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最終章『光を紡ぐ』(46)

 

 滝の音が足元から遠く響いてくる。太陽は断崖の縁から顔を覗かせ始めたところだ。

 熱砂と呼ばれるアルケサスの奥深くに位置しながらも、切り立った崖に囲まれた深い峡谷は灼熱の大地と切り離されて涼しく、一年を通じて一定の温度を保っていた。


 峡谷の深さはおよそ七十間(約210m)、その中に島が浮かぶように見える台地が七つ、谷底から屹立する様は壮大な光景だ。

 台地の一つ一つには畑や広い草地や、時折木造の平家があり人の営みを感じられるが、特徴的なのは台地の壁面、強固な岩壁を削り出して造られた階段と住居だった。自然のままの無骨な岩壁を削り出し、そこだけ優美と言える窓や壁面が連なっている。


 剣士の氏族、南方、ルベル・カリマの里。

 七つの台地の中央、崖下を見下ろす台地の縁に、カラヴィアスは立っていた。

 縁にぐるりと回された腰高の壁は、落下を防止するには心許(こころもと)ないが、それを気にする様子もない。


 離れた場所に来客を迎える為の高床造りの平家があり、その周囲に樹々が植えられ、ゆるい風が谷底から吹き上がるごと、滝の音と混じり梢がさわさわと音を立てた。


 風はカラヴィアスの黒髪も揺らす。

 この里の印象は常に滝の水音と風の音だ。

 遠く流れるそれに別の音――軽い羽音が混じり、カラヴィアスは眼下に落としていた視線を上げ、振り返った。


 視線の先で、空から滲み出るように一羽の燕が現われ、樹木の枝先に降りたところだった。

 一般的な、伝言屋で調達できる伝令使だと判る。

 伝令使は一声、本来の愛らしい声で囀った。


 カラヴィアスは歩み寄って手を伸ばし、嘴に指先で触れた。


『――カラヴィアス殿』


 小鳥型ならではのやや高い、だが愛想のない響きがプラドだ、と名乗る。


「借り物とは言え、似合わん伝令使だな」


 笑うカラヴィアスの前で、伝令使は王太子ファルシオンがレオアリスを近衛師団総将として公示した、と告げた。


 カラヴィアスが目を見開く。

 次に苦笑が混じった呟きは、報せの唐突さによるものだ。


「まずレオアリスが戻ったことと、その経緯、それと状態がどうなのかを説明して欲しいものだが」


 先月末、戻るかもしれないと、その一報は聞いていた。

 その後特に連絡はなく、次に来た連絡が一足飛びに近衛師団総将に就く、とは。


 なかなか刺激的な報せではあるが、戻ったこと、そしてレオアリスの状態こそを聞きたかった。


「任命されるのならば、状態は悪くはないのだろうが――しかし、総将か」


 感心に目を細め、カラヴィアスは伝令使を見つめた。

 伝言を終えた燕は羽繕いに夢中だ。


「アレウス国も思い切ったな」


 返答を返そうと伝令使の嘴に触れかけたとき、もう一つ、伝言が流れた。


『レオアリスを護り、傷を癒したのは王だ』


 束の間見つめ、「そうか」と返す。詳細は不明だが、いずれ聞く機会もある。今はその言葉で充分だ。

 カラヴィアスは報せへの礼を言い、伝令使の前を離れた。


 切り出した石を腰高に積んだ塀に再び寄りかかり、空を見上げる。

 用件を終えた伝令使が空へ飛び立ち、青く澄んだ光の中に消える。

 カラヴィアスはその輝きの中に、昨年の夏、この里を訪ねて来たアスタロト達の一行のことを思い出した。


 それから、ザインと。


 あの時、カラヴィアスはルベル・カリマとして――剣士の氏族として、西海との戦いに参戦して欲しいという彼等の願いを退けた。アレウス国への協力が考えられないのであれば、ルフトの為にも、と告げた願いを。




