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最終章『光を紡ぐ』(18)

 

 カイルは陽射しの暖かさを頬に覚え、目を開けた。


 朝の光が一筋、窓に掛かる日除け布の隙間から細く寝台の上に差し込んでいる。

 窓の向こうの涼やかな鳥の囀りが、黒森とはまた異なる朝を感じさせた。黒森の鳥達はもう少しだけ慎重に歌う。

 起き上がり、カイルは首を巡らせて薄明りの室内を見回した。


 カイルが休んでいた寝台が扉と反対側の壁に寄せて据え付けられ、同じ壁の右側に両開きの扉がある衣装棚が置かれている。

 寝台の左側と窓側の壁に書棚、窓の斜め下に小振りの文机が一つ。


 簡素な雰囲気の部屋だった。官舎というから他も大体同じなのかもしれないが、黒森の村の、レオアリスが十四歳のほんの手前まで暮らしていた部屋と、やはり似ていると思う。

 昨日面会したロットバルトが、レオアリスが王都で暮らしていた近衛師団の官舎を整えてくれ、一晩を過ごした。


 窓に寄り、日除け布を開ける。差し込んだ朝日が部屋をいっぱいに満たした。

 まぶしさに逸した目が文机の本立てに立ててある数冊の書物の上に留まり、カイルはその内の一冊を手に取って開いた。革の表紙は手触りが良く、しっとりと馴染む。

 乾いた紙と、記された文字。

 軍の記録――、近衛師団の公式記録のようだ。


 最初の方に紙が一枚挟まれていて、三行ほどの文字が綴られている。書物の一箇所を書き出し、確認のような言葉を付け加えている。レオアリスが気になるところを備忘的に記したのだろう。

 見慣れた、けれど村にいた頃よりも確かに落ち着いた文字に王都での日々を感じ、カイルは微かに笑みを浮かべた。

 その笑みは複雑な色を含んでいる。


 レオアリスの行方がわからないまま、既に二か月が過ぎた。

 抱いていた一縷の望みが、王都に来たことで一筋の光に似た望みに変わった。


『何らかの力によって隠されていると、その可能性を考えています』


 物見や探索でも探し出せないどこか。

 隠されているとしたら、誰が、どんな力でそれをしているのか。

 それでも必ず探し出すとカイルは心に決めている。


 必ず――これまで何もしてやれていない養い子の為に――、そしてジンやアリア、友人達の為に。

 けれど。


(今、あの子はどんな状態にあるのか)


 それがとても心配だ。

 誰も手の届かない場所で動けないでいるのか。怪我をしているのではないか。今すぐにでも助け手が必要な状況で辛い思いをしているのかもしれない。


(待っておれ。じいちゃん達が探してやる)


