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第4章「言祝ぎ」(7)

 もがく飛竜の身体が屋根を破壊して尚、傾斜した屋根を滑る。

 胴や尾が二階に張り出した露台の(てすり)に当って木の欄を砕き、その破片がばらばらと降る庭の植え込みに落下する。

 ロットバルトは朦朧とした意識のまま、飛竜と共に芝の上に落ちた。

「――」

 飛びかけていた意識を痛みが引き戻した。

 辛うじて目を開け、痛みの元を追う。左腕の肘から先に飛竜の手綱が絡んでいた。

 外そうと身動きした途端、左腕に激痛が走った。

 奥歯を噛み締め、右手を伸ばして絡まった手綱を外す。

「――ッ」

 ロットバルトは飛竜の陰で無理矢理身を起こし、歯を噛み締めたままゆっくり、息を押し出した。

(――左腕が折れたな)

 腕ではなく痛みと熱の塊がそこにあるように思える。身体を落下の際に何度か打ち付けたせいか、呼吸をするにも気力が要った。

(肋骨もどこか、(ひび)が入ったか――)

 もっともあの高さから落ちて、良くそれだけで済んだものだとも思う。

 傍らの飛竜の様子を確かめたが、飛竜は長い首を投げ出しぐったりと動かない。近衛師団に入った時に与えられた飛竜だった。

 生きていて、治癒すればまた飛べるだろうかと、そんな事を頭の片隅で思った。

「――」

 取り敢えず落下による死や重大な負傷は避けられたものの、問題からは脱していない。

 ロットバルトは改めて周囲を見渡した。

 落下の際にかなり派手な音を立てたが、士官の官舎が並ぶこの区域は日中ほとんど住人がいない事もあり、まだ騒ぎ出す気配は無かった。塀に囲まれた敷地内に落ち、周囲の様子も掴めない。

 先ほどの襲撃者が対飛竜用の弓を使用したとなると、元から殺害を狙ったのだろう。

 脅しですらなく。

 落ちた地区からもそれが伺える。これが兵舎や士官棟がある第一層や貴族諸侯の屋敷が並ぶ第三層なら、あっという間に騒ぎになったはずだ。

(という事は、王城の機能をそれなりに理解している相手だろう。ルシファーの手か……しかし今さらという気がするな)

 ロットバルトや近衛師団の動きを制限する為に、ルシファーが今さらこうした行為に出るのは意味が無いように思える。

(そもそも俺を殺して利があるか? できれば襲撃者を捕らえて尋ねたいところだが――さすがにこの状態ではせいぜい退避が現実的か)

