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第9章『輝く青3』(61)

 

 一直線に断たれたナジャルの身体が、その長大な蛇体全体に皹を走らせ、ぼろぼろと端から崩れていく。

 ナジャルの欠片は海へ落ち、波と混じり合い溶け、泡となって広がった。


 泡の一粒一粒が、淡い光を含み、海を染めていく。

 海中も、海上も――、束の間の曙光のように、白く染まった。

 海へと還る。





「戻って来い――!」


 カラヴィアスは舷縁に手を掛けた。飛び込みかけたカラヴィアスの腕を、トールゲインが掴む。


「長」


 その眼差しを受け、カラヴィアスはぐっと言葉を呑み込んだ。


「レガージュの港に戻り、貴方の果たす役目があります。貴方しか――」

「――」


 カラヴィアスは甲板の上を見た。

 横たわるザインの亡骸(なきがら)を。


 フィオリ・アル・レガージュの港には、ザインの娘、ユージュが待っている。ザインが帰るのを。


「貴方に負わせることを、お許しください」


 指先が掴んだ舷縁を軋ませ、緩む。


「――初めて、会うんだったな」


 カラヴィアスは小さく呟いた。





「レオアリス!」


 首まで海に浸かり、際限なく湧き上がるどこか温かい光に包まれながら、何度となく、アスタロトは声を枯らして名を呼んだ。叫ぶ度、口元まで波が被る。

 咽せ込み、それも構わず首を巡らせて姿を懸命に探した。


 上がってくるはずだ。どこかに。

 ナジャルはもう倒したのだから。


「レオアリス――!」


 船団の男達やマリ海軍兵士が海中から浮かんでは、息を継いでまた潜る。その繰り返し。西海兵の姿も混じっている。

 彼等ならきっと、海の中から連れ戻してくれるはずだ。アスタロトは必死に辺りを見回した。


 誰かがアスタロトへと近付き、船上へと引き上げる。もうアスタロトには海へ戻ろうと足掻く体力もなく、それでも視線だけは片時も海面から離さなかった。


 光に透けるような海面。

 ほんの少し前までの激しさなど、まるで無い。


「戻ってくる――絶対――」







 海の上に広がる光、そして海の中から磨り硝子の奥の灯火に似て輝く光が、急な斜面に連なるフィオリ・アル・レガージュの街を僅かに照らしていた。


 明け方の太陽はまだ遠いにもかかわらず、夜に浮かび上がる街では人々の気配が慌ただしく動き始めている。

 多くの人が港と坂をひっきりなしに行き来し、沖の戦いでの負傷者が港に運び込まれはじめ、妻や子供達、親、恋人、友人達が駆け寄って無事を喜び、或いは遺体に縋り付く。


 その中でユージュは一人、桟橋の前に立ち尽くしていた。五基あった桟橋は西海軍との戦いで破壊され、海に沈んでいる。港にも、戦いの爪痕はまだ深く残っている。


 それでも、終わった。

 終わらせた。


(終わらせたんだ)


 次第に近付いてくるレガージュ船団の船――船団長ファルカンのものではない。ファルカンの船はナジャルの尾を受けて沈み、司令船を移していた。

 既に報せは受けていた。自身も大怪我を負った船団員の一人は、悔しさと傷ましさの入り混じった声でそのことを告げながらも、ユージュと視線を合わせておくことができず逸らした。


