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最終章『光を紡ぐ』(9)


 大陸の西端、条約締結の地であった水都バージェスは、美しい街だった。

 大戦前はアル・レガージュや国外からの交易の船が寄港し、その中には黒森を越えた更に北、氷の大地からの交易船も含まれていたという。集まった様々な荷、各国の特産物は王都から延々と伸びる西の基幹街道を通じて王都や国内各地に運ばれた。


 街を最も特徴付けていたのは縦横に張り巡らされた大小の水路で、水路と通りが交差するところには幾つもの美しい橋が掛けられた。弧を描いた優美な橋や両側に階段を設けた橋もある。

 百を越す橋の一つ一つの意匠はそれぞれ異なり、橋大工という固有職があったのも、このバージェスならではだ。


 水路には物売りのほか遊覧の船が巡って賑わいを作り、西の海に夕陽が沈む。その光景を観る為に観光に訪れる人々と、彼等の懐を当てにした商隊が引きも切らなかった。

 当時は西海との親交も緊張を伴うものながら(たも)たれており、西海との慶賀使が行き来したのもこの街を玄関口としていた。


 およそ四百年前、大戦が勃発すると、バージェス一帯は西海の侵攻の拠点となった。街からは住民達や商隊が姿を消した。


 大戦後、王はこの地において不可侵条約を締結し、以降五十年ごとの再締結にあたり、このバージェスか、西海の都市のいずれかで交互に再締結の儀を執り行うことを定めた。

 その際の取り決めの一つが、一里の約定だ。


 不可侵条約再締結の際には、一里以内には互いに五十名の衛士以外、兵を置かないこと。互いの領域に不可侵という、条約の意思の証左の一つとした。

 王は一里を示す為、バージェスを中心に大地に半円を描くように、定間隔に指標石を配置した。そして西の基幹街道沿いに一里の館を置く。西海への恐れもあり、指標石は一種の結界に似た役割を果たした。


 大戦後、バージェスへ戻る住民は無く、一里の指標石を越えてバージェスを訪れる者は無頼の野盗達ですら無かった。


 海からと陸からの風に吹きさらされた街は、その水路の澄んだ水に海藻や魚達が住むだけの、時に忘れられた街になった。





 空の中で、アスタロトはアーシアの背からバージェスの街を見下ろした。

 街はかつての水都の名に相応しく、三分の一が半円状に海へと張り出している。

 今は水路や通りを泥が埋め、白い建物はその中に浮かぶように見えた。


「ほんとうに、ずいぶん変わっちゃった」


 不可侵条約再締結の為に訪れた八か月前のあの日、美しい街の様子に目を見張り、そして橋の架かる水路を覗き込みながら渡ったことを思い出す。


「降りようか」


 アーシアの青い鱗が陽光を弾いて地上へと降下する。付き従っていた西方軍第七大隊の飛竜十騎も続いた。その中の一騎はワッツが騎乗している。


 アスタロトはバージェスの海に張り出した広場へ、アーシアを降ろした。あるはずの石畳は泥に覆われて見えず、降りたアーシアの脚と尾が半ばまで埋まる。


「あっごめん」


 慌てるアスタロトにアーシアは首を振り、ただアスタロトが泥に降りてしまわないようにか、背は高く保ったままだ。

 アスタロトはワッツ達を振り返り、「今日は降りなくていいよ」と言った。


 海に張り出した広場の中央に一棟、瀟洒な館が建っている。

 不可侵条約再締結の調印の場となった館であり、王がイスへ赴く場合には一時滞在した場所だ。八か月前、王と共にアスタロトはこの館に入り、そしてここから西海へと発った。

 美しい、色硝子で作られた半球の天井絵と、その下に揺らいでいた丸い水盆。西海への入り口――


 あの光景は、もう何年も前のことのようだ。

 それもおそらく、泥に埋もれているのだろう。


 アスタロトは小さく息を吐いた。


「一旦、法術院に泥を退けてもらうよう頼むべきかな」


 人力でこの泥を掻き出すのでは、人工と時間が幾らあっても足りない。


「そんな都合の良い法術がありますかね」


 一旦飛竜を寄せたワッツが首を巡らせる。


「アルジマールに頼めば良いんじゃないかな。なんか上手いこと言って」

「上手いことですか」

「この泥の下に色々埋まってるとか、この泥が法術の素材になるかもとか」

「なるほど――そういや、ボルドー殿がこの泥を広げる為に、西海は増幅器ってのを使ってたって言ってましたな。気味の悪い塔か樹木みたいな外見でした。一見してここらにゃ無さそうですが」


