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最終章『光を紡ぐ』(11)


 新たな年は、薄曇りの淡い朝日の中で始まった。


 空はまだ柔らかな藤色を残し、その印象とは裏腹に空気はきんと冷えている。

 夜が明けたばかりだったがすっかり冴えた意識で、ファルシオンは空に張り出した露台に立ち、淡く染められていく王都の街を見渡した。


 王城東側にあるファルシオンの館はもう修復を終えている。一時期王の館に滞在していたが、昨夜からここに戻った。

 久しぶりの自分の館に戻り、寝室に一人になると、この場で起こった様々なことが胸に浮かび消えていかず、あまり眠れなかった。


 それでも眠気は感じない。身を包む冷えた空気と、冴えた意識と。

 冴えさせるのは真冬の空気だけではなく、これからのことと、その責任の大きさの為だ。




「ファルシオン殿下――」


 ハンプトンは硝子戸の側に立ち、露台へそっと声をかけた。

 昨夜、ファルシオンが余り眠れていないようだったのを、ハンプトンは心配していた。

 ここは思い出が多すぎる。そのせいかもしれない。ファルシオンが生まれてからずっと、この館で様々なことを経験してきた。


「お支度をなされますか。それとももう少し……」

「ハンプトン、大丈夫」


 振り返ったファルシオンは、露台の手摺に手を置いたまま、穏やかに笑った。

 それから、ハンプトンへ黄金の眼差しを向けた。


 朝陽を受け、空は輝くを増していく。


「新しい年だ。ハンプトン、また一年、私と共に過ごしてほしい」






 新年を迎えるにあたっては、例年ならば前夜の式典と年明けの花火、そして新年の祝賀式典が諸侯を招き華やかに催される。

 だが今年の年明けは、四月まで国王の喪に服すことから祝賀式典は行わず、必要最低限の簡易な儀式のみとなった。戦乱の影響、特にまだ被害を受けた地域の農民達の帰農が完了していないことにも配慮したものだ。


 儀式の一つ、新年の朝見の儀が、朝の八刻から王城謁見の間で開かれた。

 ずらりと並ぶのは既に日常的な顔触れとなった十四侯、そして内政官房、財務院、地政院の主要官僚達だ。正規軍は各方面軍の第一大隊大将及び副将、近衛師団は各大隊大将及び副将。華やかな式典は行われないとはいえ、参列者は百名を超える。


 これまで階下に降りていたファルシオンの椅子は、今日は(きざはし)の上に置かれた。

 まだ座る者の無い玉座の右横にファルシオンが座り、左側には王妃クラウディアと王女エアリディアルの席が置かれている。


 ぴんとした清澄さを覚える空気と天窓からの光の中、整然と並ぶ諸侯等を代表し、内政官房長官ベールが進み出る。

 大公ベールによる新年の祝いと国家安寧の奉詞が奏上され、諸侯が唱和する。

 続いて国王代理である王太子ファルシオンが、民と国土の安定と繁栄を誓う。


 祝賀というには厳粛な空気の中、幼いファルシオンの声を聞きながら、エアリディアルは藤色の瞳を階下へ向けた。

 今、エアリディアルの瞳が捉えるのは、穏やかさと安堵、そして悲しみの入り混じった複雑な色彩だ。


(この九か月の間に、多くのことが変わってきた――)


 国の状況、居並ぶ諸侯の顔触れさえも違っている。

 自分自身、一年前の自分とはやはり異なっている。もしあの時に戻るとしたら、同じ選択は行わないだろう。



『もう一つ――』



 雨曇りの夕暮れだったように思う。居城の、王の館の温室で、向かい合った。

 東方公の、ヴィルヘルミナでの乱が収まった、その後のことだ。


『もう一つ、貴方にお願いしたいのです。聞いていただけますか』


 ファルシオンの傍らに戻った、レオアリスへ。

 あの時自分へ向けられていた眼差しは、自分の言葉をどう捉えていただろう。


『これは貴方自身にしかできないことなのです』


 自分に叶うことであれば、なんなりと、と慎重さを含んで答えた。


『叶います』


 そう、きっぱりと言い切った。

 それを現実のものにする為に。


『弟の――ファルシオンのもとに、戻ってきてください』


 願いとともに。




(わたくしは――)


 その為に自分は、何をしたのか。

 彼がファルシオンのもとに戻ってきてくれるようにと願ったのならば、その為にできることを?