 幼い頃黒森で、迷子になってしまったレオアリスを、その都度見つけ出したように。

 一つ息を零し、本を戻す。硬い縁がコトリと小さな音を立てた。


 一階に降りるとセトがもう起きていて、居間に入ったカイルの顔を見て呆れた声を上げた。


「カイルよ、レオアリスのやつ、普段着とか村にいた頃とほとんど変わっとらんぞ。軍服ばっか着とって、身の回りをぜんぜん気にしていなかったのじゃないか」


 いつの間にか現われたカイがぴょんと椅子の背に飛び移り、くるりとした目で部屋を見回している。


「王都にいる間、わしが何着か見繕っといてやろうかのう」

「止めてやれ」


 カイルが苦笑して嗜める。


「ふはは、冗談じゃ。またじじくさくなるとか言いよるわ」


 からからと笑ってセトは居間をしげしげと見回しながらゆっくり歩き、今度は奥の壁の棚に置いてあるものをいくつか手に取った。木の板を壁に横に張った、五段の簡易な棚だ。


 手を伸ばしやすい中段には、硬い動物の毛を使った磨き用の四角い刷毛や、同じ形の柔らかめの毛のものが揃えられている。軟膏の壺と、使い古した布。

 手綱が二種類と、それの付属品の金具など。


「ほぉー。見てみぃ、こりゃ飛竜用の道具かね。あれこれ山ほどありよる」


 どれも飛竜の世話に使われるものだろう。


「なるほどこの四角い刷毛やら布やら、鱗を磨く道具というわけじゃな」


 下から二段目には餌を入れていただろう空の木箱と、隣には乾燥した植物が籠に盛られている。カイル達には馴染みがないが、エルダーという木の根で、飛竜にとってのマタタビのようなものだ。


 一番下の棚には飛竜の鞍が置かれ、鞍の下に敷く為の布もきちんと畳まれて重ねられていた。その横に大振りの甕が二つ、それぞれ首に掛けられた木札の表示は温油と冷油。甕から汲み出し、瓶か皮袋に入れて持ち運ぶのだろう。


 一番上の段には飛竜の絵や、銀鱗の飛竜を模した精巧な立体飾りが一体、それから本が何冊か。

 セトは早速手を伸ばした。


「『飛竜の気持ちがわかる本』……?」


 首を傾げ、隣の本を手に取る。「『飛竜の全て』『飛竜が喜ぶ栄養食』。ふはは。溺愛じゃのう」

 おっ、と言って端の一冊を広げた。


「見ろ、カイル。日記じゃ。飼育記というやつかの」


 青みがかった革張りの手帳だ。ぱらぱらとめくる。


「あやつめ、飛竜のことばかり書いておるぞ。今日はどこを飛んだとか、どんなふうに飛べるとか、何を食べて喜んだとか。朝二度寝するか迷ったけどやっぱり飛んで良かったとか書いておるわ。相変わらずじゃな」

「止めてやれ……」


 カイルは同情の響きを零した。

 セトがにやりとして手帳を元に戻す。

 そして一歩引き、改めて棚を矯めつ眇めつ眺めた。


「いつも乗ってきていた銀鱗の飛竜は、王から下賜されたものじゃと言っておった。大切にしておったのじゃなぁ」

「村にいる頃から乗りたがっていたからの。今、飛竜はどうしておるのか……」


 これほど何くれとなく世話を焼いていたのだから、レオアリスが不在の間寂しがっているだろうと呟く。


「あとで厩舎にご案内しましょうか」


 驚いて振り返ると、居間の扉に女が一人立っていた。黒い軍服はレオアリスが身に付けていたものと同じだ。


「すみません、玄関で声をかけたのですがお返事がなく――こちらからお声が聞こえたものですから」


 訪問者――フレイザーは軽く会釈した。


「おはようございます。それから、お初にお目にかかります。近衛師団のフレイザーと申します。上将――レオアリス殿の部下です」


 顔を見合わせたカイルとセトへにこりと微笑む。


「ヴェルナー侯爵から伺いました。ご挨拶がてら、朝食をと思って。台所、何もないでしょう」


 そう言って手にしていた篭を、部屋の真ん中の卓の上に置いた。

 篭の中には美味しそうな果物や、蕎麦粉を溶いて薄く焼いたガレッタで、瑞々しい葉野菜や塩漬け肉、乾酪(チーズ)などを包み盛り付けられている。

 セトは嬉しそうに覗き込んだ。


「これは有難い。昨日の食事は申し訳ないが、緊張で味がわからんかった」


 ロットバルトが用意した夕食の場への評価だ。

 フレイザーは笑った。


「そういうところ、やっぱりご家族ですね。上将もおんなじ事を仰ってましたよ、どうにも慣れないって。でもロットバルトが場を用意するんですよ、作法の習得の為に。ただ一度、お父君と食事をする席に巻き込まれたことがあって、あれは面白、いえ、お気の毒でした」