 ヴィルトールの出番かもな、とひとりごち、剃り上げた頭を分厚い手のひらで撫でる。


「ま、あの院長のことなんで、この泥そのものに興味を持ちそうです。西海独自の法術の産物みたいなもんでしょう、こりゃ」

「それいいね。帰ったらそう言おう。速攻泥掘りにに来るかも。多分アルジマール、面白い素材を得る為なら自分が頭まで泥に埋まってても気づかないよ」


 笑ってワッツの姿を眺め、それからアスタロトはそんな和やかな話を今、ここでワッツとできていることを不思議だとさえ思った。


 この広場で、死を覚悟した。

 イスからここへ、王がアスタロト達を戻した。どうにか、もう一度イスへ行こうと、あの館に入った。

 崩壊する天井の硝子絵。割れた硝子が落ち、水が砕ける水盆。


 色硝子で(えが)かれた海と大地――西海とこの国を示したあの美しい天井絵の崩壊が、世界の崩壊のように思えた。


 事実――、あの時、一つの世界が終わった。

 浮上したイスと、海を埋める西海軍の兵。

 王を残してきてしまった絶望。

 イスから現われた、海皇の姿――


 自分はもう、何もできないのだと。あのまま、西海の波に呑まれることを覚悟した。

 けれどワッツ達が、駆け付けてくれた。

 目を開け、ワッツの姿が見えた時――自分が騎馬の上に救い上げられたと判った時、アスタロトは確かに、生きたいと思ったのだ。


 ここまで来れた。

 世界は続いている。


「ワッツには、世話になったねぇ。だから私が今ここにいられるんだ」


 有難う、と言うと、ワッツはいきなりの言葉に軽く目を見張りアスタロトを見つめたが、そのまま視線を周囲へ巡らせた。アスタロトの言いたいことは伝わっただろう。

 ここは、八か月続いた長い戦いの、始まりのような場所だった。


「だから、争いを終結させる場所に相応しいんだ」


 呟き――それは小さいながら、この先の未来への意志が篭ったものだった――アスタロトは泥に埋もれたあの館へ、瞳を向けた。

 王がそこにいた。世界は確かに、そこにあった。白い壁に跳ねた泥はもう乾いている。


 その瞳を海に向け、陽光を受ける沖合に揺蕩うようなイスの街を見つめる。浮上した時と変わらない場所にあるが、青い空のもと明るい陽光を受け、街を覆っていた翳りは晴れていた。目に痛くなるような青だ。

 もう輝いているから。


「――ワッツ、私はアーシアと飛んで、それから帰る。指示は追って出す。ワッツ達はボードヴィルに戻って。また三日後に」

「公?!」


 ワッツがどうとも言う前に、アスタロトはアーシアの首を撫で、それから空へと飛び立たせた。青い尾が泥を少しだけ跳ねる。


「護衛を」

「いい! 少しの間飛ぶから!」


 声だけを残し、アーシアへ「南」と声をかける。アーシアは全て心得ているように海岸沿いを飛んだ。

 ワッツも追っては来ない。アスタロトの行く先が分かっているからだ。


 およそ一刻、アーシアはアスタロトの心を表すかのように一心に空を駆け、目指す海に辿り着いた。

 あれからもう十日以上も経ってしまった。海は何事もなかったかのように穏やかに揺蕩っている。


 陸側に見えるフィオリ・アル・レガージュの街は復興の最中(さなか)だろう。忙しない気配がここまで伝わってくるようだ。

 足元を海面に水脈(みお)を引きながら、船がレガージュの港から出ていく。交易船だ。レガージュ船団の船が二隻、左右に付いている。マリへと行くのか――それともローデンに。


 アスタロトは瞳を細めた。

 それから、幾艘か、あの海域に浮かんでいる船。まだ探してくれているのだ。アスタロトの飛竜に気付き、甲板の上から数人が見上げている。


「絶対、見つける」


 自分に言い聞かせ、アーシアの首元に手のひらを当てる。


「もうちょっと飛んでね、アーシア」


 アーシアは長い首を僅かに揺らし、空に溶ける鱗の身体を伸ばすように、海の上を飛んだ。







 水都バージェス復興作業は三日後の十二月十日から、本格的に始まった。

 ワッツの西方軍第七大隊が指揮し、呼び掛けに応じて近隣の農民達およそ四百名がまずは集まった。西海との戦いの間、村を離れざるを得なかった彼等は、冬に入ったこの時期にただ村に戻っても生活の糧を得られない。


 ワッツは農地の整備を正規軍が支援することを約束し、彼等を人工として一時的に雇い入れた。

 泥の撤去作業が始まる前日にアルジマールと法術院の術師達がバージェスを訪れ、およそ八割の泥を法術で吸い上げ、どこかへ持って行った。


 アスタロトの予想通り全身泥まみれになって泥に浸かっていたアルジマールをやや引いた目で眺めつつ、ワッツはまず街の洗浄から手を付けた。





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