 それも退避の余裕があればの話だ。今は思考の合間にも痛みが差し込み、身体は無事な方の腕を上げるのも億劫な状態だった。

 相手が追撃をしないか、生死の確認を怠ってくれるとは、さすがに考え難い。

 痛みに途切れがちな思考を巡らせている最中に、砂利を踏む音がした。

 振り向きざま剣に手を伸ばしかけ、失われている事に気付く。

 落下の途中のどこかで落ちたのだ。視線の届く範囲には見当たらない。

「運があるのか無いのか――」

 視線の先で抜き身の長剣を手にした男が、飛び降りた塀の傍から半身をもたげる。布で覆った顔の中の目が、無言の殺意を伝えてくる。

「長剣か、中々いい状況だな」

 口に出して呟いてみても、自分を鼓舞するにはやや足りないようだ。

 全身の重さと左腕の激痛が、絶え間なく意識に圧し掛かっている。

 背後は官舎の壁、左は飛竜の身体が塞いでいて逃げ道は無い。

 右か正面、動ける方向はそれだけだ。

 ロットバルトは肩で息を吐き、飛竜に半身を預けるようにして、ゆっくり立ち上がった。

 一瞬、右膝が落ちた。

 それを見て男が地面を蹴る。

 飛竜に凭れていたロットバルトは、そのまま力を失ったように正面へ倒れかかった。男は唯一の退路である左から、横薙ぎに剣を振った。

 男が斬れると確信したと同時に、倒れかけていた身体が更に深く沈む。

「!」

 次の瞬間、ロットバルトは男の懐に踏み込んだ。

 剣が背中を掠め軍服と肉を裂く。

 構わず左足を軸に男を背負うように身体を当て、右手で男の剣を握った右肘を下から掴み、外へ捻る。

 そのまま腕を伸ばして弛んだ手から剣を奪い、離れると同時に男の腹に蹴りを叩き込んだ。蹴った衝撃が左腕に伝わり、激痛に一瞬視界が白く染まった。

 男が弾き飛び、緑の芝の上に転がって腹を抱えて呻く。

 ロットバルトは奪った剣を手に、再び飛竜の身体に寄り掛かった。背中を伝う血が飛竜の艶やかな鱗を濡らす。

「――」

 退路が限られている事も相手の武器が長剣だった事も、攻撃を想定する上においては有利に働いた。

 だが急激に動いたせいで悲鳴を上げる身体を支えきれず、ロットバルトは片膝を落とした。剣を支柱にぐっと上体を上げる。

 折れている左腕が脳に突き刺さるような痛みを送ってくる。乱れた呼吸を繰り返す度に胸部も背も痛みを訴え、全身はまだ重く、踏み込んだ時剣が掠めた背中を血が伝うのが判る。

 奪った剣で追い討ちが掛けられなかったのは致命的だったが、上体を支えているのがやっとで、身体もそろそろ言う事を聞かなくなり始めている。

 ただ、漸く周囲が騒ぎ出して来た。

(このまま人が来るまで保てば――)

 それとも人の気配に撤退するかと淡い期待もあったが、むせていた男は身を起こし、焦りと怒りに駆られた眼でロットバルトを睨んだ。懐から短剣を掴み出す。

「しつこいな……」

 ロットバルトは呆れ気味の息を吐いた。ロットバルトの負傷の状態が明らかなのもあるのだろうが、どうあっても目的を果たす考えは変わらないらしい。

 この状態で、短剣の短い間合いと速い動きに対応する余裕は全く無い。それも男は見取っているはずだ。

(――恐らく昨日のブロウズの件に絡んでいるんだろう。利を得るのは誰だ――?)

 ルシファーか、西海か。

 自分一人をこうして狙う意味は、さほど無いように思える。

 であれば全く別の第三者――

(ああ――、我ながら嫌な事を思い付いたな)

 ロットバルトの死が一番利を与えるのは、最も身近な相手だ。

(昨日、何を話した――)

 ロットバルトは慎重に近付いてくる男を見据えた。

「兄か、トゥレス大将の手の者か」

 男は一瞬表情を強ばらせ、だがそのまま無言で短剣を握り直し、踏み込んだ。

 引こうとした背が、飛竜の身体にぶつかる。飛竜の背に右肘をつき、よろめく身体を押し留めた。

 口元に苦笑が浮かぶ。

(――ヘルムフリート)

 脳裏の底に過ったヘルムフリートの顔は曖昧だ。

 仕方ないか、という考えが一瞬浮かぶ。兄の顔すら思い出せない程度では。

 それを打ち消すように、ふと先日のヴィルトールの言葉が甦った。

『上将を』

「――っ」

 無理に身体を起こす。

 突き出された短剣を剣の柄頭が弾く。反射に近い動きだったが、短剣は男の手から跳ね、後方の芝に落ちた。

 飛竜の羽ばたきが耳を打った。同時に、男の右肩に矢が突き立つ。

 よろめいた男が振り返る前に、ロットバルトは手の内で剣を返し首元に剣を突き付けた。

 ぐ、と当てた剣を寄せ、男の膝を地面に落とさせる。

「――自分の立場を忘れる所だったな」

 ゆっくりと、身体を被う痛みを鎮める為に息を吐く。

 その前に一頭の緑鱗の飛竜が舞い降り、若い男が飛び降りた。

「ロットバルト様! ご無事で――」

 青年の顔には見覚えが無いが、ロットバルトへと一礼すると、まずは地面に手をついている男の腕を捕えて押さえ付け、素早く後ろ手に縛った。

 それからロットバルトの前に膝をつき、顔を伏せる。

「不躾に失礼致します。御館様にお仕えするエイセルと申します。御館様より、御身に付けと――。直接近衛師団にお戻りになるとお聞きしていたので、遅れた事を改めてお詫び致します」

