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最終章『光を紡ぐ』(22)

 

「西海との和平条約締結は、四月一日に執り行うことを本日の協議で決定致しました」


 ベールはファルシオンを前に今日――、一月二十六日の午後に行われた二国間会議の結果を告げた。


 ファルシオンが六歳の誕生日を迎えるのが三月二十四日、そして王の国葬を四月末に控えていることを踏まえ、調整された。これまでの不可侵条約の締結日よりおよそひと月早い。


「条文の草案は概ね整っており、今後細部の調整を行います。明日、十四侯の協議の場で殿下にご確認頂き、その上で進めて参ります」


 ファルシオンの執務机には既に草案が置かれている。文章は難しいが、ベールからはこれまでに条文、そして言葉の一つ一つの意味とその目的について丁寧な説明を受け、繰り返し目を通した条文は(そら)んじられるほどだ。


 少しずつ、けれど確実に道が整えられていく。ファルシオンは緊張とともに草案の綴りを見つめた。


「式典の詳細については、後日ゴドフリー卿から御説明させて頂きます」


 一旦深く身を伏せ、ベールは椅子から立ち上がる様子を見せたが――一呼吸置いて座り直した。


「王太子殿下」


 意識に強く働きかけるような響きがあった。


「大公?」


 ほんの少し身構え、ファルシオンは瞳を瞬かせた。

 ベールはそれまでとも異なり、ファルシオンを慎重に見つめている。


「憚りながら、申し上げます」


 机の上に置かれた蝋燭が繊細な硝子の筒の中で踊る。

 手元の書類が落とす影が震えた。


「五月の御即位まで、残すところ三か月ほど――空席となっている近衛師団総将の任命について、(おおやけ)に示される期限が来ていると考えます」


 ファルシオンの右手が胸元へ持ち上がる。

 指が服の上から掴むその動きが、無意識のものであることをベールは理解している。


「正式な任命は御即位当日に行って頂きますが、周囲にお示しになるのは御即位前、早い段階がよろしいかと。近衛師団も落ち着くでしょう」


 ふた月前、終戦直後は誰もが当然のこととして、()()のを待っていた。戦場となったボードヴィルでファルシオンを護り、ナジャルを倒した功績は大きい。

 ひと月経ち、それでも彼が戻れば彼が総将に任命されるだろうと――グランスレイを総将代理のままで置いたのも、それがファルシオンの意思なのだろうと受け止められていた。


 だが、もう三月(みつき)目に入る。

 戻るだろうという期待や予想は、揺らぎ始めている。


 幼い頬はやや硬く、ファルシオンは躊躇いがちに言葉を押し出した。


「わかっている……けれど、もう少し」

「王太子殿下」


 声の響きは咎めるものではなく穏やかで柔らかくさえあったが、ファルシオンは肩を震わせた。

 瞳が卓の上に落ちる。


「我々も、殿下と同じ思いを共有しているものと考えております。しかしながら国としては遅くとも西海との条約締結には次期近衛師団総将を示し、締結の場においてもまた、それとして伴って頂くべきと存じます」


