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最終章『光を紡ぐ』(1)



 全てはここにあり、そして既に失われた




 紡がれた糸は繭に戻らず


 輪は逆には回らない





 置いて去り、その先に新たな光を見る







 幾艘もの船から海へ投げかけられていた灯りは、世界を染めていく夜明けの光に次第に薄くなり、海中を照らさなくなった。

 陽射しを海面が反射し、波が散らす。


 跳ね上がった雫が、一瞬の波紋を生んで、また波に消えた。






 西方での激しい戦いが終わりを告げ、夜明けを迎えた十一月二十五日、八刻。

 一日の始まり支度も整った王都の通りを、王城の門を出た正規軍の兵達が足早に通り抜けて行く。

 騎馬と、そして飛竜も次々と王城第一層から発った。


 王都の住民達が何事かと――また新たな出兵なのかと緊張を含んで通りに溢れ、通り過ぎずに広場に立ち止まった兵に驚いて、彼等を囲んだ。


 南中層、レイウッド地区の広場の噴水前に立った西方軍第一大隊グレンは、朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、声を張り上げた。


「布告――!」


 広場には十数人の住民が集まりグレンへ顔を向け、最初の一声で広場を囲む建物の窓から住民達が顔を出す。

 朝日が建物の屋根を切り、広場の一部にはまだ影を落としつつも、住民達と、声を上げるグレンを照らしている。

 風が抜ける。


「此度の西海との戦いにおいて、総大将ファルシオン殿下率いる、我等アレウス国軍は、本日未明、完全なる勝利を迎えた――!」


 住民達が顔を見合わせる。

 四方の通りから、人が更に集まってくる。男も女も、老人も子供も。商人や職人達。

 彼等の顔を、グレンは誇らしさと歓喜と共にもう一度見渡した。


「戦いは、終わった! 王太子ファルシオン殿下は、勝利された!」


 この広場だけではなく、王都中、広場や主要通りの角に立った正規軍の兵士等が次々と勝利の報を伝える。


 至る所の広場、通りの角でその声が広がるにつれ、王都の住民達は連鎖するように声を上げ、口々にファルシオンの名を讃え、歓喜に沸き立った。







 夜明け前、まだ暗い港に、船は接岸した。

 急拵えの細い桟橋へ梯子が渡され、そして、四人、レガージュ船団の船団員が船から桟橋へと降りる。一人はファルカンだ。


 彼等が運んでいるのは、二本の木材に渡した木の板で作られた簡易な担架だった。一人一人、木材の端を持ち、細心の注意を払って狭い桟橋を港へと歩いてくる。

 喧騒に満ちていた港は静まり返った。誰もがファルカン等に視線を向け、それまで家族の死に啜り泣いていた声さえ、いっとき潜められた。


 驚き、悲しみ、信じられないという思い、それらが入り混じり、迎える。

 彼等の守護者の帰還を。


 ユージュは瞳を見開き、近付いてくる四人が運ぶ木の板の上に横たわる姿を、じっと見つめた。涙が零れ落ちる。


「――さ、ん」


 動かない父の姿。

 左足は自ら断ったのだろう、失われ、腹部にも深い損傷がある。

 血は既に拭われ、父の身体はきれい整えられていた。


 目にしてもまだ、現実のものとは思えなかった。

 ユージュの前に板がそっと降ろされる。崩れるようにユージュは膝を落とした。

t

「父さん――」


 三百年、この街を、港を、守ってきた。

 だからもう、充分だと――


 父がどこかでそう願っていたのを知っている。母を失い、ぽっかりと空いた穴がどうしても埋まっていないことを。


「父さん、わかってる、もう――」


 もう、休んでいいのだと――

 でも。


「そ……ん、なの……」


 嫌だ。


「――ユージュ」


 ファルカンではない。女性の声。

 ユージュはゆっくりと顔を上げた。涙で霞んだ目に、その人の輪郭が滲む。初めて会って、でもすぐにわかった。