 だが報せを聞くよりも――そして船団員の顔を見るよりも先に、ユージュ自身が理解していた。

 ユージュの持つ剣が。


「父さん――」


 それでもぼろぼろと、涙が抑えようもなく零れ、足元を濡らす。


 あの船が着けばきっと、父はいつも通り港へ降りて来るのではないか。

 それから、自分が呼びにいくまで、崖の上から海を見つめているのではないか――


 声をかければきっと、振り向くのだ。笑って。






 崩れていくナジャルの躯の、欠片のその一つ一つ――細胞の一つ一つから、光が生まれ無数の輝きとなって海の中を照らしている。

 泡は揺れながらその無数の球面に影を映した。


 かつて喰らわれた生命が、解き放たれて輝く。

 海魔。西海兵。

 そして正規軍の兵士達。

 その身に溜め込まれ、どこにも行くことなく澱のように囚われていた命が、解放され、海に溶け、大気に溶けていく。


 西の水平線近く、細い月が、海面から立ち昇る光に滲んでいた。







 夜明けまであと二刻ほど、風は肌を冷やし、緩く、草原を吹き渡った。

 正規軍西方軍と東方軍は、ボードヴィルより二里ほど北上したサランセラムの草原に天幕を張り、兵達を休めていた。


 西方軍第五大隊大将ゲイツは天幕の中まんじりともせず、布をたくし上げたままの入口の、長方形に切り取られた暗い空をじっと見つめていた。

 背後の東の空――王都では既に陽の兆しを含み始めているのだろうが、西の空はまだ黒々と沈んでいる。

 そこに夜明けの光が届くのを――その瞬間を、ゲイツは待っていた。

 勝利の報せを。


 時折、頬を指先で撫でるのは、無意識の行為だ。

 七月の戦いで、顔に刻まれた傷は既に馴染んだ。法術で傷を消そうとも思わない。

 あの時、西海軍との戦いで命を落とした同僚と部下達への――、そしてヴァン・グレッグへの手向けとして。


 一陣の風が天幕を鳴らして過ぎる。

 西の、フィオリ・アル・レガージュでの戦いは、もう終わるはずだ。

 ナジャルを跳ばし、剣士と、彼等の将軍アスタロトと、そしてゲイツには想像がつかなかったが、マリ海軍の軍船による砲撃と西海穏健派の有する戦力。

 それらが全てが上手く組み合わされば。


 不意に、天幕が強い風に煽られた。

 天幕内にまで雪崩れ込んだ風がゲイツの目を一瞬、閉ざす。

 ゲイツは目を開け――、そして思わず、腰を浮かせた。


 長方形の天幕の入口が白く、光を含んでいる。

 夜明けではない。太陽はまだ背後の東、地平の下だ。


 知らず呻きが漏れる。


「ああ――」


 膝を立てたまま、ゲイツは食い入るようにそれを見つめた。


 天幕の外を揺れながら通り過ぎていくのは、兵列だ。数百、数千。

 現実のものではないとすぐに解った。

 白く、ぼんやりと光を帯びながら進む、無音の兵の、行進――


 西から、東へと。

 王都のある方角へと――


 ゲイツは夢中で駆け出した。天幕を飛び出て辺りを見回す。

 白い影は、見渡す限り数千人はいるだろうか。軍服の上に鎧を纏った兵士達一人一人が、彼等を乗せた騎馬が、霧が彫像を形作ったかのように白く浮かび、音もなく草を踏んで整然と進んで行く。


 兵列の中、馬上に良く見知った姿を見つけ、ゲイツは手を伸ばした。


「ホフマン! グィード! ……ウィンスター……!」


 第四大隊大将ホフマン、第六大隊のグィード。そして不可侵条約が破棄されたあの日、一里の控えの館で命を落とした第七大隊、ウィンスター。


 誰もが皆、生前のままの姿だ。ナジャルが吐き出した冒涜的な形などではなく。

 無言で、しかしどこか笑みを浮かべ、通り過ぎて行く。

 王都へ。彼等の帰る場所へ。

 皆。


「俺も――」


 自分も、共に。


 踏み出そうとしたゲイツへ、ホフマンが(とど)めるように軽く剣を挙げ、グィードは髭を蓄えた口元を動かし鎧の胸を叩いてみせた。

 ウィンスターは馬上で姿勢を崩さず、双眸をゲイツへ向ける。


 通り過ぎる。


「待て……待ってくれ」


 ゲイツははっとして、顔を巡らせた。


 一頭の騎馬が兵列の後方から近付いて来る。

 鞍の上の、堂々たる姿――


「……ヴァン・グレッグ閣下――!」


 ヴァン・グレッグはゲイツの前に一度止まり、その引き締まった面に静かに笑みを浮かべた。


『ゲイツ――、――』


 耳に届いたのか、ただ風の音か。


 ゲイツは伸ばしかけていた手を、ゆるゆると下ろした。その腕を胸に当て、敬礼する。

 目の前を、兵列は粛然と通り過ぎて行く。


 ただ見送るゲイツの前で、辺りを埋めていた白く淡い光は、次第に、静かに薄れていった。




 それはほんの、四半刻の間もなかっただろう。

 後に残ったのは天幕の前に立つゲイツだけだ。

 草原には身体を休める兵達と点在する天幕、騎馬の姿のみ。

 兵列も、そしてヴァン・グレッグ等の姿も、彼等の名残さえもそこには無かった。


 風が足元を抜け、枯れた草が微かな音を立てた。






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