 西海の新体制、そして条約締結の証人として同席するマリ王国へ、次の近衛師団総将の存在を示すことは外交上重要な要素になる。


「現体制に基づくとすれば、やはり総将代理を務めるヴォルフガング・グランスレイが相応しく、また軋轢も生じにくいと思料致します」


 ファルシオンはわかっている、と、もう一度言葉にならず呟き、ベールへ瞳を上げた。


「グランスレイは、私も、ふさわしい人物だと思う。けれど――」


 息を、そっと吸う。


「もう少し待ってほしい。いつまでならば、良いだろう」


 ベールは深く顔を伏せた。


「では、二月の初めには、ご決断を頂ければと存じます」







「ファルシオン、どうかしましたか?」


 柔らかい声にファルシオンは瞳を上げた。

 同時に指先が銀の匙を取り落とし、細い柄が皿の縁に当たって小さな音を立てた。


「――ごめんなさい」


 王太子宮での、晩餐の席の途中だ。

 食事の手が止まっていたファルシオンへ、母クラウディアと、それからエアリディアルが心配そうな瞳を向けている。


 慌てて匙を手に取った小さな弟に、エアリディアルは微笑みかけた。


「もう食事も終わりですから、この後は温室で少しお話を致しましょうか」


 食卓から皿が全て下げられるのを待ち、クラウディアはファルシオンを手招いて、微笑むと優美な腕の中に抱きしめた。


「母はここにおります。姉上と二人で、ゆっくりお話をしておいでなさい」


 ファルシオンが抱きしめ返す。


「ありがとうございます、母上」


 母に話を聞いてもらい頭を撫でられれば、きっとファルシオンは泣いてしまう。それがクラウディアにもファルシオンにも判っているのだろう。


 温室へは半間ほどの短い通路で繋がっている。食堂と温室の間の壁は一定間隔ごとに縦に細長い窪みが設けられ、奥に飾り窓が嵌め込まれて明かりを取り込んでいた。

 エアリディアルはファルシオンを招き、温室の長椅子に腰掛けた。


 温室は食堂側の壁の暖炉に揺れる火に暖められ、鉢植えや花壇の緑が葉を茂らせ、冬の花の香りに満ちている。夜が硝子の向こうを埋めているが、朝から降った雪が庭園の芝を覆い、ほんのりと明るい。

 火が焚かれているとはいえ空気は少し冷え、ただ頬を撫でるその温度が却って気持ちを落ち着かせてくれた。


 エアリディアルは傍らに座り急かすことはせず、藤色の瞳を空へ向けた。

 雪はもう止んでいて、雲も晴れていた。外に出れば満天の星が見えるだろう。


 柔らかな空気の流れに瞳を動かした先、食堂との間の細長い窓を挟み、もう一つの通路があった。居間に繋がっていて、いつだったかファルシオンをここに尋ねた時、気持ち良さそうに微睡んでいたのを思い出す。


(お二人で――)


 彼はエアリディアルが温室に近付いた時には目を覚ましていて、けれど熟睡しているファルシオンを起こさないよう、そのまま目を閉じていた。

 その後しばらくして、挨拶しなかったことを詫びられたが、あの時の光景はとても微笑ましいものとして時折思い起こす。


 また、そうした光景が戻ればいいと。


「近衛師団総将を、決めなくてはならないのです」


 ファルシオンは息を吐いた。

 エアリディアルは藤色の瞳をファルシオンへ注いだ。


「任命は即位のときでよくても、誰がなるかを早く皆に示さなくてはならないと、大公に教えていただきました」


 身じろいだファルシオンの身体の重みが長椅子に伝わる。それはまだ頼りなく、ファルシオンの幼さそのものに思えた。

 エアリディアルは弟の黄金の瞳を見つめた。


「大公がそう仰るのは、この国の現状、そして将来を考えておられる故と、わたくしも思います」

「はい」


 頷く瞳に暖炉の火が映え、黄昏の空が現われる。


「ファルシオンは、どうお思いですか」


 暖炉の炎の揺らぎが壁に二人の影を柔らかく投げ、揺らす。

 ほんのつかの間の沈黙は、ためらいとは異なった。


「私は――」


 ファルシオンはエアリディアルへ瞳を上げた。


「レオアリスに、帰ってきて欲しいです」


 言葉をまっすぐに紡ぐ。

 手が胸元へ動いた。


「きっと帰ってきてくれると、信じてます。約束したんです。帰ってくるって――」


 ファルシオンの言葉は願いと信頼に満ちていたが、エアリディアルの瞳が捉えるファルシオンを包む色は、複雑な色を含んで年齢よりもずっと、ファルシオンを大人びて見せていた。


「初めて、私自身を見てそう約束してくれたんです」


 声に喜びが滲む。

 彼がそう口にしたことそのものが、ファルシオンの中の希望なのだ。


 エアリディアルはいつだったか、自らが口にしたことを思い出した。



『ファルシオンのもとに、戻ってきてください』



 あれは身勝手に口にした願いだったけれど、それでも彼自身の持つ想いと近かったのならば。

 胸の奥を掴んだのが希望なのか、それとも寂寥なのか、わからない。


 ただファルシオンを柔らかく抱きしめる。


「わたくしも、そう信じています」


 ファルシオンはエアリディアルの胸に頭を預けた。銀色の髪が柔らかく落ちかかる。

 しばらく、エアリディアルはファルシオンの頭をそっと撫でていた。

 月日を経るごとに少しずつ成長している。


 無邪気に笑っていられた日がもう遠いことを、寂しいと思った。まだ充分に、周囲に甘えて過ごす時期にいるにも関わらず。


 一度目を閉じて息を吐き、ファルシオンは身を起こして、にこりと笑った。


「ありがとうございます、姉上」


 その響きは、年齢よりもずっと大人び、老成の欠片さえ含まれている。

 金色の瞳も。


 父王の色によく似ていると思った。声の響きも、どこか。


「私は、王太子だから――」


 国の為を考えます、と。


 それからエアリディアルの手を取って、長椅子から立ち上がった。





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