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第9章『輝く青3』(59)

 

 暗い空に一つ、星の輝きよりも強く、沈みゆく月の代わりの如く、

 そしてこれから昇る陽光のように――

 剣が青く、輝く。



 ナジャルの頭が、血を撒き散らしながら上空の光へと動く。

 顔の右半分、上下の牙と顎を失った状態のまま、束の間の夜の太陽を腹の内に収めようと、(あぎと)を開いた。



 身体中の血が熱を持つように、けれど鼓動はごくゆっくりと打っていた。

 手にした一振りの剣――これまで何度か合わせたそれとは異なる。その存在か、巡る力か。

 身を取り巻く青い陽炎は、今は全て、一振りの剣の内にあった。


 身体が驚くほど軽い。あれほど積み重なった疲労も負傷もその痛みも、全て拭い去ったかのようだ。

 断てると、確信があった。

 ナジャル――太古からの膨大な生命の積み重ね。

 この果てしない存在を、今なら。


 剣が煌々と輝き、夜を退ける。

 足元に開き迫る(あぎと)の、なお赤黒い奈落。

 両手に掴んだ剣を頭上へと掲げ、束の間の静寂ののち、振り下ろした。




 地上から、青い剣はゆっくりと夜空を断つように見えた。

 アスタロト、レガージュ船団、マリ海軍、ザインの身体を抱えたカラヴィアス。

 誰もが空の光を見上げ、そして次の瞬間、地を撃つ一瞬の雷光のように、世界は一色に染まった。





 光がナジャルの頭部を捉える。

 右の顎を失った頭部の、眉間から、喉、そしてほぼ真っ直ぐに空へと伸びていた長い蛇体を、その胴の半ばまで、剣は一直線に断った。


 ナジャルの躯がぐらりと揺れる。

 半ばまで分かれた二つの身が、血を撒き散らしながら海へと倒れていく。

 時がそこだけ進むのを遅らせたかのような、緩やかさ。


 息を呑む静寂の中、海面はナジャルの躯を一度受け止め、次いで高い飛沫を跳ね上げた。

 海中へ沈む。海が大きく揺れる。


「――捕まれ!」


 ファルカンが叫ぶ。

 激しい波がぶつかり合い、レガージュ船団の船を揺さぶり、離れて停泊するマリ海軍の船へも打ちかかる。重い船体を高く持ち上げ、波の底へ容赦なく落とす。


 ザインを抱えたままカラヴィアスは、そしてアスタロトはその間すら空を見ていた。

 青い剣の光は消えている。

 本来の夜が戻った空を、落ちていく。


「――レオアリス!」


 叫び、手を伸ばしたアスタロトは波に跳ね上げられた船体によろめき、身体ごと浮き上がった。

 肩から叩き付けられ、甲板を滑る。

 船はほぼ垂直に持ち上がり、乗り手達を海へと放り出した。


 暗く冷たい水に落ちる。身体が深く沈み、泡に包まれ、その向こうにアスタロトは沈むナジャルの蛇体と、そしてレオアリスの姿を見た。

 深い海へ落ちていく。意識があるように見えない。


「レ――」


 叫ぼうとした喉からは声はなく泡だけが零れ、肺が掴まれたように縮んだ。

 それでも懸命に伸ばしたアスタロトの腕を、誰かが背後から捉える。ぐいと引かれ、身体ごと、海面の上へ浮き上がった。


 漸く得た空気を取り込むのもそこそこ、アスタロトは海面の下へと身体を伸ばした。


「レオアリス!」

「駄目だ!」


 耳元で聞き慣れない声が制止する。首を巡らせたそこにいるのはレガージュ船団の誰かだ。海の中から引き上げてくれた。

 船団員は有無を言わさずアスタロトを抱え、まだ無事な船へと水を蹴って泳ぎだした。


「でも! でも――! レオアリスが! 海に……っ」


 叫ぶ口へ容赦なく海水が入る。言葉になっているかもわからないまま、アスタロトは必死に叫んだ。


「助けなきゃ!」

「仲間が潜ってます!」


 船から投げられた救命具を掴み、船団員はアスタロトをその丸みを帯びた浮き具の取手に捕まらせた。


「あんたは船に! 俺らが探します!」







 沈んでいく。


 海の水の冷たさと、泡が身体を包んで撫で、過ぎていく感覚に、レオアリスはうっすらと目を開けた。

 十一月だと南の海も、冷たいと感じるのだ。

 辺りが暗いのは夜だからではなく、海中だから。夜の中でさえどこまでも澄んで果てのない空とは違い、海は途方もなく暗く、重く、身に迫ってくるようだ。


 ほんのわずか先すら黒く塗りつぶされるこの世界を、恐ろしいと思う。

 海面の境界一つ。それで世界はまるで違う。


 ごぼりと喉から息が漏れる。

 ただ苦しさはなく、気付けば体の周りを淡く輝く光が覆っている。アルジマールの防御壁がまだ生きているのだ。


(そうだ、まだ――)


 戦いの途中だ。

 視線を彷徨わせ、ナジャルを探す。


 レオアリスよりも下――ぼんやりと鈍く光る銀色の躯が、半ばから二つに分かれ、黒い血を撒き散らしながら更に沈んでいく。その姿は双頭の蛇のようにも見える。


(倒したのか――?)