 そう言って右手を差し伸べる。


「――改めて、ミア・ルイーゼ・フレイザーです。よろしくお願い致します」


 カイルとセトと、交互に握手を交わす。

 カイルがフレイザーを見上げた。


「あなたが――フレイザー殿」


 フレイザーが首を傾げ、カイルは言葉を付け足した。


「レオアリスが、あなた方のことをいつも話してくれました。帰ってきた時や、手紙でも」


 フレイザーが嬉しそうに頬を押さえる。

 玄関で新しい声が上がった。居間まで通る明るい声だ。


「おっはようございまーす! 失礼します!」


 足音が一人、いや、三人分廊下を歩き、居間にひょいと顔を出す。陽気そうな二十台中間の男――クライフと、もう一人、落ち着いた様子の三十半ばの男。


「もう少し遠慮がちに入ったらどうかな」


 そう嗜めたのはヴィルトールだ。二人は戸口で一旦踵を揃えた。クライフはやや左脚が遅れる。


「レオアリス殿の麾下、ヨエル・クライフです! 初めまして!」

「同じく、アーネスト・ヴィルトールと申します。お世話になっております」


 左腕を胸に当て、敬礼して入る。

 続いて、(いかめ)しく深い響きの声。


「早朝から、失礼致します」


 一礼し、居間に入室した大柄で壮年の軍人――グランスレイはカイルとセトのやや手前で足を止め、もう一度深々と頭を下げた。


「お久しぶりです。私を覚えておられますか」


 顔を上げたグランスレイを見て、カイルとセトは目を見張った。


「貴方は――」

「本を、届けに来てくださりましたな、確か……ずいぶん前じゃ」


 グランスレイは二人へ頷いた。


「一度、十年ほど前でしょうか」


 王から約束され、下賜された書物は、毎年四月の八日にカイル達の村に届けられた。

 一度だけ、グランスレイはその役割を担ったことがある。


「あの時、上――レオアリス殿と、お会いしました。とは言えほんの一瞬でしたが。すぐ彼は外に出されてしまった」


 王都からの使者が村を訪ねる日は、いつもレオアリスは冒頭に挨拶だけして席を外していた。カイル達が会話の場を極力避けていたからだ。

 グランスレイが訪ねた時、ちょうどレオアリスが外から元気良く駆けてきて、入り口にいたグランスレイとぶつかった。


 その年のことをグランスレイも、そしてカイル達も良く覚えている。

 黒い軍服は近衛師団だろうと、レオアリスがひやりとする質問をして、それにカイル達は答えられなかった。


 カイルとセトが申し訳なさそうに会釈した。


「あの時は、わしらもまだ、気持ちが凝り固まっておりました」


 クライフがへえ、と三人を見比べた。


「そうか、代理はお二人と会ったことがあるんすねぇ」


 レオアリスが王都に来る前の――剣士がまだ、軍で忌避されていた時に。

 グランスレイはルフトの反乱も、バインドの過去も知っていた。

 それでもレオアリスを支えていこうとグランスレイが決めたのは、近衛師団に入ってからの彼を見てきたからだ。

 クライフが笑う。


「まあ立ったままじゃなんですし、フレイザーが美味しい朝食を作ってきてくれたんで、皆んなで食べましょう」


 ちゃっかり自分も食べると決め、クライフはフレイザーと一緒に隣室の食堂へ行き、食卓へ朝食を並べていく。

 最初は遠慮がちだった食卓も、すぐに賑やかな会話が広がった。


 クライフがレオアリスとの会話や日々の訓練、出来事を冗談を交えて語り、フレイザーやヴィルトールが捕捉し嗜め、グランスレイが主に頷く。


「執務室にいない時は大抵、裏庭で寝てました」

「副将に気付かれてないと思ってたよね」

「ロットバルトがよく迎えに行ってたけど、ロットバルトにしか気付かれてないと思ってたわよね、しばらく」


 カイルやセトは苦笑しきりだ。


「変わっとらんのう」

