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第4章「言祝ぎ」(4)

 アーシアは先ほどからずっと、アスタロトの帰りを待っていた。

 いっそ迎えに行こうかと思ったが、行き違ってしまっては困る。

 アスタロト公爵家の広い庭園の一角には小船を浮かべて遊べるほどの広さの池があり、幾つかの白い橋が掛けられている。池の中央にかかる橋は、その真ん中に六角形の白い四阿(あずまや)が水面の上に浮かぶように設けられていた。

 アーシアは丁度その橋のたもとで、四阿と、池に映るその優美な姿を見つめていた。

 つい半刻前、十一刻を半分過ぎた辺りでアーシアが館に戻った時、執事長のシュセールが、先ほどレオアリスがアスタロトを尋ねて館へ来た事を教えてくれた。

 レオアリスが来た事を知ったらアスタロトが喜ぶと、嬉しくなってつい文字通り飛び出そうとして、それを堪えた。

 アーシアがツェーレ湖から王都へ戻ってくるのに半刻強かかっている。アスタロトは一刻くらいしたら戻るから心配するなと言ってアーシアを帰したから、多分もう戻ってくるだろう。

 転位の法術を利用して戻る時、大抵アスタロトはこの四阿を選んだ。ここからの眺めをアスタロトが気に入っているからだ。特にどことは言っていなかったが、今日もそうだと思う。

 風が庭園の緑の芝や整えられた生垣、咲き誇る花を撫ぜ、池の水面(みなも)を渡って細波を立てる。太陽の陽射しを水面がきらきらと反射し、アーシアは青い瞳を細めた。

 風は――、これほど心地良いのに、今は微かな不安を掻き立てる。あの姿が見えないかと、辺りを探してしまう。

 最近のアスタロトは、やはり時折その瞳が風を追っていた。

 自分の中の微かな不安を感じ、アーシアは気持ちを切り替えるように息を吐いた。

「――アスタロト様遅いな……やはりお迎えにあがれば良かったかな」

 レオアリスが来るのはとても久しぶりだ。大抵用があればアスタロトが出向いて行っていたから、この館まで来る事が滅多にない。

(最初はここに滞在してらしたんだから、来てくれたら皆喜ぶし、待っていてくださったらよかったのになぁ)

 レオアリスが王都へ着たばかりの頃、王の御前試合に出るまでの間十日ほど、ここアスタロト公爵邸に滞在していたのだから、それほど気を使う事も無いのにと思った。

 それに何か、レオアリスがここに来たという事で、不安が薄れるように感じられる。おそらくアスタロトが塞いでいる原因の一つに、最近レオアリスとすれ違いが多い事があるからだ。

 アスタロトが自分から会いに行こうとしない理由も、アーシアには判る。

(レオアリスさんも全然、判ってないし――)

 青く雲ひとつ無い空が池の澄んだ水面に映っている。

 一度その空を見上げ、アーシアは再び視線を落として溜息をついた。爽やかですっと気持ちを軽くしてくれるような、心地良い空だ。

(あーゆう感じなのがいい所だけど、今回はなぁ……)