 ファルシオンの(うち)には悲しみが隠されている。

 その一つでも、自分が取り除いてあげられなかったのだろうか。


「姉上」


 声に呼ばれて気付けば、ファルシオンがエアリディアルへ左手を差し伸べている。

 右手は母クラウディアの手をしっかりと握っていた。


「参りましょう」


 心の内に様々な想いを隠して輝くように笑ったファルシオンの手を、エアリディアルはそっと握った。







 新年を迎えた王都の街も、毎年のそれよりは密やかな空気の中で始まった。

 けれど新しい一年の始まりという期待と、そして苦難の多かった昨年一年から抜け出したという想いもあり、朝の日差しを受けた街は抑え切れない躍動感にざわめいているようだ。


 そこここに低く掲げられている国王への弔意を表す黒い半旗も、重苦しさよりは敬愛と哀悼が勝っている。

 王はその身をもって、この国の未来を選択したのだ、と――

 そしてこの新しい年は、彼等の王太子ファルシオンが王位を継承し、未来へ踏み出す年だ、と。


「さぁ、今年はばんばん稼ぐわよぉダンカ! 去年一年ほとんど動けなかった分、取り返さなきゃね! 雪が消えてきたら商隊も出すわ、売れ筋の黒森の香木ももう残り少ないし」


 店を開けたばかりの帳場の中で、マリーンは背筋をぐいと伸ばし、両腕を張った。

 主に北に販路を持つデント商会は、雪に降り込められる真冬を避けて商隊を動かすことから、五月以降の戦乱は商売に大きく影響した。

 四月までのレガージュ絡みの商売や、王太子ファルシオンの生誕日の祝賀、春の祝祭、そして五十年に一度の不可侵条約再締結に向けた祝いの場など、前半に大きく身入りの場があったことが救いだ。


 特にレオアリスが「王の剣士」と呼ばれ始めたころから、デント商会が仕入れていた黒森の香木は飛ぶように売れた。今も求める声は多く――それは住民達の追悼の意味もあるのだが――そろそろ在庫も切れそうだ。


 五月以降は近場で販路を探ぐりつつ、夏以降は王都内での炊き出しをするなど住民達との信頼構築に力を注いできた。


「がんばりましょうね、ダンカ」


 元傭兵のダンカはやや引き攣りつつも頷いた。今は商いの基本について猛勉強中だ。


「お嬢……マリーンが商売で俺はどっちかって言うと商隊の販路保持の方をやった方がいい気がしま……するけどなぁ」

「あら、いいじゃない。適材適所ね。でも商売は覚えてもらうけど」


 一瞬解放されたような顔になったダンカはすぐに諦め――気を取り直し、手元の帳面を眺めた。

 マリーンはダンカの肩に手を置いて、帳面の記載がそれぞれ何を示しているのかを、一つ一つ説明とともに指差していく。


 店の扉がカランと、鈴の音を立てて開いた。清々しく、そして賑やかな空気が流れ込む。

 一瞬流れた香木の香りに、マリーンははっとして顔を上げ、それから扉から入ってきた若い女性二人組を認めて笑顔を向けた。


「いらっしゃい」








「大将、俺これから軍の会議真面目に出ます」


 クライフは力強く宣言した。傍らを歩いていたハイマートが呆れた目を向ける。


「軍議ならフレイザーに会えるからな」


 新たな編成になってまだ半月、第二大隊大将に就いた元第三大隊副将ハイマートと、第二大隊副将に就いたクライフは新年最初の軍議を終え、王都第一層北地区の第二大隊士官棟へ戻ってきたところだ。


「フレイザー成分が足りなさすぎです……」

「意味がわからん」


 ハイマートはセルファンの下で長く彼を支えてきた。五尺八寸(174cm)の中背だが押し出しがよく、二十代後半と、クライフとは歳は近い。


「そもそもそんな意味不明なことを嘆くのに、何故まだ交際の申し込みすらしていないのか」

「へぇ?! ちょ、誰がそんな」

「ヴィルトールが言っていた。ヘタレ過ぎているから毎日背中を押してやってほしいとな。押して欲しいか?」

「ヴィルトールあの野郎」


 クライフは拳を握り、だがそれもすぐに力無くおろされた。


「これまで毎日顔を見れてたのになぁ……」


 ハイマートが息をやや強めに吐く。


「だからそれは自分で動け。俺は知らんからな。それより、隊士達にそんな顔を見せるなよ」

「解ってます」


 ハイマートは士官棟二階の、大将執務室の扉を開いた。四人――室内で立ったまま二人を待っていた隊士が振り返る。左腕を胸に当て、踵を鳴らしハイマートとクライフへ敬礼を向けた。


 再編された第二大隊左軍中将アウラー、中軍中将ザイフリート、右軍中将エメル、そして一等参謀官中将ライヒ。

 四人とも、旧第二大隊だ。


 第二大隊謀反の罪は、前大将トゥレスが全面的に負う形で精算された。旧第二大隊隊士は一時期第一、第三大隊に編入されていたが、その半数が再び第二大隊に配属されている。


 ハイマートは部屋の奥に進み、窓を背に彼等へと向かい合った。クライフもまた、自分の立ち位置に着く。


「ファルシオン殿下御即位までの近衛師団の役割を果たしていく――心して務めよう」


 室内に再び、踵を鳴らす音が立った。






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