 ルベル・カリマの長だ。ユージュの氏族。

 血族――父の、姉に当たる人。


「ザインがナジャルを倒すきっかけを作った。ザインの動きがなければ、全ては終わっていただろう」


 ユージュはその声を聞きながら俯いた。

 疲れを滲ませてはいるが、芯のある声だ。

 涙で霞んだ面差しは、父と、似ているのだろうか。自分とは。


「私はザインを――お前の父を守れなかったことを詫びる」


 ユージュの、血族。

 父も母もいない。もうこの人だけ。


「――どうして……」


 俯き、抑えていたものが吹き上がる。複雑に、名状し難いそれ。

 顔を上げ、滲む姿を睨み、ユージュはカラヴィアスに掴みかかった。


「どうして! どうして貴方がついてながら、父さんが死んじゃったんだ!」


 拳で肩を、胸を叩く。

 何度も。


「強いはずでしょ! どうして!」


 どうして死んでしまったのだろう。

 信じたくない。信じられない。


 戻ってきて、またユージュに笑ってくれるはずだった――


「長のくせに――!」




 目を開ける。

 格子の天井をユージュは眺めた。交易組合会館の三階の客間だ。窓から細く差し込む日差しは、陽が昇ってから時間が経っていることを示している。


 夢の中で父と、それから顔も見たことのない母が、二人でユージュに笑いかけていたように思う。

 父を失った悲しみと驚きと信じたくない想いが重く胸にのしかかっていたが、それでも少し眠って、気持ちも少し、落ち着いていた。


 明け方のことがゆっくりと、記憶に浮かび上がる。

 あんなに責めたのにカラヴィアスは何も否定しなかった。

 泣き喚き、拳を叩きつけるユージュをただ黙って受け止めていた。


「起きなきゃ……」


 邸内は明るく、ざわついている。

 二階に降りる階段の半ばでユージュは足を止めた。


 あと五段ほど降りると広い踊り場がある。その踊り場の窓の外、会館前広場に張り出した露台にカラヴィアスの姿が見えた。

 下っていく道の先に広がる港と、そして青い海を眺めている。


 ユージュは踊り場へと、もう数段を降りた。

 カラヴィアスが振り返る。

 その面、そして纏う空気は周囲の意識を引き締めるように思う。

 氏族の長なのだと、ぼんやりと、確かに、そう感じた。


(傷だらけだ)


 ぽつんと思う。

 それはふと思い浮かんだ言葉でもあったが、改めて見れば彼女の全身、傷を負った跡が窺える。右のこめかみと折れた左腕はまだ治りきっていない。


(ボクなんかとは違う、父さんと同じ剣士なのに)


 剣士としての回復が追いつかないほどの傷は、戦い続けた証なのだと思った。

 ナジャルという途方もない存在と、数刻にも渡って。


 あの時、海上に転位したナジャルの姿を目の当たりにした時、ユージュはその存在の余りの大きさと禍禍しさに竦み、足が動かなかった。

 離れていく船の上に父の背を見ながら、港に立ち尽くしていた。


「少しは眠れたか」


 言葉が見つけられず、こくりと頷く。

 カラヴィアスは微笑んだ。

 ユージュは硝子戸の前に立ったまま、カラヴィアスも手摺にもたれかったまま、互いを見つめている。

 それは心地良さを感じさせた。


(八つ当たりだった)


 本当は、父を助けるのは、ユージュの役目だったのだ。

 そうしたかった。

 できなかった。


 父に――


「ごめんなさい」


 独り言だ。

 それでもカラヴィアスはユージュを見つめた。


「子が親に、何を謝る」


 静かな声。


「でも」

「礼を言えば喜ぶ。そういう奴だろう? お前の父は」


 ユージュは俯き、もう枯れるほど泣いたはずなのに、涙をぼろぼろと零した。

 声には、なっていなかったかもしれない。


「――ありがとう」


 それから、右手を伸ばしてカラヴィアスの指先に触れ、握りしめた。







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