『我等に利が無い。参戦の目的は何だ? この地を離れる理由は? 王国にそれほどの恩は無い。受ける理由が無い』



『我々は今でもルフトを敬愛し、喪われた彼等を悼んでいる。その彼等の子の為であれば、何らかの手を貸したいとも思う。何よりもその子は、ここ百年来ようやく生まれた子供なのだからな』



『だからこそ、我等は憤ってもいる』

『王は都合よく彼を使ったのではないか』




(その(わだかま)りも、もう過去か)


 自ら直接目にして、想いに触れ、それは思い違いだったということは良く解った。


 幼い王子、ファルシオンの想い。

 レオアリスの周囲の者達の想い。


 何より、レオアリス自身の想い。


(とは言え、主持ちは無謀なほどに直向ひたむきだ。だからこそその意志により身を滅ぼす。それを危惧していたが)


 王が、海に落ちたレオアリスをずっと護り、傷を癒した。

 正確なことなど分からないが、あの海でレオアリスの気配が一切掴めなくなったのは、それも関係しているのだろう。


(剣の(あるじ)――)


 瞳を伏せると、風を感じる。その音に声が混じる。瞼の奥には姿が。




『フィオリ・アル・レガージュを守りたい。そしてこの国を』




(そうだ。お前はその言葉通り、守った)


 あの時のザインの眼差しは、今でも覚えている。

 カラヴィアスは剣士の氏族の長として、戦いにより氏族を失うこと、彼等の生と死を見送ることを宿命と考えている。


 戦いの場で失われゆくことに、異議は無い。

 そもそも命とはいずれ消えていくものだ。誰一人、例外無く。


「ジグムント、エリアス」


 ただ、一人一人の命が消えていく喪失感が拭えるものでも、慣れるものでもない。


「ザイン――」


 カラヴィアスは右腕に視線を落とした。


 そこに宿る剣。

 剣の主という考えが解らない訳ではない。自らの剣を捧げるもの。心を深く傾けるもの。


 カラヴィアスの剣の主は言うなれば、この氏族だ。氏族の者達。

 そして氏族が負う役割と。この渓谷の更に地底に身を置く、赤竜――原初の竜(オルゲンガルム)の監視。


 とは言え自分達の存在など、原初の竜からすれば薄い蓋の上に乗せた小石程度のものだが、と、口元で笑う。


「主か」


 ザインは剣の主を得て、失い、剣を失い、剣を得て、そして喪われた。

 ただその生は次代へ、ユージュへと引き継がれ、その存在は幾人かの心の中には確実に残っている。

 それでいいのだろう。


「近い内に一度、レオアリスに会いに行くかな」


 言葉の足りないプラドの情報だけではなく、実際に会って剣の状態なども確かめたい。近衛師団総将に就いた後では、そうそう面会の時間も取れなくなる。


「それにしてもどう動くつもりなのか、あの男は」


 まだ王都に残っているプラドは、レオアリスをベンダバールへ迎える為に


「のこのこと」


 いや、遥々と、この国に戻ったのだ。

 レオアリスが近衛師団総将に就くとなれば、その目的をどう果たすつもりなのか。


「諦めたから伝令使を寄越したか。となれば慰めてやらなくてはな」

「長――」


 台地を螺旋に囲む石の階段を上がり、ティルファングが姿を現わす。

 まだ眠っているレーヴァレインの世話を甲斐甲斐しく焼いていて、ここ二か月で精神年齢が年相応になってきたと言う者もいるが。


 ティルファングは、石段を一息に上がってきたせいか頬をやや上気させ、ぶんぶんと手を振った。


「今日、長も狩りに行くんだよね! 長が行くなら僕も行く! いいよね!」

「成長……無いな」


 カラヴィアスはまた一つ笑い、凭れていた石塀から身を起こすと、ティルファングへと歩き出した。

 崖に切り取られた細長い空へ目を向ける。


「それにしても良く、澄んでいる」


 空は太陽が輝き、透明に青く美しい。






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