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最終章『光を紡ぐ』(25)

 

 法術院長アルジマールがどれほどのことを成していたのか、カイルはその技の深さを身をもって感じていた。

 海の中での術式の展開。

 寄る()がまるで無い。


 土の力を利用する時、彼らは大地を踏みしめ、大地に法陣円を描いた。大地の力が踏みしめた足から返るのを感じた。

 樹々の幹に手を当て、その奥の流れを感じた。葉に触れ、その温もりを。


 けれど海は、これまでの感覚とは全く異なった。

 身体は全て覆われていながら触れる感覚はなく、手を伸ばせば伸ばすほど、どこまでも離れて行くようだ。


 セトの補佐があってもなお、海そのものが遠く、触れ得ない。

 もっと近付かなくては。


 カイルは息を詰め、そしてゆっくりと、深く、呼吸を繰り返した。


「――ミュイル殿」


 じっと見守っていたミュイルが双眸を上げる。


「わしを包んでいるこの膜を、外して頂けぬか」

「カイル?!」


 彼等を包む膜――空気の膜だ。海中から酸素を集め、体に纏わせている。それによって海中でも、地上と同様の呼吸を可能としている。


「良いのですか」


 ミュイルは慎重に返した。カイルが頷く。


「海に直接触れねば、この術は為せません」

「カイル。ならわしが」


 セトの肩に手を置き、アルジマールが前へ出る。


「僕も補佐しよう。けど酸素の供給が絶たれたら、そう長くは息が続かない。危なかったら途中で引き戻すよ」

「お願いします」


 カイルは頷き、改めてミュイルへ顔を向けた。

 視線を受け、ミュイルが手を伸ばす。

 その手のひらに浮かんだ小さな緑の光球が光を瞬かせた。


「合図をください」


 カイルは一旦目を閉じ、術式の流れを頭の奥で辿った。

 深く息を吸う。

 頷き――


 次の瞬間、身を包んでいた空気の層が消え、カイルは身体に直接触れる冷たく、膨大な水を感じた。

 重い。塊がのしかかるようだ。


 術式を口の中で唱え始める。セトも同時に術式を唱え、アルジマールの詠唱がほんの刹那遅れて重なる。三つの詠唱はすぐ、一つになった。

 海は先ほどよりもずっと近く、そして深く、底が無い。


 身体が揺れる。

 沈む。

 沈んで行くのは意識だ。

 輪郭が溶ける。

 溶け出し、海と重なりながら、深く、深く――、深く――


 自分の形が(ほど)けて行く。

 カイルは意識を集中させた。


(目を――)


 目を開けなくては。


 ()()()()()()()()()()()()()()()


(目を)


 自分が解けて無くなると感じた、寸前、カイルは目を開けた。

 視界がぐらりと揺れた。世界が。



 初めは暗黒――



 それから、どっと、世界が押し寄せた。


 澄んだ青、深い青、蒼、藍、濃紺、黒。

 光、闇。

 熱。

 渦巻く流れ。

 凍りつく温度。

 生命。

 死。




 無音。




 カイルは知らず、呻いた。


(これは――、想像以上じゃ)


 問えない。

 余りに異なる。

 (おびただ)しい生命の気配。

 海の集合意識の、空間。


 得体が知れず、掴みどころがなく、どこまでも底知れず、身体の芯が凍るほど怖しい。


 混沌――まるで全てがここで溶け合い、混ざり合っているかのようだ。


(ナジャルのような存在が生まれるのも、道理だ)


 生命の坩堝(るつぼ)であり、死がすぐ隣に鬩ぎ合っている世界。

 問うだけで、存在そのものを呑まれそうに感じた。

 ここにある自らは、ほんの一滴の雫にも満たず。


 それでもカイルは、更に意識を集中させた。

 研ぎ澄ます。自らを保ち、同時に融合させる。

 気を抜けば一瞬で呑まれ、形を失う恐怖。


 それを押しやり、カイルは問いかけた。



『――(いにしえ)の海に、お尋ねする』



 その一言に、気力を、精神的を全て絞り出すようだ。



『御身に落ちた、若い剣士をご存知ならば、何卒――何卒、この身にお示し頂きたい』



 無言――無音。

 拒絶とも異なる。

 カイルの存在などそこには、まるで無いかのような。



『どうか――御身が呑んだ存在を』



 それすら、認識しているかどうか。

 いいや。


 認識などしていない。

 する訳がない。

 この広大な、膨大な水と闇、生命と死の世界に落ちた、たかが一つの(かけら)など――




 息が苦しい。肺が張り付く。

 限界が近付いている。

 意識が揺らぐ。



「――御身にとってどれほど、無に等しくとも――」



 破裂する寸前の意識が、頭蓋を内側から圧迫する感覚。

 カイルは手を伸ばした。



「わしらにとっては、掛け替えの無い命じゃ」



 二つの詠唱が重なり、脳裏に響いた。

 身を取り巻き、包んで詠唱が流れる。セトとアルジマールのもの。

 海が揺れた。


 カイルは視線を巡らせ、そして、はっと、息を呑んだ。


 光――

 黄金の。


 丸い球体のような光が、そこに在った。


 目を凝らせばそれは、掴みどころがなく、近くにあるのかひどく遠いのか、それすらも判然としない。


 けれどその内側に、確かに――、存在を感じた。

 雪深い森の中、大切に(はぐく)んだ――


「レオアリス――!」


 あの光――、十八年前に見た双眸、その黄金。

 カイルは千切れんばかりに手を伸ばした。


「――王――!」


 揺らめいていた海水が、黒々と染まり、渦巻く。

 不意に、意識が吸い込まれるような、巨大な手で掴まれ擦り潰されるかのような、激しい眩暈を覚えた。

 割れ鐘を叩くようにこめかみが痛む。



 砕ける。

 溶ける。

 精神――、身体も。



 海に溶け呑まれようとしている。



 黄金の光が遠退く。

 更に腕を伸ばす。伸ばした指先から溶けていく。翼、足先。溶け切れば、もはや術から抜け出すことはできない。


 激しい頭痛と眩暈の中で、カイルは尚も手を伸ばした。


「戻してくれ」


 レオアリスが戻るのならば。

 かつて彼等がそうしてくれたように、今度は自分が――


(もう、少し)