 水面がゆらゆらと、映した四阿の姿を揺らす。アーシアははっと顔を上げた。

 水上の四阿に、主の姿があった。アーシアが声をかける前にアーシアに気付き、ちょっと瞳を見開く。

「アスタロト様」

 アーシアは橋を渡ってアスタロトのいる四阿へ駆け寄った。

「アーシア……どうしたの? 何かあった?」

 アスタロトは驚いた顔でかけてくるアーシアを見つめている。

 その面が朝とは違う沈んだ色をしているのにその時は気付かず、まだやはり気が晴れていないせいだと思い、アーシアは息を弾ませて頷いた。

 きっと喜ぶ。早くその顔が見たかった。

「お待ちしてました。さっき、レオアリスさんがアスタロト様を訪ねていらしたって、シュセールさんが」

 アスタロトの顔に驚きが浮かび、それからさっと内から光が差すように明るくなった。アーシアの胸の内に喜びと、それから一抹の淋しさが湧き上がる。

「レオアリス? うそ、今いるの……?!」

 アーシアの肩に手を置いて瞳を覗き込み、アスタロトは答えを聞くのももどかしいようにたっと駆け出した。

 けれど橋の半ばで、その足が止まる。

「いえ、もうお帰りになったんですが」

 そう言ってから、アーシアはあれ、と思った。アスタロトはアーシアに背を向けたまま俯いている。

 帰ってしまったと聞いてがっかりしているのではない。アーシアがそう言う前に、足を止めてしまった。

「アスタロト様?」

 アスタロトはじっと、足元の白い橋を見つめている。様子が変だと思った。

「アスタロト様、どうかしたんですか?」

 近寄り、その顔を覗き込んだ途端、アスタロトはびくりと肩を揺らして顔を上げた。

「あ、うん――、な、何でも」

「――」

 深紅の瞳の奥を、一瞬うろたえたような光が過ぎった気がした。

「あの」

「帰っちゃったのか、じゃ、じゃあ、仕方ないね」

 何故なのかほっとしたような響きで、しかもどこか言い訳めいて聞こえ、その事を不思議に思いながらもアーシアはシュセールの伝言を伝えた。

「お戻りになったら連絡が欲しいとシュセールさんに仰っていたという事なので、僕がお知らせに行ってきましょうか」

「――」

 アスタロトは返事をしない。

「アスタロト様?」

「え――」

「それとも、直接近衛師団に行かれますか?」

 いつもなら二つ返事で頷いただろう。けれどアスタロトはじっと水面を見つめ、迷うような素振りを見せている。

「アスタロト様」

 アスタロトはようやく顔を上げ、アーシアを見て取り繕うように笑った。

「いいや。あ、いいって言うか、……ちょっと、休んでから」

「え? でも」

 レオアリスが館に訪ねて来るなんて、急ぎではないにしろ何か用件があったからだ。

 それにアスタロトは、最近レオアリスに会っていなくて――アスタロトが自分でも会いに行くと言いだせなくて、それに悩んでもいた。

 アスタロトをずっと見て来たアーシアの確信だ。

 今回、不可侵条約再締結の件をアスタロトが引け目に感じている事も。

 だからこれは、アスタロトがレオアリスに会いに行くいいきっかけなのだ。

 アーシアが何を言いたいか、アスタロトは判ったのかもしれない。少し困った顔をして、首を振った。

「風に当たってちょっと、冷えちゃったみたい。少し休んで、後で、行くよ。だからアーシアも、別に何もしなくていいから。ありがとう」

 何もしなくていい、とそこだけ強く言い、アスタロトはさっと背を向けて橋を渡って整えられた植え込みの間の小道に降りると、館へと向かった。

 心なしか、足取りはこの場から逃げ出したいと考えているように見えた。




 アスタロトはなるべくゆっくり歩いて、アーシアが余り不審に思わないように、それからアーシアがまたアスタロトを促す前に、四阿を離れた。

(レオアリスが――何だろう、何か用があったのかな)

 シュセールに言伝だけして帰るなら、多分それほど急ぐ用ではなかったのだろう。

 でも、胸がどきどきする。

(何か聞くだけなら、カイを寄越してくれれば良かったのに)

 わざわざ来たのは、アスタロトに会うため――?

(そ、そんなの、別に特別な意味無いし!)

 裏切るように心臓が跳ねた。

(そんなの――)

 本当は今すぐ、行きたい。

 館の玄関を潜ると、シュセールが声を掛けてくるのに対して判ったとかなんとか適当に頷いて、階段を昇った。

 会いたい――けれど。

 部屋に入り、今を抜けて寝室の扉を閉めて――、そのまましゃがみ込む。

 行けない。

「――」

 アスタロトは両手を回し、ぎゅっと膝を抱えた。

 何で来たのが今日だったのだろう。

 昨日だったら。

 いや、今朝だったら。

 湖のほとりでルシファーと話した時、自分が何を言おうとしたのか、自分自身でも判っていた。

「どうしよう――」

 どんな顔をして会えばいいのか判らない。

 ルシファーについて行こうと、あの時はっきりと思った。

 一瞬の気持ちの高まりでも――、それは、正規軍を、国を――王を、裏切る行為なのは変わりが無い。

 自分がそれを選んでいたかもしれないことに、身体が震えた。

「――私、最低だ」

 そんな事を考えてしまって――でも、あの時自分が本気で、そう考えていたのが否定できない、その事が。

 それはレオアリスにも背を向ける事と同じだ。

「――」

 何度か、アーシアが扉を叩いて具合を尋ねたけれど、答えが返せなかった。




 ロットバルトは内政官房の棟を出ると、まっすぐ北門の厩舎へ足を向けた。

 厩舎で預けていた飛竜を受け取って空へ上がり、飛竜の騎首を第一大隊の士官棟のある西とへ向ける。

 城壁の外に広がる第三層はまず四方面に四公爵家の敷地が広がり、続いて他の貴族の敷地や館がある為、飛竜でその上を飛ぶ事は原則禁じられている。

 一旦城壁の上を沿うように飛んで西大通りへ出ると、大通りに沿って士官棟のある第一層へ向かった。

 まず眼にする西方公の広い敷地は、今は主が無いせいか、僅かひと月も経っていないながらもどこか裏寂れて見える。続いて現れたヴェルナー侯爵家の敷地に、ロットバルトは手綱を引いて飛竜の速度を緩めた。

 ブロウズが一度屋敷に戻ったのなら、何かしら手がかりがあるかもしれない。

 飛竜を裏門近くの庭園へ降ろす。

 門衛は降りてくる飛竜を見て走り出てくると、ロットバルトだと気付いて驚いた顔をした。この裏門は、通常従者達が使用し、侯爵家の人間は滅多に来ない。

 膝をつき、顔を伏せる。

「ロットバルト様! このような所に――どうかなさいましたか」

「少し確認したい事があって寄っただけだ。昨日ブロウズが戻ったか?」

 門衛はすぐに頷いた。

「そう引継ぎを受けています」

(戻っている……)

 ロットバルトは一瞬の驚きを隠し、変わらない口調で尋ねた。

「戻った時刻は?」

「お待ちください。確か」

 詰め所の机から帳簿を取り上げ、数項捲る。「昨夜の、十刻です」

「十刻――」

 では、ロットバルトがブロウズへ書状を渡して、そのすぐ後だ。ブロウズはどこへも寄らず、真っ直ぐにここへ来ていた事になる。

「帳簿を見せてもらえるか」

 門衛から受け取った記録簿を開き、ブロウズの名を見つける。入邸した者の名と行き先、時刻が記されている。

 数行前へ視線を上げてある名を見つけ、息を押さえて瞳を鋭く細めた。

(トゥレス……)

 行き先は、ヘルムフリートの館だ。

(兄が、トゥレス大将を呼んだのか。何の目的だ?)

 直接ヘルムフリートの館を訪ねて問い質そうかとも思ったが、さきほど内政官房にヘルムフリートの在籍表示が出ていたのを思い出した。それに居たところで、直接問い質す事に価値があるとは思えない。

(会ってトゥレス大将が来たかと聞いたところで、返る情報はここに書いてある事よりも少ないだろうな)

 だが確実に、トゥレスの動きは押さえておく必要がある。

 ロットバルトは門衛へ帳簿を返し、一度ヘルムフリートの屋敷へ視線を向けてから、再び飛竜の手綱を取った。




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