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第9章『輝く青3』(63)


 ファルシオンは椅子に腰掛け、じっと息を詰めるように窓の外を見つめていた。

 西の空を。


 室内にはタウゼンとセルファン、そしてランドリー、ミラーの方面将軍の内の二人が控えている。

 フィオリ・アル・レガージュの戦いがどうなっているのか、ファルシオンには追うことはできなかった。

 願うだけ。


 勝って戻ってきて欲しいと、願うだけだ。




 ふと、瞳を瞬かせた。

 身体の周りが温かい。

 蝋燭の明かりが僅かに揺れる暗い室内に座っていたはずが、いつの間にか、辺りは白く染まっていた。


 夜が明けたのかと思ったが、違う。

 白い光と、それから揺らぐ金の光彩が混じる空間――どこまでも広く、何も無い、境いすら無い空間にファルシオンはいた。


 彷徨わせた瞳にただ一つ、人影が映る。

 身体が――震えた。


 束の間思考さえ白く染まり、それから押し出すような呟きが零れた。


「――父、上……」


 父王の姿だ。紛れもなく。七か月前、あの王城の朝、別れた懐かしい父の姿。

 駆け寄りたい。

 けれど、身体が動かない。


 ファルシオンの焦れる心を読み取ったかのように、王はゆっくりと、ファルシオンの前へと歩み寄った。

 伸ばされた手がファルシオンの頭に触れる。息を詰める。

 その手のひらの温かさ。大きさ。


「父上……」


 穏やかな眼差しと、父の膝の上から見上げるファルシオンにしか映らない笑み。

 もう一度、その膝の上に乗せて欲しい。


 手のひらは温かく、そしてファルシオンからは掴めなかった。それでも何度も実態のないその手を掴む。何度も。


「は、母上と、姉上が、お待ちです――帰ってきてください」


 鼻の奥がつんとして、涙がぼろぼろと零れる。


「父上――どうか、帰ってきてください」


 掴めない。

 掴みたいのに。


「父上、どうか」

「ファルシオン」


 はっきりと、声は耳に届いた。まるで本当に父がそこに居るかのように。


「そなたは成長した。そしてこれからも一歩ずつ、成長していく」

「父上」

「そなたを誇りに思う」


 首を振る。

 父の元、父の前で成長したかった。

 一つ一つ、いろんなことを教えて欲しかった。


「その姿を見られないことだけが、残念だ」


 父王の姿はそこにあるのに、ひどく遠く感じた。

 もう消えてしまう。

 ファルシオンの前から。

 本当にこれで、最後なのだ。


 言葉を発したくても、喉の奥に熱い塊がつまって、声が出なかった。

 懸命に、握れない手を握る。

 伝えなくては。


「わ、わたしは、父上の子だから――」


 だから、安心してくれるだろうか。

 見守っていてくれるだろうか。

 ずっと。


 もう一つ、言わなくてはならないと、そんな想いがふいに湧き上がる。

 その言葉も掴めないままに、ただ紡ぐ。


「父上、レオアリスを――」


 何を言おうとしたのか、その先の言葉は出てこなかった。

 レオアリスについて、何が言いたかったのか、それも判らない。



 ただ、最後に見た、父の瞳、その笑みが。




「殿下」


 はっと顔を上げる。ファルシオンは瞳を瞬かせた。涙が零れ、頬を雫が転がる。

 セルファンが覗き込んでいる。


「どこか、お辛いところが」


 もとの部屋だ。セルファンがいて、タウゼンがいて、それからランドリー、ミラーがいる。

 涙は流れたまま、それでも父王の姿はどこにもなかった。


「だいじょうぶ」


 手の甲で涙を拭い、ファルシオンは首を振った。


 羽ばたきの音が室内を叩く。

 タウゼンの前の小さな卓に降り立ったのは、白頭鷲の伝令使だ。フィオリ・アル・レガージュから戻った――。室内の視線が集まる。空気が張り詰めた。


 白頭鷲は嘴を開き、やや軋んだ声で一言、告げた。


『倒した』


 声にはアスタロトのそれの響きがある。

 ランドリーとミラーが思わず踏み出し、数歩近寄って足を止める。

 ファルシオンは椅子から跳ねるように立ち上がり、顔をさっと輝かせた。


「倒した……」


 言葉を探し、それからもう一度、繰り返す。


「倒したのだな、ナジャルを――」


 その報せをただずっと待っていて、それでもその報せを現実に聞くと、まるで夢を見ているように思えた。

 それでも、だからこそ、たった今父王が、ファルシオンの前に現われたのだと。

 間違いなく、勝ったのだ――


 戦いは終わった。

 ようやく。


「城内と、王都に、報せを」


 震える声で言い、だが伝令使の続く言葉が無いことに気づき、ファルシオンはもう一度白頭鷲を見つめた。

 アスタロトの声は、その次を告げなかった。伝令使は黙している。


 “倒した”


 耳に引っかかるような、硬い声だった。

 ファルシオンは急に不安を覚え、タウゼンを見上げた。

 タウゼンが伝令使の嘴に指先を当てる。


「公――」


 ファルシオンは無意識に、首から掛けていた青い石を掴んだ。


「詳細を、お教え願います」






 届いた勝利の報せは伝令の兵により砦城内を次々と伝わり、満ちる騒めきは次第に大きくなった。喜びが沸き起こる。

 室内も、中庭も、そして城壁の上も。


 クライフとワッツが肩を並べ、城壁から身を乗り出すように西を見つめる。

 眠るレーヴァレインの傍らで、ティルファングは重い身を起こした。

 中庭でプラドと、寄り添ったティエラが空を見上げる。






 王都、十四侯の協議の場にも報せは届いた。

 この上ない喜び、安堵と――そこに落ちた影も。


 硬い木の背凭れが床にぶつかる音は、楕円の卓を置いた広い謁見の間の、静まり返った空気を更に張り詰めさせた。

 スランザールが重い視線を上げる。


 この戦いの為に用意し、組み上げた一つ一つの手、そしてそれらを切る手順は、予定していた流れを踏んでいた。そして、そのほとんどが予定していた通りに展開、機能した。

 だからこそ、この戦いに勝てた――


 スランザールは卓に視線を落とし、零れようとする息を肺の奥に押し込んだ。


 ロットバルトは椅子を倒したことにも気付かず、蒼い双眸を見開き、立ち尽くしていた。






 ボードヴィル砦城に立ち昇る歓声が、窓の外に満ちている。


 ファルシオンは手のひらに、冷たい、色褪せた青い石を固く、いつまでも握りしめていた。




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