「父が――」

 そういえば先ほど、人を付けると言っていた。出際に直接近衛師団へ向かうのかと聞いたのは、このエイセルへの指示の為だろう。

「父の方が状況認識は正しいな」

 ロットバルトは苦笑を洩らした。状況を軽んじていたのは問題だ。

 ただ、お陰で目処が付いた。

「エイセル、悪いがこの男を近衛師団に運んで貰いたい。飛竜は――」

 足元に横たわる飛竜の脇に膝をつき、首に手を当てた。生命の感じられない冷えた鱗の感触に息を吐く。

「まずは御身の手当てを」

「戻れば法術士の治癒を受けられる」

 男を運ぶ方が先決だ、と言い掛けた時、腕を縛られて芝の上に転がっていた男が突然呻いた。

「――まずい」

 エイセルが咄嗟に口をこじ開けようとしたが、男の口は苦痛に噛み締められ、芝の上で身体がもがき激しい痙攣に数度跳ねた。

 それもあっという間の事で、すぐに男は血を吐いて動かなくなった。

 確認するまでもなく、事切れているのが判る。エイセルは口を開けて覗き込み、苦々しい顔でロットバルトを見上げた。

「毒を奥歯に仕込んでいたようです」

「――周到な事だ」

 エイセルが男の顔を覆っていた布を剥がす。

 現れた顔はやはり見覚えなどは無かった。二十代、前半か。

 服装はどこにでもいる旅装で、武器も全て民間に流通しているものだ。身元が判るような手掛かりは一切、遺していなかった。

「これで手がかりはほぼ無くなったか……仕方ない。まずは師団に戻ろう」

 一先ず片が付いた事の気の緩みもあり、思考にも集中し難く、今度こそ立っているのが限界に近い。

 顔を上げ破損した屋敷や露台を改めて眺め、視線を巡らせる。どの官舎はどこも造りはほぼ同じで判別は付き難いが、西方軍のいずれかの将校の屋敷だ。

 正規軍への説明が面倒だと、そう思った。





 負傷と男の遺体と、誰が見ても明らかな問題がおおっぴらに隊士達の目に付くのを避け、ロットバルトはエイセルの飛竜を士官棟の中庭に降ろした。

 ちょうど回廊を執務室へと歩いていたフレイザーがロットバルトに気付いて瞳を見開き、駆け寄る。

「ちょっと――ロットバルト、貴方何してるの――?!」

 飛竜から降りるのへ手を貸そうとして青ざめた。

「ひどい怪我! エンティを呼んでくるわ。執務室で――いえ、ここで待ってて」

「執務室まで歩けますよ」

「いいから! その怪我で何言ってるの」

 動くなと言い付け、フレイザーは走って中庭の出口へ向かった。

 中庭の様子に気付いて執務室の扉が開く。顔を覗かせたクライフがひっくり返った声を上げた。

「ロットバルト?! 何やってんだお前!」

「何をやってるのか、か――まあ、そうだろうな」

 自分でもそう問うだろうと呟いた時、グランスレイと、その後からレオアリスがやや張り詰めた面差しで現れた。

「ロットバルトが戻ったのか? 一体――」 クライフの背中を追い掛けるように視線を向け、ロットバルトとその傷を認めてさっと顔色を変える。

「お前――」

 中庭を横切ってロットバルトの前に立ち、一度言葉を探すように口をつぐんだ。

「――何だ、それ」

「少々問題が発生しまして」

「少し?! 少しって問題じゃないだろう! その怪我――そういう状況で、何で俺に」

 そう言い掛けてレオアリスは再び、半分腹立たしそうに口を引き結んだ。

 死体で帰らずに済んで良かったな、と、ロットバルトは恐らく口にしたら激怒されるだろう事を思い浮かべた。

 そうならずに済んだのは、ヴィルトールが数日前に言った言葉のお陰だ。

「とにかく――座れ。それじゃ立ってるのだって厳しいはずだ」

 レオアリスが手を差し出す。

