海軍が王都へ侵攻し、防衛を果たした後、ファルシオンが開いた夜会の時だった。


 あの時も同じように、ルスウェントは穏やかな笑みを浮かべ、爵位を継いだロットバルトの立場は既に変わっているのだと説き、一つの理解を求めた。



『貴方には、当主はこれまでと同じようなお立場ではない事をご理解いただき――、大将殿』


『無礼を承知で申し上げますが、貴方ご自身の振る舞いや今後の展望を踏まえた身の処し方も、お考えいただきたいと願っております』



 つまりは後見をする以上ヴェルナーの名を損ねることの無いように、と釘を刺したのだ。

 更に踏み込んで言えば、ヴェルナーの利益になれ、と。


 ルスウェントは満足気に微笑んだ。


「貴方は素晴らしい栄達を果たされました。心から喜ばしいことだと受け止めています」

「王太子殿下には身に余る立場を与えていただいたこと、そしてヴェルナー侯爵と長老会の皆様にご支援頂いたことに、深く感謝しております」


 長老会、もう出なくて良くないか、とレオアリスは心の底から願った。


 その願いは虚しく、再び扉が叩かれると、訪れた執事が議場への案内を告げた。






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