「小さい頃はしょっちゅう雪の上に寝転がっとったの」

「冷たくないんですか?」

「冷たいだろうに、わしらが外の仕事から帰ってくる時見つけやすいだろうと」

「可愛い……!」


 フレイザーは両手を組んだ。


「動き回れるようになったらなったで、しょっちゅう黒森で迷子になってなぁ」


 セトが息を吐く。


「心配してばかりじゃった。怪我はせなんだが、まあしてもほとんど治っとったじゃろうからの」

「上将らしいですねぇ。目に浮かびます。私の娘も」

「お前の娘ちゃんは可愛い。可愛いけど黙っとけ。それで、とっておきの話とかあれば」

「そうじゃな」と、カイルは首を傾けた。

「髪の話はどうじゃ」


 セトが促し、フレイザーが「髪?」と尋ねる。


「髪の毛の、後ろだけこうひと筋、伸ばしておったろう」

「あれは理由があるんですか? 前に私が髪を切った時、切るか迷って結局そのままにしたんです。本人、伸ばしてる理由を覚えてなかったみたいですけど」


 横でセトがふふふ、と笑う。「これこそ秘蔵の話じゃな」


「わしらは、それ、このカイも、尾っぽがあるじゃろう」


 カイルも可笑しそうに笑みを含み、肩に乗せた伝令使の、長い尾を見せた。

 フレイザーは両手を組んだまま、ぐぐっと身を乗り出した。


「三つ四つの頃、大きくなったらわしらみたいになるのだと信じておってな。いつ同じ姿になるかと聞くので、ならんと言ったら大泣きしよった」


 クライフとヴィルトールもぐぐいと乗り出した。顔に抑えきれない笑みが滲んでいる。


「あんまり泣きよるので可哀想になって、せめて尾っぽを作ってやろうと、わしが整えたのじゃ」

「へぇー!」

「で、出来上がりには」

「おおいに満足しとった。本人とっくに忘れとるがの」


 ヴィルトールが声をあげて笑う。

 フレイザーは組んだ両手にますます力を込めた。


「かわいい……っ」

「いやぜひその話、ロットバルトやアスタロト様にも教えてあげたいっすね〜」

「それは」


 グランスレイが眉根を寄せる。ロットバルトは大人だがアスタロトは大喜びするだけに、今後のレオアリスの心情を慮っているのだろう。


「アスタロト様というのは、あの」

「そうです、正規軍の――。村を飛び出した時、知り合ったって仰ってましたね」

「アスタロト様も王都を飛び出してたんで、気が合いますよね」

「聞いております」

「今、バージェスにいらっしゃいます。街の修復を指揮してらっしゃって」

「月の半分はバージェスに滞在されてますけど、戻ってらしたらお声かけしますね。きっとあなた方にお会いになりたいでしょうから」


 その後もあれこれとひとしきり会話が弾み、一刻ほど滞在して、軍務があるからと四人は帰っていった。


 静かになった居間に戻り、カイルとセトはしみじみと息を吐いた。

 交わされた幾つもの話は初めて耳にするものばかりで、変わっていないという思いの反面、レオアリスが手元を離れてから王都で過ごした時間と、成長を感じさせてくれた。


「それにしても随分とまあ、立派な方々に囲まれておったのだなぁ」

「あのやんちゃな子供が、成長するはずじゃ」


 たびたび黒森に入っては迷子になり、剣を持ちたがり、風や雷といった見栄えのする法術ばかりを覚えたがる、どこにでもいるその年頃の少年だった。


「近衛師団なんてところで、こんなに」

「もっと失敗ばかりしとるかと思っとった」


 そして彼等との会話は、レオアリスを見つけられるかどうかには触れなかったものの、戻ってくる前提での話だった。


「必ず、探し出してやらねばな」


 カイルとセトはもう一度顔を見合わせ、胸の中を満たした希望に笑みを零した。




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