 カイルは意識を、更に踏み込んだ。

 光が、微かに揺らぐ。



『今少し、委ねよ』



 十八年前に聞いた声だと、そう思った。

 想いが堰を切る。


「王――! 彼等の子を――、わしらの子を、どうか――、どうか!」


 戻して欲しい。

 カイルは自分の身を淡い光が包んでいるのに気付いた。


 頭痛も眩暈も消えている。

 海の意識に溶けかけていた身体も、再びそこにあった。


 カイルは身体が溶けるよりも一層の、恐怖にも近い焦燥を覚えた。


「わしは良いのです、どうか――!」


 再び届いた声。



『道を開け』




 ぐん、と、全身が引っ張られた。



 目を開ける。

 光が網膜を突き刺し、焼く。



「――カイル!」


 像が形を結んだ。

 始めは肺が張り付いたように呼吸は無く、次いでカイルは激しく咽せた。


「カイル! しっかりせぇ! 大丈夫か! わしが判るか!?」

「わ……わかる……セト――」


 辛うじて押し出した声は、潰れてしゃがれている。

 既にカイルは船の上にいた。


 セト、アルジマール、アスタロト。ユージュと、プラドとティエラ。それぞれの青ざめた顔。もう一人、西海のミュイルも心配そうに覗き込んでいる。


「アルジマール院長が引っ張り出してくれた。お前さん、呼吸が止まって……そのまま持っていかれるところじゃったぞ」


 セトの顔色は傍目に見てさえ強張っている。

 意識が呑まれれば、虚な肉体が残るだけだ。


「正直、禁呪指定にしてもいいくらいの術だね。下手に流通したら好奇心に負けた法術士が何人溶けることか。あなた方がこんな術を持っていて、かつ今も存在しているとは、驚いた。あなた方だからかな」


 感心した口調だが、アルジマールも疲労困憊の様子で肩を揺らしている。


「僕も少し見えたけど――光だったかな。僕の視点じゃかなりぼやけてる。貴方が見たものについて、今、話せますか」

「アルジマール、カイルさんもみんなも、一旦休んでからの方が」


 アスタロトは三人の疲れ果てた様子を心配したが、


「大丈夫じゃよ、ありがとう」


 カイルは身を起こそうとして諦め、ただ明瞭な眼差しを取り巻く顔触れに向けた。

 瞳が記憶を辿って動く。


「球体のようでした」


 アルジマールが傍らにしゃがむ。立っているのが厳しいのか、カイルの話をよく聞こうというのか、息を吐き首を傾けて先を促す。


「光……黄金の、球体のようでした。声が、今少し委ねよと」


 カイルは次第に息を落ち着かせ、ゆっくりと続けた。

 瞳を閉じ、そして開く。


「レオアリスの存在を、その奥に感じました」

「それって、王――!?」


 甲板に手をついたアスタロトの頬に、薔薇色が差す。


「王が、レオアリスを守ってるのかも――」


 深く息を吸い込む。


「そうだ、きっと」


 頬を輝かせ、アスタロトは甲板の上の一人ひとりの顔を見回した。

 雲間から光が差すような、そんな感覚が落ちる。


「きっと王が、傷を癒してるんだ」


 余りにひどい傷を負っていた。だから。

 王の存在は既に失われていることをアスタロトは理解していたが、それでも今、王がレオアリスを護っているのだと、何の疑いもなく信じた。


「だって、レオアリスの剣の主だもの」


 それは心に、滲むような温もりを一つ置いた。

 王はレオアリスの、剣の主なのだから。


(ああ、なんだ。じゃあ今、あいつ、王のそばにいるんじゃないか)


 目の奥が熱を持ち、アスタロトは何度か瞬きしてそれを堪えた。

 見回した顔はみな、同じ想いを共有している。


 それでも――もう戻ってきてもらわなくては。

 待っている人がたくさんいるのだ。


「もう、一つ――」


 カイルは身を起こした。セトが背中を支える。


「カイル」

「道を開けと、王は――そうも仰った」


 アルジマールがしゃがんだまま、幼い子供の仕草に似て両手で頬杖をつく。


「道か。意味するところは掴めるけど、どこに、どんな道を開けばいいのかなぁ……」

「レオアリスが戻る為の道ってことだよね。カイルさんの見た光と繋ぐ道?」


 今すぐにでも駆け出そうとする足を堪えているのか、アスタロトは自分の膝を抱え込みしゃがんだ。

 ただ、簡単な話ではないのは嫌でも解る。

 カイルが聞いた、王の言葉。


 『今少し』と、『道を』。


「どっちを優先したらいいんだろう」

「そうだね――でも、とにかく一歩進んだのは確かだ。次は『道』を開く方法を探そう」


 きっぱりと言い、アルジマールは立ち上がった。

 全員を見回す。


「陛下が道を開けと仰ったのなら、おそらくもうその時期なんだ。まだ傷が癒えてなくたって僕が治すよ」







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