 動く気配はない。

 もう、これで終わりだろうか。

 どれほどの間戦ってきて、そして本当に今、これで終わるのだろうか。


 この戦いで、そしてナジャルの出現で数え切れない命が失われた。

 多くの兵士達、良く知った相手も多い。


(ザインさん)


 彼の戦いを初めて見たのもこの同じ海だった。防御に無頓着な戦い方は、ザインの心をそのまま表したかのようだった。

 生きていて欲しい。

 それでも何故だろう、彼自身にはまるで後悔が無いように思えるのは。


(ユージュがいるのに)


 それでも。

 彼がその剣で、ユージュと、街を、護ったからかもしれない。



『剣とは敵を切り裂くのみに非ず、そなたら剣士がこれまで心を以って示してきたように、誰かを、何かを護るものでもあろう』



(俺は)


 自分はまだだと思う。

 王の言葉の示すものを、成せていない。本当の意味で護れてはいない。



『そしてまた、そなたが自らそうしてきたように、未来を切り拓くものでもある』



(未来――)


 王の黄金の瞳。その光。

 幼い王子の、まだ柔らかな光――


 剣はまだ、一振りの姿のまま右手の中に残されていた。

 もう腕は海中ですら持ち上がらず、海面へ浮かび上がる力もない。黒い塊のような海の中を、身体はただ落ちていく。

 けれど、帰らなくては。


 地上へ――

 ファルシオンの元へ。


 この戦いが終わってもそれで終わりではない。戦乱で荒れた国土を、立て直すのが先決だ。

 幼いファルシオンがこの先、この国を担っていく。その負担を少しでも軽くしたい。その為に自分がすべきことは何か。

 不安定な情勢ならば、自分に求められる役割はまだあるだろう。


 けれど国が安定し、もとの平和と繁栄が戻ったら――、剣士としての自分はその時、さほど重要ではないと思う。

 それとも平和とは、そう簡単に為せるものではないだろうか。


 でも、今は。


(そうだ、今は――)


 泡が身体の周りを白い筋となり上がっていく。その方向が海面だ。

 レオアリスは剣を握る指に力を込めた。

 まだ握れる。

 戻る。

 海の上は騒然としているはずだ。戦いが終わったとしてもすべきことは多い。今、この瞬間でさえ。


 少しでも身体を動かそうと意識を全身に巡らせたレオアリスは、だが目にした光景に、自分が置かれた状況を一瞬見失い、息を詰めた。

 驚き――それも、嫌な。


 いつの間にか、周囲を大小様々な魚の影が取り巻いていた。魚だけではない。無数のその影。

 生命が無いと一目でわかる。小魚から海月(くらげ)、海亀、大型の鮫や(えい)まで、それは数百、数千と、海の底から漂い海面へと浮かんでいく。


 足元に黒い影が揺れた。海そのものが動いたかのように身体を押す。

 視線を向ける。背筋が凍るように感じた。

 たった今まで足元を沈んでいた、ナジャルの躯が無い。


 剣を握る指に力を込める。強く。

 剣が青い光を滲ませ、辺りの黒い水をぼんやりと照らした。


「!」


 目の前だ。

 二つに分かれた蛇体の、左側、その牙――

 気付いたその瞬間、レオアリスの右の喉元に、牙が突き立った。


 牙は上下ともひび割れ本来の半分以下に欠けていたが、それでも肉をあっさりと貫いた。


「……ぐ、あ、――ッ」


 苦鳴は喉から吐き出した泡にくぐもる。牙が更に深く、身に沈んだ。

 激痛が全身と脳を叩く。眼球の奥に光が雷光のように瞬き眩む。

 持ち上げようとした腕は、筋肉と神経が絶たれたのか動かなかった。


 霞む視線の先、上半身を半分に断たれた蛇体は、その付け根から結合を始めていた。奥に赤黒い塊が見えた。ゆっくりと蠢いている。


(心、臓――)


 肉の断面が盛り上がり、無数の繊維が絡み合い、裂かれた身体を繋いでいく。


『――これ、ほど……』


 レオアリスに喰らい付いている頭の、残された左眼が赤く光る。

 呪縛――ナジャルの怒りと怨嗟が、海水に溶けたかのようにレオアリスを取り巻いた。


 蛇体の、海の水に苛まれる焼け爛れた鱗や深い傷。自らへこれほどの損傷を与えたもの達への怒りと、それは呪だ。

 吐き気を覚えさせるほどに、海中に渦を巻く。


『これほどまでに、我が身を削られたことは、かつてない――』


 ナジャルは力を取り戻し傷を癒す為、海から、無差別に命を吸い上げていた。次から次へ、暗い海底から止めどなく海の生物の死骸が浮かんでくる。


 剣が光を不安定に明滅させる。

 一つに合わさっていたそれが二重の姿にぶれる。

 レオアリスは意識を集中し、懸命に剣を抑えた。


(まだ、もう一度、)


 ナジャルをこのまま復活させるわけにはいかない。

 それでも右腕はわずかも上がらず、牙は更に食い込んだ。

 右肩を食い千切ろうとしている。剣ごと。


 肩の骨が砕ける。

 牙から流れる毒に意識が遠退く。

 視界を覆うのが黒々とした海水なのか、それとも失われていく意識の為か、分からなくなる。


 全身を掴んでいた痛みも、消える。





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