 手を借りて芝の上に座り飛竜の身体に右肩で寄りかかると、張り詰めていた気の緩みと共に負傷の痛みが際立ち、もう二度と立ち上がれないように思えた。

 硬い鱗の感覚が、落ちて動かなかった乗騎を思い起こさせる。あの飛竜を失ったのは残念だった。

「かなり負傷してるな」

 レオアリスはロットバルトの前に膝をつき、背中の傷と、左腕を見て眉を寄せた。

「お前今、根性と痛みで意識が飛んでないだけだろう」

「はは。……治癒を受ければ、すぐに回復します。問題はこの状態の、要因の方ですが……」

「詳しい報告は治してからでいい」

 レオアリスはきっぱりと告げ、改めて飛竜の陰に控えているエイセルと、エイセルが芝の上に横たえた男の遺体を見据えた。

「襲撃者です。第二層で飛竜を墜とされました」

「第二層……。一人か」

「おそらく」

「――自害だな。手掛かりはもう無いか」

 レオアリスの声が揺らぎ遠退く。

 意識が遠退いているのだと理解していたが、引き戻すのは困難だった。

「エンティが来た」

 まずは治癒を受けろ、と、そう言うのが最後に聞こえた。





「――何で俺がいる時じゃあないんだ」

 レオアリスの呟きを聞き取り、グランスレイはちらりとレオアリスの横顔へ視線を向けた。

 レオアリスはエンティが治癒の術式を唱えるのを聞きながら、ずっと厳しい面持ちを崩していない。

「上将――」

 今回は一歩間違えばロットバルトの命も危うかったと、負傷の状態から推測できた。

 ただ、レオアリス自身理解している顔だ。

 常にレオアリスが対応できる時に、事態が起こる訳ではない。

 苛立ちは自分自身なら大抵の事はどうとでもなると、それが可能だからこそのもどかしさから来るものだ。

(そうした状況はこの先幾らでもある)

 その事態に直面した時、レオアリス自身に力がある分、より苛立ち、歯痒い想いをするのだろう。

 エンティの術式が進むにつれ、負傷した個所に白い光が集まり、輝きを増していく。クライフが痛そうに眉をしかめて覗き込んだ。

「にしても白昼堂々王都で近衛師団の将校を狙うなんて、相手は相当な度胸ですね。しかも第二層だなんて」

「この時間は将校の官舎はほとんど空になるもの、邪魔が入らないという点では狙いどころでしょうね」

 レオアリスは厳しい眼差しのまま、二人の会話を聞いている。

「狙いどころったって軍の真っ只中だ、かなり危険が伴うけどな。――挙げ句自害なんざ、徹底してる」

 クライフは芝に横たえられた男を見下ろした。飛竜の陰にエイセルが膝を付き、顔を伏せている。

「で、あんたは?」

 エイセルは顔を上げないまま素早く答えた。

「侯爵にお仕えしております」

「へぇ、じゃ助かったのはあんたのお陰か、有難うな」

「いえ! 私が着いた時にはもう」

「なんだ……つまんねぇな」

 と呟いてからはっとして後ろを振り返り、クライフは恐る恐るグランスレイを見上げた。

「いや、無事で良かったと思ってます! ボロボロだけど」

「当然だ」

 グランスレイは眉根をしかめてそう返したが、クライフが安堵から言っているのは判っている。

 術式に併せ、ロットバルトの左腕や背中の傷を被っていた柔らかな光が、ゆっくりと薄れる。

 エンティは術式を唱え終えて、顔を上げた。

「傷はほぼ癒えています。影響も残らないでしょう。ですが今日は休養を取られるべきかと」

「そうさせる」

 レオアリスは息を吐き深い安堵を覚えると共に、この件が何に絡み、この後どう波及していくのか、それを思いながら一度空へ視線を投げた。




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